Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, May 14, 2011

●マガジン過去版(8)

件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子育ての限界

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03-12-14号(332)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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2月21日・細江町「教育のつどい」にどうか、おいでください!
全力を尽くします!
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto797

●親子とは

 東洋では、「縁」という言葉を使う。「親子の縁」というときの縁である。今でもこの日本では、その縁という言葉を使って、子どもをしばることがある。

ある男性(四五歳)は、母親(七六歳)に貯金通帳を預けておいたのだが、その母親は勝手にその通帳からお金を引き出し、全額、自分の借金の返済にあててしまった。その男性(四五歳)が、たまたま半年あまり、アメリカへ行っている間のできごとだった。

帰国後それを知ったその男性は、母親に、「親子の縁を切る」と迫ったが、母親はこう言ったという。「親が先祖を守るために、息子の金を使って何が悪い! 親子の縁など切れるものではない!」と。

しかしその事件があって、その息子は親との縁を切った。一〇か月近くも苦しんだあとの結果だった。今年五〇歳になるその男性はこう言う。「母はその一〇か月の間、ほとぼりを冷まそうとしたのですが、私のほうはその一〇か月で心の整理をしました」と。

 その男性は、親子であるがゆえに悩んだ。苦しんだ。この事件だけで親子とは何かを定義づけることはできないが、しかしこれだけは言える。

いろいろな家族がいる。そしてその中身も人それぞれによって違う。しかし最後の最後に残るのは、純粋な人間関係のみである、と。

あなたが親なら、いつかあなたは自分の子どもを一人の人間としてみるときがくる。一方、あなたの子どももあなたをいつか、一人の人間としてみるときがくる。そのとき互いにそういう「目」に耐えられるなら、それでよし。そうでなければ、親子といえども、その関係はこわれる。決して永遠のものでも、不滅のものでもない。またそういう幻想に甘えてはいけない。そういう意味で、親が親であるのは、たいへんきびしいことでもある。

 とくにこの日本では、親子の関係がどうしてもドロドロしがちである。「ドロドロ」というのは、互いの「私」が、そのつど入り混じり、どこからどこまでが「私」で、どこからどこまでが「私でない」のかわからないことをいう。

ここに例としてあげた母親のケースでも、いまだにその母親は息子のその男性に、お金を無心にきたり、関係を修復しようと、あれこれ食べ物などを送ってくるという。その男性はこうつづける。「母は死ぬまで、とぼけるつもりでいるようです。母としてはその方法しかないのでしょうが、私はもう母から解放されたいのです」と。

 親子とは何か。親は子どもをもったときからこの問題を考え始め、そして自分が死ぬまでこの問題を考えつづける。たいていの人は、その結論が出る前に、この世を去る。そうそうあの芥川龍之介は、こう書いている。
 
「人生の悲劇の第一幕は、親子となったときにはじまってゐる」(「侏儒の言葉」)と。ひとつの参考にはなる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ユニバーサルスタジオ

 大阪にユニバーサルスタジオという、巨大な遊園地がある。映画ごとにパビリオンに分かれていて、それぞれが趣向をこらして観客をひきつけている。「ジョーズ」あり、「E.T.」あり、「ターミネーター」あり。正直に告白するが、おもしろかった。が、心のどこかで何かしらの疑問を感じなかったわけではない。

 その一つ。私はたまたま愛知万博の名古屋市パビリオンの懇談会のメンバーをしている。パビリオンの理念を話しあう会である。そういう立場上、何としても愛知万博を成功させたい……という思いはもっている。

しかしあのユニバーサルスタジオを見たとき、その考えは吹っ飛んでしまった。つまり「いまどき、万博なんて……?」という思いにかられてしまった。仮に成功させるとしたら、少なくともユニバーサルスタジオ級でないと、観客は満足しないだろう。

となると、そのためにどういう方向性を出したらいいのか。園内を回りながら、何度もそれを考えたが、回れば回るほど、絶望的にならざるをえなかった。

 つぎに、日本の大都市のど真ん中に、こうまでアメリカナイズされた娯楽施設があってよいものかという疑問。

私は国粋主義者ではない。ないが、しかしここまで「外国」が堂々と日本の中に入っているのを見ると、「これでいいのかなあ」と思ってしまう。

当然のことながら、ユニバーサルスタジオで見るかぎり、日本人は身も心も、そして魂までもが、完全に抜かれてしまっている。アメリカ映画を見て、アメリカ風の食べ物を食べ、これまたアメリカ風のみやげを買う。けばけばしい色の看板、そしてビル。園内を流れる音楽も、これまたロックンロールであったり、ジャズであったりする。

こういうのを見て、当のアメリカ人はどう感ずるだろうか。いや、ほかの国のアジア人でもよい。見ると、韓国や中国、台湾からの観光客が、何割かがそうであるというぐらい目についた。彼らは日本という国を訪れながら、その日本でアメリカを見ているのだ!

