Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 17, 2008

*As to Life *Memory

【今日・あれこれ】(3月17日)

● 命(Life)
We often say “life” is important. But what does this actually mean? I take up three elements in “Life” itself. They are “Time”, “health” and “reason to live”.

「命を大切に」とは、よく言われる。
子どもにそう言うときもある。
しかし「命」とは、何か。

私は、つぎの3つをあげる。

「時間」「健康」、それに「生きがい」と。
この3つを、重ねあわせて、「命」という。

まず(1)時間。

時間には限りがある。
その時間を、どう使うか。
年数ではない。
使い方。
20年を短いと言う人もいる。
1年を長いと言う人もいる。
生き方によっては、20年も一瞬で終わる。
1年を、100年にすることもできる。

さらに最近では、健康寿命という言葉もある。
平均寿命から、10年ほどを引いた年齢を、健康寿命という。
晩年の10年間は、病気との闘いということになる。
さらに50歳を過ぎると、健康な人でも、体力、気力がぐんと落ちてくる。
30代の人にしても、残された時間は、ほどんどない。
40代の人にすれば、なおさらだ。

つぎに(2)健康。

健康には、2つの意味がある。
肉体の健康。それに精神の健康。
東洋医学では、これら2つを、同じものと考える。
西洋でも、「健康な肉体に、健康な精神が宿る」という。
その反対でもよい。

その健康は「作る」ものではない。
「守る」もの。
今日、健康なら、その健康を明日につなげる。
が、大切なのは、運動。
さらに言えば、運動するという習慣。
その習慣が、その人を健康にする。

さいごに(3)生きがい。

人は、何もなくても、夢や希望があれば生きていかれる。
夢や希望がないと、ほかでどんなに満たされていても、生活は空虚。
よい例が、老人たちが住む、ケア・センター。

豪華な設備の整った一室で、3食、昼寝つきの生活をしている。
先日も、ボランティアの人たちが、そこで歌を歌っていた。
が、それを聞きながら、かろうじて反応している老人は、ひとりだけ。
残りの老人たちは、うつろな目つきで、空をながめていた。

生きているというよりは、生かされているだけ。
だれかが、「死の待合室」と呼んだが、健康な人なら、みな、そう思うだろう。
私の母にしても、先週、医師に、(とうとう)、こう言われた。
「今後は、治療しない」「延命処置もしない」と。
「とうとう」というのは、救急車で、運ばれることがつづいたことによる。

夢も希望もない。
それがあの待合室にいる老人たちである。
しかし夢や希望があれば、その先に目標が生まれる。
目標が生まれれば、生きがいも、生まれる。
「生きがい」、つまり「私は生きている」という実感、それが大切。

以上、「命を大切にする」ということは、
時間、健康、そして生きがいを大切にすることをいう。
「命を大切にする」といっても、ばくぜんとしていて、わかりにくい。
だからこうして、その中身を分析してみた。


●記憶(memory)
We are losing memories so easily especially when we stand at the doorway of old men.

今朝、ぞっとすることがあった。
けっして大げさなことを言っているのではない。
本当にぞっとした。
こんなことだ。

今朝、パソコンの中で写真をさがしていた。
息子の結婚式のときの写真が、どこかへいってしまった。
そのときのこと。

少し前に教えた子どもたちの写真が、何枚か出てきた。
日付を見ると、2002年となっていた。
たった6年前である。

そこには、5人の幼児の顔が写っていた。
私が教えた子どもに、ちがいない。
が、うち4人には、まったく見覚えがなかった。
「こんな子、いたっけ?」と思ってしまった。
それで、ぞっとした。

教えたということは、少なくとも1年間はつきあったはず。
にもかかわらず、名前どころか、教えたという記憶すら残っていない。

いや、どこかで見た顔だな……という程度には、覚えている。
しかし、そこまで。

記憶というのは、そういうものか。
子どものころに出会った人は、今でもよく覚えている。
しかしこの年齢になると、たった6年前の子どもたちのことですら、
(よほど何かのことで印象に残らないかぎり)、
そのまま忘れてしまう。

加えて、ぞっとしたのには、もうひとつ理由がある。

もし記憶というのが、そういうものであるとするなら、では、私は
この6年間、何をしてきたのかということになる。
6年前の「私」でもよい。

無駄に過ごしていたとは思わないが、言うなれば、穴のあいたバケツに、
水を汲んでいただけ。
汲んで入れた分だけ、穴から、水がこぼれ出て行った。

私が教えたはずの子どもたちでさえそうなのだから、ほかの記憶、
たとえば読んだ本とか、見た映画、旅行、会話、それに私が書いた文章とか、
そういうものも、そうであるにちがいない。

何もかも、ポッカリと記憶の中から消えてしまっている。
その可能性は、ないとは言わない。

認知症のはじまりなのか。
それとも私の年代の人たちは、みな、そうなのか。
ただ、「中には覚えている子どももいる」という点で、認知症ではないと
信じたい。
もし認知症のはじまりなら、全員、忘れてしまっているはず。

ともかくも、私は、ぞっとした。
この先、こういうことは、もっと多くなるにちがいない。
今、教えている子どもにしても、5、6年後には、きれいに忘れてしまう。
もしそうなら、「今」という時間は、いったい、何なのか。
言い方を変えるなら、「今」という時間そのものが、無駄になってしまう。

では、それを防ぐためには、どうしたらよいのか。

ひとつの方法は、常に、自分の記憶を刺激するというのがある。
アルバムだけではなく、その子どもの様子や特徴を、そのつど思い出す。
文章にして残して、あとで読みなおしてもよい。
思い出しながら、記憶を新しくしていく。

けっしてぼんやりとしたまま、その日、その日を、送ってはいけない。
自分では、「私は私」と思っていても、5、6年後には、その私が
消えてしまう。
半分とか、さらに10分の1になってしまう。

私のばあい、5人のうち、4人まで忘れてしまっていたから、80%の
記憶が消えたことになる。

言いかえると、2002年のあの時代の、80%を失ったことになる。

だからぞっとした。

そう言えば、私の母にしても、結婚してからの記憶がほとんどないことがわかる。
夫、つまり私の父のことすら、覚えていない。
ときどき口にするのは、母が子どもだったときのこと。
つまり子どものときから、今の時代まで、その間の記憶がどこかへ消えてしまっている。

が、もし母が、その過程で、つねに自分の記憶を刺激していたら、
そういうことはなかったかもしれない。
母は、忘れるまま、忘れてしまった。
私には、そんな感じがする。

「今」を生きるということは、今というこの「時」を、しっかりと脳みそに
刻みながら生きることをいう。
その努力を怠ると、あとは認知症の世界に、まっしぐら!
肉体の健康と同じように、脳みその健康も、維持しなければならない。

しかしそれは可能なのか……?

さあ、新しい本を読もう。新しい音楽を聴こう。
今という時間を、文という形で、しっかりと残しておこう。