*Where was the Yamatai-Koku?
●邪馬台国(Yamatai-Koku, the root of the Japanese)
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まぼろしの邪馬台国は、どこにあったのか?
その結論が出そうな、ビッグ・ニュースが、今日(8月27日)、
報道された。
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奈良県桜井市の近くにある、「箸墓古墳(はしはか・こふん)」が、ひょっとしたら、ひょっとして、その卑弥呼の墓ではないかというのだ。
もし箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとするなら、邪馬台国は、奈良県にあったことになる。
まだ調査中なので、何とも結論は出せないが、
(1) 3世紀半ばの古墳である。
(2) 全長280メートル、幅60~70メートルの巨大な墓である。
(3) 内濠と外濠のある豪華な墓である、ということから、かなり有力視されている。
しかし「箸墓古墳は宮内庁の陵墓指定のため、立ち入りできない」(中日新聞)とのこと。
どうして?
3世紀半ばの古墳であるなら、少なくとも現在の天皇家とは関係ないはず。
どうしてそんな墓まで、「宮内庁の陵墓指定」になっているのか?
その前に、宮内庁って、いったい、何?
どうしてそうまで、秘密主義なのか?
何か、発見されたらまずいものでも、隠されているというのか?
何を恐れているのか?
何を守ろうとしているのか?
箸墓古墳についての記事を読みながら、別の心で、私はそんなことを考えた。
(付記)
仮に邪馬台国、近畿説が有力になってくると、もう一つ、無視できない謎が浮かびあがってくる。
「金印、贋作説」である。
金印というのは、『漢の倭の奴の国の王』と書かれた、あの金印である。
社会科の教科書にも広く紹介されている。
美術の教科書にも紹介されている。
国宝にも指定されている。
だいたいにおいて、あの金印の出所があやしい(?)。
江戸時代に記録された口上書によれば、金印を発見したのは、志賀島(しかのしま)の百姓、甚兵衛ということになっている。
「田の溝を掘り返しているとき、小さな岩の間だから発見された」(「日本古代史の謎とミステリー」リイド社)という。
百姓の甚兵衛が、小さな岩の間だから発見したというのだ!
しかも「甚兵衛の素性が、よくわからない」(同)という。
また志賀島というのは、正確には、現在の福岡市東区志賀島叶崎をいう。
そして金印の実物は、福岡博物館に、常設展示室で展示されているという。
で、この金印贋作説に対して、本家の中国で、何と、その姉妹とも言うべき、もう1個の金印が発見された。
昭和56年(1981年)のことである。
金印本物説を唱える人たちは、この発見で、一気に勢いづいた。
「金印は本物である」
「邪馬台国は、北九州にあった」と。
しかし、である。
中国で見つかったこの金印について、「千葉大学の三浦S氏が、贋作である」(同)と主張した。
そして「(日本で発見された)金印は、金印を鑑定した儒学者、亀井南冥こそが金印の贋作者だと推定し、贋作された背景には、当時の古印ブームがあったと推測」(同書)と。
だいたい後漢の光武帝が、日本からの使者に与えたのは、「印綬」(「後漢書・正史」)。
どこにも「金印」とは書いてない。
一方卑弥呼が受けとったのは、金印(魏の記録)。
今回の箸墓古墳が卑弥呼ゆかりの墓であるとするなら、もし金印が残っているとするなら、近畿地方ということになる。
あるいは箸墓古墳の中に、それはあるかもしれない。
興味のある人は、「志賀島 金印」で検索してみるとよい。
いくつかのサイトをヒットすることができる。
で、私の印象としては、金印は、やはり偽物である。
もちろん中国で発見されたという金印も、偽物である。
が、最大の謎は、どうして金印のような最重要印鑑が、志賀島のようなへんぴな、小さな島で見つかったかということ。
その島では、金印以外の重要歴史物は、何も見つかっていないという。
どうであるにせよ、箸墓古墳には、この謎を解く鍵が隠されているかもしれない。
興味津々と言ったところか。
箸墓古墳の発掘を、是非、やってほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 箸墓 箸墓古墳 金印 邪馬台国 卑弥呼)
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