*Children who toss gags
●ギャグ化する子ども世界(Those children who make everything gags)
Less and less children think things serious, or make them all gags. For example when I give them a subject in which I ask them what sort of movie they wish to make, if they are the producer of the film. They give me back funny and strange stories which have no serious stories. Is this the phenomenon which occurs only in Japan?
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ますます子どもの世界が、ギャク化している。
恐ろしいほど、ギャグ化している。
作文などを書かせても、まじめに考えよう
とすらしない。
ギャーギャーと騒いでいるだけ。
そしてその勢いで、突飛もないことばかり書く。
先日も、こんなテーマで作文を書かせてみた。
「あなたが映画の監督なら、どんな映画を
作りますか。あらすじを書いてください」と。
それに対して、「悪魔が、人間の骨を食べる」
「バカがバカの頭をたたいて、脳みそをつぶす」
「ゴジラが海で、スイミングする」とかなど。
思考性に連続性もなければ、統合性もない。
脳の表面に飛来する情報を、そのつど、音声に
しているだけ。
こうした現象が起きる原因を、すべてテレビの
ギャク番組のせいにすることはできない。
しかし「そうでない」とは、もっと、言えない。
あるいは、相乗効果なのかもしれない。
さらに言えば、日本人全体がギャク化しているため、
テレビでもその種の番組が、もてはやされるのかも
しれない。
どうであるにせよ、こうした現象を、いったい、
どれだけの人たちが知っているだろうか。
文科省の役人にしても、このことにどれだけ、気づいて
いるだろうか。
最近の子どもたちは、ますますものごとを、まじめに
考えなくなってきている。
反対に、まじめに考える人を、バカにし始めている。
そんな現象すら見られる。
まさに、一億、総ギャグ化!
右を見ても、ギャグ、左を見ても、ギャグ。
こんなことで、いいのか、日本!
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●破壊的行動障害
その子どもの破壊的、挑戦的、突発的、衝動的、否定的、拒否的な行動が、一定の秩序ある環境になじまない状態にあること、「破壊的行動障害」という。多くは多弁性や、多動性をともなう(DSM-Ⅳの診断基準を参考)。
ADHD児についての関心は大きくなり、各方面で研究がなされ始めているが、この「破壊的行動障害児」についての研究は、今、日本でも始まったばかりといってよい。軽重の問題もあるが、私の経験でも、二〇~三〇人に一人前後の割合で経験する。U君(小五)という子どもがそうだった。
U君は、私が何を注意しても、すべてをギャク化してしまった。まじめな会話ができないばかりか、私が、まじめか、そうでないかも、判断できなかった。瞬間的なひらめきは鋭いため、学習面での遅れはそれほど目立たなかった。が、少し目を離すと、周囲の子どもたちを巻きこんで、騒いでばかりいた。
私「U君、静かにしなさい! 先生は、怒っているんだぞ!」
U「怒ってる、怒ってる、タコみたい」
私「あのな、先生は、今、まじめに怒っているんだぞ!」
U「ははは、怒れば、脳の血管、破れて、先生は、あの世行き」
私「静かに、私の話を聞きなさい!」
U「聞いてる、聞いてる、きいてるのは、肩の湿布薬」と。
このタイプの子どもの指導のむずかしいのは、叱っても、一時的な効果しかないこと。つぎに教室という「場」がもつ秩序を、破壊してしまうこと。それにたいていは、家庭できびしいしつけを受けているため、家庭では、それなりに「いい子」ぶっていていること。そのため親にその認識がないことなどがある。
原因については、いろいろいわれているが、性格や性質というより、もっと機質的な部分に原因がるような印象を受ける。脳の微細障害説を唱える学者(福島章氏ほか)もいるが、じゅうぶん疑ってみる価値はある。
