Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, October 25, 2008

*The Japanese has been getting more and more no-brain people

【一億総ギャグ化】

●ものごとを茶化す子ども

++++++++++++++++++++++

何かテーマを与えても、すぐそれをギャク化して
しまう子どもは、少なくない。

小学3~4年生レベルで、20~30%はいる。
その傾向のある子どもとなると、もっと多い。
1人の子どもが茶化し始めると、ほかの子どもたちも
同調して、クラスがめちゃめちゃになってしまうこともある。

こうした傾向は、年中児くらいのときに、すでに現れる。

私「秋になると、どんな果物が出ますか?」
子「出る、出る、出るのは、お化け!」
ほかの子「お化けだってエ~」「ギャーッ」と。

++++++++++++++++++++++

ここ20年の傾向として、いわゆる(まじめに考える子ども)が少なくなったことが
あげられる。
論理を積み重ねあわせるということができない。
静かにものごとを推理したり、分析したりすることができない。
ひらめき思考というか、直感(直観)ばかりが、異常に発達している。
反応は速いが、言うことなすこと、支離滅裂。
まるでテレビのバラエティ番組の出演者のようなしゃべり方をする。
脳に飛来した情報を、そのままペラペラと口にしているだけ。

私「世界の食糧が足りなくなるそうだ」
子(小4男児)「大きな動物を飼育すればいい」
私「大きな動物って?」
子「ゴジラとか、恐竜とか、さあ」
私「そんな動物はいないよ」
子「じゃあ、クジラでもいい。浜名湖で、養殖すればいい」と。

先にも書いたように、こうした傾向は、年中児くらいから見られるようになる。

何か問題を与えても、まじめに考えようとしない。
「お父さんの顔を描いてね」と紙を渡しても、怪獣の絵を描いたりする。
しかもゲラゲラと笑いながら、それを描く。
だから私のほうは、「まじめに考えなさい」と注意するのだが、もちろん「まじめ」
という言葉の意味そのものが、理解できない。
ほかに、視線が定まらない。(フワフワとした感じになる。)
興奮しやすい。(キャッ、キャッと騒ぐ。)
静かに考えるという習慣そのものがない。(ソワソワし、刺激を求める。)
言い方が乱暴、などの特徴が見られる。

で、子どもがそうなるには、いろいろな原因が考えられる。
右脳の過度な刺激?
テレビのギャグ(バラエティ)番組の見すぎ?
家庭における、親の過干渉?
が、何よりも大きな影響を与えるのは、母親と考えてよい。

子どもというのは、生まれながらにして、無数の接触を通して、親、とくに母親の
影響を大きく受ける。
「受ける」というより、母親と一体化する。
こと親子に関していえば、(教えずして教える)部分のほうが、(教えようとして
教える)部分より、はるかに多い。

その(教えずして教える)部分を通して、子どもは親の考え方そのものを
身につけてしまう。
たとえば母親が毎晩、ギャグ番組を見ながら、ゲラゲラと笑いこけていたとする。
当然、母親は、番組の影響を受ける。
そして子どもは、母親の影響を受ける。
タバコにたとえるなら、母親がタバコを吸い、子どもがその副流煙を吸い込む。

ほかにも、たとえば母親がいつも頭ごなしなものの言い方をしていると、
当然のことながら、子どもは、(考える)という習慣そのものを失う。
たとえば、粗放型の過干渉児も、(親の過干渉によって萎縮するタイプと、
反対に粗放化するタイプがある)、似たような症状を示すこともある。

態度が大きく、ものの言い方が、乱暴。
存在感はあるが、静かな落ち着きが見られない。

が、こうした習慣は、先にも書いたように、かなり早い時期に決まる。
(反対に、論理力のある子どもかどうかも、年中児くらいのときにはっきりしてくる。)
そしてここからが重要だが、そうした問題点が見つかったからといって、また
親がそれに気づいたからといって、簡単にはなおらない。

子どもはあくまでも(家族の代表)でしかない。
子どもを変える(?)のは、むずかしい。
が、親を変える(?)のは、さらにむずかしい。

過干渉児にしても、一度そういう症状が現れてしまうと、(親は、「どうすれば
ハキハキした子にすることができるでしょうか」と相談してくるが)、子どもを
なおすのは、不可能と考えてよい。

