Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, August 31, 2008

*To get tired before we have a rest

●ブルー・マンディ

どうして「ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日)になるかといえば、
日曜日の過ごしかたに問題があるから」(ある女性精神科医の書いた本)と。

つまり日曜日にだらしない生活をしてしまうと、その夜は、熟睡できない。
だから翌、月曜日は、朝から気分が晴れない。
それがブルー・マンディにつながる、と。

つまり日曜日こそ、スポーツをしたり運動をしたりしなければならない。
そしてその夜は、ぐっすりと眠る。

とは言われても、日曜日だけでも、ダラリとしてみたい。
ヒゲも剃らず、髪の毛もとかさず、時間にしばられず……。
その結果として、ブルー・マンディがあるとするなら、
ブルー・マンディを受け入れるしかない。

で、私はブルー・マンディというのは、もっと生き様に関連しているもの
ではないかと思う。
日曜日にゆっくり休む。
そのときついでに、自分のしていることが、生物としての人間の(基本)と
ズレていることを知る。
つまり休むことによって、(自分を取り戻す)。
が、月曜日に待っている世界は、何もかもが、その(基本)とはズレている(?)。
その調整がストレッサーとなって、その人を憂鬱にする。

ここでいう(基本)というのは、私の目前に広がっているような世界をいう。
もともと人間というのは、こういう世界に住んでいた。
が、実際の生活は、その(基本)から、かなりズレている。

都会に住んでいる人には失礼な言い方になるかもしれないが、都会の生活は、あれは
人間の生活ではない。

先日も横浜で通勤列車に乗り合わせたが、あれはひどい。
電車の中の人たちは、トラックに詰め込まれた家畜のよう。
窓の外に垣間見える景色は、まるで巨大な墓石のよう。
聞こえるのは、ゴーゴー、キンキンという機械的な音。

そういう生活に慣れろと言われても、今の私には、もうできない。
おそらく毎日が、ブルー・マンディになってしまうだろう。

その本を書いた女性精神科医は、ブルー・マンディを「悪」として、とらえている。
「悪」というより、それを治すには、どうしたらよいかという立場で、本を
書いている。
しかしもし私が社会学者なら、こう考えるだろう。

「人がブルー・マンディになるのは、その人に原因があるからではない。
社会のほうが、ゆがんでいるからだ」と。
またそういう視点で、この問題を考える。

何も日曜日は、月曜日のためにあるのではない!
その日曜日すらも、翌日の仕事のための準備に使うとしたら、では、
人は、いつ、どこで心と体を休めればよいのか?

ブルー・マンディというのが、それほど深刻な問題であるとするなら、
月曜日は、仕事は午後から、とすればよい。
私が政治家なら、そう提案する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ブルー・マンディ ブルーマンデー ブルーマンディ)

(補記)

日本人と、たとえばオーストラリア人の生き方を比較してみたばあい、
大きくちがう点が、ひとつ、ある。

日本人というのは、常に、未来のために現在を犠牲にするという生き方をする。
子どもの教育についても、幼稚園教育は、小学校での勉強のために。
小学校教育は、中学校での勉強のために。
中学や高校での教育は、その先の大学受験のために、と。

こうした意識は、社会へ入ってからも、変わらない。
つまり日本人は、いつも鼻先にニンジンをぶらさげながら、生きる。

で、やっと仕事から解放され、自由になったと思ったとたん、そこに
待っているのは、「老後」と。
そういうことになる。

一方、オーストラリア人は、そうではない。
常に「今」の生活を大切にする。
そういうものの考え方が、子どものときから徹底している。
『休息を求めて疲れる』というのが、愚かな生き方の代名詞のようにも
なっている。
(これについて書いた原稿があるので、あとでさがしてみる。)
私の友人のP君にしても、42歳ごろまでに稼ぐだけ稼いで、
全豪一の高所得者になったあと、会社を売り払い、現在は、
レーシングカー・チームをつくり、世界を渡り歩いている。
P君のようなケースは例外であるとしても、そういう生き方が
自然にできるような下地が、オーストラリアにはある。

要するに、この問題は、「働くために休むか」、それとも
「休むために働くか」という、択一の問題に行き着く。

意識のもち方が、180度ちがうから、たがいにたがいを理解するのは、
不可能と考えてよい。
実のところ、この私にしても、いまだに日本式の仕事観が心の中に居座っている。
長い休暇があっても、その休暇を楽しむというよりは、いつも心のどこかで、
休み明けの仕事のことを心配している。
しかしこれではいつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
それこそ『やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた』という
ことになりかねない。

しかしそんな愚かな生き方が、あるだろうか?

