Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, March 04, 2008

*Sons or daughters who abandon their parents

●親捨てる子ども(Son and daughters who abandon their parents)

 今でもある地方へ行くと、「親捨て」という言葉が残っている。「親のめんどうを見ない、親不孝者」の人のことを、そう呼ぶのだそうだ。

 ただ単なる言葉だけの問題ではない。その地方では、一度、親捨てと呼ばれたら、親戚づきあいができなくなるのは、もとより、近所の人たちからさえも、白い目で見られるという。現実には、「郷里へ帰ることさえできなくなる」(ある男性からのメール)とのこと。

 その地方では、そういう形で、むしろ子どもを積極的に、自我群のもつ束縛の中に、組みこもうとする。それは自分自身の老後のためかもしれない。親を捨てた子どもをきびしく排斥することによって、その一方で、自分の息子や娘に対して、「親を捨てると、たいへんなことになるぞ」と、警告することができる。

 が、それだけではない。

 「親捨て」のレッテルを一度張られた子どもは、その重圧感に、一生、悩み、苦しむことになる。 

 こんなメールが、Nさんという方から、届いた。

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●Y市のNさんよりメール
 
 Y市に住んでいる、Nさんより、母親(実母)についての相談があった。

 Nさんは、現在、31歳。2児の母親。

 Nさんの母親(実母)は、プライドの高い人で、人から、何か指摘されたりすると、カッとなりやすい人のようである。そしていつも、夫(Nさんの実父)の顔色をうかがって、生活しているようなところがあるという。

 Nさんにとって、Nさんの生まれ育った家庭は、とても「暖かい家庭」とは言えなかったようである。一度、Nさんが家出をしたとき、こんなことがあったという。Nさんが、高校生のときのことである。

 Nさんの母親は、Nさんを迎えにきたとき、Nさんに、「私がかわりに家出をするから、あなたはもどってきなさい」と言ったという。その一件で、Nさんは、母親との信頼関係が、崩れたように感じたという。

 「私は恵まれた家庭に育っていない。しかし自分の子どもたちには、家族の温もりを教えてあげたい」「幸福な気持ちで、生きてほしい」「どうしたらいいか」「また、両親に、もっと自分たちのことを気づいてほしい。どうしたらいいか」と。

【Nさんへ……】

 エッセー形式で、返事を書いてごめんなさい。Nさんのかかえておられる問題は、広く、つまりあちこちの家庭で起きている問題です。そういう意味で、エッセー形式にしました。どうか、ご理解ください。

【家族自我群からの解放】

 「家族意識」には、善玉意識と悪玉意識がある。これについては、すでにたびたび書いてきた。

 「家族だから、みんなで助けあって生きていこう」というのが、善玉家族意識。「家族として、お前には勝手な行動は許さない」と、家族同士をしばりあげるのを、悪玉家族意識という。

 この悪玉家族意識には、二面性がある。(ほかの家族をしばる意識)と、(自分自身がしばられる意識)である。

 「お前は、長男だから、家を守るべき」「お前は、息子なのだから、親のめんどうをみるべき」と、子どもをしばりあげていく。これが(ほかの家族をしばる意識)ということになる。

 一方、子どもは子どもで、「私は長男だから、家をまもらなければならない」「息子だから、親のめんどうをみなければならない」と、自分自身をしばりあげていく。これが、(自分自身がしばられる意識)である。

 問題は、後者である。

 それなりに良好な親子関係ができていれば、自分で自分をしばりあげていく意識も、それなりに、良好な親子関係をつくる上においては、プラス面に作用する。しかしひとたび、その親子関係がくずれたとき、今度は、その意識が、その人を、大きな足かせとなって、苦しめる。

 ばあいによっては、自己否定にまで進む。

 ある男性は、実母の葬儀に出なかった。いろいろ事情はあったのだが、そのため、それ以後、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまった。

 「私は親を捨てた、失格者だ」と。

 その男性の住む地方では、そういう人のことを、「親捨て」と呼ぶ。そして一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚はもちろんのこと、近所の人からも、白い目で見られるようになるという。

