Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, March 06, 2008

*What do we mean when we say " we are alive"?

『生きる』
When we say, “ We live” or “We are alive”, what does this really mean? I hereby think about this theme.

●自己の統合性

少し前、「自己の統合性」についての原稿を書いた。
それが、最近になって、気になってしかたない。
自分で書いた原稿が気になるというのも、どこか
おかしな話だが、時として、自分は自分に教えられる
ものなのか?

まず、そのとき書いた原稿をそのまま紹介する。
日付は、2007年10月になっている。+++++++++++++++どうすれば、(自分のすべきこと)と、(していること)を一致させることができるか。それが統合性の問題ということになる。が、それを一言で言い表した人がいた。マルチン・ルーサー・キング・Jrである。+++++++++++++++ マルチン・ルーサー・キングは、こう述べた。If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther King Jr.死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティン・ルーサー・キング・Jr) そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!) しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そうではないか? 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに紹介させてもらう。「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼女は退職届を出すところだった。 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞している。そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾hp」)と。 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。+++++++++++●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)1 いのち短し 恋せよ乙女  朱き唇 褪せぬ間に  熱き血潮の 冷えぬ間に  明日の月日は ないものを2 いのち短し 恋せよ乙女  いざ手をとりて 彼(か)の舟に  いざ燃ゆる頬を 君が頬に  ここには誰れも 来ぬものを3 いのち短し 恋せよ乙女  黒髪の色 褪せぬ間に  心のほのお 消えぬ間に  今日はふたたび 来ぬものを++++++++++++ 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!+++++++(以上、07年10月に書いた原稿より)+++++++

この原稿を読み返してみて、「では、今の私はどうなのか?」と自問する。
私は、すべきことをしているのか、と。
その前に、私には、命がけでしなければならないことがあるのか、と。

何度も書くが、(命がけでしなければならないこと)というのは、
そうは、簡単に見つからない。

見つかっても、それを命がけでするようになるまでには、10年とか20年とかいう、
熟成期間が必要である。

「定年退職になりました。明日からボランティア活動に専念します」という
わけにはいかない。

そこでもう一度、黒澤明監督の『生きる』を思い浮かべる。
死の宣告を受けた渡邊勘治(市の職員)は、最後の仕事として、
小さな公園作りに、生きがいを求める。
まるで人が変わったかのような猛烈な仕事ぶりを発揮する。

脚本はだれが書いたか知らないが、つまり、この映画は、それが「生きる」という
ことだということを、私たちに教えている。

で、実は、こんなことがあった。

私は、子どもたちを教えるということに、このところ、少なからず、
自信を失い始めていた。
いくら声高に叫んでも、またその弊害を説いても、私の教室のような小さな教室は、
大手の進学塾にはかなわない。

年齢というより、このところ体力的な限界を感ずることも多くなった。
そんな中、私にとっては、ありえないことが起きた。
地元のタウン誌が、私の教室を、広告費無料で、紹介してくれた※。
うれしかった。が、それ以上に、驚いた。
「こんな教室でも、応援してくれる人がいるんだな」と。

とたん、おかしなことだが、それまでの迷いが消えた。
私は何も変わっていない。
10年前、20年前の私とくらべても、むしろ今のほうが、体の調子もよい。
頭の回転が鈍ったという感覚も、ない。

むしろ、精神面では、人間的に丸く(?)なったような感じがする。
今では、どんなドラ息子でも、またドラ娘でも、笑って対処できる。
笑って対処しながら、その子どもを、私のリズムに乗せてしまうことができる。

若いころの私なら、「お前は、退塾!」と叫んでいたかもしれない。
そんな子どもでも、私は自由に操ることができる。

何も年齢など気にすることはない。

そうそうたまたま昨日(2月7日)は、こんなこともあった。

先月、地元の小学校で講演をさせてもらった。
自分では、ひどいできだったとばかり思っていた。
集中力も弱くなった。
聞きにきてくれた人の心も、うまくつかめない。
それに話す内容も、どこか、陳腐。つまらない。
その講演のあとも、「ぼくの講演は、もう、みなに、あきられ始めている」と思った。
「そろそろ潮時かな?」とさえ思った。

が、家に帰ってみると、その感想が届いていた※。
「一部……」ということだが、24人の方からの感想がコピーしてあった。
私はそれを読んでいるうちに、目頭が熱くなった。

うれしかった。
どういうわけか、うれしかった。

「まだまだがんばれる」という思いは、「私は何も変わっていない」
「何も変える必要はない」という思いに変わった。

人生には天井(=限界)があるのかもしれない。
が、今は、そんなことを気にする必要はない。
気にしてはいけない。
やるべきことを、まずやる。
その先に何があるか、私にもわからないが、とにかく、前に進む。

「♪若者は、また、歩き始める」(「若者たち」より)、である。

注※……「中日ショッパー、県西部、豊橋版」
注※……感想は、HP→プロフィール→講演の感想に収録しておきました。

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