ふつう私がアドバイスしたくらいでは、効果はほとんど、ない。
論理力の欠如にせよ、過干渉にせよ、それを親に自覚させるのは、たいへんむずかしい。
ほとんどの親は、自分では、「ふつう」と思いこんでいる。
その(ふつう)を、まず打破しなければならない。

さらに言えば、「お母さん自身が、もっと論理力を養ってください」と言っても、
困るのはその親自身というということになる。
少し前にもある母親とそういう会話をしたが、「では、どうすればいいですか?」と
聞かれて、私は、ハタと困ってしまった。

また親の過干渉についていえば、親自身の情緒的欠陥に起因しているケースが多い。
(心の病気)が、原因となることもある。

(よく誤解されるが、口うるさいことを過干渉というのではない。
口うるさいだけなら、子どもには、それほど大きな影響はない。
「過干渉」というときは、そこに親に(とらえどころのない情緒的な不安定さ)が
あることをいう。
気分によって、子どもをはげしく叱ったかと思うと、その直後には、子どもの前で
涙を出しながら、「ごめん」と謝ったりするなど。)

だから、「不可能と考えてよい」ということになる。
つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、親の問題。
親の問題というよりは、社会全体がかかえる、(社会問題)と考えてよい。

(社会)そのものから、(まじめに考える)という習慣が欠落し始めている。
あの大宅壮一は、『一億総白C化』という言葉を使ったが、現在は、『一億総ギャク化』
の時代ということになる。

日本を代表する総理大臣が、「私の愛読書は、ゴルゴ13(コミック)」と発言しても、
みじんも恥じない。
だれもそれをおかしいとも思わない。
そんな風潮が、この日本には、できてしまった。

その結果が、冒頭に書いた(ものごとを茶化す子ども)ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問題 家庭教育 はやし浩司 Education ギャク化する子供 子供のギャク化 茶化す子供 茶化す子ども)

++++++++++++++++++

6年前にも同じようなことを書きましたので、
紹介させてもらいます。

++++++++++++++++++


●学ぶ心のない子どもたち

 能力がないというわけではない。ほかに問題があるというわけでもない。しかし今、まじめに考えようとする態度そのものがない、そんな子どもがふえている。

 「享楽的」と言うこともできるが、それとも少し違う。ものごとを、すべて茶化してしまう。ギャグ化してしまう。「これは大切な話だよ」「これはまじめな話だよ」と前置きしても、そういう話は、耳に入らない。

私「今、日本と北朝鮮は、たいへん危険な関係にあるんだよ」
子「三角関係だ、三角関係だ!」
私「何、それ?」
子「先生、知らないの? 男一人と女二人の関係。危険な関係!」
私「いや、そんな話ではない。戦争になるかもしれないという話だよ」
子「ギャー、戦争だ。やっちまえ、やっちまえ、あんな北朝鮮!」
私「やっちまえ、って、どういうこと?」
子「原爆か水爆、使えばいい。アメリカに貸してもらえばいい」と。

 これは小学5年生たちと、実際した会話である。

 すべてがテレビの影響とは言えないが、テレビの影響ではないとは、もっと言えない。今、テレビを、毎日4~5時間見ている子どもは、いくらでもいる。高校生ともなると、1日中、テレビを見ている子どももいる。

よく平均値が調査されるが、ああした平均値には、ほとんど意味がない。たとえば毎日4時間テレビを見ている子どもと、毎日まったくテレビを見ない子どもの平均値は、2時間となる。だから「平均的な子どもは、2時間、テレビを見ている」などというのは、ナンセンス。毎日、4時間、テレビを見ている子どもがいることが問題なのである。平均値にだまされてはいけない。

 このタイプの子どもは、情報の吸収力と加工力は、ふつうの子ども以上に、ある。しかしその一方、自分で、静かに考えるという力が、ほとんど、ない。よく観察すると、その部分が、脳ミソの中から、欠落してしまっているかのようでもある。「まじめさ」が、まったく、ない。まじめに考えようとする姿勢そのものが、ない。

