Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, March 07, 2008

*The beginning of the Senile Dementia

●認知症のはじまり(The beginning of the Senile Dementia)

60歳になると、天井が見えてくる。
それまで見えなかった、天井が見えてくる。
70歳の人、80歳の人。

介護度が、2とか、3になる人もいる。
この世界では、「私はだいじょうぶ」と思っている人ほど、あぶない。
自分では、それがわからない。
が、そうでない人からは、それがわかる。

今、私の周辺で、あぶないのは、Kさん(67歳、女性)と、
それにM氏(70歳、男性)。
ともに、どこか、ヘン。おかしい?

まずKさん。

ものの視野が狭い。極端に狭い。目先のことしか、わからない。
それだけに振りまわされている。
一貫性がなく、ワーワーと騒ぐ。そのつど、内容が変化する。
言っていることが、支離滅裂。めちゃめちゃ。取り越し苦労の連続。
ささいなことを大げさにとらえては、ああでもない、こうでもないと騒ぐ。
ことこまかく説明しながら、どんどんと自分の世界に入ってしまう。

つぎにM氏。

時刻表的生活。雨戸を開ける時刻、閉める時刻などが、1分きざみで、正確。
道路の車が気になるらしく、だれかがほんの少しでも車を自分の家の
前に止めたりしただけで、パトカーを呼びつける。
がんこで、融通がきかない。
他人と接しているときは、まともな感じがする。
応対のし方も、ふううの人と変わらない。
が、同じ行動を、何度も繰り返す。
庭先を、用もないのに、言ったり来たりする。

ともに(こだわり)が強い。

ただ認知症と、うつ病は、この時期、区別がつきにくい。
認知症から、うつ病になる人もいるというし、反対に、うつ病から
認知症になる人もいるという。

どちらでも構わないが、周囲の者こそ、よい迷惑。

その人がそういう病気であるということがわかっていればよいが、
そうでないと、その人に引きずられてしまう。

Kさんについては、「?」と思うようになったのは、数年前から。
M氏については、5、6年ほど前から。

M氏についてはよくわからないが、Kさんについては、
夫も、気づいていないのではないかと思う。
それとなく話題にしてみるが、いつもヘラヘラしている。

夫のほうも、このところ少し、おかしくなってきた?
こういうケース、つまり夫婦ともにおかしくなるケースも少なくない。

だからこのところ、Kさんからの電話も、M氏からの電話も、
適当に聞き流すようにしている。
まともに聞いていると、こちらまで、気がヘンになる。
あるいは、話を聞きながら、心の中で、歌を歌っている。

しかしこの問題は、私自身、ワイフ自身の問題でもある。

ときどきワイフを横から観察してみる。
で、私が見たところ、とくにおかしいと思うところはない。
が、私自身も、同じように認知症になったとしたら、どうなのか。
ワイフの変化はわかるのか。

このところ、そんなことが心配になってきた。
それが冒頭に書いた、「天井」ということになる。
つまりこの世を生きる人間の、「限界」ということ。


●友人の申し出(To live in New Zealand)

ニュージーランドに住む友人から、メールが届いた。
海の見える別荘をいっしょに借りて、住まないか、という。
彼は、30年ほど前、彼は、オーストラリアから、
現在のニュージーランドに移り住んだ。
オークランドから車で、2時間ほどのところである。

「週、300ドルで、借りられる」と。
彼も、今年、定年を迎える。

300ドルというのは、日本円になおすと、
2万5000円。
月額になおすと、10万円。
高いか、安いか?

為替レートが、つりあっていない。
去年、オーストラリアへ行ったが、何もかも、
日本のものより割高な印象をもった。
とくにホテル代が、高かった。

反対に、先週、オーストラリアへ帰った友人は、
こう言っていた。
「日本の物価は、安い」と。

現在、1オーストラリアドルは、100円前後だが、
1ドル、80円くらいでもよいのでは?

で、その申し出を読んで、しばらく考えた。
いっしょに住むといっても、たがいに妻がいる。
仕事はどうするのか?
生きがいはどうするのか?

