Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, September 29, 2008

*My little Hobby *Who loses something by losing something?

●小型ヘリコプター

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少し前から、おもちゃの小型ヘリコプター
に凝っている。
現在、7~8機、もっている。
値段は、2000~8000円前後。
今日も、1機、買った。
3チャンネル仕様のもので、結構、重量感がある。
「重量感がある」というのは、この種のおもちゃにしては、
重いということ。
値段は、12000円だった。

(3チャンネル仕様というのは、上昇・下降、
左右旋回、前進・後進の、3つの動きをコントロール
できるという意味。)

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若いころは、ラジコンの飛行機やヘリコプターを
よく飛ばした。
しかし当時は、(今もそうだが)、値段も高く、
それに操作が難しかった。
たいてい3、4回も飛ばすと、墜落。
そのまましばらくどこかに飾ったあと、
ゴミになったりした。

が、昨年くらいから、手のひらに載るような
小さなヘリコプターが発売されるようになった。
とたん、私は、小型ヘリコプターにとりつかれて
しまった。

部屋の中で、気軽に飛ばせるのが、よい。
ふと気が向いたようなとき、飛ばせるのも、よい。
ただしラジコンといっても、きめのこまかい操作は
できない。
スイッチONで、突然、ビューンと舞いあがったりする。
OFFにしたとたん、そのまま墜落。
が、慣れてくると、ヘリコプターのもつクセを
うまく利用して、部屋の中を自由に旋回させるようなことが
できるようになる。

結構、この世界も、奥が深い。

もちろんきめのこまかい操作のできるのも、ある。
デジタル・プロポーショナルというプロポ(送受信機)
付きというのが、それである。

今日買ったのは、そのデジタル・プロポーショナル付き。
目下、充電中で、まだ飛ばしてないが、楽しみだ。

そう言えば、何かの雑誌に、「団塊の世代には、小型ヘリ
に凝っている人が多い」と書いてあった。
私もその1人。
なぜか?

ひとつには、私たちの世代は、ほかの世代とくらべて、
空へのあこがれが強いということがある。
小、中、高校時代、私たちはいつもどこかに、大きな
圧迫感を覚えていた。
といっても、それを自覚していたわけではない。
息苦しいのが当たり前で、その息苦しさそのものが、
よくわからなかった。
もがいていることも知らず、ただひたすら、その中で、
もがいていた。

「自由になりたい」というばく然とした思いが、
「空へのあこがれ」へと変化していったのではないか。

が、この状態は、社会へ出てからも変わらなかった。
「企業戦士」「猛烈社員」ともてはやされて、ただひたすら、かつ、
がむしゃらに、あの高度成長期という時代を生き抜いた。
それこそ、遊ぶ時間も惜しんで、仕事に励んだ。

いや、それとて今になってわかること。
当時の私たちは、「遊ぶ時間も惜しんで」という意識もないまま、
それを当たり前のこととし、家族を犠牲にし、自分の
時間を犠牲にして、働いた。

しかしその意識、つまり犠牲にしたという意識も、あまりなかった。
が、こんなことはあった。
欧米人が、たとえば1~2か月も夏休み(バカンス)を
とると聞いたときのこと。
「あいつらバカじゃないか」と思ったことがある。
「1~2か月も休んで、仕事はどうするのだ」と。

意識というのは相対的なもので、私がそう思ったという
ことは、同時に、私たちの意識が、欧米人の反対側にあった
ということになる。

しかし本当にバカだったのは、どちらだったのか?
今になってみると、ひょっとしたら私たちのほうが
バカだったかもしれない。

それを認めるのはつらいことだが、悪いことばかりでもなかった。
まだ私など、余裕のあるほうだった。
そのつどいろいろな趣味をもって、それを楽しむことができた。
先に書いたように、ラジコンの飛行機も飛ばしたし、
ヘリコプターも飛ばした。

で、今は、小型のヘリコプターを無心になって飛ばす。
ガチャンと墜落して、ひっくり返ったのを見て、
あわててかけつける。
傷んでないことをたしかめながら、またそっと、
空にそれを浮かす。。
それを見て、ほっとする。

私たちの世代に欠けていたものといえば、そういう
(バカを楽しむ心)ではなかったか。
今にしてみると、それがよくわかる。

小型のヘリコプターを飛ばしながら、別の心で、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●売買

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今月は、土地の売買について、大きな
動きが2つあった。

ひとつは、小さな土地を売ったこと。
もう一つは、30年ほど前に買った山林を、
売りに出したこと。

小さな土地については、坪5万円という、まあ今の
相場感覚からすれば信じられないほど安い値段で売った。
もちろん宅地である。

「売った」というより、「早く縁を切りたかった」。
それでその値段で売った。

もうひとつのほうの山林は、ある知人にだまされて
買った。
当時ですら、相場の10倍。
今売っても、当時の値段の、6分の1にもならない。
あるいはそれ以下。
一言、「(だまして)すまなかった」と言って
くれれば、私も救われるが、本人には
その意識はない(?)。

「山は値段ではない」とか、「オレを信じろ」とか、
勝手なことを言っている。

昔から山師というのは、そういうもの。
詐欺師の代名詞にもなっている。

よく調べもせず買った私が、バカだった。

が、この世界には、損得は、つきもの。
損得を通して、人は何かを失い、何かを得る。
ただ誤解してはいけないことは、損をしたからといって、
何かを失うということではない。
得をしたからといって、何かを得るということでもない。

坪5万円だったが、おかげで私は、その土地のもつ
呪縛感から解放された。
気が楽になった。
一方、私をだましたその知人は、そのあと定職にもつかず、
貧乏の底をはうような生活をつづけている。
一方、高い授業料だったが、私はそれで少しは賢くなった。

ワイフはこう言う。
「死ぬまでに、少しずつ、処分していきましょう」と。
どうせ死ねば、この宇宙もろとも、私は消える。
「財産」というものがあるなら、まだ元気なうちに、
有効にそれを使ったほうがよい。
損か、得かということになれば、健康で、楽しくすごせる
ことにまさる「得」はない。
言いかえると、損をするほどの財産があったというだけでも、
もうけもの。
何もない人は、もとから損など、しない。
損から、得るものもなければ、学ぶものもない。

さらに言えば、他人をだまして得をしたような人は、
所詮、その程度の人間。
その程度の人生で、終わる。
人に軽んじられ、だれからも相手にされない。

そのほうが、よほど損だと私は思うが、恐らく、そのタイプの
人間には、それすら気がつかないだろう。
どこまでもあわれで、かわいそうな人間である。

……そう、私の財産。
それは今の、幸福な家庭ということになる。
心底、私を理解してくれるワイフ。
授産施設で、指導員として生き生きと働く長男。
アメリカに移住し、大学のコンピュータ技師として働く二男。
空が好きで好きでたまらない三男。
それにすくすくと育っている2人の孫。

それにまさる財産が、ほかのどこにある。

……とまあ、そう言いきかせながら、自分を納得させる。

『欲多ければ身をそこなひ、財(たから)多ければ身をわづらはす』(老子・
「浮世物語」)という。

欲もほどほどに、財産もほどほどに、ということか?