 もっとも小学校の高学年や、中学生になって、こうした症状が見られたら、「手遅れ」。少なくとも、「教育的な指導」で、どうこうなる問題ではない。

このタイプの子どもは、自分自身が何らかの形で、どん底に落とされて、その中で、つまり切羽(せっぱ)つまった状態の中で、自分で、その「まじめに考える道」をさがすしかない。結論を先に言えば、そういうことになるが、問題は、ではどうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。K君(小5男児)を例にとって、考えてみよう。

 K君の父親は、惣菜(そうざい)屋を経営している。父親も、母親も、そのため、朝早くから加工場に行き、夜遅くまで、仕事をしている。K君はそのため、家では、1日中、テレビを見ている。夜遅くまで、毎日のように、低劣なバラエティ番組を見ている。

 が、テレビだけではない。父親は、どこかヤクザ的な人で、けんか早く、短気で、ものの考え方が短絡的。そのためK君に対しては、威圧的で、かつ暴力的である。K君は、「ぼくは子どものときから、いつもオヤジに殴られてばかりいた」と言っている。

 K君の環境を、いまさら分析するまでもない。K君は、そういう環境の中で、今のK君になった。つまり子どもをK君のようにしないためには、その反対のことをすればよいということになる。もっと言えば、「自ら考える子ども」にする。これについては、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 全体の風潮として、程度の差もあるが、今、このタイプの子どもが、ふえている。ふだんはそうでなくても、だれかがギャグを口にすると、ギャーギャーと、それに乗じてしまう。そういう子どもも含めると、約半数の子どもが、そうではないかと言える。

とても残念なことだが、こうした子どもたちが、今、日本の子どもたちの主流になりつつある。そして新しいタイプの日本人像をつくりつつある。もっともこうした風潮は、子どもたちの世界だけではない。おとなの世界でも、ギャグばかりを口にしているような低俗タレントはいくらでもいる。中には、あちこちから「文化人」(?)として表彰されているタレントもいる。日本人全体が、ますます「白痴化」(大宅壮一)しつつあるとみてよい。とても残念なことだが……。
(02-12-21)

● まじめに生きている人が、もっと正当に評価される、そんな日本にしよう。
● あなたのまわりにも、まじめに生きている人はいくらでもいる。そういう人を正当に評価しよう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●裸の王様(02年に書いた原稿です)

 アンデルセンの童話に、「裸の王様」(原題は、「王様の新しい衣服」)という物語がある。王様や、その側近のウソやインチキを、純真な子どもたちが見抜くという物語である。しかし現実にも、そういう例は、いくらでもある。

 先日も、私が、「今度、埼玉県のT市で講演することになったよ」と言うと、「へエ~、どうしてあんたなんかが?」と、思わず口にした中学生(女子)がいた。その中学生は、まさに裸の王様を見抜いた、純真な心ということになる。

 反対に、何かのことで思い悩んでいると、子どものほうからその答を教えてくれることがある。H市は、市の中心部に、400億円とか500億円とかをかけて、商業開発ビルを建設した。映画館やおもちゃ屋のほか、若い女性向けの洋品店などが並んだ。

当初は、結構なにぎわいをみせたが、それは数か月の間だけ。2フロアをぶちぬいて、子ども向けの児童館も作ったが、まだ1年そこそこというのに、今では閑古鳥が鳴いている。内装にかけた費用が5億円というから、それはそれは豪華な児童館である。どこもピカピカの大理石でおおわれている。もちろん一年中、冷暖房。まばゆいばかりのライトに包まれている。

で、その児童館について、ふと、私は、こう聞いてみた。「みんなは、あそこをどう思う?」と。すると子どもたち(小学生)は、「行かなア~イ」「つまらなア~イ」「一度、行っただけエ~」と。

 私の教室は、18坪しかない。たった18坪だが、部屋代はもちろんのこと、光熱費の使い方にまで気をつかっている。机やイスは、厚手のベニヤ板を買ってきて、自分で作った。アルバイトの学生を使いたくても、予算に余裕がなく、それもできない。が、それでも私の生活費を稼ぐだけで精一杯。が、私にとっては、それが現実。