このタイプの子どもの、もう一つの特徴としては、自己意識によるコントロールができないことがある。ふつう、小学三、四年生を境として、自己意識が発達し、子どもは自らをコントロールするようになる。そして外からは、その症状がわかりにくくなる。が、このタイプの子どもには、それがない。あたかも意図的に、自ら騒々しくしているといった印象を受ける。
本来なら、親の協力が不可欠なのだが、ここにも書いたように、たいていは家庭でのきびしいしつけが日常化していて、家では、それなりに「いい子」であることが多い。(むしろ明るく、活発な子どもと誤解するケースが多い。)またこうした行動障害は、集団教育の場で現れることが多く、そのため、家庭では、ほとんど目立たない。しかし家庭でのしつけがきびしければきびしいほど、その反動として、外の世界で、強く、その症状が現れる。
対処方法としては、まず親の理解と協力を得るしかない。つぎに、家庭でのきびしいしつけを、軽減してもらう。頭ごなしの説教や、威圧、暴力がよくないことは、言うまでもない。このタイプの子どもは、「叱られる」ことについて、かなりの免疫力をつけていることが多い。つまりそういう免疫力をつけさせないようにする。たとえばこのタイプの子どもは、ふつうの叱り方では、効果がない。そこで勢い、大声を張りあげて……ということになるが、それは集団教育の場では、できるだけ避けなければならない。
いろいろ問題はある。私のばあい、もう少し若ければ、こうした子どもと直接対峙して、マンツーマンの教育をしてみるだろうが、このところ、その体力の限界を感ずるようになった。これからの若い先生方に、解決の方法を考えてもらいたい。
(030724)
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●やるせない虚脱感
少し前、ある小学校で、一人の子どもが、学校で飼っていたうさぎを、二階のベランダから落として殺すという事件があった。この事件は、新聞にも報道された。そのため、教育者のみならず、親たちにも、大きな衝撃を与えるところとなった。
こういう事件が起きると、現場の教師たちは、最初は、はげしい怒りに襲われる。しかしつぎの瞬間、今度は、一転して、同じくはげしい無力感に襲われる。「やるせなさ」と言ったらよいかもしれない。その事件を直接見聞きた、ある先生も、そう言っていた。
怒り……それは当然だ。問題は、無力感。私にも、何度か、経験がある。
もう三〇年ほど前になるだろうか。こんな事件があった。そのとき、私はある予備校で、講師のアルバイトをしていた。そこでのこと。控え室へ戻って、飲みかけたお茶を飲もうと思って、席に座った。気がつくと、三、四人の中学生が、ニヤニヤ笑いながら、私を見つめているではないか。「どうしたの?」と聞いても、ただ笑っているだけ。
で、一気に、お茶をぐいと飲んだ。おかしな臭(にお)いはしたが、私は、割とそういうことには無頓着。で、飲んでしまって、茶碗を下に置くと、一人の中学生が、こう言った。
「先生、へんな味はしなかった?」と。
とたん、ピンときた。「君たち、ぼくのお茶の中に……」と。そこまで言いかけて、もう一人の中学生の手を見ると、彼は殺虫剤のスプレー缶をにぎっていた。私は、カーッとなって、こう叫んだ。
「バカヤロー。冗談でしていいことと悪いことがある。お前たちには、それを判断する能力もないのか。出て行け!」と。
あとでマネージャーになだめられたが、私の腹のムシは収まらなかった。「即刻、退塾させてほしい」と私は迫ったが、「それは待ってほしい」と。
で、そのあとである。私を、はげしい無力感が襲った。それは虚脱感と言ってもよかった。そういうバカ(脳ミソのできふできを言うのではない。常識に欠ける行為をする人間を、「バカ」という)を相手に、知恵をつけなければならない虚(むな)しさ。相手にしなければならない虚しさ。教えなければならない虚しさ。そういうものが、どっと私を襲った。
恐らく、その虚しさは、この世界の外にいる人には、理解できないものだろう。「教育を否定されたかのような虚しさではありませんか?」とわかったようなことを言う人もいるが、そんなものではない。それは自分のしていることを、のろいたくなるような虚しさである。
で、それでこの種の事件は終わったわけではない。それからも、つぎつぎと起きた。最近でも起きた。それもその回数が、以前より、多くなった? 子どもたちの「質」が、明らかに変化している。ものの考え方が、ギャグ化し、言動が、ゲーム化している? うさぎを二階のベランダから落として殺したというのも、その一つにすぎない? まじめに考えることを、今の子どもたちは、「ダサイ」と言う。そういう子どもたちに、いちいち腹をたてていたら、仕事そのものが成りたたない。
