Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, June 23, 2008

*Children who are like dolls (3)

【はやし浩司より、Vさんへ】

●代償的過保護

 親の過干渉、過関心、プラス過剰期待が、子どもをいかに苦しめるものであるか。親は、「子どものため」と思ってそうしますが、子どもにとっては、そうではないのですね。その苦しみは、苦しんだものでないと、わからないものかもしれません。

 発達心理学の世界にも、「代償的過保護」という言葉があります。一見、過保護なのだが、ふつう過保護には、それがよいものかどうかは別として、その基盤に親の愛情があります。その愛情が転じて、過保護となるわけです。が、中には、愛情のともなっていない過保護があります。それが「代償的過保護」ということになります。言うなれば、過保護もどきの過保護を、「代償的過保護」といいます。

 たとえば子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと思うのが、代償的過保護です。そして親自身が感ずる、不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 「こんな成績で、どうするの!」「こんなことでは、A学校には、入れないでしょ!」「もっと、勉強しなさい!」と。

 その原因はといえば、親の情緒的未熟性、精神的欠陥があげられます。親自身が、心にキズをもっているケースもありますし、それ以上に多いのが、親自身が、自分の結婚生活に対して、何か、大きなわだかまりや不満をもっているケースです。

 わかりやすく言えば、満たされない夫婦生活に対する不満を、子どもにぶつけてしまう。自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに求めてしまう。明けても暮れても、考えるのは、子どものことばかり、と。

 しかし本当に子どもの立場になって、子どもの心を理解しているかといえば、そういうことはない。結局は、自分のエゴを、子どもに押しつけているだけ。よい例が、子どもの受験競争に狂奔している母親です。(父親にも多いですが……。)

 このタイプの親は、子どもには、「あなたはやればできるはず」「こんなはずはない」「がんばりなさい」と言いつつ、自分では、ほとんど、努力しない。いつだったか、私が、そんなタイプの母親に、「では、お母さん、あなたが東大に入って見せればいいじゃないですか」と言ったことがあります。すると、その母親は、はにかみながら、こう言いました。「私は、もう終わりましたから……」と。

そして、すべてのエネルギーを、子どもに向けてしまう。それが親として、あるべき姿、もっと言えば、親の深い愛情の証(あかし)であると誤解しているからです。

●親の過剰期待

 が、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはありません。子どもは、その重圧感の中で、もがき、苦しみます。それを表現したのが、イプセンの『人形の家』ですね。それについては、もう何度も書いてきましたので、ここでは省略します。子どもは子どもで、まさに「人形」のような子、つまり「人形子」になってしまいます。

 「いい子」を演ずることで、自分の立場をとりつくろうとします。しかし人形は人形。どこにも、「私」がない。だから、このタイプの子どもは、いつか、その成長段階で、自分を取りもどそうとします。「私って、何だ!」「私は、どこにいる!」「私は、どうすればいいんだ!」と。

 それはまさに、壮絶な戦いですね。親の目からすれば、子どもが突然、変化したように見えるかもしれません。そのままはげしい家庭内暴力につながることも、少なくありません。

 (反対に、親にやりこめられてしまい、生涯にわたって、ナヨナヨとした人生観をもってしまう子どももいます。異常なまでの依存性、異常なまでのマザコン性が、このタイプの子どもの特徴のひとつです。中には、40歳を過ぎても、さらに50歳を過ぎても、母親の前では、ひざに抱かれたペットのようにおとなしい男性もいます。)
 
 ……だからといって、Vさんがそうだったとか、Vさんのお母さんが、そうだったと言っているのではありません。ここに書いたのは、あくまでも、一般論です。

 ただ注意したいことは、2つあります。

●批判だけで終わらせてはいけない
 
ひとつは、Vさんは、自分の母親を見ながら、反面教師としてきたかもしれませんが、自分自身も、自分の子ども、つまりY男君に対して、同じような母親になる可能性が、たいへん高いということです。「私は、私の母親のような母親にはならない」と、いくらがんばっても、(あるいはがんばればがんばるほど)、その可能性は、たいへん高いということです。

 子育てというのは、そういう点でも、親から子へと、伝播しやすいと考えてください。今はわからないかもしれませんが、あとで気がついてみると、それがわかります。「私も、同じことをしていた」と、です。どうか、ご注意ください。

●基本的信頼関係

 もうひとつは、情緒的未熟性、精神的な欠陥の問題です。(Vさんが、そうであると言っているのではありません。誤解のないように!)

 最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のばあい、そのほとんどは、原因は、乳幼児期の育てられ方にあるということがわかってきました。とくに注目されているのが、乳幼児期のおける母子関係です。

 この時期に、(絶対的な安心感)を基盤とした、(基本的信頼関係)の構築に失敗した子どもは、不安を基底とした生き方をするようになってしまうことが知られています。「基底不安」というのがそれです。おとなになってからも、ある種の不安感が、いつもついてまわります。それがうつ病の引き金を引くというわけです。

また、ここでいう(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)を言います。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味です。

 つまり子どもの側からみて、「どんなことをしても、許される」という、絶対的な安心感のことをいいます。これが(心)の基本になるということです。心理学の世界でも、こうして母子の間でできる信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼んでいます。

