Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Wednesday, November 26, 2008

*Doeds the Blood Type affect hHuman Characters?

●またまた血液型問題

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いいかげんにしろ!

昨夜テレビを見ていたら、またまた血液型に
よる性格判断が話題になっていた。

4年前に書いた原稿があった。
それをそのまま!

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●BPOが「血液型を扱う番組」に要望
 BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」は、放送各社に対し、「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望した。

 青少年委員会では、血液型を扱う番組が増えていることについて、「科学的根拠が証明されていないにも関わらず、血液型で人を分類する考え方は、社会的差別に通じる危険がある」と指摘している。また、「血液型実験」と称して、子供が駆り出されるケースは「人道的に問題がある」としている。
 
 その上で、放送各社が「番組基準を守り、血液型で人間の性格が規定されるという見方を助長しないよう」要望、占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮を強めるよう要請した。(04年・12月8日)(以上、TBS・i・news)

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 児童虐待については、親自身に、何らかの、経済的困苦や、家庭問題、それに心の病気があることが多いということは、以前より、指摘されている。たとえば、「貧しい」ということは、それ自体が、社会的病理と考えてよい。が、しかし、それだけで、片づけてはいけない。

 私が知っている例でも、その両親(祖父母)のスネをかじり、借金まるけになりながらも、T社の大型ランドクルーザーに乗っていた父親がいた。「貧しい」というのは、金銭的な貧しさではなく、心の貧しさをいう。

 金銭的な貧しさは、得てして、心の貧しさを、引き起こしやすい。その結果として、そしてその一部として、親は、子どもを虐待するようになる。

 もっとも今、経済的なゆとりをもって生活して人は、何%いるのか? いや、(ゆとり)というのも、実は、その人の心構えによって決まるのでは……?

 正直に言うが、だれかに接待されたときは別として、私たち夫婦にしても、この10年以上、寿司屋で寿司を食べたことがない。寿司と言えば、回転寿司。それもたいていは、一皿105円の回転寿司である。

 しかし、食べたいときには、食べている。思い立ったときに、食べている。それが(ゆとり)というものではないか。(いつも2人で、合計8~9皿までと決めているが……。)

 ただこういうことは言える。いくら金銭的に貧しくても、心までは、貧しくしてはいけないということ。ある女性(80歳くらい)は、息子夫婦に、行楽地へ連れていってもらうたびに、何かの(盗み)をしてくるという。

 通りにある植木鉢や、置き物など。飲食店に寄っても、その店にそなえつけの、調味料入れや傘まで、もってくるという。そのため、息子夫婦は、目を離せないという。そういう女性を、心の貧しい人という。

 子どもを虐待する親というのは、そういう意味で、心の貧しい人と考えてよいのでは……。よくわからない部分もあるので、この先は、また別のところで、考えてみたい。

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 血液型については、もう何度も書いてきた。その結論も、少し前に書いた。

 問題は、「占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮を強めるよう要請した」(BPO)という部分。

 大賛成!、である。

 昨夜もテレビのチャンネルをかえていたら、その種の番組が、目に入った。1人の太った女性が、タレントたちの運勢を、占っていた。

 少し前には、霊媒師とか霊感師というのが、いた。さらに少し前には、どこかの寺の僧侶が、心霊写真なるものを、さかんに紹介していた。が、最近は、占い!

 もう、やめようよ、みなさん! もう少し、賢く、利口になろうよ! こんなことを繰りかえしていて、いったい、どうするのか! どうなるのか! 「あんたのうしろには、ヘビがいる」「あんたは、神を粗末にしている」などと言われて、ビクビクしたり、ギャーギャー騒いでいてよいのか!

 コメントする価値もないほど、バカげている。あまりにも、レベルが低すぎる。少なくとも、大のテレビ局が、最新の映像機器を使って流すような番組ではない。

 ……というような話を、先日、中学2年生のRさんにすると、Rさんは、こう言った。

 「先生、占いは、ちゃんと当たります!」と。

 そこで私は、「具現理論」について、話してやった。

●具現理論

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてしまうことがある。これを私は、勝手に、「具現理論」と呼んでいる。内心で思っていることを、自ら、無意識のうちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例がある。

 Aさん(高二女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。「どうして、そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻いていた。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っていたら、うしろから自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかってしまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその暗示が、無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自分が、Aさん自身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだよ」と私が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。彼女はいろいろな例をあげてくれたが、それもここでいう具現理論で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、ものごとは控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、おなかいっぱい、ピザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしておかなかった、私が悪かった」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それでも、「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うまくいく。

つまり彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「それを守らなければ、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことになる。あとは、「おかしなこと」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったというわけである。

つまり占いが当たったわけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

 あなたは私の具現理論をどう思うだろうか。
(はやし浩司 具現理論 予言実現 予告実現 占い 血液型 BPO 放送倫理)

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おまけに、昨年(03)書いた原稿を
添付しておきます。

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●「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載せた。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、まったくのデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言というのもあった。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこかのあたまのおかしな人が、思いこみでするもの。

たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終末論と神の降臨を唱え、「この信仰をしたものだけが、救われる」などと教えている。そこで調べてみると、こうした終末予言は、その宗教団体だけでも、過去、4、5回もなされていることがわかった。しかし、だ。一度だって、こうした予言が、当たったためしがない。

 で、疑問は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った人が、なぜ一人もいないかということ。さらにその責任を追及した人もいない。それにさらなる疑問は、そういう予言がはずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)から離れた信者が、なぜいないかということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避しました」などと、おめでたいことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。去る5月15日(03年)に何かが起こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバーの一人の言葉)とのこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。

「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ~」ということになる。もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなかったからといって、どうということはない。

(仮に起きたとしても、それは予言が当たったというよりは、偶然そうなったと考えるのが正しい。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の7月」というのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、あのノストラダムスの予言について本を10冊以上も書いた、Gという作家は、億単位のお金を稼いだという。世の中をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利益を、社会に還元すべきではないか……と考えるのは、はたして私だけなのだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。人々が不安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうしたらよいのか。

言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予言になる。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち一人ひとりが、自分を取り巻く運命論と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之介を、私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率によって、決まる。

百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私たち自身にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。そういう視点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト教系のカルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、これからこのボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。「そうだ。君が、ボールを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】

 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したことがある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本三大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に立って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。

しかし、だ。この大宇宙には、無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の砂粒の数よりも多くの、星々があるという。私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一つにすぎない。地球は、その星にも数えられない、その太陽のまわりを回る、小さなゴミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る太陽の何と小さいことよ。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されているとしても、その神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや一人ひとりの人間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上の生物の中で、人間だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そのまた人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。それはたとえて言うなら、あなたの家の中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あなたが相手にするようなもの。

……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、キリストは、第二次大戦中、1000万人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何もしなかったではないか。殺されたユダヤ人の中には、それこそ命をかけて神に祈った人だって、いたはずである。つまりそういうことを考えていくと、「この信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考えることの、おかしさが、あなたにもわかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教にせよ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従ってするものではないということ。

運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰とは関係ないものということになる。もしそういうスーパーパワーを売りものにする宗教団体があったら、まずインチキと疑ってかかってよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるはずはない。ボールを落とすとか落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自由なる、意思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。
(はやし浩司 運命 予言 運命論 予言論)