で、なぜ、こういう非常識な子どもが、ふえつつあるか、である。常識がないというか、道理がわかっていない。自分で考える力さえ、ない。そのときの気分と、はずみで、メチャメチャなことをしてしまう。頭のよし、あしには、関係ない。勉強ができる、できないにも、関係ない。
えてして親は、教師は、そして世間一般は、勉強がよくできる子どもイコール、人格者と考える。学歴のある人イコール、人格者と考える。しかしこれはまったくの誤解。ウソ。デタラメ。はっきり言えば、幻想。むしろ頭がよい分だけ、タチ(性質)が悪い。有名進学高校ほど、陰湿ないじめが多いというのは、そういう理由による。
最近の子どもたちは、何かを見落としたまま、知識や知恵を身につけている。親たちも、その知識や知恵だけをみて、子どもを判断しようとする。こうしたイビツな教育観が、おかしな子どもを、どんどんと生産している。
で、私のばあい、腹を立てることは、少なくなったが、虚しさだけは、どんどんとふくらんでいる。それはたとえて言うなら、小さな苗を植えたところから、巨大なブルドーザーで、踏み荒らされるような虚しさである。ときどき、この世界から足を洗いたくなることもある。私一人の力では、どうにもならない。いや、もし私に、それなりの退職金と年金が入るなら、明日にでも足を洗うかもしれない。
こうした現象を防ぐために、子どもには、静かに考える場所と、時間を提供すること。一日、一時間や二時間では足りない。数時間単位で、ひとりで考えられるようにすること。そのためには、テレビ、ゲームなどは避ける。少なくとも夕食後は、ひかえる。そしてあとは、自分で行動させ、自分で責任をとらせる。こうした積み重ねが、子どもを常識豊かな子どもにする。
そう、今、その常識豊かな子どもが、減ってきている。それは事実だ。
(030923)
【ギャグ化現象】
日本語でも、昔から、「茶化す」「はぐらかす」「おちょくる」「からかう」「とぼける」「ごまかす」などという表現がある。要するに、ものの本質から逃げて、相手を煙に巻くことをいう。
● 逃避……たとえば「環境汚染が進んで、空気が汚染されたらどうする?」と問いかけると、「パソコンで、青い空をつくればいい」と答えるのが、それ。
● 仰天……相手の言っていることに対して、突飛もないことを言って、その場を、はぐらかす。「地震がやってくるかもしれないね」と言ったことに対して、「巨大隕石が落ちてくると、地球はこなごなになる」と言うのが、それ。
● 飛来……思いついたことだけを、ペラペラと言う。「ラーメン、食べたい」「Xメンだ」「からし明太子(めんたいこ)」と。前後の脈絡がない話を、つぎつぎとつなげていく。
● 奇声……「どひゃー」「ウエウエ」「ドギドギ」というような、意味のわからない言葉で、その場をごまかしてしまう。「明日の遠足のしたくはできているの?」と聞くと、「ジャジャ~ン」と答えるなど。
こうしたギャク化現象は、三〇年前には、なかった。こうしたギャクを口にすれば、それだけで軽薄な人間と思われた。英語にも似たような現象はあるが、質が違う。オーストラリアの友人に、このことを話すと、その友人は、こう言った。
「オーストラリア人は、ジョークを言うのが好きだ。しかし日本人は、ジョークを言わない。その分だけ、ギャク化するのではないか」と。この問題は、また別の機会にほりさげて、考えてみたい。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●多弁児
昔も、よくしゃべる子どもというのは、たしかにいた。しかしここ一〇~二〇年、少し様子が変わってきた。意味のないおしゃべりを、絶え間なくつづける子どもがふえてきた。一〇人のうち、二~三人に、その傾向が見られる。
「ヒント、ほしいな」「ははは、これだ、これだ」「S君、やってくれ」「計算の神様、どうか、お助けを」「無限だ」「答は、無限だ」「チャンスはいっぱい」「ははは」「おれは、お客だ」「一か月のお客だ」「それならいい」「できた、できない、多分、まちがっている」「孫はときどき、天才になる」「おいらは、アホだ」「合っていれば、丸々」「丸々ちゃん」と。
これは実際、ある子ども(小四男児)のひとり言を、そのまま収録したものである。
原因としては、テレビゲームが、まず疑われる。
小学三、四年生についてみると、かなり大雑把(ざっぱ)な調査だが、こうした多弁性が強い子どもは、一方で、ほとんどがテレビゲーム漬けになっているのがわかる。とくに多弁性が強い子どもは、まちがいなく、そうである。このタイプの子どもは、脳に飛来する情報を、そのまま口にする。思考力や判断力、とくに抑制力が、ほとんど働かない。まさに脳が乱舞したような状態になる。その状態で、しゃべりつづける。
