Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Thursday, August 28, 2008

*About Health *Hypocrasy

●有酸素運動

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運動にも2種類ある。
有酸素運動と、無酸素運動である。
有酸素運動というのは、運動しているとき、
呼吸が荒くなるような運動をいう。

ランニングやジョギング、散歩や
サイクリングなど。

無酸素運動というのは、瞬発的に動いて、
それで終わるような運動をいう。
たとえば、ウェイトリフティングなどが
その例として、よくあげられる。

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「健康のためには、有酸素運動がよい」と、よく言われる。
運動しながら、呼吸によって体内へ取り入れた酸素で、
脂肪を燃焼させるような運動をいう。
わかりやすく言えば、最低でも30~40分程度、
体をいつもよりはげしく動かす運動がよい。
そういう運動をしていると、ジンワリと汗をかく。

では、無酸素運動では、どうしてだめなのか。
だめというより、どうして健康につながらないのか。

……これについては、私はまったくの門外漢なので、話はここまで。
しかしそんな私でも、有酸素運動が大切なことは、よく知っている。
数日も有酸素運動をしないでいると、体中がだるくなるのが、自分でもよくわかる。
思考力も減退する。

が、だからといって、運動が好きというわけではない。
できるなら、しないですませたい。
私はもともと怠け者。
寒い朝や、暑い昼などは、とくにそうである。
しかしそういう自分を押し切って、外に出る。
自転車にまたがる。
とたん、いつもの私に戻る。

おかしなもので、サイクリングを30年以上もつづけていると、
体のほうがいくら疲れていても、脚だけは、しっかりと動く。
ありがたいことだと思う。

で、30~40分も走っていると、真冬の手足が凍るような
夜でも、体中が、燃えるように熱くなる。
これが有酸素運動ということになる。

さらに最近の研究によれば、運動をすることによって、
筋肉自体が、ある種のホルモンを分泌するのだそうだ。
簡単に言えば、「若返りのホルモン」だそうだ。

持続的に運動を長い間つづけている人は、どこか若々しい。
そういった(ちがい)となって、外に現われる。

漢方(東洋医学)でも、『流水は腐らず』と教える。
サラサラと流れる水は、腐らないという意味である。

有酸素運動というのは、要するに体を腐らせないための
運動と考えればよい。


はやし浩司+++++++++Aug 2008++++++++++Hiroshi Hayashi

● 見舞い

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週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城S伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。

週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。

「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。

それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。

私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。

母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。

さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。

母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。

治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。

相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。

これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

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形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。

ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。

身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

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総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がり、複雑になったとも考えられる。

そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。
葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。

何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。
線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。

それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。

「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄な人だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。

そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。

母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、年齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。

むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。
経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。
それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。

だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と
答える。

形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。

だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。
そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。

で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)
死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。

それも「形」なのかもしれない。
が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。

こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。
その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。

葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司