*Natural Funeral
●オバチャンたちの無駄話(Talkative Women)
電車で講演先に向かうとき、相向かって座った2人のオバチャンが、
さかんに会話を始めた。
年齢は2人も65歳前後。
ペチャペチャ、キャッキャッ、と。
目を閉じて、その会話を分析する。
で、いくつかのこと気づいた。
人は、とくにそのための訓練をした人は別として、静かに目を閉じてものを
考えることができない。
考えることはできるが、思考能力は浅く、内容も堂々巡りしやすい。
そこで人は、つぎの2つの方法のうち、どちらか一方を選択する。
(1) ものを書く。
(2) だれかと話をする。
しかし考えるといっても、情報の交換は、(思考)ではない。
思考には、常にある種の苦痛が伴う。
難解な数学の問題をだれかに解けと言われたときの状態を想像してみればよい。
それがその(苦痛)である。
で、だれしも、できるなら、解答を見て、簡単にすませたいと思う。
そういう心理も働く。
しかし私の前で話し込んでいる2人のオバチャンには、そういった様子は
まったく見られない。
「あら、白い花! あそこにも……。あれはソバの花かしら……」
「でも、ソバの花は、こんなところには咲かないわよ」
「花といえば、もうコスモスが咲き出したわ」
「コスモスはきれいね……」と。
やがて今度は、話題が旅行に移った。
「紅葉がきれいなのは、このあたりでは、XX峡ね」
「(JRの)H線に乗って、長野のほうへ行くのもいいわよ」
「私、去年は、○○へ行ってきたわ。今年も言ってみようかしら」と。
つまりそのつどテーマは変わるが、話している内容は、まったく同じ。
脳に飛来した情報を、たがいに、披露しあっているだけ。
思いついた情報を、たがいに交換しあっているだけ。
残念だが、こういうのは思考とは言わない。
言わないが、もうひとつ、気がついたことがある。
その2人のオバチャンは、間断なくしゃべりつづけていた。
その様子から、2人のオバチャンは、だまっていることができないことを知った。
つまり口の動きを止めたとたん、脳みその中がカラッポになる。
2人のオバチャンは、それに耐えられない。
だからしゃべる。……しゃべりつづける。
言いかえると、(考えるという習慣)そのものが、ない。
会話の途中で、相手の言葉を頭の中で反芻(はんすう)しながら、
「ウ~ン」とか、「そうねエ~」とかいう言葉が出てこない。
相手がポンポンとものを言えば、それにあわせてもう一方も、ポンポンと
ものを言う。
私は2人の会話を聞きながら、「この人たちの思考力はゼロ」と判断した。
言うまでもなく、思考力というのは、その「深度」で決まる。
その深度そのものが、なかった。
で、この状態がさらに進むと、養護センターの老人たちのようになる。
ある老人(85歳くらい、女性)は、会う人ごとに、「息子さんは元気ですか?」と、
声をかけている。
その息子のことを本気で心配しているから、そう言っているのではない。
口癖でしかない。
あるいは、介護師の人が何をしても、「ありがとう」を口にしている老人(80歳
くらい、女性)もいる。
本気でそう思っているから、そう言っているのではない。
やはり口癖でしかない。
自分でスプーンを落としても、「ありがとう」と言ったりする。
だからその2人のオバチャンのような会話は、たがいに言った先から、忘れて
いく。
聞いている私が忘れるのではなく、しゃべっている2人が忘れていく。
もともとどうでもよい話を、スズメのように、ピーチクパーチクと話して
いるだけ(失礼!)。
だから頭に残らない。
残らないから、先に向かって展開していかない。
……しかし、このタイプのオバチャンは、うるさい。
ほんとうに、うるさい。
「携帯電話はオフかマナーモードに」という車内アナウンスが聞き取れないほどの
大声で、しゃべりあっている。
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