 ……こういうとき、あの戦争の話をするのもヤボなことだが、こういう現状を目の当たりにすると、「いったいあの戦争は何だったのか」と、そこまで考えてしまう。三〇〇万人の日本人がそのために死に、同じく三〇〇万人の外国人が死んでいる。「これらの人たちは、いったい何のために死んだのか」と。

 女房は「こういうところは楽しめばいいのよ」と言う。私もそう思う。しかし人生も五〇歳を過ぎると、そうは小回りがきかなくなる。脳みそを、カラッポにして楽しむというわけにはいかない。ときどきため息をつきながら、私は夕方、ユニバーサルスタジオをあとにした。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●大声で笑わせる

 「笑う」ことにより、心は解放される。しかも大声で笑えば笑うほどよい。

「笑う」という行為には、不思議な力がある。言いかえると、大声で笑える子どもに心のゆがんだ子どもはまずいない。反対に、どこか心がつかめない子どもや、どこか心がゆがんだ子どものばあい、大声で笑わせることによって、それがなおることがある。

そのため私は教室では、子どもを笑わせることだけを考えて授業を進める。五〇分一単位の授業だが、五〇分間、笑わせつづけることも珍しくない。もしそれがウソだと思うなら、一度、私の教室へ見学に来てみたらよい。(それにもしここに書いていることがウソなら、今、私の教室にきている父母の信用を失うことになる。)

 笑わせるには、もちろんコツがある。たとえばバカなフリをするときでも、決して演技っぽくしてはいけない。本気で演ずる。本気でドジをする。子どもはこのドジには敏感に反応する。たとえば粘土のボール四個と、四本のひごで四角形を作ってみせる。

そのとき、空中でそれを作ってみせると、そのたびに粘土のボールがポトリと下へ落ちてしまい、うまくできない。そこであれこれ口をつかったりして、苦労してみせる。そのとき私は真剣に四角形を作ろうとするが、うまくできない。(できないことはわかっている。)子どもたちは私が失敗するために、腹をかかえてゲラゲラと笑う。

 「笑われる」ということは、「バカにされた」ということではない。中に、教師というのは、子どもの前では毅(き)然としていなければならないと説く人もいる。実は私の恩師のM先生(幼稚園元園長)がそうだった。女性の先生だったが、いつも私にこう教えてくれた。

「子どもの前に立つときは、それなりの覚悟をして立ちなさい」と。そのためM先生のばあいは、服装の乱れを絶対に許さなかった。先生が子どもたちの前で失敗するなどということも、M先生についてはありえなかった。M先生は、教師の威厳を何よりも大切にした。

 それから三〇年。私の教え方は、その恩師の教え方からすれば、まったく異端なものになってしまった。が、それがよいとか悪いとかいう前に、私は今の私の教え方が自分には合っている。

実のところ、私自身はそのほうが楽しいのだ。つまり教えることで、私も楽しむ。言いかえると、先生が楽しまないで、どうして子どもが楽しむことができるのか。それに私はもともとそれほど威厳のある人間ではない。不完全でボロボロで、そのうえ情緒も不安定。そんな私が偉ぶっても、しかたない。

 私は、子どもたちの笑顔と笑い声が、何よりも好きなのだ!
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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       ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄        掲示板にお書き込みください。

【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

●限界

 人は、だれしも、その限界状況の中で生きている。ギリギリのところというか、あるいは、その範囲の中というか……。

 限界のない人は、もちろん、いない。やりたくても、できないこと。できても、できないこと。できなくて、できないこと、など。

 こうした限界を感じたとき、一義的には、抑圧された不満の中で、人は、悶々とする。苦しむ。二義的には、それと戦う。もがく。しかしやがてそれも一巡すると、その人は、それを受け入れる。あきらめる。

 人の心というのは、不安定な状態には、それほど、長くは耐えられない。だから限界を受け入れ、あきらめることによって、別の安定状態を作ろうとする。

 「やるだけやってみたさ」という、慰め。「やって、まあ、こんなものだ」という、あきらめ。「なるようにしか、ならないさ」という、受け入れ。それがどんな形であれ、そのとき、その人の心は安定する。

 自分のことなら、そういう形で、最終的には、落ちつく。問題は、自分の子どもだ。

 子どもが受験期を迎えると、たいていの親は、言いようのない不安を感ずる。将来に対する心配、身分が安定しない不安。そういうものが、混然一体となって、その親を襲う。「この子は、だいじょうぶだろうか」「このきびしい社会で、ちゃんとやっていけるだろうか」と。

 そのとき親は、自分のことなら、それなりに「限界」がわかるが、子どものこととなると、わからない。可能性も信じたい。能力もあると信じたい。しかしそれがよくわからない。わからないから、よけいに不安になる。心配になる。

 そこで親は、悶々と悩み始める。親自身の学歴信仰もある。親自身も、その親から、そういう子育てを受けている。子育てというのは、そういうもの。代々と、繰りかえす。

 この日本に、学歴社会が、ないとは言わせない。職種によっては、一度、就職したら、死ぬまで安泰というのは、いくらでもある。官僚や、公務員の世界が、そうである。

 そういう不公平を、親たちは、いやというほど、日常の生活の中で感じている。だから、「やはり、そうは言ってもですねえ……」となる。

 加えて、親子の間にカベがない人ほど、子どもの世界に入りこんでしまう。しかしよく誤解されるが、子どもの受験勉強に、かかりきりになる親というのは、真の愛をもっている親ではない。そういう親がもっている愛というのは、代償的愛である。いわば愛もどきの、愛。

