Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, October 11, 2008

:My Mom

● 10月11日

++++++++++++++++++++++

●母

今、私はセンターの中にいる。
母のベッドの横で、この原稿を書いている。
母は、酸素マスクをつけたまま、軽くあえいでいる。
何回か声をかけてみたが、反応はない。
眠ったまま。

足の先のほうがむくみ、青く、血が沈んでいる。
心臓の働きが、足の先まで、届かなくなると、そうなるそうだ。

目の前に、酸素を送るパイプから、こまかい泡が吹き出している。
その前には、血圧計や脈拍計、それに吸引器具が置いてある。

食事がとれなくなって、もう5日になる。
ドクターの判断で、点滴も止められてしまった。
今、母は、静かに、ただ静かに、その時を待っている。

ときどき酸素マスクの中から、ケッケッという喉の音が聞こえる。
そのつど「苦しいか?」と声をかける。
が、反応はない。

+++++++++++++++++++++

●振り子

私は子どものころ、広い部屋で、振り子が大きく揺れる夢をよく見た。
暗い部屋で、その振り子が、大きく、向こう側に揺れ、そしてそのあと
こちらに向かって揺れてきた。
教会にある釣鐘の中の振り子のような形をしていた。

記憶は確かではないが、私はそんな夢を、
かなり早い時期に見ていたような気がする。
5歳とか6歳ではなく、もっと早くだ。
ひょっとしたら、2歳ごろ?
1歳ごろ?

同じような夢は、かなり大きくなるまで、見た。
最近も、たまに見る。

あの夢は何なのだろう。
どんな意味があるのだろう。
ずいぶんと昔だが、あるとき私は、それを、私が胎児であったときに
見た夢ではないかと思ったことがある。

私の体が振り子となって、母の胎内で、揺れていた。

●つい立

つぎに覚えているのは、私がつい立のある部屋で眠っている光景である。
「L型」のつい立てで、それには雑誌の切抜きなどがいっぱい、張ってあった。
私はそのつい立の中で、寝ていた。

ずっとあとになって、そのとき寝ていたふとんが、乳幼児用のものであると
知った。
青色の、おもちゃの絵の描いてあるふとんだった。
だからそのとき、私はまだ歩けない赤ん坊だったということになる。

そのつい立の上に、これもずっとあとになって知ったことだが、『クリスマス・キャロル』
の絵が張ってあった。
壁をすり抜けて、幽霊が、子どもたちのいる部屋へ入ってくる絵だった。

その光景を思い出すと、同時に、そのときの(暑さ)も思い出す。
暑い部屋だった。
多分、夏だったかもしれない。
しかし私は昭和22年の10月生まれ。
ということは、私はその絵を見ていたのは、翌年の夏ごろということになる。
計算してみると、満1歳になる前ということになる。

ときどきだれかがつい立の向こうからのぞいた。
記憶を中をさがしてみるが、黒い影で、姿がわからない。
母だったかもしれない。
あるいは、別の人だったかもしれない。

●銭湯

ここまで書いて、私は、母におばれて銭湯に行く自分を思い出した。
まだおばれることができたのだから、2、3歳くらいのときだった
かもしれない。

銭湯へ行く角のところに八百屋があって、いつもそこでミカンを1個
買ってもらった。
銭湯から出たとき、そのミカンを食べるのが、楽しみになっていた。
私は風呂は好きでもなかったが、嫌いでもなかった。
よく覚えていないが……。
そのとき母の背中で、ゆらゆらと体がゆれていたのは覚えている。

●見回り

たった今、看護士さんが、見回りにきてくれた。
母に声をかけてくれた。
「豊子さ~ん」「聞こえますか~」と。
瞬間、目が動いたらしい。
それを見て、看護士さんが、「聞こえているみたいですね」と。
つづいて、足を見て、「暖かいですね」と言ってくれた。
足が冷たくなると、あぶないのだそうだ。

で、私もさわってみたが、私には、冷たく感じた。

血圧は、70-87、脈拍数は、115。
ときどき血圧が60台にさがるという。
昨日もそうだった。
60台にまでさがると、あぶないのだそうだ。

私の知らない世界のことなので、そのつど、看護士さんの話を、
どう理解したらよいのか、迷う。

●母のこと

母の話にもどる。
今の母からは想像もつかないほど、若いころの母は、活発で、行動派だった。
いつもシャキシャキと、あちこちを動き回っていた。
運動神経も、よかった。
自転車が並んでいる店先と、裏のほうにある台所を、いつも飛び回るようにして、
行ったり来たりしていた。

あの軽い足音が、今でもしっかりと耳に残っている。
カラカラ、カンカン、カラカラ、カンカン、と。
音の感じからして、当時は下駄を履いていたようだ。
靴の音ではない。

で、私の印象としては、母は、落ち着きのない人だったように思う。
母が、どこかでじっと座っているような姿は、記憶の中に、あまりない。
ここにも書いたように、いつも動き回っていた。
そのため、息子という私は、いつも母に、引っ張り回されていたような感じがする。
小学生のときも、中学生のときも。

耳の中に残っているのは、母が私に命令する声でしかない。
「ああ、しんせい(=ああ、しなさい)」「こう、しんせい(=こう、しなさい)」と。
そういう点では、私だけではなく、兄や姉にも、そして父に対しても、
口うるさい女性だったようだ。

●思い出

そういう母だったからかもしれないが、私と母の思い出は、あまりない。
もちろんいっしょに遊んだとか、静かに話し合ったということもない。
母は、いつも私に命令していたし、それが私と母の関係の基本になっていた。