さらに中には、40年前、50年前の学歴をぶらさげて生きている人がいる。
自分では「偉い」と思っているのかもしれない。
「自分はみなに、尊敬されている」「尊敬されるべき」と考えている(?)。
しかし中身が、まったく、ない。
「これが私だ」というものが、何もない。
ないから、ますます過去の学歴にしがみつく。

現在を常に未来のために犠牲にして生きていると、そういう(愚かさ)に
気がつくということもない。

かわいそうな人だと、私は思う。

【休息を求めて疲れる】

子どものやる気

 最近の研究では、やる気(動機づけ)をコントロールするのは、脳の辺縁系にある、帯状回という組織が関係しているらしいということがわかってきた(伊東正男氏による「思考システム」)。脳のこの部分が変調すると、子どもに限らず、人は、やる気をなくし、無気力になるという。もっとも、そうなるのは重症(?)のケース。しかし重症のケースを念頭におきながら、子どもの心をみるのは、大切なことである。

 こんな相談があった。

●栃木県のYUさんより

私は、小六の男子と小一の男子をもつ母です。小六の子どもの事で悩んでいます。

 低学年の頃から勉強やスポーツが嫌いで、テレビゲームと絵を描く以外には、興味がなく、それ以外の事をさせようとしても、やる気を出してくれません。勉強の成績も悪く家で教えていても、塾や家庭教師を頼んでみても、とにかく嫌々なので、本人の苦痛になっているだけのようです。何も言わないで好きなようにさせていると、全く勉強もしないし、ゲームや絵を描いたりしていて、外へ出て友達と遊ぶ事すらしないで家の中でゴロゴロしています。

 学校では、友達と仲良く遊んだりできているし、性格も温和で、明るいのですが、のんびりしすぎてて、マイペースなので協調性に欠けるところが、あります。

 幼児の時から、軽い発語障害があり、難聴の検査をしたりして心配していたのですが、異常もありませんでした。しかし、いまだに、言葉の使い方がおかしくてその都度注意しても、なおりません。知能的に問題があるのか、精神的なところで問題があるのかわからず、悩んでいます。
 
 もし、通塾しながら教育方法や学習方法について、ご相談できるところがあれば教えて頂きたいのですが、よろしくお願いいたします。
(栃木県U市、YUより)

●二番底に注意                               
 このYUさんのケースで注意しなければならないのは、たいていの親は、「今が最悪」、つまり「底」と思う。しかしその底の下には、もうひとつ別の底がある。これを二番底という。が、それで終わるわけではない。さらにその下には、三番底がある。

 相談のケースで、親が「何とかしよう」「なおそう」と思えば思うほど、子どもは、つぎの底をめざして落ちていく。(勉強しない)→(塾へやる)→(やる気をなくす)→(家庭教師をつける)→(さらにやる気をなくす)→……と。こういうのを悪循環というが、その悪循環をどこかで感じたら、鉄則は、ただひとつ。「あきらめる」。「やってここまで」と思い、あきらめる。こういうケースでは、「まだ、以前のほうが症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、ますます状態が悪くなる。

●リズムの乱れ
 つぎに注意しなければならないのは、親子のリズム。YUさんのケースでは、親子のリズムがまったくあっていない。「のんびりしすぎてて……」というYUさんの言葉が、それを表している。つまり心配先行型というか、何でもかんでも、親が一歩、子どもの先を歩いているのがわかる。せっかちママから見れば、どんな子どもでも、のんびり屋に見える。そういうYUさんだが、子どもの心を確かめた形跡がどこにもない。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」「子どものため」という親のエゴばかりが目立つ。

 恐らくこのリズムは、子どもが乳幼児のときから始まっている。そして今も、そのリズムのなかにあり、これから先も、ずっとつづく。リズムというのは、そういうもので、そのリズムの乱れに気づいたとしても、それを改めるのは容易ではない。