 自分の不安や心配を解消するために、子どもを利用しているだけ。言うなれば、身勝手な、まさにストーカー的な愛ということになる。

 そこで親は、声高らかに、こう叫ぶ。「勉強しなさい!」と。「テストは何点だったの!」「こんなことでは、いい高校に入れないわよ!」と。

 こうして親は、ズルズルと、子どもの限界状況の中に、巻きこまれていく。髪をふりかざし、自分を見失っていく。

 ある母親は、こう言った。「息子(中二)のテスト週間になると、お粥しか喉(のど)を通りません」と。また別の母親は、こう言った。「進学塾の、こうこうとした明かりを見ただけで、頭にカーッと血がのぼります」と。

 しかし子どもも、やがてその限界のカベにぶつかる。成績は容赦なく発表され、そのつど、親は、落胆と失望を味わう。そう、今の受験競争の中で、親の期待に答えながら、最後の最後まで、生き残る子どもなど、いったい、何パーセントいるというのか。

 親は、子どもの限界状況の中で、やはり、もがき、苦しむ。そしてそれが一巡すると、親も、その限界を、受入れるようになる。そしてあきらめる。

 それは実におおらかな世界である。静かで、平和な世界だ。そしてそのとき、親は、しげしげと、わが子を振りかえりながら、こうつぶやく。

 「いろいろやってはみたけれど、あなたは、やっぱり、ふつうの子だったのね。考えてみれば、そのとおり。私だって、ふつうの親なのよ」と。

 しかしそこが終わりではない。実は、そこが始まりなのである。親も、そして子どもも、そこを原点として、それまでは上下関係のある親子関係から、対等の友人関係へと進む。たがいにその限界状況の中で、助けあい、励ましあい、なぐさめあって生きていくようになる。

 それが親子というもの。だからあなたも、勇気を出して、「限界」を認めたら、よい。「あなたは、よくがんばっているわ。それでいいのよ」と。

その時期は、早ければはやいほど、よい。一方、へたにあがけばあがくほど、子どもも伸び悩むが、その前に、親子の関係を、粉々に、破壊してしまう。しかしもしそんなことになれば、それこそ、大失敗というもの。

 英語では、日本人なら、「がんばれ!」と言いそうなとき、「TAKE IT EASY!」と言う。「気楽にしなさいよ」と。よい言葉だ。あなたも、あなたの子どもに一度、そう言ってみてはどうだろうか。あなたの心も軽くなるが、あなたの子どもの笑顔も、それでもどってくる。
(031205)

【ワン・ポイント・アドバイス】

 子育てで行きづまりを感じたら、アルバムを開いたらどうでしょうか。そして幼いころの、あなたの子どもの笑顔を見てください。それできっと、あなたも、心が軽くなるはずです。

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●子どもがアルバムに自分の未来を見るとき

●成長する喜びを知る 

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成長していく喜びを知る。それだけではない。

子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なのだ。

一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男児)もいた。

ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。

記憶が記憶として残り始めるのは、満四・五歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。

が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な力がある。

●アルバムの不思議な力

 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見ていた。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つまりアルバムには、心をいやす作用がある。

それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。

それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだったと思う。

●アルバムをそばに置く

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあった。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。

最初は、恩師のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をしているのに、私は気がついた。

そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられていた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシントン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達なため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということになる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわかりやすい。

【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691

【近況アラカルト】

●健康になる

近所に、ひどい腰痛もちの女性がいた。今年、七〇歳になる人である。

 その人は、以前は、会うたびに病院通いをしていた。太った体をもてあましながら、ヨタヨタと歩いていた。

 が、今日、その女性を見て、驚いた。何とその女性が、スタスタと横断歩道を渡っているではないか!

私「おばさんじゃ、ないですか?」
女「あら、林さん!」
私「えらく、元気になってエ? こんなところで、どうしたの?」
女「はあ、そうかねえ」と。

 その女性は、そこから歩いて家まで帰るところだという。距離にして、たっぷり、一キロ以上はある。

私「ここまで歩いてきたの?」
女「運動のためにね。毎日、歩いているよ」と。その女性は、うれしそうに笑っていた。

 ナルホド!