いわゆるADHD児でも、同じような傾向が見られるが、いわゆる多動性は、あまり目立たない。
こうしたひとり言を放置すると、授業そのものが崩壊してしまう。うるさいというより、騒々しい。まともに耳を傾けていると、気がヘンになる。そこでさらに強く注意して、それを制止しようとする。が、効果は一時的なものでしかない。
さらにきつく注意すると、今度は、まわりの子どもたちが、神経質になってしまう。だから、それもできない。本人も、騒々しい割には、神経質で、気が小さい。あまり強く叱ると、先生をおびえるようになることがある。そんなわけで、指導にも、限界がある。
こうした多弁性のある子どもを、私は勝手に「多弁児」と呼んでいる。「支離滅裂型多弁児」というのが、正確かもしれない。もしあなたの子どもに、以下のような傾向がみられたら、少なくとも、テレビゲームは避ける。
● 意味のないひとり言を、間断なく話す。
● 制止しても、その場の効果しかない。
● ひとり言を言っている間、視線が目まぐるしく動く。
● 始終、落ちつかない様子を見せる。小刻みな動きがみられる。
● 突発的に、思いついた行動に走ることが多い。
静かに人の話を聞く。……それは教育の基本でもある。しかしそれができないとなると、教育そのものが、成りたたなくなる。そんなわけで、今、現場の教育は、危機的な状況にあるといってもよい。一クラス、一人、二人ならまだしも、このタイプの子どもが、三人、四人もいると、もう静かな授業などできない。たがいにしゃべりあうなどの、相乗効果が起きてしまう。それにその周囲の子どもが、巻きこまれる。そのため授業は、崩壊する。
(030923)
Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司
●内気、依存的な子ども
内気、依存的な子どもについて、それは「性格」だとか、「性質」だとかと、誤解している人は多い。しかし誤解は、誤解。
人間の心的エネルギー(リピドー)は、みな、共通である。その心的エネルギーを、前向きに出すか、あるいは反対にブレーキをかけるかで、積極的な子どもと、消極的な子どもに分かれる。
もう少しわかりやすい例で考えよう。
ここに100CCのバイクがある。良質な燃料をつんで、それなりの道で走れば、軽く150キロ・時のスピードが出る。しかしそのバイクでも、もし車輪にヒモやロープがからんでいると、車輪は回らない。回らない分だけ、スピードは遅くなる。ばあいによっては、止まってしまう。
この車輪にからむヒモやロープが、子どもを、内気にしたり、依存的にしたりする。思いついたままで恐縮だが、そのヒモやロープになるものを、ざっと書いてみる。
● 過干渉……子どもの意思的な活動を阻害する。強度の過干渉は、子どものやる気を奪うのみならず、自我を軟弱にする。
● 設計図……「こうあるべき」という親の設計図が、子どもの自我をつぶす。子どもは、自信のない、ハキのない子どもになる。
● 過保護、溺愛……子どもから社会性をうばう。社会を生きるために必要な問題解決の技法を、身につけられなくなる。
● 威圧、暴力……親への恐怖心は、子どもの住む世界を、かぎりなく小さくする。とくに親の情緒不安ほど、子どもの心に悪影響を与えるものはない。
● 過関心……子どもの心を射抜くような視線、過関心は、子どもからハツラツとした「子どもらしさ」を奪う。
● マイナスのストローク……「あなたはやはりダメな子」式の暗示がかかってしまうと、子どもはその暗示の呪縛から抜け出られなくなる。
もちろん子ども自身の問題もある。いろいろな恐怖症、強迫観念など。同じ過干渉でも、それを受け取る側の子どもによっては、過干渉になったり、しないこともある。たとえばデリケートな子ども(例、過敏児、敏感児など)ほど、同じ刺激でも、より大きく反応する。
ほとんどの親は、「どうしてうちの子は、内気なのでしょう。もっとハキハキさせる方法はないのでしょうか」という。しかしその原因のほとんどは、家庭教育の失敗(失礼!)である。だから子どもだけをみて、子どもをなおそうとしても意味がないばかりか、かえって症状を悪化させてしまう。
改めるべきは、親の育児姿勢、育児態度、それに家庭環境である。……こう言い切るのは危険なことだが、しかしそれくらいの覚悟を、今の若い母親たちはもってほしい。
(030724)
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