●強引な押しつけ
 「勉強」は大切なものだが、YUさんは、勉強という視点でしか、子どもを見ていない? だからといって勉強を否定しているわけではないが、「何とか勉強させよう」という強引さだけが、目立つ。

 親の愛には三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。このYUさんのケースでは、「子どものため」を口実にしながら、その実、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。こういう愛もどきの愛のことを、代償的愛という。決して真の愛ではない。

 さらにでは、なぜYUさんが、こうした強引の押しつけをするかといえば、いわゆる学歴信仰が疑われる。「学校は絶対」「勉強は重要」「何といっても学歴」と。信仰といっても、カルト。脳のCPU(中央演算装置)がおかしいから、自分でそれに気づくことはない。以前、「勉強にこだわってはだめですよ」と、私がアドバイスしたとき、ある母親はこう言った。「他人の子どものことだと思って、よくそういう言いたいことを言いますね!」と。

●まず反省
 子どもに何か問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」と考える。しかしなおすべきは、親のほう。たとえばYUさんは、「子どもがゴロゴロしている」ことを問題にしている。しかし学校から帰ってきたとき、あるいは土日に、子どもが家で、どうしてゴロゴロしていてはいけないのか。学校という「場」は、まさに「監獄」(あるイギリスの教育者の言葉)。そこで一日を過ごすということが、いかに重労働であるかは、実は、あなた自身が一番、よく知っているはず。そんな子どもに向かって、「ゴロゴロしていてはダメ」と、どうして言えるのか。あるいはYUさんは、夫にも、そう言っているのか?

 それだけではない。こういう生き方、つまり、「未来のためにいつも現在を犠牲にする」という生き方は、結局は愚かな生きかたと言ってもよい。まさにそれこそ、『休息を求めて疲れる』生き方と言ってもよい。こういう生きかたを子どもに強いれば強いるほど、子どもはいつまでたっても、「今」というときを、つかめなくなる。そしていつか、「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

●塾のエサになってはいけない
 こういう生きザマが確立しないまま、塾や家庭教師に頼れば、それこそ、塾や家庭教師の、よいカモ。こういうところは、親の不安や心配を逆手にとって、結局は、金儲けにつなげる。しかしそれはたとえて言うなら、熱を出して苦しんでいる子どもや親に向かって、冷水を浴びせかけるようなもの。基本的な部分を何もなおさないまま、問題を先送りするだけ。その場だけを何とかやりすごし、あとはまたつぎの受験屋にバトンタッチする。が、必ず、いつか、こういう子育て観は、破局を迎える。二番底、三番底どころか、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊する。

●ふつうの子ども論
 YUさんは、「おかしいので……悩んでいます」と書いている。その気持ちはわからないでもないが、しかし残念ながら、こういう悩み方をしていると、問題は何も解決しない。そればかりか、さらに問題は複雑になる。

 日本人は、昔から「型」にあてはめて子どもを考える傾向が強い。ある一定のパターンを子どもに想定する。そしてその型からはずれた子どもを、「おかしい」と言う。しかしそれ以上に大切なことは、その子どもはその子どもとして、その中に「よさ」を見つけること。しかし心のどこかに、「ふつうの子」を想像し、その子どもに近づけようとすればするほど、親は、子どものもつ「よさ」までつぶしてしまう。だから、ここでいうように複雑になる。このYUさんのケースで言うなら、「あなたの発音はおかしい」と言ったところで、子どもにその自覚がない以上、なおるはずもない。またそれだけの自意識がければ、自分でなおすこともできない。小学六年生といえば、すでに言葉の問題をうんぬんする時期を過ぎている。ラジオかテレビのアナウンサーにでもなるというのなら話は別だが、そうでないなら、あきらめる。それ以上に心配されるのは、こうした親の姿勢が、文字嫌い、本嫌いを誘発し、さらには作文力から読解力まで奪っているということ。そうでないことを望むが、その可能性は、きわめて高い。

●では、どうするか?
 絵を描き、テレビゲームばかりしているというなら、それ以上に心配しなければならないことは、引きこもりである。もしそうなってしまうと、それこそ、あとがたいへん。多分、絵といっても、アニメのキャラクターを描くか、あるいはマンガ的なものだろう。しかしそれとて伸ばせば、一芸になる。そしてその可能性があるなら、私は絵の才能を伸ばしたらよい。今の段階で、絵やゲームを取りあげたら、子どもはそのまま、まちがいなく、二番底に落ちていく。

