Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, April 30, 2009

*What is a shame for us?

●恥(はじ)論

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「恥」をもって、これこそが日本が世界に誇る、精神的美徳であると説く人は多い。
「恥を教えれば、学校からいじめがなくなる」と説く学者もいる。
しかし本当に、そうか?
そう考えてよいのか?

そのルーツといえば、封建時代の、あの武士道である。
それ以前のことは知らないが、「恥」が、日本の文化の中で立場を定着したのは、
そのころである。

が、封建時代を美化してはいけなのと同じように、「恥」なるものを、
けっして美化してはいけない。
ほんの5~6%の武士階級(=特権階級)の人たちにとっては、住みやすい
世界だったかもしれないが、あの時代は、世界の歴史の中でも、
類を見ないほど暗黒の時代であった。
それを忘れてはいけない。

それだけではない。
話は飛躍するが、「自立」と「恥」は対立関係にある。
自立できない人ほど、その一方で、恥にこだわる。
恥が日本人の精神的バックボーンであるとするなら、日本人は、それだけ
自立できない、つまりは未成熟な民族ということになる。

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●子どもの自立

満4・5歳を過ぎると、子どもは、急速に自立をめざす。
幼児期から少年期への移行期へと入る。
この時期、子どもは、まさに(ああ言えば、こう言う)式の反抗を繰り返すようになる。

母「玄関から、新聞を取ってきて」
子「自分のことは、自分でしな!」と。

子どもは生意気になることで、おとなの世界をコントロールしようとする。
けっしておとなの優位性を、頭から押しつけてはいけない。
おとなは、ときに子どもに負けたフリをしながら、かつ、バカなフリをしながら、
子どもに自信をもたせる。
それが子どもの自立を促す。

●権威主義

が、中には、子どもの反抗を許さない親がいる。
子どもが何かを口答えしただけで、「何よ、親に向って!」と。
たいていは権威主義的なものの考え方をする親と考えてよい。
しかし親が、親風(=悪玉親意識)を吹かせば吹かすほど、子どもは委縮する。
萎縮するだけならまだしも、子どもは、親に「飼殺されたような状態」になる。

たとえば親の優位性を押しつけすぎると、子どもは、(1)権威、権力に従順になる、
(2)ものの考え方が復古主義的になる、(3)「型」にはまった考え方をするようになる、
(4)保守的な生き方をし、非冒険的な生活を好むようになる、(5)依存性が強くなり、
ものの考え方が服従になったり、卑屈になったろする。

が、最大の特徴は、(5)見え、体裁、メンツにこだわり、その結果として、「恥」をより強く意識するようになる。

「世間に顔向けができない」
「世間体が悪い」
「世間が笑う」と。

●世間的な自己評価

「私は私」「あなたはあなたは」という生き方の中で、子どもは自立する。
私がどんな人間であっても、構わない。
あなたがどんな人間であっても、構わない。
大切なことは、「私は私で生きる。そしてその分だけ、相手は相手として認める」。
それが「自立」である。
「自律」と言い換えてもよい。

が、「恥」を気にする人は、常に、周りの人たち、つまり世間的な自己評価を気にする。
わかりやすく言えば、他人の目の中で生きる。
しかしこれが実に愚かな生き方であるかは、ほんの50年前を知ればわかる。

たとえば私たちが子どものことのこと。
たとえば「役者」という職業は、番外と言ってもよいほど、「恥ずかしい職業」という
ことになっていた。
あるいは家族の中に、何か障害をもった人(子ども)がいたりすると、その家族は、
必死になって、それを隠そうとした。
私が幼稚園の講師になったときも、母は、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。
「浩ちゃん、あんたは道をまちがえたア!」と。

しかしこんなものの考え方は、日本が誇るべき精神的美徳でも何でもない。
幼稚性の表れ、そのものとみる。

●恥ずかしいから、やめよう(?)

