Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, March 13, 2009

*Illegal Multi-Business

● 3月12日(木曜日)2009年

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今日は、自宅から教室まで、歩いた。
たった今、教室に着いたところ。
途中で、Dズというレストランで昼食。
それもあって、2時間15分も、かかった。

そのDズで、奇妙な光景を目にした。
3組の女性たちが座って、それぞれが相手の女性に、
何やら、懸命に説明していた。

大きな声だったので、やがて話の内容がわかった。
それぞれが、何かの健康食品を勧めていた。
それを聞きながら、ワイフが「マルチ商法よ」と言った。
あえて説明はいらなかった。
たしかにマルチ商法の勧誘だった。

トイレに立ったとき、ひとつのテーブルを見たら、
家系図のようなものが、広げてあった。
縦、横に、20~30個の四角が並んでいて、
それぞれに名前らしきものが書きこんであった。
相手の女性から、家族関係、親戚関係を
聞き出しているようだった。

「どうしてそんなものを調べるのだろう?」と
思ったが、そこで思考停止。

マルチ商法では、常に被害者が加害者となり、
また新たな被害者を作る。
あとはこの繰りかえし。
しかしこれだけ騒がれても、まだマルチ商法は
健在らしい。

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● 被害者は加害者に

以前、ある宗教団体から脱会した人がいた。
年齢は、当時45歳くらいではなかったか。
その宗教団体に疑問をもち、脱会したということだった。
で、その人がそれで宗教から遠ざかったかというと、そうではない。
自分で新しい教団を開いた。
教祖になった。
で、ある日、その人に呼ばれて行くと、その人はこう言った。
「100人も信者がいれば、一応、食べていかれますよ」と。

そういう人は珍しいとしても、たいていの人は、宗教から宗教へと
渡り歩くようになる。
一度身についた信仰心(宗教心ではない)は、なかなか消えない。
思考回路というのは、そういうもの。
私は、Dズで、その光景を見たとき、それを思い出した。

マルチ商法。
マルチ商法があるから、被害者がいるのではない。
マルチ商法を支える加害者がいるから、マルチ商法がある。
で、マルチ商法がマスコミなどで叩かれたからといって、
それらの人が、それに気づくわけではない。
むしろ現実は、逆。

マルチ商法で、一度味をしめた人は、つぎのマルチ商法を考える。
あるいは新しいマルチ商法が現れると、イの一番に飛びつく。
マルチ商法というのは、早く飛びついた人ほど、儲かる。
そういう旨味(うまみ)をよく知っている。
そういうしくみになっている。

だからマルチ商法はなくならない。
被害者が加害者となり、新たな被害者をつくる。
最後にババを引いた人だけが、損をする。

しかしどうして家系図を調べていたのだろう?
(家系図だったかどうかは、わからないが・・・。)
その中の金持ち(=カモ)をさがすためだろうか。
それとも別の目的があるのだろうか。
あるいは今、流行しているスピリチュアル(霊感)商法の
ひとつなのだろうか。
私にはわからないが、あやしげなグループだったことにはちがいない。

Dズを出るとき、もう一度、そのグループをながめた。
相変わらず大声で、相手の女性に向かって、何やら説明していた。
まわりの人のことなど、まったく気にならないといったふうだった。

(補記)
マルチ商法が摘発されるとき、いつもトップ、もしくはその直接の
部下だけ。
そこでストップ。
しかしこの方法では、マルチ商法は、なくならない。
本気でなくそうとするなら、そのつぎの段階にいる人たち、つまり
マルチ商法で、だれかを勧誘した人たちまで、逮捕しなければならない。
マルチ商法では、勧誘者イコール、加害者。
そういう人たちは、「私も被害者でした」と主張するだろう。
が、これだけマルチ商法がつづいているのだから、今さら、「知らなかった」
ですまされない。

私も2年ほど前、近M通信事件にからんで、あやうく、その
被害者になるところだった。
私を勧誘したのは、大学の1年、先輩だった。
もしあのときあの話に乗っていたら、私もだまされた。
が、そのとき、その先輩が、「ぼくも被害者だ」では、すまされない。
またそれですんではいけない。
言うなれば、詐欺未遂。
そういう認識を、みなが、もっとしっかりともつべきではないのか。


● 70歳まで、現役

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先日、ワイフとこんな会話をした。
「ぼくは70歳まで、現役で働く。協力してくれるか」と。
ワイフは、快く承知してくれた。

「で、そのために体力づくりをしよう」と声をかけると、
それにも快く承知してくれた。

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少し前まで、「65歳まで働こう」と思っていたが、
それを「70歳」にした。
年金など、アテにしていない。
それよりも大切なのは、健康で楽しく仕事ができること。
若いとき、何度か失業保険金をもらえる立場になったことがあるが、
私はもらわなかった。
私のプライドが許さなかった。
たぶん65歳になったときも、同じように考えるだろう。
自信はないが・・・。