 成績が悪いということについては、今の段階では、手遅れ。仮に受験指導をしても、それはまさにつけ刃(やいば)。問題を先送りするだけ。むしろ子どもに言うべきことは、逆。「もっと勉強しなさい」ではなく、「あなたは、よくがんばっている」だ。「何も言わなければ、勉強をしようとしない」ということなら、すでに家庭教育は失敗している。理由は山のようにあるのだろうが、その失敗をしたのは、子どもではない。親のYUさんだ。その責任をおおい隠し、子どもに押しつけても、それは酷というもの。

 こういうケースでは、あきらめる。あきらめて、子どもを受け入れる。そして子どもの立場で、子どもの視点で、子どもの勉強を考える。「お母さんといっしょに、この問題を解いてみようね」と。「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」ではない。子どもといっしょに、悩む。そういう姿勢が、子どもの心に風穴をあける。

 しかし本当のところ、それで子どもが立ちなおる可能性は、ほとんどない。立ちなおるころには、すでに子どもはおとなになっている。受験時代は終わっている。本来なら、YUさんは、もっと早く子どもの限界に気づき、そして受け入れるべきだった。そのつど、「何とかなる」「何とかしよう」と、子どもを、いじりすぎた。その結果が今であり、小学六年生なのだ。が、ここでまた「何とかなる」「何とかしよう」と考えれば考えるほど、さらに大きな底へと子どもは落ちていく。

●子どもへの愛
 この返事を読んで、YUさんが、怒るようなら、YUさんは、子どもを愛していないとみてよい。私はこの返事を、YUさんというより、YUさんの子どものために書いた。そういう私の意図がわかれば、YUさんは、怒らないはず。しかし反対に、「言いたいことをよくも、言うものだ!」と怒るようなら、YUさんは、自分の愛情をもう一度、疑ってみたほうがよい。何か、大きなわだかまりがあるかもしれない。望まない結婚だった。望まない子どもだった。あるいは生活が不安定だった。夫に、大きな不満があったなど。そういうわだかまりが姿を変えて、ときには子どもへの過干渉や過関心になる。その背景には、親の子どもに対する不信感がある。

 そこでどうだろう。もう小学六年生なのだから、子どもを子どもと思うのではなく、一人の友として受け入れてみては……。親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横をあるく。この三つ目は、実は日本人が、もっとも苦手とするところ。だからこそ、一度、友として、子どもの横を歩いてみる。これは今からでも遅くない。これからでも間にあう。子どもが絵を描いていたら、YUさん、あなたもいっしょに絵を描けばよい。子どもがテレビゲームをしていたら、YUさん、あなたもいっしょにゲームをすればよい。そういう姿勢が子どもの心を開く。そしてあなたが子どもの立場にたったとき、あなたが「勉強しようね」と言えば、必ず、子どもは勉強をするようになる。今のように、一方で子どもの世界を否定しておきながら、どうして、親の世界に子どもを引き込むことができるというのか。こういうのを、親の身勝手という。お笑い草という。

●最後に……
 きびしいことを書いたが、ここに書いたのは、あくまでもひとつの参考意見。「そういう考え方もあるのかな」というふうに、とらえてくれればよい。ただ私がここで言えることは、私はYUさんとの間に、あまりにも遠い距離を感じたこと。恐らくYUさんも、私との間に、遠い距離を感じたことと思う。意識の差というのはそういうもの。

 しかしこう考えてほしい。私たちは今、こうしてここに生きている。その尊さというか、その価値に気づいてほしい。あなたがここにいて、子どもがそこにいるということが、奇跡なのだ。そういう視点で子どもを見ると、また子どもの見方も変わってくるはず。

+++++++++++++++++

●YUさんへ、

最後になりましたが、今、私は無料で電子マガジンを発行しています。そのマガジンへ、ここに書いた原稿(YUさんからのメールの部分も含めて)の掲載をお許しください。掲載予定日は、二月五日を予定しています。ご都合の悪い部分は改めますので、至急、連絡ください。連絡がなければ、了解していただいたものを判断させていただきます。よろしいでしょうか。はやし浩司
(03-1-28)

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●YUさんより

早々のお返事ありがとうございます。
主人と二人で読んでいるうちに、胸が締めつけられ、涙があふれてきました。
今まで学校の先生や地域の相談所、親戚、知人などに相談してみましたが、結局、答えが見出せないまま、今日までズルズルときてしまいました。
でも、今日は違います。
はやし先生のお考えは、まさに私の中で一番恐れていた 一番確かであろう答えそのものでした。

もう、手遅れであろう という言葉を目にしたとき、いままで自分が子供にしてきた事が悔やまれ、この一二年間、ずっと苦しめてきたのだと思うと申し訳なくて、どう償えばよいのかわかりません。
私はきっと、この子を一人の人間としてではなく、私の所有物のように見ていたのだと思います。

これから、この子にどのように接していかなくてはならないのかは、わかりました。
ただ、私自身がちゃんとやっていけるのか不安でたまりません。

これからは、友として子供の横を歩いていけるよう がんばってみます。
また、ご相談させていただく事があると思いますがよろしいですか?

はやし先生、今日は、本当に 本当にありがとうございました。

(追伸)メール、転載の件は了解しました。

++++++++++++++++++

●はやし浩司より、栃木のYUさんへ、

だいじょうぶですよ!
あなたはもう、すばらしいお母さんですよ!
勇気をもって、前に進んでください。
あなたの涙が、あなたの心を溶かし、
子どもの心を溶かします。
あとは、時間が解決してくれます。
しばらくすると、安らいだ心になりますよ。
子どもは、「許して、忘れる」ですよ。
あなたが真の愛にめざめたとき、
あなたや子どもに、笑顔が戻ります。
そのときから子どもは、学習面でも
伸び始めます。約束します。

子どもというのは、不思議なものでね。
「やりなさい」「がんばれ」と親が言う間は、伸びません。
しかしね、「よくやったわね」「気を楽にね」と言ってあげると、
不思議と伸びる始めるものです。
私も、何人かの子ども(生徒)を預かっていて、
どうにもこうにも、先へ進めなくなったようなときには、
近くの町の中を、みんなで、あちこち散歩します。
そうするとですね、とたんに、子どもたちの表情が
明るくなるのです。

あるいはね、子どもたちが、コソコソと隠れてカードゲームをしているでしょ。
そういうときは、「あのな、ブルーアイズ三枚と、融合カード一枚で、
パワーが一〇倍になることを知っているか?」と話しかけてやるのです。
これはハッタリです。するとですね、とたんに子どもたちの目つきが、
尊敬の目つきに変わるのです。子どもの心をつかむためには、
子どもの世界に、一度、自分を置いてみることです。

しかしね、同時に、そこはすばらしい世界ですよ。
純粋で、純朴で、そこは清らかな世界です。
おとなの私たちが忘れてしまった世界です。
あなたも、もう一度、少女期、青年期を楽しむつもりで、
子どもの世界に入ってみたらどうでしょうか?
あなたの子どもの心と目を通して、もう一度、
少女期と、青年期を楽しむのです。楽しいですよ!
「私は親だ」と気負うことはありません。
そんな親意識など、クソ食らえ、です。
肩の力を抜いて、子どもともう一度、人生を楽しむのです。

英語の格言に、『(子どもの心をつかみたかったら)、
釣りザを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』
というのがあります。その心意気です。

さあ、あなたも勇気を出して、こう言ってみてください。
「そうね、勉強なんて、いやなものねえ。お母さんも
子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」と。
あなた自身も、あなたの心をふさいでいた、
心の重石(おもし)を吹き飛ばすことができますよ。
いえね、そのときから、親子の絆(きずな)を太くなり、
そのときから、あなたの子どもは伸び始め、
そしてそのときから、あなたは真の愛をもった、真の親になるのです。
そう、それはすばらしい世界ですよ。
小さな、小さな世界かもしれませんが、
神の愛、仏の慈悲を体験できる、すばらしい世界ですよ。

だから勇気をもって、一歩、前に進んでください。
すばらしい親子になるために。応援します! 

ではね。
また、何かあれば力になります。
どうかまたお便りをください。

はやし浩司