 こうした束縛性を、心理学の世界でも、「家族自我群」と呼ぶ。そうでない人、つまり良好な親子関係にある人には、なかなか理解しにくい意識かもしれない。しかしその意識は、まさにカルト。家族自我群に背を向けた人は、ちょうど、それまで熱心な信者だった人が、その信仰に背を向けたときのような心理状態になる。

 ふつうの不安状態ではない。ばあいによっては、狂乱状態になる。

 家族としての束縛性は、それほどまでに濃厚なものだということ。絶対的なものだということ。親自身も、そして子ども自身も、代々、生まれながらにして、徹底的に、脳ミソの中枢部にたたきこまれる。

 こうした意識を総称して、私は「親・絶対教」と呼んでいる。日本人のほとんどが、多かれ少なかれ、この親・絶対教の信者と考えてよい。そのため、親自身が、「私は親だから、子どもたちに大切にされるべき」と考えることもある。子どもが何かを、口答えしただけで、「何だ、親に向かって!」と、子どもに怒鳴り散らす親もいる。

 私がいう、悪玉親意識というのが、それである。

 ずいぶんと、回り道をしたが、Nさんの両親は、こうした悪玉家族意識、そして悪玉親意識をもっているのではないかと、思われる。わかりやすく言えば、依存型人間。精神的に未熟なまま、おとなになった親ということになるのかもしれない。Nさん自身も、メールの中で、こう書いている。

 「(母も)、そろそろ自分の人生を生きることを選んで欲しいと、心から願っています」と。

 Nさんの母親は、いまだに子離れができず、悶々としている。そしてそれが、かえってNさんへの心理的負担となっているらしい。

 実際、親離れできない子どもをかかえるのも、たいへんだが、子離れできない親をかかえるのも、たいへんである。「もう、私のことをかまわず、親は親で、自分の道を見つけて、自分で生きてほしい」と願っている、子どもは、いくらでもいる。

【親であるという幻想】

 どこかのカルト教団では、教祖の髪の毛を煎じて飲んでいるという。その教祖のもつ霊力を、自分のものにするためだそうだ。

 しかし、そういう例は、少なくない。考えてみれば、おかしなことだが、実は、親・絶対教にも、似たようなところがある。

 ……という話はさておき、(というのも、すでに何度も触れてきたので)、私も、すでに56歳。その年齢になった人間の一人として、こんなことが言える。

 「親という言葉のもつ、幻惑から、自分を解放しなさい」と。

 子どもから見ると、親は絶対的な存在かもしれない。が、その親自身は、たいしたことがないということ。そのことは、自分がその年齢の親になってみて、よくわかる。

 多分、20代、30代の人から見ると、56歳の私は、年配者で、それなりの経験者で、かつそれなりの人格者だと思うかもしれない。しかしそれは、幻想。ウソ。

 ざっと私のまわりを見ても、50歳をすぎて、40代のときより、進歩した人など、一人もいない。人間というのは、むしろある時期を境に、退化するものらしい。惰性で生きるうち、その範囲の生活的な技術は身につけるかもしれない。が、知性にせよ、理性にせよ、そして道徳観にせよ、倫理観にせよ、むしろ自ら、退化させてしまう。

 わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、くだらない人間になる人のほうが、多いということ。それはまさに健康や体力と似ている。よほどの訓練をしないと、現状維持すら、むずかしい。

 これは現実である。まちがいのない現実である。

 しかし親に対する幻想をもつ人は、その幻想に、幻惑される。「そんなはずはない」「親だから……」と。

 Nさんも、どうやら、そうした幻惑に苦しんでいるようである。

 だから、私は、こう言いたい。「Nさん、あなたの母親は、くだらない人です。冷静にそれを見抜きなさい。親だからといって、遠慮することは、ない」と。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、Nさんの母親をどうこうと言っているのではない。親・絶対教の人にこう書くと、かえって猛烈に反発する。以前、同じようなことを書いたとき、こう言ってきた人がいた。

 「いくら何でも、他人のあなたに私の母のことを、そこまで悪く言われる筋あいはない」と。

 私が言いたいのは、親といっても、その前に一人の人間であるということ。そういう視点から、親を見て、自分を見たらよいということ。親であるという幻惑から、まず、自分を解放する。