 家に帰って、その話をワイフにすると、ワイフは、「やっぱり、運動はしなくてはいけないわね」と。

 そこで、今日(一二月六日)、近くのスーパーまで、二人で、歩いていってきた。往復の距離は、約四キロ。意気込んででかけたものの、着くころには、膝の関節が、ガクガクした。帰ってくるころには、ヘトヘト。そのままコタツに入って、私は、眠ってしまった。

 ワイフは、テニスで鍛えているから、歩くのには、強い。私は自転車だから、関節への負担に弱い。一時間以上も、つづけて歩いたのは、最近にないことだった。しかし心に決めた。これからは、毎週、一回は、こうして買い物に行くぞ、と。

 しかしあの女性が、こうまで元気になるとは! ダンナさんのほうは、今は、電動の車イスに乗っているというのに! 改めて運動の大切さを、思い知らされた。


●風邪

 夕方から、どうも調子がおかしかった。コタツに入っていると、猛烈な眠気に襲われた。で、そのあと、頭がフラフラし始めた。風邪である。

 少しがまんして、起きていた。が、それがよくなかった。早めに寝たものの、夜中に、頭痛。体がほてり始めた。そこで起きて、風邪薬をのむことにした。

 私は、胃はじょうぶなほうだが、薬には弱い。薬だけをのむと、たいてい胃がやられる。そこでサンドウィッチをつくって、食べる。それにのども痛い。うがいをする。

 静かな夜だ。このまま起きていたい気もするが、やはり、おとなしく、寝ることにした。


●思想

 風邪のせいだと思うが、このところ、何も、新しい思想らしきものが、わいてこない。ただぼんやりとしているだけ。

 何となく頭の中がモヤモヤするが、それだけ。ただおかしなもので、習慣というか、起きると、そのままパソコンの前に座ったりする。そして何かを書くわけではないが、キーボードの感触を楽しんだりする。

 パソコンというのは、キーボードが大切。意外と見落としがちなところだから、注意したほうがよい。見栄えだけで選ぶと、あとで後悔する。

 ところで昨夜、気がついたが、やはりキーボードは、白地がよい。少し暗いところで作業を始めたが、暗いところだと、黒いキーボードの文字がよく見えない。最近のパソコンは、「白」が主体になっている。よいことだ。


●一般保護エラー

 少し前、保護エラーについて書いた。パソコンをたちあげると、すぐ、「一般保護エラー」と表示されてしまう。

そこで指示に従って、再起動をかけると、今度は、セーフモードで。が、それでなおるわけではない。何度も、同じ作業を繰りかえす。そして一〇回のうち、一回ぐらいの割合で、正常に、動き出す。

 いろいろ調べてみた。が、原因がやっとわかった。

 以前、N社製のアンチ・ウィルス・ソフトが原因ではないかと書いたが、それはまちがいだった。

 P社製の、このノートパソコンは、CDが、着脱式になっている。そのせいなのだろう。同時に、スマートメディアのカード・リーダーや、USB経由で、CDRをつけたりすると、とたんに、動作が、おかしくなる。

 そこでデバイス・マネージャー(トップ画面のマイ・コンピュータを右クリック→プロパティ→)を調べてみると、CDのところに、おかしな文字化けしたデバイスが!

 これを削除して、再起動をかけると、安定した動きになった。要するに、デバイスどうしが、たがいに、喧嘩(けんか)をしていたらしい。

 このことを、ワイフに話すと、「パソコンって、デリケートなのね」と。ホント! 私もそう思う。

 そこで教訓。このところ、便利な新機能を、あれこれつけたパソコンが売りに出されている。しかしそういうパソコンは、できるだけ、購入を避けたほうがよい。

新機能であるだけに、まだじゅうぶん、機能の安定性が確認されているわけではない。「新機能には、難あり」と、覚えておくとよい。ちなみにP社製のこのパソコンは、P社としては、はじめての、CDが着脱式のパソコンだった。


● 細江町の「教育のつどい」

来年(〇四年)の二月二一日(土曜日)、浜松市北部の細江町で、「教育のつどい」が開かれる。その「つどい」の講師として、招かれた。教育委員会はもとより、小中学校、地域の各団体の人が集まってくれるという。

 こうした講演会が入ると、その節目、節目で、大きな励みになる。「そのときまでに、何か新しいことを発見してやろう」という気持になる。そしてその日に向けて、その日、ギリギリまで、原稿を書きつづける。

 といっても、講演に来てくれる人は、ほとんどが、その日がはじめて。だから私は、「私」の中でも、初級的なことを話さねばならない。(「初級」といっても、「軽い」という意味ではない。)

 そこで技術的には、初級的な「私」を話しつつ、その中に、最近、発見したことを織りまぜていく。しかしここでも問題が起きる。専門用語を使いすぎるのもよくないし、かといって、くだらない話もよくない。有名人で、大きな業績のある人なら、それでもよいが、私のばあいは、それでは許されない。つまり、その分だけ、いつも真剣勝負ということになる。

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 二月二一日に向けて、目標ができました。浜松市の方も、自由に参加していただけると思いますので、聞いてもよいと思ってくださる方は、どうか、おいでください。

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細江町「教育のつどい」
  テーマ「みんなで育てよう、細江の子」

  二月二一日(土曜日) 午前10:30~11:40

    主催……細江町教育委員会、町議会議員、青少年問題協議会委員、社会教育委員
        子どもを育てる会関係者、家庭学級生、PTA関係者、自治会役員、
        民生児童委員、幼稚園、小・中学校教員ほか

        問合せ先……053-523-3116、細江町社会教育課

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●キジバト、その後

 庭へ、相変わらず、キジバトが、エサを食べにくる。しかしいつも、親バト一羽のみ。本来なら、ピー子(子バト)も、いっしょでなければならないはず。しかし、いない……?

