●孤独を知って、第二の人生(第二の産道論)
【孤独は第2の人生のための産道】
●BW公開教室byはやし浩司
現在、もっとも力を入れているのが、YOUTUBE。
昨年度までは、幼児クラスを中心に録画し、それをYOUTUBEに載せていた。
が、今年からは、小学1年生クラスも録画するようにした。
その分、忙しくなった。
が、しかしそれ以上に楽しい。
ひとつには、アクセス数がふえたこと。
3月(2011年)末までは、400~600件/日を推移していた。
それが4月に入ってから、つまり小学1年生クラスを録画するようになってから、800~1000件/日へと増えた。
この先も、どんどんと増えそうな気配である。
YOUTUBEでは、「インサイト情報」として、それをグラフ化して示してくれる。
で、外国からのアクセスも、多い。
コメント欄には、いろいろな書き込みがある。
が、今までは日本語を勉強している人のものばかりだった。
そのたびに「そういう使い方もあるのだなあ」と思った。
もともとは孫の芽衣のために開いたホームページである。
しかし肝心の芽衣からの反応は、ゼロ。
昨夜も二男とスカイプ(テレビ電話)で話したが、見ている気配はなかった。
(残念!)
少しやる気をなくしていたところへ、上海に住む工藤さんという方から、コメントが届いた。
5歳になる息子さんが、私のYOUTUBEを利用しているという。
その学習している様子を、同じくYOUTUBEに載せて、送ってくれた。
うれしかった・・・というより、驚いた。
教室の子どもたちと同じように、いっしょになって声をあげているではないか!
表情も、すばらしい。
それを見たとき、ひとつまた、インターネットの世界が広がったように感じた。
双方向性というか、ほかの通信媒体ではまねできない芸当である。
私はさっそく、工藤さんからのYOUTUBEを、公開教室に並べて掲載した。
息子さんが画面に向かって勉強している顔を、そのまま紹介させてもらった。
興味のある方は、どうか「公開教室・2011」を見てほしい。
●休み時間
さて、2時間。
今、私は2時間の休み時間をもっている。
この2時間を、どう使うか。
先ほど、ワイフが書斎へお茶を届けてくれた。
そのときこう言った。
「至極の時だ」と。
何か、書きたい。
何を書こうか。
小説に挑戦してみようか。
それとも評論を書いてみようか。
評論といえば、このところ北朝鮮の動きがどうも怪しい。
何かをたくらんでいる。
中国政府の高官が、北朝鮮の高官に、わざわざこう警告した。
「冒険主義に走るな」と。
この警告を裏から読むと、「今は、静かにしていろ」となる。
時折しも、韓国軍が、金日成や金正日らの写真を標的にした射撃訓練をしているのがわかった。
これに北朝鮮が、大激怒。
連日、「ただではすまさない」と騒いでいる。
たしかに国家元首の写真を標的にした射撃訓練は、ま・ず・い。
北朝鮮が怒って当たり前・・・と書きたいが、北朝鮮だって、言いたい放題、書きたい放題のことをしている。
韓国のイ大統領を、「逆賊」と呼んでいる。
が、こういうときが、あぶない。
一触即発というよりは、ささいなことがきっかけとなり、導火線に火をつける。
加えて北朝鮮の経済状況は、目下、どん底。
最悪。
国民の不満をそらすため、北朝鮮が韓国に向かって軍事的冒険をしかけてくる可能性は、きわめて高い。
今が、そのとき。
・・・というようなことを書いても、おもしろくない。
政治の話は嫌われる。
よくわかっている。
だからこの話は、ここまで。
●浜岡原発、反対!
3・11大震災以来、私は浜岡原発反対派になった。
原発が危険というより、管理・維持技術のおそまつさに、驚いた。
防災訓練の様子を見て、さらに驚いた。
中部電力は、原子炉に水をかけていた。
原子炉に水?
それが防災訓練?
原子炉事故の恐ろしさは、これでよくわかった。
一旦事故が起きたら最後、事故が事故を呼ぶ、連鎖地獄に陥る。
福島第一原発にしても、応急手当はつづいている。
現場で作業をしている方たちには、本当に頭がさがる。
そういう人たちの努力がなかったら、今ごろ東京にだって、人は住めなくなっていたはず。
しかし残念ながら、基本的な問題は、何一つ、解決していない。
そればかりか、状況は日々に悪化している。
3号機の温度も、100度から再び180度に上昇している(6月8日)。
今朝の新聞報道によれば、どの原子炉も、「メルトダウン」より悪い、「メルトスルー」の状態になっているという。
まさに「チャイナ・シンドローム」。
それに昨日、自分でこんなことを調べた。
敦賀市(福井原発の並ぶ「つるが市」)から、岐阜県の岐阜市までの直線距離。
今ではグーグルアースを使えば、瞬時にそれがわかる。
それによれば、たったの70キロ!
私は子どものころから、また昨日の昨日まで、敦賀市は岐阜市からみて、はるか遠いところにあるとばかり思っていた。
間には山地がいくつか並んでいる。
が、たったの70キロ!
車で1時間の距離!
もし敦賀市にある福井原発が事故を起こしたら・・・?
今の時期だと、風は西から東に吹いている。
岐阜市の住民には、即、退避勧告が出されるだろう。
(政府はずるいから、「命令」という言葉は使わない。
退避命令にすると、その責任を負わなければならない。)
さらに御前崎にある浜岡原発からこの浜松市までは、たったの40キロ。
原発事故にあっては、40キロなどという距離は、誤差のようなもの。
距離と呼べるような距離ではない。
・・・というようなことを考えていくと、反対派にならざるをえない。
いくら電力が必要と言っても、町や村を追われ、命まで奪われたら、元も子もない。
●代替エネルギー
原子力に替わる代替エネルギーとして、恩師の田丸謙二先生の弟子たちは、アンモニア燃料を考えている。
水を触媒で分解し、酸素と水素に分解する。
それに同じく空気中の窒素と化合させて、アンモニア燃料を作り出す。
これなら安全かつ、無尽蔵のエネルギーを手に入れることができるようになる。
夢のような話だが、理化学研究所を中心に、今、その研究は着々と実を結びつつある。
「時間の問題です」と、田丸謙二先生は言っている。
が、ここで、もうひとつの問題にぶつかる。
安価で安全、かつ無尽蔵のエネルギーというのはよい。
こうした科学の発達には、いつももうひとつの「剣」がある。
「両刃の剣」という。
もしそれが軍事目的に利用されたら・・・?
たとえば太平洋の海が、そのまますべて火薬庫になることもありえない話ではない。
もしそれに火がついたら、それこそ地球が丸ごと、吹っ飛んでしまう。
田丸謙二先生は、そのあたりをどう考えているのだろう。
核燃料と核爆弾。
アンモニア燃料と水素爆弾。
使い方をまちがえると、たいへんなことになる。
この原稿をあとでそのまま先生に送ってみよう。
Hiroshi Hayashi+++June 2011+++はやし浩司(林浩司)
【孤独は、第二の産道】
●言葉
よい生活をする・・・それがどうした?
よい食事をする・・・それがどうした?
楽しい思いをした・・・それがどうした?
こうして人はいつも、自分に問いかける。
「だから、それがどうしたの?」と。
するとその答えがない。
どこにもない。
たとえば今日、私はカニを腹いっぱい食べた。
バイキング方式だったから、食い散らすようにして食べた。
いつもなら細い足まで食べる。
が、今夜は、カニの爪か、太い足だけ。
細い足は、そのまま捨てた。
が、私の年齢になると、「食べたら、損」。
わかってはいるが、止まらない。
欲望というのは、そういうもの。
コントロールするのが、むずかしい。
・・・というか、理性の力でコントロールするのは、ほぼ不可能。
アルコール中毒やニコチン中毒の人たちを見ればよい。
一度、脳の線条体に受容体ができると、条件反射的に、人間は行動してしまう。
そう、人は、パンと水(豪華な食べ物)だけで生きるのではない。
キリストの教えを借りるなら、人は、言葉、つまり教えによって生きる。
その教えがないと、「だから、それがどうしたの?」と聞かれると、そこで行き詰まってしまう。
反対に教えがあれば、即座に答えが返ってくる。
●言葉(教え)
楽しんで、笑って、腹いっぱいおいしいものを食べ、そのときを愉快に過ごす。
それは人生の一部かもしれない。
しかし先にも書いたように、「だから、それがどうしたの?」と聞かれると、そこで言葉が行き詰まってしまう。
そこで私たちは、言葉(教え)を求める。
反対に言葉(教え)のない人生ほど、味気なく、意味がなく、かつ、つまらないものはない。
そこでキリストは「愛」、釈迦は「慈悲」、孔子は「仁」を、それぞれ説いた。
これら三者は、基本的には同一のもの。
言葉というのは、それをいう。
この言葉があるから、私たちは今、ここにこうして生きていることができる。
そうでなければ、そうでない。
ただ「息(いき)る」だけの人間になってしまう。
●みんな孤独でさみしい
老いるということは、孤独との闘い。
よく「老後は孫の世話と庭いじり」と説く人がいる。
が、これはウソ。
そんなもので、老後の心の隙間を埋めることはできない。
ごまかすことはできる。
しかし埋めることはできない。
酒にしても、そうだ。
飲んだときは、忘れられる。
しかし酔いから覚めたとき、その何十倍もの孤独が襲ってくる。
が、心配無用。
あのキリストだって、孤独だった(マザー・テレサ)。
キリストは、それを「ハンガー(飢え)」という言葉を使って表現した(マザー・テレサ)。
あなただけではない。
私だけではない。
みんな孤独。
その心の空白を埋めるのは、言葉(教え)でしかない。
いくらよい生活をしても、よいものを食べても、楽しいときを過ごしても、それは一時の幻想。
霞(かすみ)。
むしろそういうものには、麻薬性がある。
一度毒されると、かえってそこにある真実が見えなくなる。
だから孤独であることを、嘆く必要はない。
孤独から逃げる必要もない。
前にも書いたが、孤独は、人間がつぎの世界に入るための関門。
言うなれば、第二の産道。
その関門を通らずして、私たちはつぎの世界に入ることはできない。
苦しい。
つらい。
おまけに痛い。
だから産道。
●関門(第二の産道)
人は否応なしに、老いる。
老いることによって、そこに死を見る。
そのおかげで、私たちは、孤独を知る。
が、その孤独を恐れてはいけない。
ほとんどの人は、燃え盛る火を見て逃げるように、孤独をそこに見ると、そこから逃げてしまう。
ごまかそうと、必死になる。
もがく。
苦しむ。
中には、その苦しさに耐え切れず、命を絶つ人もいる。
が、もがく必要はない。
苦しむ必要はない。
もちろん命を絶ってはいけない。
あなたがすべきことは、ただ静かに身を横たえ、それを受け入れる。
とたん、その向こうに、道が見えてくる。
恐らくその道は、人によってみな、ちがうだろう。
が、それが第二の世界ということになる。
このころになると、人は、フロイトが説く「性的エネルギー」がどんなものであったかがよくわかる。
平たく言えば、それまでの私たちがいかに欲望の奴隷であったかを知る。
その奴隷的呪縛感から解放される。
・・・というか、その解放感は、解放されてみないとわからない。
●朝に知れば・・・
こうして考えると、老後は、大きなチャンス。
老後があるおかげで、私たちは真理を知る。
真理に到達することができる。
もし老後がなかったら、100年生きても、200年生きても、人は愚かなまま。
愚かなことを繰り返し、それが愚かなことであるかさえ気がつかない。
長寿は美徳だが、中身のない長寿は、ただの数字の遊び。
だからある賢人は、こう言った。
『朝に知れば・・・』と。
無駄に100年生きるより、有益に1日を生きたほうがよい。
それを決定するのが、言葉(教え)ということになる。
●第二の産道論
実は、「第二の産道」論は、以前にも書いた。
原稿をさがしてみる。
日付は2011年1月となっている。
たった半年前!
私にはずいぶんと昔に書いた原稿のように思える。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●喪失の受容段階論(孤独と真理)「喪失の受容段階論」
●孤独は心のがん細胞(2011年1月28日記)
++++++++++++++++
喪失の内容、程度は、さまざま。
失恋、事業の失敗、健康、離婚、
子どもの巣立ち、肉親の死、配偶者の
死など。
そのつど人は、はげしい喪失感を
覚える。
ときにそれがそのまま絶望感になることもある。
襲い来る孤独感、孤立感、虚無感……。
少し前、「孤独は心のがん細胞」という
記事を書いた。
孤独をけっして軽く見てはいけない。
孤独は、心をむしばみ、やがて自らの死、
つまり自殺へと、心を導く。
が、この孤独。
闘えば闘うほど、キバをむいて
私たちに向かって襲いかかってくる。
もがけばもがくほど、孤独という糸に
からまれ、身動きが取れなくなる。
仏教でも、「無間地獄」と位置づける。
あのイエス・キリストも、孤独に
苦しんだ(マザーテレサ)。
が、受け入れてしまえば、何でもない。
孤独に身を任せ、静かにそれを受け入れる。
それで苦しみが消えるわけではない。
悲しみが消えるわけではない。
孤独であることは、苦しい。
魂が引き裂かれるほど、苦しい。
が、その苦しみを受け入れたとき、
その先に小さな光明が見えてくる。
人は、人生において2度、産道をくぐりぬける。
母胎からの産道。
そして孤独からの産道。
2度目の産道をくぐりぬけたとき、人は、
真理の世界に生まれ出ることができる。
++++++++++++++++++
●喪失
人は、どう喪失感を受け入れていくか。
その参考となるのが、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」。
言うまでもなく、「自分の命」を失うことを超える喪失感は、ない。
まさに死は究極の喪失感ということになる。
●死の受容段階論
キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)は、つぎのような段階論をいう。
(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。
(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。
(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。
(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。
(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)
●喪失の受容段階論
喪失感がはげしければはげしいほど、ロスの『死の受容段階論』に似た段階を経て、やがて人は喪失を受け入れるようになる。
こまかい点ではちがいはあるのだろうが、おおまかに言えば、それに近い。
順に整理してみる。
(第1期) 否認……失ったことを知り、大きなショックを受けたのち、失ってはいないと、はげしく否認する。ささいなことに希望をつなぎ、「まだ何とかなる」と思う。
(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の幸福そうな人、家族で、相手本人に対する不平不満としても生ずる。
(第3期) 取り引き……喪失の回復の見込みがないことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試みる。祈ることでの延命や、喪失の代償として、何かを望む。
(第4期) 抑うつ……喪失感が持続的につづくと、虚無主義に陥ったり、抑うつ状態になる。
(第5期) 受容……最後は平静な境地に至る。運命に身を任せ、運命に従い、喪失による孤独感を静かに受け入れる。(以上、ロスの『死の受容段階論』を一部、改変。)
●孤独をどう受け入れていくか
孤独というのは、闘っても意味がない。
闘う必要もないし、また人間にはそれに打ち勝つ力はない。
そこで大切なことは、居直る。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
同時に、「みな、そうなんだ」と思えばよい。
一見、派手な世界で愉快そうに振る舞っている人にしても、孤独でない人はいない。
みな孤独を背負っている。
あるいは孤独という氷の上を歩いている。
薄い氷。
その下では孤独が、「おいで、おいで」と手招きしている。
孤独を知らない人というのがいたら、本物のバカか、ものを考えないノーブレイン
(=脳なし人間)。
あるいは孤独をごまかして生きているだけ。
孤独から逃げているだけ。
もちろん財力や名誉、地位、肩書き、経歴など、孤独の前では、一片の価値もない。
意味もない。
乾いた煙ほどの力もない。
孤独を癒す力など、まったくない。
もがけばもがくほど、孤独の糸がからんでくる。
身動きが取れなくなる。
が、ひとたび孤独を受け入れれば、周りの世界は一変する。
それまで見えなかったものが、見えるようになる。
何が大切で、何がそうでないか。
何が価値があり、何がそうでないか。
言うまでもなく、私たちが探し求めている真理は、その向こうにある。
●真理探究
財力や名誉、地位、肩書き、経歴に毒されている間は、真理など求めようもない。
そういう世界で踊っている人は、作りあげられた幻想の世界で、酔いしれているだけ。
それは一時のさみしさを紛らわすために飲む、酒のようなもの。
酒から覚めたら、その何倍もの孤独感が襲ってくる。
言い替えると、財力や名誉、地位、肩書き、経歴にしがみつけばつくほど、その人は
孤独を前に、もがき、苦しむ。
絶望のどん底へ叩き落とされる。
「自らの死」を選択することにもなりかねない。
が、孤独は「第二の産道」。
その産道をくぐり抜けることなしに、人は、真理の世界に入ることはできない。
もちろん「真理」は、その人によってちがう。
真理はひとつではないし、真理の向こうにまた別の真理がある。
そこは平和で、満ち足りた世界。
豊かで、おおらかな世界。
が、その世界もまた、無限のかなたへとつづく。
方法は簡単。
孤独を受け入れる。
静かに受け入れる。
それで苦しみや悲しみが消えるわけではない。
しかしやがて、その先に、一筋の光明が見えてくる。
あとはその光明に向かって歩いていけばよい。
……この先のことは、私にもわからない。
ただこれだけは言える。
真理などというのは、そんなに遠くにあるものではないということ。
私やあなたのすぐそばにあって、私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて
じっと待っている。
さあ、あなたも勇気を出して、孤独の世界に身を横たえてみよう。
声に出して叫んでみよう。
「私はさみしい!」と。
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