(あくまでも、「母子」です。この点においては、父親と母親は、平等ではありません。子どもの心に決定的な影響を与えるのは、あくまでも母親です。あのフロイトも、そう言っています。)

 そのためには、子どもは、(望まれて生まれた子ども=wanted child)でなければなりません。(望まれて生まれた子ども)というのは、夫婦どうしの豊かな愛情の中で、愛情に包まれて生まれてきた子どもという意味です。

 が、そうでないケースも、多いです。たとえば(できちゃった婚)というのがありますね。「子どもができてしまったから、しかたないので結婚しよう」というのが、それです。夫婦の愛情は、二の次。だから生まれてきた子どもへの愛情は、どうしても希薄になります。

それだけですめばまだよいのですが、そのため親は親で、(とくに母親は)、子育てをしながら、そこに犠牲心を覚えるようになる。あるいは、そのまま自分の子どもを、溺愛するようになる。

●絶対的な母子関係

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」を、口ぐせにする親は、たいていこのタイプの親と考えてよいです。もともと夫婦の愛情が基盤にあって生まれた子どもではないからです。

 一方、子どもは子どもで、そういう母親でも、親であると、自分の脳みその中に、本能に近い部分にまで刷りこみます。やはり最近の研究によれば、人間にも、鳥類(殻から出てすぐ二足歩行する鳥類)のような、(刷りこみ=imprinting)があることがわかってきました。これを「敏感期」と呼んでいます。

 つまり子どもは子どもで、そういう環境で育てられながらも、「産んでいただきました」「育てていただきました」「大学まで出していただきました」と言い出すようになります。

 つまり、親の子どもへの依存性が、そのまま、今度は、子どもの親への依存性へと変化するわけです。

 これがここでいう「伝播」ということになります。わかりますか?

 そしてそれは、先にも書きましたように、今度は、あなたという(親)から、あなたの(子ども)へと伝播する可能性があるということです。そういう意味では、『子育ては本能ではなく、学習』ということになります。あなたの子どもはあなたという母親を見ながら、今度は、それを自分の子育て観としてしまう!

 では、どうするか?

●「私」をつくる3つの方法

 自分の親を反面教師とするならするで、批判ばかりでは終わってはいけないということです。また今は、「仏様」(Vさん)のようであるからといって、過去の母親を、許してはいけないということです。

 あなたはあなたで、親というより、人間として、別の人格を、自分でつくりあげなければなりません。それをしないと、結局は、あなたは、自分の親のしてきたことを、そっくりそのまま、今度は、自分の子どもに繰りかえしてしまうということになりかねません。
 
そのために、方法はいくつかありますが、ひとつは、すでにVさん自身がなさっているように、(1)過去を冷静にみながら、(2)自己開示をしていくということです。わかりやすく言えば、自分を、どんどんとさらけ出していくということです。そしてその上で、(3)「私はこういう人間だ」という(私)をつくりあげていくということです。

 いろいろ事情はあったのでしょうが、またほとんどの若い母親はそうであると言っても過言ではありませんが、あなたの母親は、そういう点では、情緒的には、たいへん未熟なまま、あなたという子どもを産んでしまったということになります。(だからといって、あなたの母親を責めているのではありません。誤解のないように!)

 子どもから見れば、どんな母親でも、絶対的に見えるかもしれません。が、それは幻想でしかないということです。ここに書いた、(刷りこみ)によってできた幻想でしかないということです。

 それもそのはず。子どもは、母親の胎内で育ち、生まれてからも、母親の乳を受けて、大きくなります。子どもにとっては、母親は(命)そのものということになります。しかし幻想は幻想。心理学の世界では、そうした幻想から生まれる、もろもろの束縛感を、「幻惑」と呼んでいます。

 で、私もあるとき、ふと、気がつきました。自分の母親に対してです。「何だ、ただの女ではないか」とです。私も、「産んでやった」「育ててやった」という言葉を、それこそ、耳にタコができるほど、聞かされて育ちました。だからある日、こう叫びました。私が高校2年生のときのことだったと思います。

 「いつ、オレが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

 それが私の反抗の第一歩でした。で、今の私は、今の私になった。もしあのとき反抗していなければ、ズルズルと、マザコンタイプの子どものままに終わっただろうと思います。(もっとも、それで家族自我群がもつ重圧感から、解放されたというわけではありませんが……。)

●Vさんへ、

 ……とまあ、Vさんに関係のないことばかりを書いてしまいました。Vさんからのメールを読んでいるうちに、あれこれ思いついたので、そのまま文にした感じです。ですから、どうか、仮にお気にさわるような部分があったとしても、お許しください。

 子育てを考えるということは、そのまま自分を考えることになりますね。自分を知ることもあります。私も多くの子どもたちに接しながら、毎日、それこそいつも、「私って何だろう」「人間って何だろう」と、そんなことばかりを考えています。

 以上、何かの参考になれば、うれしいです。また原稿ができまたら、送ってください。いっしょに、(自己開示)を楽しみましょう! どうせたった一度しかない人生ですから、ね。何も、それに誰にも、遠慮することなんか、ない。

 だって、そうでしょ。私も、Vさんも、「私」である前に、1人の人間なのですから……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家族自我群 幻惑 過干渉 過関心 代償的過保護 自己開示 はやし浩司 親の過干渉 過干渉児