*Self-respected Mind
【自尊教育】
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東京都教育委員会は、今度、自尊教育を始めるそうです。
どんな教育を考えているのかは知りませんが、しかし自尊教育ほど、
簡単なものはありません。
「ほめる」。
たったそれだけのことで、子どもは、自分に対して肯定的な
評価をくだすようになります。
が、そうでない子どもが多い。
発達心理学的に言えば、「自我の同一性(アイデンティティ)」の
構築に失敗したということになります。
さらに最近では、それが大脳生理学の分野でも、証明されています。
そのカギを握るのが、辺縁系にある、扁桃核(扁桃体)ということに
なります。
「教育」でできる……というよりは、これは「家庭」の問題かな。
さらに言えば、幼児期から少年少女期への移行期(4・5~5・5歳)
における指導が重要ということになります。
それを書く前に、産経新聞の記事から抜粋させてもらいます。
+++++++++++++以下、産経新聞・090310++++++++++
日本の子供たちは自分が嫌い-。東京都教育委員会が公立の小中学生、都立高校生を対象に「自尊感情」について調査したところ、中高生の5~6割が「自分」を好意的にとらえていないことが10日、分かった。日本の子供たちの自尊感情の低さはこれまでも指摘されてきたが、自治体レベルで大規模な調査が行われたのは初めて。都教委は現状を深刻に受け止め、「自分の存在や価値を積極的に肯定できる子供を育てる」とし、4月から小学校で試験的に“自尊教育”を実施する。
都教委は昨年11~12月、都内の小学生4030人、中学生2855人、高校生5855人を対象に、自尊感情や自己肯定感をテーマにしたアンケートを行った。
調査結果によると、中学生では「自分のことが好きだ」との問いに、「そう思わない」「どちらかというとそう思わない」と否定的に回答した割合が、中1=57%、中2=61%、中3=52%に上り、全学年で「そう思う」「どちらかというとそう思う」と肯定的に答えた割合を上回った。高校生でも否定的な考えが目立ち、高1=56%、高2=53%、高3=47%だった。
小学生では、小1の84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は低下し、小6では59%となっている。
このほか、国内外の青少年の意識などを調査・研究している財団法人「日本青少年研究所」の国際調査(平成14年)でも「私は他の人々に劣らず価値のある人間である」との問いに「よくあてはまる」と回答した中学生が、アメリカ51・8%、中国49・3%だったのに比べ、日本は8・8%と極端に低かった。
+++++++++++++以上、産経新聞・090310++++++++++
数字が並んでいるので、整理させてもらう。
中学生
「自分のことが好きだ」
「そう思わない」「どちらかというとそう思わない」と答えた子ども
中1……57%、
中2……61%
中3……52%
高校生でも否定的な考えが目立ち、高1……56%
高2……53%
高3……47%
小学生では、小1……84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は低下し、小6では59%となっている。
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以上の数字をまとめると、こうなります。
小学1年生では、84%が、「肯定的だが」、学年が進むと、小学6年生では、それが
59%に低下する。
さらに中学生になると、50%台、高校生になると、40%台に低下するということ。
しかしこの数字を見て私が驚いたのは、小学1年生で、84%しかいないということ。
「小学1年生で、もう84%!」と。
その入口にいる子どもですら、肯定的に自分をとらえている子どもが、84%しかいない
ということに注目してください。
しかし「自尊教育」ほど、簡単なものはないのです。
順に説明してみましょう。
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「私はこうありたい」「こうあるべき」という(像)を、
「自己概念」といいます。
おとなだけではなく、子どももみな、この自己概念を
描きながら生きています。
それに対して、そこに(現実の自分)がいます。
これを「現実自己」といいます。
この両者が一致した状態を、「自我の同一性が確立した状態」と
いいます。
このタイプのおとなは、(もちろん子どもも)、
外界からの誘惑に対しても、強い抵抗力を示します。
もちろん、自尊感情も強く、現実感覚もしっかりと
しています。
それについて書いたのが、つぎの原稿です。
少し余計なことも書いていますが、どうか
がまんして読んでください。
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●自我の同一性(アイデンティティ)の確立
●世間的自己
少し前、(自己概念)と(現実自己)について、書いた。「自分は、こうあるべきだという私」を(自己概念)といい、「現実の私」を(現実自己)という。
これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を進むことができる。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたいほどの距離感が生まれると、その人の精神状態は、きわめて不安定になる。劣等感も、そこから生まれる(フロイト)。
たとえば青年時代というのは、(こうであるべき自分)を描く一方、(そうでない自分)を知り、その葛藤に(かっとう)に苦しむ時代といってもよい。
そこで多くの若者は、(そうであるべき自分)に向って、努力する。がんばる。劣等感があれば、それを克服しようとする。しかしその(そうであるべき自分)が、あまりにもかけ離れていて、手が届かないとわかると、そこで大きな挫折(ざせつ)感を覚える。
……というのは、心理学の世界でも常識だが、しかしこれだけでは、青年時代の若者の心理を、じゅうぶんに説明できない。