ともかくも、今の調子なら、何とか70歳までがんばれそう。
50歳になったときよりも、体の調子はよい。
頭のボケも、今のところ、心配ない。
疲れやすく、昼になると眠くなるが、それは何とかできる。
あとは、今の調子を崩さないようにする。
それだけを考えて、前に進む。

(補記)
「あなたには、もう用はありません。静かに遊んでいてください」と
言われることくらい、つらいことはない。
ほかの人にはどうか知らないが、私には、そうだ。
だから私は健康がつづくかぎり、働く。
働いて、社会との接点を保つ。
もしそれがなくなったら、そのときこそ、私は、ほんとうにおしまい。
何も、肉体の「死」だけが、死ではない。
魂の「死」だってある。
その死とは、闘う。
闘える相手だから、闘う。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●午前3時

今朝は、午前3時起き。
昨夜、頭痛がしたので、午後8時ごろ、眠った。
計算してみると、7時間は、眠ったことになる。
時折、ザーッ、ザーッと雨が降っているのがわかる。
窓の外から、それが聞こえてくる。

このところ「寒い」と感ずることが多いが、それでも、
花の開花などは、全体的に見ると、2週間ほど早いとか。
今さら「暖冬」という言葉など、使いたくない。
先日も、長野の友人が、こう言っていた。
「最近では、めったに雪かきをしなくなりました」と。
子どものころは、毎日のように雪かきをしていたそうだ。

そう言えば、今年は、雪をまったく見ていない。
例年だと、チラチラとだが、1、2度は、雪が降るのだが・・・。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●がんこな女性

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がんこな女性がいる。
年齢は、今年、45歳になるという。
夫であるその男性に話を聞くと、
こう話してくれた。

「結婚して20年近くになるが、
自分のほうから、『ごめん』とか、
『そうだね』とかいう言葉を言ったことが、
ない」と。
「一度もないのですか?」と念を押すと、
「ないです」と。
かなりがんこな女性らしい。

子どもでも、似たような症状を示す子どもがいる。
アスペルガー児と呼ばれる子どもなどがそうである。
症状が軽いばあいは、意地っ張りな子ということになる。
何かのことで、殻(から)に入ると、その中に、
閉じこもってしまう。
そのまま固まってしまう。
あとはお決まりの、押し問答。

私「君がしたことだから、謝りなさい」
子「どうして、ぼくが謝らなければならないんだ」
私「自分でしたんだから、謝るべきだ」
子「わざとしたんじゃないから、しかたない」
私「わざとでなくても、君がしたことにはちがいない」
子「先生が、そんなものを、ここに置いておくから悪い」

私「それとこれは、話が別」
子「どこがちがうよ」
私「あのね、こういう話は、『ごめん』と言えば、それですむの」
子「ごめんと言えばいいのか」
私「はいはい、わかりました。ごめん、・・・このバカ!」と。

男児に多いと言われるが、女児にもアスペルガー児の子どもはいる。
頭はよいし、そうでないときは、それなりの常識は通ずる。
が、どこか自己愛者的な自己中心性があり、自分のまちがいや、
ミスを指摘されると、とたんに殻にこもってしまう。
その男性の妻がそうであったというわけではないが、症状から
すると、その可能性がある。

もっともおとなになると、診断名をくだすのは、たいへんむずかしい。
アスペルガーにしても、思春期を境に、外からは症状が、わかりにくくなる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになる。
が、その残像のようなものは、残る。

(1) 思考の融通性が利かない。
(2) 冗談が通じにくい。
(3) がんこになりやすい。
(4) 心を許す相手と、そうでない相手を峻別する。
(5) 自分のミスや失敗を、認めない。
(6) 何か言うと、すぐ切り返してくる、など。

だからその男性は、こう言った。

「一度夫婦喧嘩が始まると、ネチネチといつまでもつづくように
なりました。
妻は私の性格が悪いと言いますが、そうなってしまいました。
ふつうの人なら、『あら、ごめん』ですむような話でも、その場で、
固まってしまうため、あとは私が何を言っても、無視、無視・・・。
そういった状態になります。
先日も、さんざん言い争ったあと、私に、こう言いました。
『ごめん、ごめん、この気ちがい!』と。

同じ夫婦喧嘩でも、いつも同じパターンで始まり、同じパターンを
繰りかえすというようであれば、どちらかの性格的な欠陥に原因が
あるとみてよい。
しかしどちらか一方の側だけに、責任があるというわけではない。
夫婦というのは、長い年月をかけて、たがいに相手の心を作る。

妻のほうは、「私はこういう性格だから、あきらめてよ」と言っている
らしい。
しかし夫のほうは、「無視されたとたん、カッとなります」と言っている。
たがいにたがいのトラウマを作ってしまった。