もちろん「恥」にも、いろいろある。
「個人の恥」
「家の恥」
「社会の恥」などなど。

こうした「恥」という言葉を使うときは、つねにそこに第三者的な目を想定する。
最近でも、韓国のある新聞に、こんな記事が載っているのを知った。

いわく、「……(韓国人は)、平気で道路につばや痰を吐く。
こうした行為は、(先進国の仲間入りをしようとしている国としては)、恥かしい」と。
今日も、「元大統領、事情聴取、韓国の恥」という見出しをかかげていた新聞があった
(5月1日)。

このばあいは、(外国)という国を意識しながら、「恥ずかしい」と言っているのがわかる。
しかしだからといって、同じ国民に向って、「ツバを吐くのは恥ずかしいからやめよう」と
言うのは、越権行為もはなはだしい。
いらぬ節介。

大切なことは、自分たちの国がまだそのレベルであることを認め、全体として文化を
高めること。
その結果として、みなが、ツバや痰を吐かなくなる。

言いかえると、恥を感ずるたびに、破れた衣服にパッチをあてていても、問題の
解決にはならないということ。
個人についても、同じ。

●大切なのは反省

「何をしてもよい」ということは、けっして、「他人に迷惑をかけてもよい」ということ
ではない。
そんなことは常識で、「恥」という言葉を改めて出すまでもない。
で、ゆいいつ「恥」という言葉が生きる場所があるとするなら、それは「自分に対しての
恥」ということになる。
が、それとて、「後悔」もしくは、「自責の念」という言葉で、置きかえることができる。
「恥は、日本が誇るべき精神的美徳」と、無理に結びつける必要はない。

むしろ「恥」という言葉を先に使うことで、かえって「反省」そのものが、どこかへ
吹っ飛んでしまうことさえある。
たとえばあなたが何かの破廉恥罪を犯したようなばあいを考えてみよう。
電車の中で痴漢行為か何かを働いたようなばあいである。

逮捕され、新聞などに報道されれば、たしかに恥ずかしい。
しかしこのばあいも、「恥」が先に立ってしまうと、反省が後回しになってしまう。
大切なのは、「恥」ではなく、「反省」である。
それがわからなければ、痴漢行為はしたが、発覚しなかったばあいを考えてみればよい。
「恥」だけを考えていたとしたら、あなたは「うまくやった」と喜ぶことになる。
発覚しなかったから、「よかった」、発覚したから、「恥ずかしい」というのは、
あまりにも無責任。
言いかえると、あなた自身が、どこにもない。

●自分に対する恥

もちろん中には、自分のした愚かな行為について、自らに恥じる人もいるかもしれない。
しかしそれとて、その人がより高い境地になったとき、はじめてできることであり、
そうでなければ、自分に恥じるということは、ありえない。
たとえば痴漢行為にしても、自分がより高い境地になったときはじめて、「私は愚かなこと
をした」とわかるようになる。
そのときそれがわかるということはない。
わかれば、そうした行為はしないはず。
つまり発覚する、発覚しないというのは、別次元の話。
発覚しなくても、恥じる人は、恥じる。

そこで「自由論」!

●自由論

長々と話したが、要するに、「恥」という言葉を使うときは、そこにいつも他人の
目がある。
他人の目を意識して、「恥」という。
が、他人の目など、ぜったいに行動の規範にはなりえない。
また行動の規範にしてはいけない。
繰り返すが、「私は私」「あなたはあなた」である。
一言でいえば、「自由」。

その「自由」とは、「自らに由(よ)る」という意味である。
「自分で考え」「自分で行動し」「自分で責任を取る」。
この3者を合わせて、「自由」という。

その自由が達成できたら、(もちろん犯罪は別だが……)、私がどんな私であっても、
またあなたがどんなあなたであっても、私は私、あなたはあなたで、生きていけばよい。
自立というときの「自立」、自律というときの「自律」というのは、それをいう。

さあ、あなたも叫んでみよう。
「恥なんて、クソ食らえ!」と。
子どもに対しては、「あなたはあなた」と教える。
すべてはそこから始まる。

(以上、未完の原稿ですが、一度、このままBLOGに掲載します。)

(付記)

私自身は、「恥」という言葉を生涯にわたって、使ったことはない。
そんな言葉など知らなくても、何も不都合なことはない。
私は私で、それなりにちゃんと生きている。
が、もし「恥ずかしい」と思うようなときがあれば、こんなときだ。

若い母親たちが参観している教室で、立った拍子などに、ブリッと、
おならが出てしまったような場合。

そういうときは、内心では「恥ずかしい」とは思うが、私は知らぬ
顔をしてレッスンをつづける。
「気がついたかな?」「ほかの音とまちがえてくれたかな?」と
思いながら、レッスンをつづける。

つまり「恥」というのは、もともとそのレベルの話。
そのレベルを超えることはない。
少なくとも「日本が誇るべき……」などというレベルの話ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
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