そこで私は、「世間の人の目から見た私」という意味で、(自己概念)と(現実自己)にほかに、3つ目に、(世間的自己)を付け加える。
「私は世俗的他人からどのように評価されているか」と、自分自身を客観的に判断することを、(世間的自己)という。具体的に考えてみよう。
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A子さん(19歳)は、子どものころから、音楽家の家で育ち、持ち前の才能を生かして、音楽学校に進学した。いつかは父親のような音楽家になりたいと考えていた。
しかしこのところ、大きなスランプ状態に、陥(おち)いっている。自分より経験の浅い後輩より、技術的に、劣っていると感じ始めたからだ。「私がみなに、チヤホヤされるのは、父親のせいだ。私自身には、それほどの才能がないのではないか?」と。
ここで、「父親のような音楽家になりたい」というのは、いわば(自己概念)ということになる。しかし「それほどの才能がない」というのは、(現実自己)ということになる。
しかしAさんは、ここでつぎの行動に出る。自分の父親の名前を前面に出し、その娘であることを、音楽学校の内外で、誇示し始めた。つまり自分を取り囲む、世間的な評価をうまく利用して、自分を生かそうと考えた。「私は、あの○○音楽家の娘よ」と。
これは私がここでいう(世間的自己)である。
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少し話がわかりにくくなってきたので、もう少しかみくだいて説明してみよう。
世の中には、世間体ばかりを気にして生きている人は、少なくない。見栄、メンツに、異常なまでに、こだわる。名誉や地位、肩書きにこだわる人も、同じように考えてよい。自分の生きザマがどこにあるかさえわからない。いつも他人の目ばかりを気にしている。
「私は、世間の人にどう思われているか」「どうすれば、他人に、いい人に思われるか」と。
そのためこのタイプの人は、自分がよい人間に見られることだけに、細心の注意を払うようになる。表と裏を巧みに使い分け、ついで、仮面をかぶるようになる。(しかし本人自身は、その仮面をかぶっていることに、気づいていないことが多い。)
これは極端なケースだが、こういう人のばあい、その人の心理状態は、(自己概念)と(現実自己)だけは、説明できなくなる。そもそも(自己)がないからである。
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そこで(私)というものを考えてみる。
(私)には、たしかに、「こうでありたいと願っている私」がいる。しかし「現実の私はこうだということを知っている私」もいる。で、その一方で、「世間の人の目を意識した私」もいる。
これが(自己概念)(現実自己)、そして(世間的自己)ということになる。私たちは、この三者のはざまで、(私)というものを認識する。もちろん程度の差はある。世間を気にしてばかりしている人もいれば、世間のことなど、まったく気にしない人もいる。
しかしこの世間体というのは、一度それを気にし始めると、どこまでも気になる。へたをすれば、底なしの世間体地獄へと落ちていく。世間体には、そういう魔性がある。気がついてみたら、自分がどこにもないということにもなりかねない。
中学生や高校生を見ていると、そういう場面に、よく出あう。
もう15年ほど前のことだが、ある日、1人の男子高校生が私のところへやってきて、こう聞いた。
「先生、東京のM大学(私立)と、H大学(私立)とでは、どっちが、カッコいいでしょうかね。(結婚式での)披露宴でのこともありますから」と。
まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを心配していた。つまりその高校生は、「何かを学びたい」と思って、受験勉強をしていたわけではない。実際には、勉強など、ほとんどしていなかった。その一方で、現実の自分に気がついていたわけでもない。
学力もなかったから、だれでも入れるような、M大学とH大学を選び、そのどちらにするかで悩んでいた。つまりこれが、(世間的自己)である。
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これら(自己概念)(現実自己)(世間的自己)の三者は、ちょうど、三角形の関係にある。
(自己概念)も(自己評価)も、それほど高くないのに、偶然とチャンスに恵まれ、(世間的自己)だけが、特異に高くなってしまうということは、よくある。ちょっとしたテレビドラマに出ただけで、超有名人になった人とか、本やCDが、爆発的に売れた人などが、それにあたる。
反対に(自己概念)も(自己評価)も、すばらしいのに、不運がつづき、チャンスにも恵まれず、悶々としている人も、少なくない。大半の人が、そうかもしれない。
さらにここにも書いたように、(自己概念)も(現実自己)も、ほとんどゼロに等しいのに、(世間的自己)だけで生きている人も、これまた少なくない。
理想的な形としては、この三角形が、それぞれ接近しているほうがよい。しかしこの三角形が肥大化し、ゆがんでくると、そこでさまざまなひずみを引き起こす。ここにも書いたように、精神は、いつも緊張状態におかれ、ささいなことがきかっけで、不安定になったりする。
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そこで大切なことは、つまり親として子どもを見るとき、これら三者が、子どもの心の中で、どのようなバランスを保っているかを知ることである。
たとえば親の高望み、過剰期待は、子どものもつ(自己概念)を、(現実自己)から、遊離させてしまうことに、なりかねない。子ども自身の自尊心が強すぎるのも、考えものである。
子どもは、現実の自分が、理想の自分とあまりにもかけ離れているのを知って、苦しむかもしれない。
さらに(世間的自己)となると、ことは深刻である。もう20年ほど前のことだが、毎日、近くの駅まで、母親の自動車で送り迎えしてもらっている女子高校生がいた。「近所の人に制服を見られるのがいやだから」というのが、その理由だった。
