Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, March 19, 2008

*Good Man and Bad Man

【善も悪も、紙一重論】(Good Man & Bad Man)
There is not much difference between good men and bad me. Good men become good men because he is in good world. Bad men become bad men because he is in bad world. There is not much difference.)

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。

またどのレベルで判断するかによっても、変わってくる。たとえば息子が同性愛者になったことを悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女の子はうらやましく思えるもの。(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がないように。)それだけではない。どんな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面もある。こんなことがあった。

K君(小5)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出された。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、私は月に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。

そうして一年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の3人でたまたま話しあうことになった。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばかりの生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうから、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつもより30分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩をもんでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題ではない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そしてその像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。

大切なことは子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもっていればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい言い方になってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいということ。もっと言えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在しないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えても、意味はない。まったくない。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚園で講師になったとき、すべてをなくした。

母にさえ、「あんたは道を誤ったア~」と泣きつかれるしまつ。私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならなかった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。

だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しかしその運命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていたことだろう。自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねているに違いない。

が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運命を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当に私なのか、と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人になったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えてみれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。……戦っている。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ちょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたもその悪人になっているかもしれない。

そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにくい話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別のところで考えてみることにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●すばらしい人たち、二人の知人

●二人の知人

 石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、K氏という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、もっともすばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。この二人ほどすばらしい人を、私は知らない。

この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうすれば人は、そういう人になれるのか。またそういう人になるためには、私はどうすればよいのか、それを考えさせられる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさることながら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。その人たちの言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを楽しんでくれる。悲しい話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉で言えば、「すなおな」人たちということになる。

●自分をさらけ出すということ

 こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのままさらけ出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいていの人は、心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、他人には知られたくない、醜いものばかり。

つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言えば、自分をだましながら生きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本の四タヌキというようなタイトルで、四人の女性が紹介されていた。元野球監督の妻(脱税で逮捕)、元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女性(公費流用疑惑で議員辞職)、演劇俳優の女性の四人である。

四番目の演劇俳優の女性は別としても、残る三人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。昔風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、毎日、いかにして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違いない。仮にあるがままの自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしなくなる。つまり化けの皮がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほうがよいかもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりする。自分という人間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで考えることにして、そんなわけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。ときどき、あるがままに生きたら、どんなに気が楽になるだろうと思う。

が、そう思っていても、それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識したとたん、自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居なおって生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えていく道。いや、一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道なのかもしれない。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでもある。疲れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスはない。あるいは反対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放されることになる。人はなぜ、ときとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分と、ニセの自分が遊離するからだ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私はヘトヘトに疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言したことも何度かある。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。しかしそれ以上に、私を疲れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツンとした緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分でなくなってしまう。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。ときどき講演をしながら、その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさえあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかしそれは言葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出したら、それだけで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がいつもつきまとった。そのときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、恥ずかしくないような自分になろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が悪人になるとしたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。

人にウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。つまり日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、やがてその人の人格をつくる。

日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。しかし原点は、あくまでもその人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではない。中には滝に打たれて身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そういうことをする人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はない。あくまでも日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが鳴れば玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソコンに向かって、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人間は、もともと善良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠くなる時代を生き延びることができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずである。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越えてきたということは、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証拠にほかならない。私たちはまずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。水の中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無理をしない。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、決して深追いをしない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあったからこそ、こうした生き物は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……
 
で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言っても、それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、今でも油断をすると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。これは人間が本能としてもつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単ではない(※1)。

それは性欲や食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこからどこまでが自分で、そこから先が自分かわからなくなる。が、人間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこともあるが、しかし一方、努力によって、その本能からのがれることもできる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざけること。遠ざけてはじめて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった人間になることができる。またならねばならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるがままに生きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。そういうときはどうすればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、ひょっとしたら、みんな去っていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接したら、その誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そういう力がある。そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。

たがいに話しこめば話しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消えていくのがわかった。別れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、K氏も、こぼれんばかりの笑顔で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした二人の知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへん失礼な言い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっただろう。

しかし二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく似ているのに驚いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。「なぜ、二人はこうも共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、その共通点から、ここに書いたようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!
(02-8-17)※

(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を伴走する。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間が歩く程度では、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなときでも、だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえたりすると、私の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、私が見ても、「ああ、かっこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそれがわかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。しかし自尊心はもっている? 

もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は前向きな努力をする。私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超えると、いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、どこからが自分の意思なのか、その境目を知ることは本当にむずかしい。

卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこかからどこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわからない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。


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以上、善人論、悪人論について書いた原稿を
掲載してみた。

理由は、実は、つぎの2つの記事を読んで
ほしかったからである。

2つも、ヤフー・ニュース(3月20日)に
載っていた記事である。

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●ヤフーの記事より転載(要約)

まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。そうわかってはいても、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある。

 18日、東京地裁の初公判。女性の顔面を殴るなどして手提げバッグを奪ったとして、強盗致傷の罪に問われた男性被告(35)もその1人だった。

 起訴状によると、被告は今年1月8日、東京都足立区の路上を歩いていた女性=当時(50)=を路上に押し倒し、ガードパイプに女性の後頭部をたたきつけるなどした上で、現金約6万5000円やキャッシュカードなどが入った手提げバックを奪った。女性の頭部などに全治10日のケガを負わせた。罪状認否で被告は起訴事実を認めた。

 被告は、郷里の家族とは音信不通の状態だったという。
 弁護人「家族は父母と兄、妹がいる?」
 被告「母は中学3年のときに死にました」
 弁護人「父親とは18年間、会っていない?」
 被告「はい」

 父親との折り合いが悪かった被告は、中学校を卒業すると、東京の寿司屋で働き始めた。それ以降、職を転々としながら働き続けた。犯行前に勤務していたのは警備会社だった。

 弁護人「12月28日にもらった給料はどうした?」
 被告「その日は家賃と弁護士費用を払った」
 弁護人「いくらですか?」
 被告「家賃は3万8000円、任意整理の弁護士費用が1万5000円」

 被告はその後、パチスロでさらに2、3万円を浪費した。次の勤務日、被告は出社しなかった。
 被告は消費者金融に約210万円の借金があったほか、上司にも2、3万円の借金があった。

 弁護人「なぜ(上司への)2、3万円の借金で行くのをやめた?」
 被告「何度も怒られて、注意されて、もう無理かなと思って」

 年末年始はゲームセンターでのゲームや、パチスロをして過ごした。自宅に帰るのも面倒だったので、新宿の漫画喫茶に寝泊まりした。

 弁護人「そのうち金がなくなるのは目に見えている。どんなことを考えていたの?」
 被告「どうなってもいいや」
 弁護人「どうなると思った?」
 被告「死ぬか、犯罪を起こすか」

 なぜ被告は犯罪の引き金を引いたのだろうか。

 弁護人「なぜ決意した?」
 被告「おなかがすいたし、自殺する勇気がない」
 弁護人「頭を下げて仕事に戻るという選択肢は?」
 被告「その時点ではどうなってもいいやと」
 被告は犯行を「後悔している」と述べ、弁護人からの問いに泣きじゃくった。
 弁護人「時計の針を戻せたら、どこでどうすればよかった?」
 被告「生まれてこなければよかった。どこでって、生まれたこと自体がもう…」

 検察側の求刑は懲役7年だった。客観的な犯行事実を見れば、「金がほしい」という犯行の動機は短絡的で、ガードパイプに頭部をたたきつけるという犯行の態様も危険極まりなく、求刑が重いのも理解できる。金がなくなった経緯も自業自得だ。だが、心の中でそう単純に切り捨てられなかった。

 中学校を卒業したらすぐ故郷を離れて上京し、家族の愛情も知らず、ただ働いて生きていくだけだった被告の「生まれてこなければよかった」という言葉が心に引っかかった。罪滅ぼしが済んだ後は、これからの人生で「生まれてきてよかった」と思える瞬間を自分の力で見いだしてほしい。

