*I think, therefore I am.
【人生の充実感】I think therefore I am. (我、思う。ゆえに我、あり)
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自分の今までの10年間を振り返りながら、
(もちろん20年でも、30年でもよいが……)、
「まだ10年しかたっていないのか!」と驚く人がいる。
反対に、「もう10年もたってしまったのか!」と驚く人もいる。
充実した人生を送っている人は、「まだ……」という言葉を
使って、自分の過去を振り返る。
そうでない人は、「もう……」と言って、自分の過去を振り返る。
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●年齢は、ただの数字
懸命に何かに向かって生きている人は、それだけで美しい。
輝いている。
そうでない人は、そうでない。
大切なのは、「中身」。
「年齢」という数字ではない。
仮に90歳まで生きたとしても、長生きしたということにはならない。
仮に40歳で死ぬことになっても、若くして死ぬということにはならない。
あの
『無益に100年生きるよりは、一瞬のうちに自分を燃焼させる』。
それが(生きる)ということではないのか。
そのことは養護センターの老人たちを見ればわかる。
一日中、つけっぱなしにしてあるテレビの前で、何かをするでもなし、
何もしないでもなしという状態で、日々を過ごしている。
そういう人たちを見て、本当に生きていると言えるだろうか。
(もちろんそういう人生が、無駄だとか、そこにいる老人たちには、
価値がないと言っているのではない。
もし私たちが健康で元気なら、何もあわてて、そういう老人たちの
仲間入りをする必要はない。
けっしてそういう老人たちを手本としてはいけない。
たとえば日本では、老後というと、孫の世話と庭いじりと考える人は多い。
しかしその延長線上に、養護センターの老人たちがいる。
そういう意味で、「本当に生きていると言えるだろうか」と、私はここで
問いかけてみた。)
●密度
で、生きる価値は、その(密度)によって決まる。
密度の濃い人は、自分の人生を振り返りながら、「まだ……」と言う。
そうでない人は、「もう……」と言う。
が、その密度は、あくまでも相対的なもの。
「相対的」というのは、「他人と比較して……」ということになる。
が、実のところ、比較しても、意味はない。
この問題だけは、どこまでいっても、個人的なもの。
その人がそれでよいと思っているなら、それでよい。
他人の私たちが、とやかく言う必要はない。
たとえば仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。
たまの休みには、魚釣り。
雨の日にはパチンコ……という人も、いないわけではない。
が、その人がそれでよいとしているなら、それでよい。
しかし密度の濃い人生を送っている人からみると、そうでない人がよくわかる。
反対に密度の薄い人生を送っている人からは、密度の濃い人生を送っている人がわからない。
そのことも、養護センターの老人たちを見ればわかる。
●密度といっても、相対的なもの
先日もある女性(65歳くらい)と、こんな会話をした。
その女性は、どこか認知症的なところがある。
どうでもよい話を、長々と私に説明した。
そこで私が、「私は、(あなたが思っているような)バカではないと思うのですが……」と
言うと、その女性は突然、ヒステリックな声で、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。
利口な人からは、バカな人がよくわかる。
しかしバカな人からは、利口な人がわからない。
で、「相対的」ということには、もうひとつの意味が含まれる。
たとえばある人は、20歳~40歳まで、密度の薄い人生を送ってきたとする。
平凡な、これといって変化のない人生だった。
しかし満40歳になったとき、人生の転機が訪れ、何かの目標に向かって、
猛烈に突進し始めた。
朝起きるとすぐ(やるべきこと)を始め、寸陰を惜しんで、それに没頭した。
そして満50歳になったとき、それまでの10年間を振り返りながら、
「まだ10年しかたっていないのか!」と驚く。
しかしそれとて、20歳~40歳までの自分自身の人生と比較してはじめて、わかること。
もしその人が40歳を過ぎても、それまでと同じような人生を歩んでいたら、
密度の変化そのものに、気がつかないだろう。
「相対的」というのには、そういう意味も含まれる。
●密度の濃い人生
ただ加齢とともに、人生の密度は、相対的に薄くなる。
体力、知力が衰え、ついでに気力も衰える。
脳が、あたかも穴のあいたバケツのようになる。
せっかく得た知識や知恵にしても、どんどんと下へと、こぼれ落ちていく。
つまり放っておいたら、人生の密度は、どんどんと低下していく。
実際、「歳をとればとるほど、1年は早く過ぎる」と言う人は多い。
が、それを当然と思ってはいけない。
またそうであってはいけない。
バケツに穴があいた状態になったら、さらに多くの知識や知恵を詰め込めばよい。
いつも新しいことに興味をもち、それに向かって、前向きに進んでいけばよい。
(すべきこと)を発見して、それに向かって進むということであれば、年齢は関係ない。
年齢という「数字」にだまされてはいけない。
「数字」に、遠慮する必要もない。
1年が早く過ぎると感じたら、2年分、生きればよい。
こんなことがあった。
前回のワールドカップの代表選手に選ばれたTK氏と、こんな会話をしたことがある。
別れ際、「すばらしい人生を送っておられますね」と声をかけると、TK氏は、
少しはにかみながら、「私はサッカーしかできませんから」と。
その少し前、TK氏は、アジアカップ杯のすべてに出場し、日本を優勝に導いている。
TK氏のような人は例外としても、TK氏にとっての一瞬は、私たち凡人の10年分、
あるいは100年分より、密度が濃いはず。
そのときTK氏は、まだ30歳そこそこ。
60歳に近い私でさえ、TK氏の前では、タジタジになってしまった。
●空しさとの闘い
話を戻す。
人生は楽しむためにあるのではない。
(生きる)ためにある。
それがわからなければ、そのつど、自分にこう問いかけてみたらよい。
「だから、それがどうしたの?」と。
すばらしい車を買った……だから、それがどうしたの?
すばらしい家を買った……だから、それがどうしたの?
おいしいごちそうを食べた……だから、それがどうしたの、と。
若いときはそれがわからないかもしれないが、人生に天井が見えてくると、
そこに残るのは、(空しさ)だけ。
(楽しみ)のあとを、すぐ(空しさ)が追いかけてくる。
そんな状態になる。
そこで大切なことは、「今」というこの「時」を、いかに充実させるかということ。
そのひとつの方法として、私は(考えること)をあげる。
人間がなぜ人間かと言えば、考えるからである。
あのパスカルも、「パンセ」の中で、そう書いている。
『人間は考える葦(あし)である』という言葉も、そういうところから生まれた。
もし考えなかったら、人間もただの動物。
「生きた」というだけの人生で、終わってしまう。
それについては、以前、こんな原稿を書いたことがある(一部、中日新聞発表済み)。
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●生きることは、考えること
思考と情報を混同するとき
●人間は考えるアシである
パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。
A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。
この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。
●考えることには苦痛がともなう
考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。
中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。
●人間は思考するから人間
人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。
ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。
●知識と思考は別のもの
多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。
それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。
いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。
(付記)
●教育の欠陥
日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。
つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。
戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年・田丸先生指摘)と警告している。
●低俗化する夜の番組
夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。
一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。
ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。
私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、1533~92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。
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『I think therefore I am. (我、思う。ゆえに我、あり)』
と言ったのは、あのデカルト(Descartes)だが、その言葉を、
もう一度、かみしめてみたい。
(ただし「think」を「思う」と訳したのは、誤訳と考えてよい。
「think」は、「考える」という意味に近い。
実際、日常では、そういう使い方をしている。)
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