 しかし同じH市に住みながら、行政にいちいちたてつくことは、損になることはあっても、得になることは何もない。それに文句を言うくらいなら、だれにだってできる。しかもすでに完成している。いまさら文句を言っても始まらない。それで思い悩んでいた。が、子どもたちは、あっさりと、「つまらナ~イ!」と。それで私も、ホッとした。「そうだよな、つまらないよね。そうだ、そうだ」と。

 仮に百歩譲っても、日本がかかえる借金は、もうすぐ1000兆円になる。日本人1人あたり、1億円の借金と言ったほうが、わかりやすい。あなたの家族が、4人家族なら、4億円の借金ということになる。そんなお金、返せるわけがない。ないのに、まだ日本は借金に借金を重ねて、道路や建物ばかり作っている。いったい、この国はどうなるのか? 政治家たちは、この国を、どうしようとしているのか?

 もう、私にはわからない。「なるようにしか、ならないだろうな」という程度しか、わからない。が、かわいそうなのは、つぎの世代の子どもたちである。知らず知らずのうちに、巨額の借金を背負わされている。

いつかあの児童館には、5億円もかかったことを知らされたとき、子どもたちは何と思うだろうか。果たして「ありがとう」と言うだろうか。それとも「こんなバカなことをしたからだ」と、怒るだろうか。今の今でも、子どもたちが「あそこは楽しい」と言ってくれれば、私も救われるのだが……。まあ、本音を言えば、結局は、役人の、快適な天下り先が、また一つ、ふえただけ? あああ。

 では、どうするか。私たちは、何を、どうすればよいのか?

 私はすでに、崩壊後の日本を考えている。遅かれ早かれ、日本の経済は、破綻する。その可能性はきわめて高い。その破綻を回避するためには、金利をかぎりなくゼロにして、国民のもつ財産を、銀行救済にあてるしかない。が、仮に破綻したとすると、日本はかつて経験したことがないような大混乱を通り抜けたあと、今度は、再生の道をさぐることになる。

が、皮肉なことに、その時期は早ければ早いほど、よい。今のように行き当たりばったりの、つまりはその場しのぎの延命策ばかりを繰りかえしていれば、被害はますます大きくなるだけ。となると、答は一つしかない。日本人も、ここらで一度、腹を決めて、自らを崩壊させるしかない。そしてそのあと、日本は暗くて長いトンネルに入ることになるが、それはもうしかたのないこと。私たち自身が、そういう国をつくってしまった!

 ただ願わくは、今度日本が再生するにしても、そのときは、今のような官僚政治とは決別しなければならない。日本は真の民主主義国家をめざさねばならない。新しい日本は、私たち自身が設計し、私たち自身が建設する。そのためにも、まず私たち自身が賢くなり、自分で考える。自由とは何か、平等とは何か、正義とは何か、と。それを自分たちで考えて、実行する。またそういう国でなければならない。そのための準備を、今から、みんなで始めるしかない。

 少し熱い話になってしまったが、子どもたちは、意外と正義を見抜いている。しかしその目は、裸の王様を見抜いた目。ときどきは、子どもたちの言うことにも、耳を傾けてみたらよい。すなおな気持ちで……。
(02-12-21)

● 子どもには、もっと税金の話、税金の使われ方の話をしよう。
● おかしいことについては、「おかしい」と、みなが、もっと声をあげよう。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

【一億総ギャグ化】

●ハンガーのない県

 昨夜、バラエティー番組を見た。クイズ番組だった。

 「日本で、ハンガーを使わない県がある。どこか?」と。

 何人かの出演者。それに司会者。たがいに「こうだ」「ああだ」と、意見をかわしていた。が、そのうち、だれもわからないとわかると、司会者がヒント。「ハンガーは、何をするためのものですか?」と。

 私は、その番組を見ながら、ふと、「いったい、日本で、今、何%の人が、こういう番組を見ているのだろう」と思った。平均視聴率からすると、5~10%ということになる。

 間の7・5%をとると、約1000万人の人が見ていることになる。(視聴率イコール、視聴者の数ではない。この計算は、正しくないかもしれないが、おおむね、そんなもの。)

 もともと娯楽番組だから、深く考える必要はない。出演者も、見るからに、その程度の人たち。

 しかしその瞬間、日本中で、約1000万人の人が、この問題を考える。1000万人だぞ!