 この問題を解決するためには、それが第一歩となるということ。

【親のことは、親に任せる】

 Nさんのかかえるような問題では、子どもとしてできることには、かぎりがある。私の経験では、親自身に、特別な学習能力があるなら話は別だが、それがないなら、いくら説得しても、ムダだということ。

 そもそも、それを理解できるだけの、能力的なキャパシティ(容量)がない。おまけに脳細胞そのものが、サビついてしまっている。ボケの始まった人も、少なくない。

 さらにたいていの親(親というより、親の世代の年配者)は、毎日を惰性で生きている。進歩などというのは、望みようもない。

 そういう親に向かって、「あなたの人生観はまちがっている」と告げても意味はないし、仮にそれを親が理解したとしたら、今度は、親自身が、自己否定という地獄の苦しみを味わうことになる。

 つまり、そっとしておいてあげることこそ、重要。カルトを信仰している、信者だと思えばよい。その人が、その人なりに、ハッピーなら、それはそれでよい。私たちがあえて、その家の中に、あがりこみ、「あなたの信仰はまちがっている」などと言う必要はない。また言ってはならない。

 この世界では、そうした無配慮な行為を、「はしごをはずす行為」という。「あなたはまちがっている」と言うなら、それにかわる、(心のよりどころ)を用意してあげねばならない。そのよりどころを用意しないまま、はしごをはずしてはいけない。
 
 要するに、Nさん自身が、親自身に幻想をいだき、その幻惑の中で、もがいている。家族自我群という束縛から、解放されたいと願いつつ、その束縛というクサリで体をしめつけ、苦しんでいる。

 だから、Nさん自身が、まず、その幻想を捨てること。「どうせ、くだらない人間よ」「私が本気で相手にしなければならない人間ではない」と。

 「親だから、こんなはずはない」と思えば思うほど、Nさん自身が、そのクサリにからまれてしまう。私は、それを心配する。

 ある男性(50歳くらい)は、私にこう言った。

 「私の父親は、権威主義で、いつもいばっていました。『自分は、すばらしい人間だ』『私は、みなから、尊敬されるべきだ』とです。しかし過去をあれこれさぐってみても、父が、他人のために何かをしたということは何もないのですね。それこそ近所の草刈り一つ、したことがない。それを知ったとき、父に対する、幻想が消えました」と。

 あえて言うなら、Nさんの母親は、どこか自己愛的な女性ということになる。かわいいのは自分だけ。そういう自分だけの世界で、生きている。批判されるのを嫌う人というのは、たいてい自己愛者とみてよい。自己愛者の特徴の一つにもなっている。

 幼児的な自己中心性が肥大化すると、人は、自己愛の世界に溺れるようになる。Nさんのメールを読んでいたとき、そんな感じがした。

【お子さんたちのこと】

 Nさんは、子どもへの影響を心配している。「子どもたちに、幸福な家庭を見せてあげたい」と。

 心配は無用。

 Nさんの子どもたちは、Nさんの子どもたちへの愛情の中から、自分たちの進むべき道を見つけていく。つまりそうして子どもたちの将来を心配するNさんの愛情こそが、大切ということ。

 たしかに子どもというのは、自分の置かれた環境を再現する形で、おとなになってから、子育てをする。しかしそれは、決して、物理的な環境だけではない。

 もちろん問題がないわけではない。しかしどれも克服できる問題ばかり。現に今、Nさんは、私にメールをくれることで、真剣に子どもたちのことを考えている。

 こういう姿勢があるかぎり、子どもたちは、必ず、自分の進むべき道を自分で見つける。

 大切なのは、「形」ではなく、「自分で納得できる人生」である。

 だから子どもたちに対する愛情だけは、見失わないように。

【改めてNさんへ……】

 以上、大急ぎで返事を書きました。あちこち何かしら言い足りないところもありますが、参考にしていただければ、うれしいです。

 Nさんの問題をテーマにしてしまいましたが、どうか、ご了解の上、お許しください。x月x日号を今夜配信しなければならないのですが、この数日、ほとんど原稿を書いていません。

 それでx月x日号の原稿とかねて、返事を書かせてもらいました。お許しください。

 では、今夜は、これで失礼します。未推敲のまま原稿を送ります。よろしくお願いします。