「いっしょに住む」といっても、現実は、そこにある。
その現実は、どうするのか?
夢やロマンだけでは、生活はできない。

いろいろ考えたが、やはり今は、行けない。
だから「NO」という返事を書いた。


●犬のクソと運命

庭掃除をしながら、「運命」について考える。

その庭には、ハナ(=犬)の糞が、ゴロゴロしている。
ハナは庭で放し飼い。
しつけもしていない。
だから、当たりかまわず、糞をする。
一応、庭のはずれでしているが、それでも庭掃除は、欠かせない。

その糞の始末をしながら、ふと、運命について考える。

「運命とは、それを受け入れてしまえば、悪魔は、向こうから
退散していく。しかしそれを避けようとすると、キバをむいて、
向こうから、襲いかかってくる」。

……というのは、私が考えた格言だが、こういうこと。

ときどき、失敬な人がいて、私の家の玄関先で、犬の糞をさせて
いく人がいる。
玄関のまん前で、である。

そういうとき、それを見つけた、ワイフが、こぼす。
ついで、私が怒る。

しかし、そこでふと立ち止まる。
犬の糞など、珍しくも何ともない。
先ほども書いたように、私の家の庭には、ハナの糞がごろごろしている。

数日も始末しないで放っておくと、結構な量になる。
しかしハナの糞については、何も感じない。
ごく当たり前の、日常茶飯事として、その糞を始末することができる。
が、玄関先の糞は、そうではない。

つまりここに運命に対する考え方のヒントがある。

私は、ハナの糞については、受け入れてしまっている。
だから気にならない。
一方、玄関先の糞については、それを避けようとしている。
だから腹が立つ。

同じ糞、なのに!
しかも量のことを言えば、玄関先の糞など、ハナの糞の何十分の一にも
ならない。

どうしてか?
……というより、ものごとは、前向きに受け入れていく。
そこにあるものを、そのまま受け入れていく。
とたん、ものの見方が、180度変わる。

たとえば……

今、ここに生きていることを原点に、ものごとを考えてみよう。

ものが見える。
ものが聞こえる。
体が動く。
食事がおいしい。

日ごろの何でもないことの中に、実は、すばらしい価値が隠されている。

そこに子どもがいる。
子どもといっしょに遊ぶ。
子どもといっしょに風呂に入る。
子どもといっしょに、本を読む。

その何でもないことの中に、実は、すばらしい価値が隠されている。

私について言えば、仕事ができるというだけでも、ありがたい。
仕事があるというだけでも、ありがたい。

ものごとは、そこから考える。
つまり今、私を取り巻く、無数の「糸」を、前向きに受け入れていく。
とたん、心が軽くなる。気が楽になる。

犬の糞について言えば、それを始末できるというだけでも、ありがたい。
それこそまさに、私が生きているという証(あかし)そのもの。


●時は、金の砂時計

前にも書いたが、「時」は、金の砂時計。
刻一刻と過ぎていく時間には、黄金ほどの価値がある。
……というたとえは、あまり好きではない。

現在、金は、1グラム3400円前後(08年3月)。
だからといって、1秒がいくら……というわけではない。
お金に換算するのは、正しくない。

ただこういうことは言える。

お金にこまかい人でも、時の使いかたにルーズな人は、
いくらでもいる。
よい例が、パチンコ。

半日、パチンコ店にいて、5000円、稼いだとする。
その人は、「5000円、儲けた」と思うかもしれない。
が、その人が過ごした半日は、どうやって取り返せばよいのか。

同じ1日でも、賢く使う人もいれば、そうでない人もいる。
が、どう過ごせば「賢い」といい、どう過ごせば、そうでないと
いうのか。
その判断が、むずかしい。

その上、加齢とともに、脳みそは、どんどんと萎縮していく。
知恵や知識は、こぼれるように、脳みその中から消えていく。
言うなれば、穴のあいたバケツのようなもの。

補っても補っても、それでも足りない。
そんな脳みそを、補わないでいたら、どうなるか?

その先は、まさにあの世界。恍惚(こうこつ)の世界。