 が、本当のところ、考えているのではない。情報を、頭の中で加工しているだけ。広く誤解されているが、思考と情報は、まったく別。物知りだから、頭がよいということにはならない。情報の加工は、あくまでも情報の加工。思考とは、区別する。

 このクイズの正解は、「福岡県」だそうだ。「服をかけない」=「ふくおかけん」=「福岡県」と。

 こうした駄ジャレは、子どもの世界では、日常の会話のようにもなっている。たがいに言いあっては、キャッ、キャッと笑いあっている。

 「ブツゾー(仏像)」「ドウゾー(銅像)」という定番ものから、「左右とは言うけど、右左(ユウ・サ)とは言わない」「ユーサー(言うさア)」というのまで、ズラリとある。

 子どもの世界では、こうしたジャレは、いわば、遊び。娯楽は、娯楽。あくまでも一部。

 そこで改めて、『一億、総ハxチ化』(大宅壮一)について考えてみる。

 一億の人たちが、ノーブレインになる前提として、(1)単一化と、(2)バランスの欠如をあげる。

 無数の駄ジャレがあって、無数のバリエーションがあればよい。それが一つの駄ジャレに、約1000万人の人が、共鳴する。これを単一化という。

 つぎに娯楽は、一方に、理知的な活動があってはじめて、娯楽となる。一方的に娯楽ばかり追求していたのでは、バランスがとれなくなる。子どもにたとえて言うなら、一方で、勉強をし、その合間に、駄ジャレを楽しむというのであれば、問題はない。大切なのは、バランスである。

 そのバランスがなくなったとき、人は、ノーブレインの状態になる。

 私の印象としては、日本人は、ますますノーブレインになってきていると思う。ときどき私自身はどうであったか。私の若いころはどうであったかと考えるが、今の若い人たちよりは、もう少し、私たちは、ものを考えたように思う。根拠はないが、そう思う。

 「服をかけん」=「福岡県」か? なるほどと思うと同時に、こんなくだらないことで、日本中が、騒いでいる? 私はそちらのほうこそ、問題ではないかと思った。それがわかったところで、考える人にはならない。またわかったからといって、頭のよい人ということにはならない。

 いいのかな……? それともテレビ局は、日本人を、わざとノーブレインするために、こういう番組を流しているのだろうか? ……とまあ、番組を見ながら、いろいろ、そこまで考えてしまった。

【追記】

思考……自分で考えること。思考には、独特の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い夜、自分の体にムチを打って、ジョギングに出かけるような苦痛である。そのため、ほとんど人は、その苦痛を避けようとする。

情報……いわゆる知識をいう。経験として知っていることも、それに含まれる。いくらその人の情報量が多いからといって、思考力のある人ということにはならない。この情報は、思考と、はっきりと区別する。

情報の加工……知っている情報を、足したり引いたり、足して2で割ったりするのを、情報の加工という。今まで、この情報の加工は、思考力の一つと考えられてきた。しかし情報の加工は、思考力とは関係ない。学校で習う、数学の証明問題を考えてみれば、それがわかる。パスルでもよい。それがいくらすばやく解けたところで、頭のよい人ということにはならない。それについては、また別のところで考えてみたい。

 
●情報の加工

 中学2年生で、三角形の合同を学ぶ。「2辺とその間の角が、それぞれ等しいので、△ABC≡△DEF」という、あれである。

 こうした問題には、得意、不得意がある。得意な子どもは、スイスイと解く。そうでない子どもは、いくら教えても、コツを飲みこめない。

 しかしこうした問題には、そのコツがある。たくさん量をこなせば、よりむずかしい問題が解けるようになる。が、それが解けたところで、思考力のある子どもということには、ならない。

 私は、若いころ、一人の高校生(男子)を教えていて、それを知った。ある予備校でアルバイトをしていたとき、その予備校の校長に、頼まれて、家庭教師をした。その高校生だった。

 その高校生は、こう言った。「この世の中のことは、すべて数学で証明できる」と。そう、彼は「人間関係も、すべて証明できる」と言った。「その公式が見つからないだけだ」とも。