・・・といっても、この問題は、簡単には解決しない。
その男性の妻が、アスペルガー児であったかどうかはわからないが、
仮にそうであったとしても、それはその女性自身の責任ではない。
恐らくその女性自身も、自分自身のそうした(性格)に気づいていなかった。
今も気づいていない。
また20年前の当時には、「アスペルガー」という言葉すらなかった。
似たような症状の子どもはいるにはいたが、「がんこな子ども」
というような言い方で、教育の世界では処理していた。

最後に、その男性は、こう言った。
「ぼくたちは見合いで結婚しましたが、あんながんこな女とわかっていたら、
結婚はしなかったと思います」と。
言い忘れたが、現在、その夫婦は、離婚の危機に立たされている。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

● 20万円の損?

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数日前、テレビ(NHK)を見ていたら、
こんなことを言っていた。

「今度の株価の暴落で、国民1人当たり、
約20万円の損失をしたことになります」と。

20万円?
・・・とんでもない!

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同じ番組の中で、最近、退職し、そのとき得た退職金で
株式投資をした男性が紹介されていた。
その男性にしても、400万円以上もの損をしたという。

で、こういうばあいの平均値というのは、意味がない。
幼児も老人も含めて、「1人当たり・・・」となる。
一家の世帯主当たりで計算すると、その数倍~10倍程度になるのでは。
「一世帯あたり、200万円」と聞いても、私は驚かない。
それに今回の暴落は、何も、株だけではない。
債権全般にも、及んでいる。
為替差損を加えると、損をした人は、もっとふえる。
すでに近くに、一財産を失い、家を明け渡した人さえいる。
これから先、こうした人たちは、爆発的にふえるはず。

が、おかしなことに、危機感と言うか、損失感が、あまりない。
日本中というより、世界中が、ジュータン爆撃を受けたようなもの。
「うちは損をした」という話し方よりも、「うちは被害が少なくてすんだ」という
ような話し方をする。

おかしな話し方である。

数日前も韓国の新聞を読んでいたら、こうあった。
「経済危機度は、韓国のほうが、イギリス、イタリアより下。だから
韓国はだいじょうぶ」と。

「?」。

つまり韓国がデフォルト(債務不履行=国家破綻)するよりも先に、
イギリスやイタリアのほうが先に、デフォルトするから、韓国は、
だいじょうぶ、と。
言うなれば、「隣の家のほうが貧乏だから、うちのほうが金持ち」と言うのに
似ている?
どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほどまで、不況が深刻化している。

で、先に話を戻す。

「1人当たり、20万円」という平均値は、まさに国民だましの数字である。
「20万円」と聞けば、ほとんどの人は、こう思うにちがいない。
「何だ、その程度か」と。
しかし先ほども書いたように、その中には、幼児から老人まで含まれている。
幼稚園の幼児から、介護施設にいる老人までも、だ。
実際に、私の知っている人の中には、1億円の債権を、数か月で、1000万円
にしてしまった人がいる。
その人は、さらに債権を減らしているはず。
その人がもっていた株の株価は、この1年だけでも、20分の1以下になっている。
そういう人も含めて、「1人当たり20万円」は、どう考えてもおかしい。

が、こうした平均値というマジックは、教育の世界にも、よく見られる。
たとえば「中学生は、1人当たり、平均2時間のテレビを見ている」とか、など。
(この「2時間」という数字は、不正確。)

「2時間」と聞くと、ほとんどの人は、「そんなものかなあ?」と思う。
しかし実際には、まったくテレビを見ない子どもがいる一方で、
一日中テレビ漬けの子どもも少なくない。
あるいは50%の子どもが、まったくテレビを見ていなくて、50%の
子どもが4時間見ていても、平均値は、「2時間」となる。
問題は、1日、4~6時間もテレビを見ている子どもがいるということ。
「2時間」という数字だけを聞くと、その問題の深刻さがわからなく
なってしまう。

同じように、「20万円」という数字だけを見ていると、現在の経済危機の
深刻さがわからなくなってしまう。
が、実際には、今、たいへんなことになっている。
しかもそれが、この先、1年以上もつづきそうな気配になってきた。
(昨年の8月ごろは、今年になれば景気は回復すると言っていた。
昨年の12月には、それが今年の4月ごろになった。
さらに今年になってからは、さらに「1年以上」となった。)

どうでもよいが、今は、みな、あきらめムード。
「お宅は、1000万円ですかア。それはよかったですね。
うちは2000万円の損ですよ」と。

だから私は「20万円」という数字のあとに、「?」をつけた。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●嵐

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夕方遅くから、季節はずれの嵐になった。
台風並みの強い風と雨。
窓を打ちつける木立の木々の枝。

例年だと今ごろの1~3月期は、水の渇水期。
山荘の近くの村々では、「もらい水」といって、
水の出ないところは、水のあるところへ、
水をもらいに行く。
ついでに風呂にも入らせてもらう。

が、今年は、雨が豊富にあるという。
今日の雨で、当分は水の心配もなさそう。

よかった!