 このところ親バトを見るたびに、ワイフと、こんな会話をする。

私「ピー子を見たか?」
ワ「見ないわ……」
私「どうしたのだろう?」
ワ「だいじょうぶだろうか?」と。

 この時期、子バトは、親バトから、エサの取り方を学ぶはず。いきなり、親離れということは、ない。しかし子バトには、外敵がたくさん、いる。

 犬や猫、それにカラス。このあたりには、イタチも住んでいる。小鳥にとって、決して、住みやすい環境ではない。

私「親バトは、子どもをなくした悲しみを、どうやって乗り越えているのだろう?」
ワ「……。やっぱり、悲しさは、同じだと思うわ」
私「そうだな。どんな動物にも、感情がある。とくに鳥などは、人間よりすぐれた感情をもっているかもしれない」
ワ「しかし、いちいち悲しんでいたら、鳥も、生きていかれないわ。そういう世界で、生きているから」と。

 人間のばあい、子どもをなくした悲しみを、乗り越えられない人は、いくらでもいる。子どものころ、一人息子を、川でなくした母親がいた。その母親は、そのあと、廃人のようになってしまった。同級生の母親だっただけに、強く、印象に残っている。

 この話で思い出したが、その同級生を、川へ連れていったのが、その同級生の隣に住む男の子だった。その男の子もまた、私の同級生だったが、それからしばらくして、その男の子の一家は、別の場所に、引っ越していってしまった。とても、いっしょには、住めなかったのだろう。

 さらにその男の子というのは、どういう縁か、私が住んでいる浜松へやってきた。そして、数年前、肺がんでなくなってしまった。たいへんなヘビースモーカーで、一日に、二箱程度の、タバコを吸っていた。

 この年齢になると、いろいろなドラマの、始まりと、終わりを見ることができる。人間が織りなす、ドラマだ。親バトを見ながら、ふと、そんなことを考えた。


●山荘

 昨日(土曜日)は、風邪のため、山荘へは行けなかった。そこで今日(日曜日)に、行くことにした。まだ風邪が抜けていないから、今日は、山荘で、ビデオを見るつもり。昨日、ビデオショップで、新作の「ザ・コア」というのを、借りてきた。

 私は高校生のときから、SF(空想科学)小説が大好きで、ある時期は、SF小説ばかりを、むさぼり読んでいた。

 当時のSF小説は、最近のとは違って、SF冒険小説のようなものが多かった。ほかの惑星へ行って、そこに住む異性人や、怪獣と戦うというものだった。今でもあるかどうかは知らないが、「早川」という出版社が、その種類の本を、たくさん出版していた。

 「ザ・コア」も、そのSF映画である。しかし、話は、少し、深刻。

 地球内部のマグマの動きが止まり、地球の磁場がなくなるという想定で、この映画は始まるらしい。磁場がなくなれば、地球を囲む、バンアレン帯などが消え、そのため宇宙から有害な放射線が、雨のように地上へ、降り注ぐことになる。そうなれば、人類はもちろん、あらゆる生物は、絶滅の危機に瀕する。

 しかも、それはSFの世界の話でなく、本当に、近未来に起こりうることだというのだ。現に今、地球の磁場は、年々、弱くなりつつあるという。そしてやがて、南極と北極がいれかわるというが、そのとき、磁場がゼロになるという。

この映画は、そうした事実と推定を基本にしている。どんな映画かは知らないが、前評判は、それほど悪くない。この原稿を発表するときは、そのビデオを見終わっているはずだから、★の数を、報告できると思う。

(しかし風邪気味のときは、ビデオのはげしい動きに、目がついていけないときがある。まあ、がんばって見てみるか!)

【ビデオを見て……】
 
 わかったような、わからないような専門用語を並べた、まあ、ありえない(つまり科学的に矛盾だらけの)、映画としては、二流。判定は、ワイフは……★★★。私は……★★。途中で、あくびが出てきてしまった。(★五つが、満点)

 ブルース・ウィルス主演の、「アルマゲドン」とよく似た映画だが、「こうすれば、観客がハラハラするだろう」「こうすれば、観客が喜ぶだろう」という、隠された意図が見えみえ。(かなりきびしい結果が出てしまって、すみません。)

 見終わったあと、ワイフが、こう言った。「今度は、『ソラリス』を見てみない」と。

 『ソラリス』は、三〇年ほど前、一度、映画化されている。私も一度見たが、その映画は、おもしろかった。


● おとなの優位性

今週の幼児教室は、「文字」をテーマにした。そのときのこと。

年中児のクラスでは、「戦いごっこ」をした。戦いごっこというのは、私が、プロレスのレスラーがかぶるようなマスクをかぶり、子どもたちと戦うというもの。一通り、コスチュームは、上から下まで、そろえてある。

 しかしこれは、決して、「遊び」ではない。

 幼児教育で大切にしなければならないのは、おとなの優位性を、決して、子どもに、一方的に、押しつけてはいけないということ。押しつければつけるほど、子どもは服従的になる。そして一度、服従的になった子どもは、ほぼ、一生、そのままの状態で、生涯を終える。