 実にヘンチクリンな高校生だった。常識に欠けるというか、常識そのものを感じなかった。もちろん恋などとは、無縁。音楽も聞かなかった。ただひたすら、勉強、また勉強。

 だから日本でいう(勉強)は、実によくできた。当然のことながら、数学だけは、とくに、よくできた。三角関数の微分問題でも、子どもが、掛け算の九九を唱えるように簡単に解いていた。

 しかし私たちは、そういう子どもを、思考力のある子どもとは、言わない。数学という情報を、組み合わせ、分解し、あるいは、集合させているだけ。あるいはそのつど、必要な情報を、臨機応変に取り出しているだけ。

 わかりやすく言えば、ここで「掛け算の九九」と書いたが、いくら掛け算の九九をソラでスラスラと言っても、思考力のある子どもとは言わない。掛け算の問題がスラスラと解けたからといって、思考力のある子どもということにもならない。

 数学のレベルこそ、ちがうが、その高校生も、そうだった。

 だから私は、あえて言う。情報の加工と、思考力は、区別して考える。

 思考力というのは、心の常識に静かに耳を傾け、自分がすべきことと、してはいけないことを、冷静に考え、判断する能力をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●超能力捜査官(?)

 おとといも、そして昨夜も、民放のテレビ局が、超能力捜査官なる人物を登場させて、わけのわからない番組を流していた。

 で、最後までしっかりと見たが、結局は、みな、ハズレ! おとといの番組は、超能力捜査官なる人物を使って、生き別れになった母親を探し出すというもの。昨日の番組は、アメリカで失踪した、女子大学生の行方を探し出すというもの。

 ものごとは、常識で考えろ! そんなことで、生き別れになった人や、失踪した人の居場所など、わかるはずがない。多少の科学性があるとするなら、ダウジングだが、しかし、私は、信じない。ダウジングというのは、針金のような棒をもって、地下に埋まっているものをさがしだすという、あれである。

 その(モノ)の上に、何かの棒(これをダウジングロッドという)をもってやってくると、その棒が地下にあるものと反応して、動いたりするという。その動きを見ながら、地下にあるものをさがしだす。

磁場や磁力の微妙な変化を感じ取ってそうなるらしいが、しかし水脈や鉱脈のような大きなものについては、その可能性もないとは言えないが、地下に埋まった筒や箱程度のものに、それほどまでに大きな力があるとは、思われない。つまり手にもった棒を動かすほどの力があるとは、思われない。

 番組の中では、学校の校庭に埋められたタイムカプセルをさがし出すというようなことをしていたが、逆に考えてみれば、トリックは、簡単にわかるはず。

 あなたがタイムカプセルを埋めるとしたら、どんな場所に埋めるだろうか。まさか校庭に中央ということはあるまい。たいていは、校庭のすみで、木とか、鉄棒とか、何かの目印になるものの横に埋める。そうした常識を働かせば、タイムカプセルがどこに埋められているかは、おおよその見当がつくはず。

 ああいう番組を、何の疑いももたず、全国に垂れ流す、その愚かさを知れ。当たりもしないのに、そのつど、ギャーギャーと騒いでみせる、その愚かさを知れ。さらにこうした番組が、それを見る子どもたちにどのような影響を与えるか、その恐ろしさを知れ。

 超能力捜査官を名乗る男たちは、その過程で、道路の様子や、風景について、あれこれと言い当てて見せたりする。しかしそんなことは、あらかじめ簡単な下調べをすれば、わかること。

男「近くに湖があります」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」
男「学校があるはずです」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」と。

 しかし肝心の遺骨は出てこなかった。が、それ以上に許せないのは、遺族ともまだ言えない家族を前にして、「殺されています」「埋められています」と、口に出して、それを言うこと。他人の不幸を、こういう形で、娯楽番組にしてしまう、その冷酷さを知れ。残酷さを知れ!

 本当に、日本人はバカになっていく。昔、「一億、総xxx」と言った、著名な評論家がいたが、日本人は、ますますそのxxxになっていく。「xxx」というのは、ノーブレインの状態をいう。脳死の状態と言ってもよい。

 こういうことを書くと、それを信じている人は、猛烈に怒る。その気持ちは、わかる。しかしそれこそカルト信仰ではないのか。あるいはカルト信仰の前段階と言ってもよい。そういうものを信ずることによって、知らず知らずのうちに、その人は、カルト信仰の下地を、自ら、作っていることになる。

(付記)

 そうであるとは断言できないが、テレビ局は、たまたま当たったばあいだけを、編集して放送しているのではないかという疑いもある。もしそうなら、それこそ、まさに詐欺と断言してよい。国民の良識を愚弄(ぐろう)する、詐欺である。こうした番組を見るときは、そういう目で見ることも忘れてはならない。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●アメリカ追従外交(?)

