Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 03, 2008

*My son's girlfriend

●息子のガールフレンド(My son’s girlfriend)

It is the cleverest not to interfere your sons or daughters whatever kinf of girlfriends or boyfriends they have. But if it is about the marriage, things are different. Parents are keenly interested in what sort of circumstances his or her friend are raised up.

息子や娘に、ガールフレンドや
ボーイフレンドができると、
最初のころは、親の方があわてる。
しかしそれも度(たび)重なると、やがて
どうでもよくなる。
めんどくさくなる。

息子や娘たちには、息子や娘たちの
世界がある。親が賛成したからと
いって、どうこうなるものでは
ない。
へたに反対すれば、かえって
恨みを買うことになる。

が、結婚となると、話は別。
「どんな子だろう」と知りたい。
どんな家庭環境に育ったのか。
どんな性格なのか。
どんな両親をもっているのか、など。

が、それにも限界がある。
「知りたい」というだけで、それ
以上はない。

知ったところで、これまたどうこう
なるものではない。知って反対する
くらいなら、つまり、それで家庭騒動
を起こすぐらいなら、知らないほうが
よい。

だから私は息子たちには、いつもこう
言ってきた。……言っている。

「お前たちが選ぶ子だから、きっと
すばらしい子にちがいない」と。

それ以上は干渉しない。口出しもしない。
あとは、成り行きに任せる。
「縁」があれば、結婚につながる。
「縁」がなければ、そのまま消える。

どうであるにせよ、こういうケースでは、
親が口を出して、うまくいくことは、
まず、ない。もちろんあえて賛成する
こともない。

若い人の恋など、熱病のようなもの。
賛成したところで、こわれるものは、
こわれる。

いくら親の私が、「すてきな子だな」と
思っても、息子の熱情がつづかなければ、
それでおしまい。

話は変わるが、以前、こんな原稿を
書いたことがある(中日新聞発表済み)。

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●親の心は子どもの心

 一人の母親がきて、私にこう言った。「うちの娘(年長児)が、私が思っていることを、そのまま口にします。こわくてなりません」と。

話を聞くと、こうだ。お母さんが内心で、同居している義母のことを、「汚い」と思ったとする。するとその娘が、義母に向かって、「汚いから、あっちへ行っていてよ」と言う。またお母さんが内心で、突然やってきた客を、「迷惑だ」と思ったとする。するとその娘が、客に向かって、「こんなとき来るなんて、迷惑でしょ」と言う、など。

 昔から日本でも以心伝心という。心でもって心を伝えるという意味だが、濃密な親子関係にあるときは、それを望むと望まざるとにかかわらず、心は子どもに伝わってしまう。子どもは子どもで、親の思いや考えを、そっくりそのまま受け継いでしまう。

こんな簡単なテスト法がある。まず二枚の紙と鉛筆を用意する。そして親子が、別々の場所で、「山、川、家」を描いてみる。そしてそれが終わったら、親子の絵を見比べてみる。できれば他人の絵とも見比べてみるとよい。濃密な関係にある親子ほど、実によく似た絵を描く。二〇~三〇組に一組は、まったく同じ絵を描く。親子というのは、そういうものだ。

 こういう例はほかにもある。たとえば父親が、「女なんて、奴隷のようなものだ」と思っていたとする。するといつしか息子も、そう思うようになる。あるいは母親が、「この世の中で一番大切なものは、お金だ」と思っていたとする。すると、子どももそう思うようになる。つまり子どもの「心」を作るのは親だ、ということ。親の責任は大きい。

 かく言う私も、岐阜県の田舎町で育ったためか、人一倍、男尊女卑思想が強い。……強かった。「女より風呂はあとに入るな」「女は男の仕事に口出しするな」などなど。いつも「男は……」「女は……」というものの考え方をしていた。

その後、岐阜を離れ、金沢で学生生活を送り、外国へ出て……、という経験の中で、自分を変えることはできたが、自分の中に根づいた「心」を変えるのは、容易なことではなかった。今でも心のどこかにその亡霊のようなものが残っていて、私を苦しめる。油断していると、つい口に出てしまう。

 かたい話になってしまったが、こんなこともあった。先日、新幹線に乗っていたときのこと。うしろに座った母と娘がこんな会話を始めた。

「Aさんはいいけど、あの人は三〇歳でドクターになった人よ」
「そうね、Bさんは私大卒だから、出世は見込めないわ」
「やっぱりCさんがいいわ。あの人はK大の医学部で講師をしていた人だから」と。

どうやらどこかの大病院の院長を夫にもつ妻とその娘が、結婚相手を物色していたようだが、話の内容はともかくも、私は「いい親子だなあ」と思ってしまった。呼吸がピタリと合っている。

 だから冒頭の母親に対しても、私はこう言った。「あなたと娘さんは、すばらしい親子関係にありますね。せっかくそういう関係にあるのですから、あなたはそれを利用して、娘さんの心づくりを考えたらいい。あなたのもつ道徳心や、やさしさ、善良さもすべて、あなたの娘さんに、そっくりそのまま伝えることができますよ」と。 

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この原稿の中で、私は「新幹線に……」
と書いたが、本当は、「バスの中」だった。
当時はまだ、生々しい話だったので、場所を、
バスから新幹線の中に変えた。

こんなことはどうでもよいが、中には、
そういう親子もいる。生きざまそのものが、
ピッタリと一致している。
しかしそういう親子は、珍しい。

で、結婚ということになれば、嫁や婿は、
そのまま自分の子どもということになる。
自分の子どもと同じように考える。

が、ふと我に返ると、私たち夫婦も、もう
老人。先も短い。
それに頭の働きも鈍くなる。感受性も
弱くなる。

ということで、(自分の子)といっても、
やはり、どうでもよくなる。限界がある。
乳幼児や、少年少女時代の(自分の子)
と同じように考えることはできない。

息子や娘たちには、息子や娘たちの
世界がある。親が賛成したからと
いって、どうこうなるものでは
ない。
へたに反対すれば、かえって
恨みを買うことになる。

……と最初の話に、もどった。
もどったので、この話は、ここまで。
大切なことは、みな、たがいに愛しあい、
幸福になること。

すべては、そこに行き着く。