 決して、おおげさなことを言っているのではない。

 もともと日本の教育は、権威、つまり、おとな(教師)の優位性を見せつけることを、目的としてきた。明治以来、「従順で、もの言わぬ国民」づくりが、教育の「柱」になっている。

 もちろん教育には、ある程度の権威が必要である。それがないと、「教育」としての、「まとまり」ができなくなる。しかし、それにも程度がある。

 そこで、時には、こうした戦いごっこをする。そしておとな(教師)のほうが、子どもに、負けてみせる。「ごめん、ごめん、君は、強いね」と。

 この方法は、どこか自信をなくしている子どもに、とくに有効である。一、二度してやると、子どもは、生きかえったように元気になる。これも、私の得意芸の一つである。

 ここで「生涯」という言葉を使ったが、「生涯」である。生涯にわたって、権威主義的なものの考え方をしたり、人間を、いつも、「上下」で判断したりするようになる。自分より偉い人には、必要以上にペコペコし、そうでない人には、いばってみせる。

 もちろん本人が、それに気づくことは、まず、ない。本人にとっては、たいていのばあい、それが、人生観そのものになっている。何も考えず、「水戸黄門、大好き」と、テレビを喜んで見ている人は、ほぼこのタイプの人とみてよい(失礼!)。

 子どもが服従的になるかならないかは、幼児期の教育によるところが、大きい。この時期の教育によって、決まる。しかしこの先のことは、親である、あなたが決めればよい。

 あなたの子どもを、あなたに対して従順で、おとなしい子どもにしたかったら、今、徹底的に、おとなの優位性を見せつけておくこと。しかしあなたの子どもを、独立心が旺盛で、「私は私」と思うような子どもにしたかったら、優位性を押しつけるのを、控えめにしたらよい。

(風邪で、調子が悪かったが、少し、調子が、もどってきたようだ。ああ、よかった!)


● おとなの優位性(2)

権威の否定イコール、軽蔑ということではない。

「親の権威は、必要」と説く人は、今でも、多い。そこで私が、「権威など、必要ない」などと言ったりすると、「君は、親を軽蔑するのか」と、反論したりする。このタイプの人は、頭の中で、こんな親を、その理想像とする。

 父親は、それなりに肩書きのある人だ。地位もある。そして仕事から帰ってくると、まず、居間の座卓の前に、デンと座る。「おい、お茶!」、一言叫ぶと、「ハーイ、ただ今!」と、妻が答える。

 父親は、ゆっくりと夕刊に目をとおし、「おい、メシはまだか!」と言う。それに答えて、妻が、「はい、ただ今」と。「何だ、今日のおかずは?」「はい、サバの煮つけを用意しています」「そうか。で、風呂の用意は、できているか?」「はい」と。

 父親にとっては、居心地のよい世界かもしれない。が、女性にとっては、そうでない。以前、私たち夫婦を見ながら、「ヒロシのワイフは、ヒロシの奴隷みたいだ」と言ったオーストラリアの友人がいた。

で、そういう環境で、日本人の女性たちが反発しているかというと、そうでもない。おかしなことだが、そういう夫でよいと考えている女性も、約二〇%※はいる。「父親には、やはり威厳が必要だ」「妻は、内助の功に努めるべきだ」と。

 しかし権威があるから、尊敬するのでも、また、権威がないから、尊敬しないのでもない。尊敬するとか、しないとかは、もっと、別の話である。いわんや、権威がないから、軽蔑するということにはならない。

 むしろこうした権威は、親子の関係を、ゆがめてしまう。子どもは親の前では、仮面をかぶるようになる。いわゆる「いい子」ぶる。たがいに、心がつかめなくなる。その仮面が、親子の関係を、疎遠にする。それに、江戸時代ならいざ知らず。いまどき、親の権威とは……?

 ある評論家は、こう書いている。

 「私の父には、西郷隆盛のような威厳があった。こんなことがあった。私が、父のひざに抱かれて、食事をしていたときのこと。私が、お茶をこぼして、父のひざをぬらしてしまったことがある。そのとき、父は、『無礼者!』と言って、私を叱った。今の父親たちに求められているのは、そういう親としての威厳である」(雑誌「M」〇一年)と。

 しかし本当に、そうだろうか。

 もともと権威というのは、人をしばる道具としては、たいへん便利なものである。問答無用に、相手をだまらせることができる。が、これからは、そういう時代ではない。また、そうであってはいけない。

 親子でも、その当初から、一対一の人間関係で始まる。もちろん親には、保護者としての役目はある。ガイドとしての役目もある。しかし同時に、親には、子どもの友としての役目もある。その役目を、これからは、もっと、大切にしたい。
(031207)

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※平等には反対?