今でこそ、こういう極端なケースは少なくなったが、しかしなくなったわけではない。世間体を気にしている子どもは、いくらでもいる。親となると、もっといる。子どもの能力や方向性など、まったく、おかまいなし。ブランドだけで、学校を選ぶ。
しかしそれは不幸の始まり。諸悪の根源、ここにありと断言してもよい。もちろん親子関係も、そこで破壊される。
……と話が脱線しそうになったから、この話は、ここまで。
そこであなた自身は、どうか。どうだったか。それを考えてみるとよい。
あなたにはあなたの(自己概念)があるはず。一方で、(現実自己)もあるはず。その両者は、今、うまく調和しているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかしもしそうでないなら、あなたは、今、ひょっとしたら、悶々とした毎日を過ごしているかもしれない。
と、同時に、あなたの(世間的自己)をさぐってみるとよい。「私は世間のことなど、気にしない」というのであれば、それでよし。しかしよくても悪くても、世間的自己ばかりを気にしていると、結局は、疲れるのは、あなた自身ということになる。
(私)を取りもどすためにも、世間のことなど、気にしないこと。このことは、そのままあなたの子育てについても、言える。あなたは自分の子どものことだけを考えて、子育てをすればよい。すべては、子どもから始まり、子どもで終わる。
コツは、あなたが子どもに抱く(子どもの自己概念)と、子ども自身が抱く(現実自己)を、遊離させないこと。
その力もない子どもに向かって、「もっと勉強しなさい!」「こんなことで、どうするの!」「AA中学校へ、入るのよ!」では、結局は、苦しむのは、子ども自身ということになる。
(はやし浩司 現実自己 自己概念 世間的自己 世間体)
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自我の同一性(アイデンティティ)の構築に失敗すると、
いろいろな場面で、不適応症状を示すようになります。
「こんはずではない」「これは私のしたいことではない」と。
それが進むと、自我の不一致が起こり、さらに進むと、
自我の崩壊が始まります。
最悪のばあいは、無気力症候群に襲われ、ニタニタと
意味のない笑いだけを浮かべながら生活する、など。
では、どうすればよいのでしょうか。
自我の同一性を確立するためには、どうすればよいのでしょうか。
それが「私らしく生きる」ということになります。
つぎの原稿がそれですが、一部、内容がダブりますが、
許してください。
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●私らしく生きるために……
●不適応障害
「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろうか。実際には、少ないのでは……。
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「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自己概念」という。
しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く理想像とは、ほど遠い。そういうことはよくある。
その現実の自分を、「現実自己」という。
この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を確信することができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができる。そうでなければ、そうでない。
不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではすまない。心の状態も、きわめて不安定になる。
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Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両親は、その地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。
が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになっていた。ここでAさんの夢は、大きく崩れた。
Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。とたん、つまり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて不安定になった。
良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。
毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。
……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。
(こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がうまくかみあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。
しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、そこで不適応症状が現れる。
不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、ささいなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。
私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、進学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望していたのだが、それが、文学部へ。大転身である!