 少し前、小泉政権を総括して、政治評論家たちは、みな、異口同音にこう言う。「アメリカ追従外交だった」と。

 しかし浜松市という、この地方都市に住んでいると、少しちがった印象をもつ。アメリカ、アメリカというが、どこに、アメリカがあるのか?

 むしろ、この浜松市に住んでいると、アメリカよりも、「東京」という都市がもつ傲慢さというか、独善性のほうばかりが、目につく。何でもかんでも、「東京」「東京」、また「東京」。

 おそらく東京に住んでいる人は、それに気づいていないだろう。もちろん、東京に住んでいる人に、責任があるわけではない。しかし地方から見ると、そうではない。「東京」は、どこか、遊離している。私たちが、この浜松で感じている日本とは、どこかがちがう。

 実際、「東京」から流れてくる文化には、「?」なものが多い。この浜松という地方都市とくらべても、どこか、低劣、低俗、低レベル! こう書くと、東京に住んでいる人は怒るかもしれない。が、私は、何も、東京に住んでいる人が、そうであると言っているのではない。

 東京から流れてくる文化が、そうであると言っている。言いかえると、東京に住んで、東京で文化をリードしている人たちは、もう少し、その自覚をもってほしいということ。つまり「私たちが日本をリードしているのだ」という自覚である。東京が日本の中心だというのなら、それはそれで構わない。だとするなら、それだけの責任を心のどこかで、感じてほしいということ。

 その「東京」が、率先して、どこかアホなことばかりしている。どこかバカなことばかりをしている。よい例が、テレビのギャーギャー番組。見るからに軽薄そうな男女が、意味もないギャグを飛ばし、ギャーギャーと騒いでいる。

 あとは、右へならへ! 全国の道府県が、それにならう。

 日本は、奈良時代の昔から、中央集権国家。それはわかる。しかしそれは政治の話。文化まで、中央集権国家になっているというのは、実に、おかしい。中央には中央の文化がある。それは否定しない。しかし地方には地方の文化がある。優劣は、ない!

 構造主義をうちたてた、あのレヴィ・ストロース(1908~、サルトルと激論したことで有名)も、こう述べている。

 都市で近代的な生活をする人も、ジャングルの中で野性的な生活する人も、どちらにも優劣はない、と。つまり「もともと別の価値観をもった文明である」と。

ジャングルの中で生活している人は、パソコンや近代機器についての知識はないかもしれない。が、自然については豊富な知識をもっている。そのちがいに、優劣はないというのだ。

 が、この日本では、何かにつけて、都会文明ばかりが、優先される。そしてそれが容赦なく、この浜松市という地方都市にまで、流れこんでくる。よい例が、講演。

 このあたりでは、講演の講師でも、「東京から来た」というだけで、相場は100~200万円。幼児教室でも、「東京の幼児教室と同じ教材を使っています」というだけで、月謝は、2~4万円にハネあがる。(週2回の指導で、5万円もとっているところがあるぞ!)

 さらに今では、小学生たちと何かのパーティを開いても、どれもバラエティ番組風になってしまう。結婚式の披露宴もそうだ。みな、意味もなく、ギャーギャーと騒ぐだけ。ギャクにつづく、ギャグ、またギャグ。

 楽しむということは、そういうことだと、おとなはもとより、子どもたちですら、思いこんでいるといったふう。そして今に見る、この日本になった。

 全国の、道府県のみなさん、(東京)に追従するのを、もうやめませんか?、……と提案したところで、この話は、おしまい。どうせ、どうにもならない。私が書いたくらいでは、この日本は、ビクともしない。

 「アメリカ追従外交」と、小泉政権を批判する、「東京」人たち。しかしその「東京」人たちは、私たち地方人を追従させて、平気な顔をしている。このおかしさを、いったい、どう理解すればよいのか。