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いるが、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいるという。

男性側の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(同調査)。

 こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」(一九九八年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。

この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。


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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

K国問題

● アジアの中の最貧国

 K国の子どもたちが、栄養剤の配給を受けている写真が、公表された(〇三年一二月)。K国の赤十字社が、配信したものだと思う。私は、その写真を見て、驚いた。子どもたちがみな、不自然なほどに赤い口紅をつけ、頬(ほお)に色を塗っていた。

 「ここまで小細工をするか!」と。

 今、K国の経済は、燃料と電力不足で、壊滅状態にあるという。数年前ですら、工場の稼働率は、三〇%前後だったという。

「三〇%」という数字が、いったいどういうものか、私にはわからない。単純に考えれば、一〇〇の工場のうち、三〇の工場しか動いていないということになる。あるいは、一日、一〇時間のうち、三時間しか動いていないということになる。

 アメリカからの原油の供給を止められ、食糧生産も、やや好転したとはいえ、〇四年度も、約一〇〇万トン程度、不足するという。さらに子どもの、約三分の一が、栄養失調状態にあるとも言われている。今や、K国は、アジアの中でも、最貧国になってしまった。

●常識のとおらない国 

 取っても、取っても、はりついてくるヒルのよう。いつか私はワイフに、そう話したことがある。K国という国は、私には、そう見える。

 一説によると、拉致(らち)された日本人は、三桁以上、つまり一〇〇人以上いると言われている。あるいは、それ以上かもしれない。拉致されたと考えて、ほとんど、まちがいないと言われている人でさえ、数一〇人はいるという。とても、一〇人や二〇人の話では、ないのである。

 そういう拉致された人を、日本が逆に「返さない?」という理由で、「日本は約束を守らない」と、怒っている。一体、K国の常識は、どうなっているのか? そのことをアメリカ人の友人のJ氏に話すと、J氏は、こう言った。「K国には、常識(コモン・センス)は、ないのだよ、ヒロシ」と。私が、「彼らは、日本とは違った、常識をもっている」と、言ったときのことである。

 そういう国だから、言っていることが、何がなんだか、さっぱり、わけがわからない。国連の場で、突然、日本を「ジャップ」と、呼んでみせたり、「強制連行の調査をせよ」と、叫んでみせたりする。

 何も、むずかしことを言っているのではない。K国に残っている家族と、電話連絡くらいは、させてほしいと言っているのである。あるいは手紙でもよい。どうして、そんな簡単なことすら、させてくれないのか。

●六か国協議
 
 K国の核問題に関しての、六か国協議の開催が遅れている。当初は、この一一月に予定されていたが、一二月になり、さらに、来年の二月になりそうだとも、言われている。

 即刻、核開発を放棄せよと迫る、アメリカ。そしてそれに同調する、日本。「放棄してやるから、見返りをよこせ」と主張する、K国。その間で、アメリカ側にゆれたり、K国側にゆれたりする、韓国。あちこちを飛びまわっている中国。一見、K国よりの姿勢を見せながら、その実、アメリカ寄りの、ロシア。

 K国のねらいは、ただ一つ。アメリカとの間に、不可侵条約(あるいはそれに準ずる条約)を結んだあと、日本を攻撃することである。もちろんそうなれば、日朝戦争ということになる。しかしそうなっても、日本は、K国に、手も足も出せない。日本に隠れている工作員に、福井県にある原発が一基破壊されただけでも、中部地方には、人は、だれも住めなくなってしまう。

 仮に本格的に戦争ともなれば、韓国は、まちがいなく、K国を支援する。中国も、K国を支援する。しかしアメリカは、何もできない。とても悲しいことだが、今、日本の味方をしてくれる国は、アメリカ以外には、一国も、ない。

● 金XX体制の崩壊こそ、最善

願わくは、金XXによる独裁体制が、崩壊することである。が、これについては、「崩壊する」と主張する人と、「簡単には崩壊しない」と主張する人は、半々くらいではないか。オーストラリアの国防省で働いていた、K君は、「心配しなくて、いい。K国は、近く、崩壊する」と言っている。

 その反面、K国の核開発は、今、急ピッチで進んでいる。核実験も、時間の問題と言う人もいる。すでに核兵器を、二~六発前後、もっていると主張する人もいる。だったらなおさら、K国は、核放棄には応じないだろう。

 しかし問題は、この日本だ。ああいう常識のない国だから、何をしでかすか、わかったものではない。東京の中心部で、核兵器を爆発させるようなことだって、するかもしれない。もしそんなことをされたら、その時点で、日本の政治、経済、社会は、停止する。ばあいによっては、崩壊する。

 今の日本としては、「追従外交」「アメリカの言いなり」と酷評されようが、アメリカにすがるしかない。でないというなら、この日本に味方してくれる国が、ほかにどこがある? とても残念なことだが、今の日本には、K国を押さえこむ力はない。その背後にいる、韓国や中国を、押さえこむ力はない。

●どう考えるか

 K国の崩壊のカギを握るのは、アメリカでも、韓国でもない。もちろん日本でもない。中国である。この中国が、K国、どう出るかによって、K国の命運は決まる。

 しかし幸運なことに、表面的には反米路線をとる中国だが、中国は、結局は、アメリカ側に立つしかないだろう。K国に加担して、アメリカを怒らせても、中国には利益はない。それ以上に、今のK国には、国としての価値すら、ない。そのあたりのことは、中国も、よくわかっている。