その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければならななかった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。
……ということで、典型的な例で、考えてみよう。
Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育てられた。夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえした。
が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存在だった。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、進学指導の三者面談が、始まった。
最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だった。「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、がんばっているつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。
それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数日後、Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非行コース。
(夜遊び)→(外泊)→(家出)と。
中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになっていた。こうなると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業中でも、先生に叱られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。
このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現実の自分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、どうでもよい。ともかくも、食い違ってしまった。
ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。
「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すばらしいとは思ってくれない。
「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分を否定するCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入っていてしまう。
こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それはたとえて言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなものではないか。
一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。
当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、父親ですら、Cさんには何も言えない状態だという。
日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言いかえると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。
得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの心をバラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがままに育てていくということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保っている状態をいう。
具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理をしなくていい」という育て方をいう。
子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。
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「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあわせなければならない。
簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生きがいを見つけ、その目標に向って、進んでいくということ。
子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢や希望にそって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)
(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。
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子どもの自尊感情を育てるためには、どうしたらよいか?
もうそろそろその輪郭が見えてきたことと思います。
しかしこれは何も、子どもだけの問題ではありませんね。
私たちおとなも、実は、自尊感情のあるなしで、
毎日、悩み、もがいているのです。
もう一度、自己概念について考えてみたいと思います。
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●自己概念
「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。
この自己概念は、正確であればあるほどよい。
しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。
一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。
こんなことがあった。
ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。
「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。
つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。
事実、その通りだから、反論のしようがない。
で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばらしい女性になりますよ」と。
ここで自己概念という言葉が、出てくる。
私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。
しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。
みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。
……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえていく必要があるということ。
その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。
その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。
(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。
しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。
たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。
もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。
あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要なことである。
ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)
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そこで登場するのが、『マズローの欲求段階説』です。
「私は私らしく生きたい」。
そのためには、どうすればよいのか。
ポイントは、「現実的に生きる」ということです。
この(現実性)を喪失すると、おとなも、子どもも、
非現実的な世界で生きるようになります。
昨今のスピリチュアル・ブームも、その流れの中に
あると考えてよいでしょう。
(自我の同一性の確立ができない)→(現実から逃避する)
→(非現実的な世界に生きようとする)、と。
生き方のひとつのヒントになると思いますので、
紹介します。
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【私らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)
●第1の鉄則……現実的に生きよう
●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう
●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう
●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう
●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう
●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう
●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう
●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう
●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう
●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●マズローの欲求段階説
昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きることの重要性をあげている。
しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうときは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意味がわかってくる。
現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まって、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。
ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよりは、人間の力には、限界がある。
その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。
だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつもその(限界)と戦わねばならない。
たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦しむ。
いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。
現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底なしに深い。
●あるがままに、生きる
ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言ってはならない。
と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。
私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それをいちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離してしまう。
そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。
だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るためでもある。
私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。
私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思っている人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなのか? 私にどういう関係があるのか。
あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きることを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。
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では、どうすれば、私は私らしく生きることが
できるか。
子どもは、子どもらしく生きることができるか。
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●自然で自由に生きる
不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともかくも、思考については、とくに、そうである。
思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこになり、融通がきかなくなる。
しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、まず、ないということ。
つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。
そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。
おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばらしいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。
おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはいけない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。
それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
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しかし現実には、子どもの自尊感情を
傷つけるだけではなく、破壊する親も少なくないですね。
破壊しながら、破壊しているという事実にすら、
気がついていない。
それについて書いたのが、つぎの原稿です。
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● 親の希望 vs 現実の子ども
親が、心の中で希望として描く、子ども像。これを(子ども概念)と呼ぶ。一方、そこには、現実の子どもがいる。それを(現実子ども)と呼ぶ。心理学でいう、(自己概念)と、(現実自己)という言葉にならった。
そこで私は、この(子ども概念)と(現実子ども)のほかに、もう一つ、(世間評価)を加える。これも、(自己概念)と(現実自己)のほかに、もう一つ、(世間評価)を、加えたことに、まねる。他人から見た子ども像ということで、「世間評価」という。
親が、「うちの子は、こうであってほしい」と願いながら、心の中に描く、子ども像を、(子ども概念)という。
勉強がよくできて、スポーツマンで、よい性格をもっていて、人にも好かれる。集団の中でもリーダーで、できれば、ハンサム。自分という親を尊敬してくれていて、親の相談相手にもなってくれる……、と。
しかし現実の子どもは、そうでないことが多い。問題だらけ。園でも学校でも、何かとトラブルをよく起こす。成績もかんばしくない。できも悪い。性格もいじけているし、反抗ばかりしている。このところ、勉強、そっちのけで、遊んでばかりいる。
しかし子どもの姿というのは、それだけでは決まらない。親が知らない世界での評価もある。家の中では、ゴロゴロしているだけ。生活態度も悪い。親を親とも思わない言動。しかしスポーツクラブでは、目だった活躍をしている、とか。
こういうケースは、よくある。
そこで、(子ども概念)と、(現実子ども)が、それなりに一致していれば、問題はない。(子ども概念)と(世間評価)も、それなりに一致していれば、問題はない。しかしこの三者が、よきにつけ、悪しきにつけ、距離を置いて、遊離すると、そこでさまざまな問題を引き起こす。
【例1】(以下の例は、すべてフィクションです。実際にあった例ではありません。)
ある日、小学1年生になったS君のバッグの中を見て、私は驚いた。そうでなくても、これから先、たいへんだろうなと思っていた子どもである。今でいうLD(学習障害児)であったかもしれない。そのバッグの中には、難解なワークブックが、ぎっしりと入っていた。
このケースでは、親は、S君に対して、過大な期待を抱いていたようである。そのため、「やらせれば、できる」という信念(?)のもと、難解なワークブックを、何冊も買いそろえた。そして毎日、S君が学校から帰ってくると、最低でも、2時間は、勉強を教えた。
このS君のケースでは、ここでいう親が心の中で描く(子ども概念)と、(現実子ども)が、大きくかけ離れていたことになる。
【例2】
B君は、中学1年生。勉強は嫌い。ときどき、学校もサボる。しかし小学生のときから、少年野球クラブでは、ずっと、レギュラー(ピッチャー)を務めてきた。その地区では、B君にまさるピッチャーはいなかった。
年に4回開かれる、地区大会では、B君の所属するチームは、たいてい優勝した。市の大会で、準優勝したこともある。
しかし母親との間では、けんかが絶えなかった。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。あるとき、母親は、「勉強しなければ、野球チームをやめる」とまで言った。が、B君は、その夜、家を出てしまった。B君が、6年生のときのことである。
中学生になってから、B君は、部活に野球部を選んだ。しかしその直後、B君は、監督の教師と衝突してしまい、そのまま野球部をやめてしまった。B君が、グレ始めたのは、そのときからだった。
このB君のケースでは、(子ども概念)と(現実子ども)は、それほど遊離していなかったが、親が子どもに対してもっている(子ども概念)と、(世間評価)は、大きくズレていた。
【例3】
私の実家は、以前は、いくつかの借家をもっていた。その中の一つは、表が駐車場で、裏が一間だけの家になっていた。
その借家には、父と子だけの二人が住んでいた。母親は、どうなったか知らない。が、その子というか、高校生が、国立大学の医学部に合格した。父親は、酒に溺れる毎日だったという。
しばらくしてその父子は、その借家を出たが、私は、その話を、母から聞いて、心底、驚いた。借家を訪れてみたが、酒のビンがいたるところに散乱していた。
私が、「どんな子どもでしたか」と近所の人に聞くと、その人は、こう言った。「本当にすばらしい息子さんでしたよ。毎日、父の酒を買うために、自転車で、酒屋へ通っていました」と。
この父子の関係では、父親に、そもそも(子ども概念)があったかどうかは、疑わしい。放任と無責任。しかしその子どもの(現実子ども)は、父親のもっていたであろう(子ども概念)を、はるかに超えていた。(世間評価)も、である。
【例4】
