Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, November 23, 2008

●カルト抜き

●カルト抜き

 子どもが不登校的な症状を見せたりすると、たいていの親は、その瞬間、パニック状態になる。その気持ちは、よくわかる。そして自分が感じた不安や心配を、直接、子どもにぶつけてしまう。

 「学校へ行きなさい!」「いやだア!」と。

 ときに親は、子どもをはげしく叱ったりする。しかし親のこの一撃が、子どもの症状を、決定的なまでに、悪化させる。しかし親には、その自覚がない。「子どもが学校へ行かなくなってしまったら、どうしよう……」と、そんなことばかりを、先に考える。

 では、どうするか? ……ということを書いても、意味がない。親の根底に、学歴信仰、学校神話が残っているかぎり、この問題は解決しない。子どもは、親の不安や心配を敏感に感じとってしまう。いくら、親が、口先で、「学校へ行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と言ったところで、意味はない。

 子どもは、親の心の奥の部分、つまりシャドウを読んでしまう。

 つまりそのシャドウを消さないかぎり、この問題は、解決しない。それを、「カルト抜き」という。学歴信仰というカルトを抜く。

 ところで、あの忌まわしい事件を引き起こしたO真理教というカルト教団が、またまた活動を活発化させているという。そういうニュースを見たりすると、たいていの人は、こう思うにちがいない。「私は、ちがう」「私には、関係ない」「私は、カルトなど信仰していない」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう言い切ることができるだろうか?

 実は、学歴信仰というのは、立派な、カルトである。ただ日本中の親たちがそのカルトを信仰しているから、自分ではわからないだけ。日本から一歩、外に出てみると、それがよくわかる。

 つまりそのカルトを抜かないかぎり、ここでいう不登校の問題は解決しない。仮に、子どもが、午前中だけでも、学校へ通うようになると、親は、こう言う。「何とか、給食までいっしょに、食べるようになってほしい」と。さらに給食までいっしょに食べるようになると、今度は、「午後まで勉強するようになってほしい」と。

 逆のこともある。

 今にも不登校児になりそうな子どもがいた。小学2年生の男の子だった。その子どもは、そのとき、それでも何とか、学校へは行った。しかし午前中の1、2時間は、保健室や理科室で、時間を過ごした。

 やっと元気になるのは、3、4時間目くらいからで、ときには、昼休みに時間になってから、教室へもどっていった。

 それについて母親から、「どうすればいいでしょう」という相談があった。が、私は、こう言った。

 「細い糸かもしれませんが、それを切ってはいけない。お母さんは、子どもを『なおそう』としているが、なおそうなどと思ってはいけない。現状維持だけを考えてください」と。

 こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。親は、そのときの状態を最悪と思うかもしれないが、その最悪の下には、まだ別の「底」がある。この段階で無理をすれば、その二番底、三番底へ落ちてしまう。

母親「では、どうすればいいのでしょうか?」
私「よくがんばっているわねと、ほめてあげてください」
母親「ほめるんですか?」
私「子どもの立場で考えてみてください。行きたくない学校へ、重い足を引きずりながら、行っているのですよ。子どもはそのつらい気持ちと、毎日、戦っているのです。だから、ほめるのです」

母親「でも、このままでは、うちの子は、ダメになってしまいます」
私「何が、ダメになるのですか。何も、ダメなんかには、なりませんよ」
母親「学校へ行かなくなってしまったら、どうするのですか?」
私「いいじゃないですか。そうなっても。お母さんが、あれこれクヨクヨと心配している分だけ、子どもの心は不安定になります。不登校が不登校として、長引いてしまいます。子どもが、その気持ちを感じ取ってしまうからです」と。

 そこで親は、心底、こう思わなければならない。「いいのよ、学校なんて、行きたくなければ行かなくても!」と。口先だけではいけない。心底、そう思わなければならない。そのために、ここでいうカルト抜きをする。とたん、子どもの表情は明るくなる。そしてしばらく時間をおいたあと、また学校へ行くようになる。前に、『あきらめは、悟りの境地』というエッセーを書いた。これも、その悟りの境地のひとつということになる。

【付記】

 邪悪な「学歴信仰」を隠しながら、子どもに、「勉強しなさい」と言っても、子どもは、勉強しない。子どもは、親の、心の奥底、つまりは、下心を読んでしまう。

 教育の世界でも、同じようなことが起きることがある。

 ある進学塾の講師は、こう言った。「生徒というのは、いくらいい大学へ入っても、進学塾へは、礼にはこないものですよ」「結婚式などに招待されるケースは、1000に1つもありません」と。

 当然である。親も子どもも、進学塾の講師の下心を、進学塾に通っているときから、すでに見抜いている。

 「教室」という場所でも、教える側は、「無私」でなければならない。そこにほんの少しでも、雑音が入ると、やがて子どもは、教師の指導に従わなくなる。1年や2年なら、何とかごまかすことはできるが、3年、4年となると、そうはいかない。

 昔、月謝袋を、つめ先で、ポンとはじいて、「先生、あんたのほしいのは、これだろ」と言った高校生がいた。私はその場で、即刻、その子どもを、退塾させたが、今から思えば、その子どもの言ったことは、正しかった。当時の私は、経営を第一に考えて、仕事をしていた。彼は、その私の心を見抜いていた。
(はやし浩司 不登校 学歴信仰 カルト抜き シャドウ 細い糸 二番底)