 また韓国が、親北政策をとるのは、仮に米朝戦争になっても、できるだけ火の粉をかぶりたくないという思いがあるから。現に今の、ノ大統領は、選挙中の演説の中で、こう述べている。「米朝戦争になっても、韓国は、中立を守る」と。一見、とんでもな意見のように見えるが、韓国も、自国を守るために、必死なのだ。

 最後にアメリカだが、アメリカは、前線の司令部を、グアムやハワイに移しつつある。とくに韓国からは、撤退することを、ほぼ、決めた。それもそのはず。ノ大統領は、反米をかかげて、今の政権の座についた。どうしてアメリカが、その韓国を守らねばならないのか。

 日本の状況も、韓国に、似ている。在日アメリカ軍が移動するたびに、日本各地で、はげしい反米運動が起きる。どうしてそんな日本を、アメリカが「命をかけて」守らねばならないのか。あるいは反対の立場なら、日本は、「命をかけて」、アメリカを守るとでもいうのだろうか。

 政治はきわめて現実的なもの。国際政治は、さらに現実的なもの。私たちが今すべきことは、どんな方法であるにせよ、あの金XXの独裁体制を、自然死に追いこむこと。それ以外に、日本の平和はありえない。

● 世界の本音

以上は、いわゆる建て前論。そこで本音論。

実のところ、六か国協議が成功したとき、一番、困るのが、日本なのである。K国が、仮に核兵器を放棄しても、化学兵器や細菌兵器は、どうなる? ミサイルは、どうなる?

 さらにまずいことに、そのあと、K国は、日本に対して戦後補償を求めてくる。その額は、五〇~一〇〇億ドル(アメリカ議会推定)。あるいはそれ以上とも言われている。まさに天文学的な数字を出してくる可能性がある。

 日本としては、それこそ屋台骨を一本抜くような覚悟が必要だが、問題は、このことではない。そのお金で、K国が、武器を買いつづけたら、日本は、どうなるかという問題である。その可能性は、じゅうぶんある。

 そこで日本の本音としては、六か国協議の場で、K国に核兵器の放棄を迫るのではなく、国連の安保理の場で、K国に核兵器の放棄を迫るほうがよいということになる。国際社会が、全体として、K国に対して、経済制裁を加える。日本は、それに乗って、金XXを自然崩壊させる。こういう図式が、日本にとっては、一番、安全である。

 恐らく、アメリカも、同じ意見だろう。だから、アメリカは、「ここは、一応、中国にやらせるだけやらせてみよう」という姿勢をとっている。「やらせるだけやらせてみれば、中国も、K国の本性がわかるだろう」と。それがわかれば、国連の安保理で、中国が、むやみやたらと、拒否権を行使するということもなくなる。

 となると、六か国協議は開かれても、協議が、成功する可能性は、ほとんど、ない。すでにアメリカの腹は、決まっている。つまり、国連の安保理による、K国に対する、経済制裁である。日本も、すでにそれに同調している。経済制裁に向けての、国内法の整備も、ほぼ完了した。

 そこで中国としては、この流れを逆転させるために、今、猛烈に、K国を説得しようとしている。そのほうが、中国にも、利益がある。日本が払う賠償金を、そっくりそのまま自分のものとすることができる。また、もしK国がふつうの国なら、そしてふつうの常識がとおる国なら、中国の説得に応ずるのだろうが、そこは、「常識のない国」。

 今ごろは、中国も、四苦八苦していることだろう。手を焼いているかもしれない。

 最後に韓国だが、私には、あの国が、何を考えているか、よくわからない。とくにノ政権になってからは、反米、親北政策が、ますます顕著になってきた。やることなすこと、どこか現実離れしている。

 たとえば国境沿いの最前線に、三万六〇〇〇人近いアメリカ兵を置きながら、反米を唱える。星条旗を破ってみせる。そしてアメリカが出て行くと言うと、今度は、「裏切り行為」と騒ぐ。

 さらに本音の本音をいえば、韓国と北朝鮮が、ここで平和裏に統一ということにでもなれば、それこそ日本にとっては、大問題。日本を最大の敵と考える、強大な軍事国家が、すぐ隣に出現することになる。もしそうなれば、日本は、それこそ、戦後最大の危機を迎えることになる。

 日本にとって、もっとも好ましいシナリオは、六か国協議で、K国が、おとなしく、核開発の放棄を宣言すること。先軍政治とか、何とか、そういうおかしな政策をやめること。

が、それが不調に終わったばあいには、中国とK国が離反するのを待って、アメリカが、国連の安保理にK国の制裁決議を求める。それに世界が同調する。中国も同調して、K国の息の根を止める。金XX体制を、崩壊に導く。

 ここで重要なことは、K国の息の根を止めるのは、アメリカであっても、日本であってもいけない。中国である。中国に止めてもらう。そうすれば、金XX体制は、何もできないまま、平和裏に、かつ、静かに崩壊する。
(031205)

Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