ただ母の在所(=郷里)の板取のK村に行くのは、好きだった。
そこは私が住んでいる町の中とはちがい、別天地だった。
ほどよい川が流れ、周囲を小高い山に囲まれていた。
私は、そのあたりに住んでいた従兄弟たちと、毎日、真っ暗になるまで、
山の中で遊んだ。

そんなわけで私にとって(故郷)というと、生まれ育ったM町というよりは、
母の在所の、板取のK村のほうを、先に思い浮かべてしまう。
母は、休みになると、そのK村のほうに、連れていってくれた。
私がせがんだせいかもしれない。

●満92歳

話は前後するが、銭湯へ行くとき、母は私をおぶってくれた。
今、横に眠っている母からは、想像もつかないことだ。
横に眠っている母は、小さく、やせこけている。
今では、手の指1本、自分で動かすことはできない。

ただ幸いなことに、本当に幸いなことに、母はただひたすら安らかな
表情で、そこに眠っている。
ほんの数年前までは、健康診断の結果を見ても、あらゆる数値が
私より健康であることを示していた。
「母ちゃんのほうが、ぼくより健康だぞ」と言って、笑わせたこともある。
大病らしい大病は、していない。
私の記憶にあるかぎり、母が病院のベッドで寝たのは、骨折したときくらい
のものだった。
それもほんの4、5年前のことだった。

もっともそれがきっかけで、体力は急速に落ちた。
その後は、ひとりで歩くのもままならなくなった。
 
92歳という年齢を考えるなら、母ほど、この年齢になるまで、健康だった
人は少ないのでは……?

持病といえば、右の耳が、ほとんど聞こえなかったこと。
「耳鳴りがひどい」と言っていたこと。
歯が弱かったこと。
しかしこの程度の病気なら、だれにでもある。
今の私も、似たようなもの。

そんなことを考えながら、母の背でゆらゆらと揺れていた私を思い出す。
私は寝たフリがうまくて、母の背ではいつも寝たフリをしていた。

●私と母

が、そのあたりから、私と母の思いでは、プツンと切れる。
私の記憶に残っている母というのは、第三者から見たような姿である。
勝手場(台所)で料理をしている母、店先で客と応対している母、
だれかと話している母、などなど。
いくら記憶の中をさぐっても、一対一で、静かに話しあっている光景が
思い浮かんでこない。

私が小学生になるころには、すでに、母は、私を理解できなくなっていたのかも
しれない。
私も、母とは会話をしなくなった。
母は権威主義的なものの考え方をする人だった。
反抗どころか、反対したり、母の意にそわないようなことを言っただけで、
こう言って怒鳴られた。
「親に向かって、何て言う!」と。

そういう点では、親意識、つまり悪玉親意識が人一倍、強かった。
私が会話をしなかったのではなく、会話にならなかった。

……と、こんな夜に、母の悪口を書くのはいやだ。

何か、ないか?
母との思い出で、何か、楽しかったことはないか?

今、酸素マスクをつけた母の横顔を見ながら、そんなことを考える。
懸命に考える。

が、どうしても思い浮かんでこない。
ただ先ほども書いたように、たとえば町内会で、キャンプをしたような
ときは楽しかった。
しかしそういうときでも、母は、第三者でしかない。
飯ごうで米を炊いている母、だれかと立ち話している母。
いつも近くにはいたが、私の心の中にまでは入ってこなかった。

どうしてだろう。
私と母の関係は、すでにそのころ切れていたのだろうか。
それとも母と子というのは、そういう関係なのだろうか。

●母の涙

時刻は、午後10時半を回っていた。
ふと物音に気づいてうしろを見ると、そこにワイフが立っていた。
「ああ、来なくてもよかったのに」と私。
ワイフは、黙ったままだった。
と、そのときワイフが、こうつぶやいた。

「お母さん、目をあいている」と。

窓側に顔を向けていたので私は気がつかなかった。
母は、左目を半開きにし、ゆっくりとまぶたの中で、目を動かしていた。

「母ちゃん、目が見えるか?」
「ぼくだぞ、浩司や」
「ほら、浩司や、水がほしいのか?」と。

たてつづけに何度も呼びかけ、枕もとにあったCDプレーヤーにスイッチを
入れた。
郡上踊りをかけた。

その間も何度も、話しかけた。
母の右目に涙がたまった。
つづいて、酸素マスクの中で、口を動かし、オーオーと泣いた。
左目からは涙が、数筋、流れ落ちた。

「つらいのか?」
「さみしいのか?」
「水だよ」と。

私はスポンジに水を湿らせ、それを口の中に入れた。

「もっと大きく、口をあけや」と。

それに応えて母は、口をもぐもぐと動かした。
私は何度も、スポンジで口を湿らせた。

「見えるのか? ぼくが見えるのか?」
「ぼくだよ、母ちゃん、ぼくだよ、浩司だよ」
「もうすぐK村へ帰れるよ。元気を出せよ」と。

しかし母の力は、つづかなかった。
やがて静かに目を閉じ、口も軽く閉じた。
私は、子どものように、涙を流した。
あふれる涙を、どうしようもなかった。

酸素マスクをつけなおす。
母の静かなあえぎが、そのマスクを曇らす。
再び、静かな夜になった。

●帰宅

私は歩いて家に帰るつもりだった。
が、ワイフが、センターの門のところに立っていた。
「ひとりで帰るからいい」と、2度、3度、ワイフの手を払いのけた。

「寒いから……」と、ワイフは言った。
「寒くない」と私は答えた。
が、遠くから人影が歩いてくるのが見えた。

私は、車に乗った。
しかし家には帰りたくなかった。
本当は、そのままいつまでも、そしてどこまでも歩きつづけたかった。


母は、なぜ泣いたのか……。
あの涙は何だったのか……。
帰るとき、そればかりを、車の中でずっと考えていた。
(10月11日、夜記)