新幹線をおりて、バスで、友人の家に向かうときのこと。うしろの席で、あきらかに母と娘と思われる二人が、こんな会話を始めた。母親は、45歳くらいか。娘は、20歳そこそこ。母親というのは、どこかの大病院の院長を夫にもつ、女性らしい。どうやら、娘の結婚相手をだれにするかという相談のようだった。
母親「Xさんは、いい人だけど、私大卒でしょう。出世は望めないわね」
娘「それにXさんは、もう30歳よ」
母親「Yさんは、K大学で、4年間、講師をしていたそうよ。でもね、ああいう性格だから、お母さんは、薦めないわ」
娘「そうね。同じ意見よ。あの人は、私のタイプじゃないし……」
母親「Zさんは、どう? 患者さんの評判も、いいみたいだし……」
娘「そうね、一度、Zさんと、食事をしてみようかしら。でもZさんには、もう恋人がいるかもしれないわ」と。
話の内容はともかくも、二人の会話を聞きながら、私は、いい親子だなあと思ってしまった。呼吸が、ピタリとあっている。
最後のこのケースでは、母のもつ(子ども概念)と、(現実子ども)は、一致している。大病院の後継者を、二人でだれにするか、相談している。このばあいは、(世間評価)は、ほとんど、問題になっていない。
ふつう、この三者が、ともに接近していれば、親子関係は、スムーズに流れる。しかしこの三者が、たがいに遊離し始めると、先に書いたように、親子関係は、ギクシャクし始める。
何が子どもを苦しめるかといって、親の高望み、つまり過剰期待ほど、子どもを苦しめるものは、ない。
一方。その反対のこともある。すばらしい子どもをもちながら、「できが悪い」と悩んでいる親である。こういうケースは、少ないが、しかしないわけではない。
そこであなた自身のこと。
あなたは今、どのような(子ども概念)をもっているだろうか。そしてその(子ども概念)は、(現実子ども)と一致しているだろうか。もし、そうならあなたは、今、すばらしい親子関係を築いているはず。
が、反対に、そうでなければ、そうでない。やがて長い時間をかけて、あなたの親子関係は、ギクシャクしたものになる。気がついてみたら、親子断絶ということにもなりかねない。一度、(世間評価)も参考にしながら、あなた自身のもっている(子ども概念)を、修正してみるとよい。
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子どもの自尊感情を育てるために、
家庭教育はどうあったらよいのか。
それについて書いたのが、つぎの
原稿です。
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【特集・子どもの自尊感情を育てるために】
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子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?
そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織ということになる。
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●やる気論
人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。
この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。
たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。
サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。
つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけである。
そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。
そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。
最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたとしよう。
そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつようになる。
あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。
心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言葉もある。
つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割には、効果があがらないということになる。
このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。
何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。
このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。
ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同じような作用があるという。
「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。
わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるということ。
そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。
これはたいへん重要なことである。
というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。
実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。
たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静かに待つ。
(このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)
しかしカテコールアミンとは何か?
それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせているその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)
【補記】
一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)
それにはいくつか、理由がある。
勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。
あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。
本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親は、パニック状態になってしまう。
かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)
【補記】
子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期に、それに気づき、対処するのがよい。
私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。
しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。
大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないということ。
+++++++++++++++++++++++
もうおわかりのことと思います。
自尊感情とやる気は、紙にたとえるなら、表と裏のような
ものです。
自分を肯定的にとらえるところから、やる気は生れ、
そのやる気が、また自尊感情を育てていきます。
では、どうすればよいか。
ここに書いたように、「ほめる」です。
ほめて、ほめて、ほめまくる。
それだけでよいのです。
子どもは、(おとなもそうですが)、ほめることによって、
前向きな姿勢をもつようになります。
たとえば子どもがはじめて、文字らしきものを書いたら、
すかさず、ほめる。
へたでも、読めなくても、それでもほめる。
「すごいわね!」と。
そして子どもの書いたものを、一生懸命、読んであげる。
そのとき子どもの脳の中で起きる反応については、
ここに書いたとおりです。
で、こうした方向性をつくるのは、時期的には、
少年少女期に入る前、年齢的には、4・5~5・5歳まで
ということになります。
つまりこの時期までの教育が、きわめて重要だという
ことです。
小学校1年生で、「84%」しかいないことに驚いた
私の気持ちを理解していただけましたか?
言いかえると、すでにこの段階で、16%の子どもが、
自分を見失っている?
本来なら、この時期なら、100%が、そうであっても
おかしくないのです。
「ほら、音楽教室!」
「ほら、英語教室!」
「ほら、体操教室!」と、子どもを追い立てることによって、
子どもの心をつぶしていることに、じゅうぶん、注意して
ください。
今、年中児でも、ハキがなく、集団の中でも、グズグズしている
子どもが、5~6人に1人はいます。
中には、そういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解して
いる親さえいます。
おかしいですね。
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(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
現実自己 自己概念 自己の同一性 自我の同一性 やる気 マズロー 欲求段階説
はやし浩司 自尊感情 ほめる 強化の原理 弱化の原理 不適応 不適応障害
燃え尽き 無気力 現実逃避 スピリチュアル スピリチュアルブーム はやし浩司
現実逃避する若者 現実逃避する子供)
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