 判決は3月28日に言い渡される。(末崎光喜)

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同じく、3月19日に、こんな記事も載っていた。

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●でも思うようにもうからず…

 東京地裁の被告人席に座った熟年夫婦。サラリーマンとして勤め上げて定年退職した夫(63)と、その妻(57)の第二の人生は、夫唱婦随の乱交パーティー主催だった。

 夫婦が問われたのは売春防止法違反罪。起訴状によると、夫婦は平成19年11月15日、東京都品川区五反田のホテルにいた4人の男性に3人の女性を派遣して、売春を斡旋(あっせん)。罪状認否で夫婦は「間違いありません」と起訴事実を認めた。

 検察側の冒頭陳述などによると、夫婦は昭和52年に結婚。夫は広告代理店を定年まで勤め上げた。妻は専業主婦だった。

 夫婦には月20万円の年金収入があったが、夫は16年4月ごろ売春斡旋業をスタート。一人で続けるのは難しくなり、約1年後に妻を引き入れた。妻は嫌がったものの、結局は夫の求めに応じた。インターネットで客を募集し、月に2回ほど乱交パーティーを主催していた。

 男性被告が代理店に勤務している間は、どこにでもある普通の家庭だった。それがなぜ売春斡旋のような裏の仕事に手を染めるようになったのか。

 弁護人「どうして売春斡旋を始めたのか」
 夫「売春クラブをやっている女性の友人から誘われて」
 弁護人「その女性とはどうやって知り合ったのか」
 夫「会社時代に飲み屋で知り合った」
 裁判官「よりによってなぜこんな仕事を」
 夫「友人ができるなら自分にもできると思った」

 乱交パーティーの売り上げは20万円。このうち、ホテル代、食事代、避妊具代などに2万円。派遣する女性への支払いが3人で12万円。純利益は6万円にしかならなかったという。

 「思ったほどもうからなかった」。夫は法廷でうなだれた。

 弁護人は妻に一緒にやり始めた理由を聞いた。

 弁護人「嫌だと思っていたのになぜ一緒に始めたのか」
 妻「家が古いから立て替える資金ができるといわれて。そんなに怖いと思っていなかった」

 生活費と家の建て替え資金。この2つの理由で飛び込めるほど気軽な稼業ではない気がしたが、それ以上の理由は、被告人の口からは語られなかった。

 弁護側証人として、夫婦と同居していた二男が出廷。「こんなことをしていたなんて、まったく知らなかった」と絶句した。

 妻は「両親がこんなことをして、裁判所に来てもらうことは、何とも言いようがない」と述べ、おえつを漏らした。

 最後に裁判官は妻を諭した。「夫を止めるべきだった。二度とないように、あなたがしっかりしないといけない」。

 検察側は夫婦いずれにも懲役2年、罰金30万円を求刑した。判決は29日に言い渡される。(末崎光喜)

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以上が、ヤフー・ニュースに載っていた2つの
記事である。

あなたは、これら2つの記事を読んで、どう感じたで
あろうか。

もちろん犯罪にもいろいろある。同じ犯罪でも、
被害者や遺族の立場で見ると、まるでちがって
見えるということもある。

冒頭で、記事を書いた末崎氏が述べているように、
「まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。
そうわかってはいても、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある」というのは、
まさに正論である。

善人と呼ばれる人でも、そのうちの何割かは、「悪」である。
一方、悪人と呼ばれている人でも、そのうちの何割かは、「善」である。

要は、バランスの問題。
ときに善が崩れて人(=子ども)は、悪人になり、
悪が暴走して人(=子ども)は、悪人になる。
根っからの善人など、いない。
根っからの悪人など、いない。
むしろ善人ぶっている人のほうが、不気味。
仮面をかぶりながら、かぶっていること自体に、気がついていない。

……話が脱線しそうなので、ここまで。
子どもを見るときの参考になれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 善人論 悪人論 善悪 子どもの善悪)