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●夢

たった今、うたた寝をした。
夢を見た。
どこかの劇場で、映画を見ていた。
わけのわからない日本映画だった。
それが終わると講演会ということだったが、
私は外に出た。
ゾロゾロと人が歩いていた。
それについていくと、小高い山の上にやってきた。
そこから観覧車が出るところだった。
観覧車といっても、円形の観覧車ではなく、
長くつづいたトロッコのような観覧車だった。
それに乗って山をくだるところで、目が覚めた。

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どうして人は夢を見るのか。
中には夢を見ないという人もいる。
いつも同じような夢を見るという人もいる。
しかし私のばあいは、一度とて、同じ夢を見たことがない。
自分でも感心するほど、奇想天外というか、想像もつかないような
夢を見る。
これは私のどういう精神状態によるものなのか。

あの劇場で見た映画は、どんな映画だったのか。
そのときは、ストーリーらしきものを感じたが、
今は、覚えていない。
夢の内容は、すぐ忘れる。
そのあとトロッコのような観覧車に乗って山をくだったが、
そのとき私は両手に、猫をかかえていた。
よく慣れた頭のよい猫で、人間の子どものようでもあった。
それに映画館へ入る前にも、何かあったようだが、それも思い出せない。

夢というのは、いわば脳の遊びのようなもの。
無意識の世界から、ちょうど池の底からメタンガスがボコボコと
出てくるように、湧いてくる。
どこから出てくるか、わからない。
だからどんな夢を見るかは、そのときの脳の状態による。

またはっきりとした実体験をともなわないから、すぐ忘れる。
こうしてメモにしたときだけ、記憶に残る。
そこで中には、「夢日記」なるものをつけている人がいる。
つまらない実生活の日記を書くよりは、そのほうが楽しいかもしれない。

で、私の夢分析。

映画館にいたとか、観覧車に乗ったというのは、あまり意味がない。
どんな映画だったかが、問題。
それに猫の嫌いな私が、猫をかかえていた?
これは不思議なことだ。
あるいは人間の子どもだったかもしれない。
大きさは、小猫くらい。
茶色い色をしていた。
今の私はきっと、愛情飢餓の状態なのかもしれない。

で、映画の内容は、どうしても思い出せない。
何かの社会映画だったと思う。
私好みの、理屈ぽい映画だった。
「自由になるのだ」というようなことを言いながら、
1人の少女が、クルクルと体を回転させながら、踊っていた。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●自由

今度三男が、友だち5、6人と、カナダのどこかまで、
オーロラを見に行くという。
「オーロラねえ」と思ったところで、思考停止。
フ~ンと思ったが、うらやましいとは思わなかった。
「寒いところはいやだ」と思った。

そのうち毎週のようにオーロラを見ることができるようになるだろう。
どうして今、わざわざ見に行くのかな?

で、改めて自由とは何か、考えてみる。
自由にも、大きく分けて3つ、ある。
(1) 肉体の自由、(2)行動の自由、(3)精神の自由。

肉体の自由といっても、人間の肉体には、いつも限界がある。
たとえば鳥のように、空を飛べるような構造にはなっていない。
反対に、足の骨でも折れば、そのまま歩けなくなる。
しかし歩けないからといって、自由を失ったことにはならない。
歩ける人も、歩けない人も、生物全体からながめれば、たいした
ちがいはない。

つぎに行動の自由。
人間というのは、身勝手な生き物かもしれない。
私だって、カナダまで行って、オーロラを見ることができる。
しかし今は、その気はない。
が、もし、だれかに「君はカナダへ行ってはいけない」と言われたら、
それに対しては、猛反発するかもしれない。
「いつでも行こうと思えば行けるが、行かない」と思うのは、心の余裕。
が、行くつもりはないが、「行ってはダメだ」と言われると、とたんに
窮屈になる。
行動の自由というのは、結局は、その「心の余裕」ということになる。

が、何よりも大切なのは、精神の自由。
魂の自由。
思想の自由。
そして言論の自由。
私のばあい、何でも好き勝手なことを書けることにまさる解放感はない。
言い換えると、好き勝手なことを書いているときの解放感に、まさる解放感
はない。
もしこの解放感を奪われたら・・・。
私はその相手と、命をかけて戦う。
というのも、この解放感を奪われたら、私は死んだも同然。
この先、何を書くか決まっているわけではない。
書きたいことすら、何であるかわからない。
しかしそれでも、命をかけて戦う。

「書こうと思えば、何だって書ける」と思うのは、心の余裕。
それこそが、私の命。
(少し力みすぎかな?)


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi