*Dialog with Gods
●神々との対話(Dialogs with Gods)
Are only those who believe in Gods saved? If so, what is the God?
女房とドライブしていたときのこと。あるキリスト教会の前を通った。「人類が滅ぶときに、神の手で救われる」と教える教団の教会である。私がそれを女房に説明すると、女房がこう言った。「ほかの人たちはどうなるの?」と。
地球温暖化がこれだけ現実のものとなってくると、「地球はあと一〇〇年ももたない」という説が、にわかに信憑(しんぴょう)性をおびてくる。とくにここ数年の気温上昇(たった数年!)は、ふつうではない。
この速度で上昇したら、西暦二一〇〇年までには、地球の気温は四〇〇度にまでなってしまう! (これに対して学者たちの予想では、二一〇〇年までに三~四度。最大で六度前後となっている。)まさにそのとき、(あるいはそれ以前に)、「人類が滅ぶとき」がやってくる。
「信じた人だけが助かるというのは、卑怯(ひきょう)だ」と私。
「どうして?」と女房。
「もし、そんなに信じてほしかったら、神様も、今、ここに姿を現せばいい。そうすれば、だれだって神様を信ずるようになる」
「死んでからでは、遅いということ?」
「いいや。死んだとき、目の前に神様が現れれば、だれだって神様を信ずるようになる。それから信じても、遅くはない」
「神様は、信ずるのも、信じないのも、お前たちの勝手と、人間を突き放しているのではないかしら」
私たちは今、懸命に生きている。野に咲く花や、空を飛ぶ鳥のように。地面をはう虫や海を泳ぐ魚のように。そういう私たちを「まちがっている」と言うのなら、それを言うほうがまちがっている。
たしかに人間は未熟で、未完成だが、しかし今、懸命に自分の足で立ちあがろうとしている。医療にしても社会にしても政治にしても、もし今、ここに神様が現れて、病気を治したり、神の国をつくったらどうなるか。人間は自らの足で立ちあがることをやめてしまう。あのトルストイも『カラマーゾフの兄弟』の中で、同じようなことを書いている。
しかしその懸命さが、思わぬ方向に進みつつある。それこそ地球温暖化によって、人間どころか、あらゆる生き物まで犠牲になってしまう。だったら今、「突き放している」ほうがおかしい。あるいはすでに神様は、地球そのものまで放棄してしまったというのか。
この問題は、「私たち人間は助かるべきか、それとも助かるべきではないか」という、究極の命題にまで、行き着く。しかしこれだけは言える。仮に私たちの未来が絶望的なものであっても、最後の最後まで、足をふんばって生きる。そこに「懸命に生きる人間の尊さ」がある。神様に救ってもらおうと考えるのは、まさにその人間の敗北を認めるようなものだ。あとの判断は、それこそ神様に任せればよい。
懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。
私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。
私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。
生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。
そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。
私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。
さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。
あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。
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