Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 03, 2008

*Unlimited Loop of Thinking

●無限ループの世界(Unlimited Loop of Thinking)

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「その年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る人もいれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたちに接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしている。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさかのぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほしい。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろうか。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●ノーブレイン(No Brain)

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるのではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタレントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思いついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしているだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くような苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。

そのためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうなこと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなくなってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」ということには、そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。

一度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしまう。それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうでもよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、そういうさまざまな問題が隠されてはいる。

しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●考えない子ども(Children who don’t think)

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小四レベル)。その前の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げてしまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。決して特別な子どもではない。

今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

考えない子ども(Children who do not think)(2)

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。

つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることができるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)~(4)の状態が、日常的に起こると考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。


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