*Essays on Nov. 13th 2008
【今日、あれこれ・11月13日】
●人体の矛盾
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健康を維持するためには、運動は
欠かせない。
しかし運動には、ある種の苦痛が
ともなう。
なぜか?
もしその人が、運動でなくても、体を
動かすことをやめてしまったら、
不健康が不健康を招き、その不健康がそのまま、
(死)につながることもある。
ならば、なぜ運動することが、快感に
つながらないのか。
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●寒い夕方に
寒い夕刻、陽はとっぷりと暮れている。
冷たい秋のかわいた風。
そんなとき自転車にまたがると、思わず
身が震える。
「今夜はやめようか」と、ふと迷う。
しかし運動は欠かせない。
そう思いながら、思い切ってペダルを踏む。
なぜか?
なぜ、運動をすることに、体が抵抗するのか。
運動は、健康を維持するためには、不可欠。
ならば、運動することは、快感でなければ
ならないはず。
わざわざ進化論の常識をもちだすまでもない。
あるいは性行為と比較するまでもない。
しばらく走りながら、自分の体の反応をさぐる。
なぜ、私の体は運動することをいやがるのか。
どこにその理由が潜んでいるのか。
●運動は、無数の苦痛
冷たい風が頬をこすっているとき、私はそれが
こまかい(痛み)であることを知った。
無数の痛覚が、これまた無数の、目に見えないほど
細い針でこすられるような痛みである。
自転車をこぐ太ももにしても、そうだ。
強くペダルをこぐたびに、無数の痛みがジンジンと
足全体に響くのがわかる。
つまり(運動)は、(無数の痛み)の集合で
あることが、これでわかる。
となると、またひとつ謎が生まれる。
同じような運動に、性行為がある。
女性のばあい、性的に興奮状態になると、
指一本すらも通しにくくなるほど、膣が閉じる。
そこへ男性器を挿入すれば、痛いのが当たり前。
女性もそうだが、男性も、である。
が、性行為のばあいは、それはそのまま快感へとつながる。
考えてみれば、これもまた不思議なことではないか。
●欲望が原動力
運動でなくても、(体を動かす)というのは、
健康の要(かなめ)。
しかしその(動かす)こと自体にも、ここに書いた
無数の(痛み)がともなう。
だからこれは人間にかぎらず、あらゆる
動物は、本来、なまけ者にできていると考えてよい。
「できるなら、動きたくない」と。
しかしそこへ(欲望)という、原動力が作用する。
食欲、性欲、その他、もろもろの欲望である。
この欲望を満足させるためには、人間は動かねば
ならない。
そのとき、(運動)という行為がともなう。
それが健康の維持につながる。
言い換えると、欲望が簡単に手に入るように
なればなるほど、人間は、不健康になる(?)。
現代社会は、そういう社会である。
そこで「運動をしよう」となる。
●快感
しかし運動することに、快感がともなわないわけではない。
「快感」というのは、脳内ホルモンの作用によって起こる。
たとえば性行為を繰り返していて、「気持ちいい」と
感ずるのは、脳内ホルモンの作用によるものである。
そのときモルヒネ様の物質が、脳内に充満することが
わかっている。
で、しばらく自転車で走りつづけていると、苦痛が減り、
やがて乾いた冷気が、汗ばんだ肌をこするようになる。
あえて言うならそのとき感ずる快感は、傷んだ肌を、
だれかがやさしく撫でてくれるような快感である。
こうした快感には、つねに中毒性がともなう。
中には、「ジョギング中毒」と呼ばれる人たちもいる。
ニコチン中毒、アルコール中毒と同じように、
ジョッギングもまた、中毒になりうる。
つまり運動も、ある程度習慣性をもつように
なると、快感につながりやすくなる。
事実、夏の暑い日に汗をかき、扇風機の前に
立ったときに感ずるあの快感は、言葉では
表現しにくい。
さらに運動をたっぷりしたあとには、
たとえばその翌朝など、細胞のひとつひとつが、
プチプチとはじけるような感触すらある。
●運動
最近の研究では、運動することによって、
筋肉が刺激され、その筋肉から、若返りに
関する、ある種の物質が生成されることが
わかってきた。
運動を習慣的にすることによって、その人は、
若返ることができるというわけである。
が、何もむずかしい話は必要ではない。
ためしに、その年齢よりずっと若く見える人に、
こう聞いてみればよい。
「何か、運動していますか?」と。
即座に、そういう人たちは、こう答えるだろう。
「しています!」と。
こう考えていくと、「健康というのは、その人の意志と
努力で維持されるもの」ということがわかってくる。
その努力をする人は、健康を維持でき、そうでない人は、
そうでない。
そこで冒頭の話にもどる。
運動にともなう苦痛を、最初の段階で乗り越え
られるかどうか。
それでその人の健康が決まる。
……ということは、意志の問題ということ。
さらに言えば、肉体をコントロールする、
前頭葉の問題ということになる。
意志の強い人は、その分だけ、健康を維持できる。
意志の弱い人は、その分だけ、健康を阻害する。
言うなれば、この部分に進化論の結果が含まれている。
「意志の強い人間だけが、生き残ることができる」と。
つまり人体は、一見、矛盾に見えるようなものを
用意しながら、他方で、人間の進化を促している
ということになる。
仮に運動にかぎらず、何かを成し遂げようという
意志が弱くなれば、人間は、動物に逆戻りする
ことになってしまう。
必要最低限のことだけをして、それでおしまい、と。
寒い夜の運動は、つらい。
しかしその(つらさ)を乗り越えるところに、
人間の生きる原点がある……と結論づけるのは、
少しおおげさだろうか?
(付記)
半面、子どもを観察していると、体を動かすことを、まったく意に介していないことが
わかる。
(中には動きたがらない子どももいるが……。)
動いていることが、楽しくてしかたないといったふうな子どももいる。
となると、(運動嫌い)というのは、年齢とも関係あるのか。
あるいはしたいことをしているときは、苦痛でも何でもない。
が、したくないことを押しつけられたりすると、とたんに苦痛になる。
このつづきは、またあとで考えてみる。
どうも頭の中がスッキリしない。
考えがまとまらない。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司
●「世界の名画」(隠されたミステリー)(PHP研究所版)
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このところ書店でよりも、コンビニで
本を買うことのほうが多くなった。
(そう言えば、不景気のせいなのか、
書店で並ぶ本の冊数が減っているように
感ずる。
雑誌でも、以前だと、10~15部くらいは
平積みになったりしていたが、今は、どれも、数冊
程度。)
で、今夜も、近くのコンビニで、1冊、本を買った。
「世界の名画」(隠されたミステリー)という
本である。
家に帰って、コタツの中で、一気に読み終えた。
内容は、以前から知っていたことがほとんどだが、
改めて、そのおもしろさを堪能した。
途中からワイフも横に座り、ああでもない、
こうでもないと言い出した。
昔の画家たちは、絵画を通して自己表現するのみ
ならず、(遊び心)を巧みに、その絵画の中に
織り込んだ。
画家自身の肖像を、その絵の中に混ぜたり、
自分の嫌いな人を、ひどい人にしたりするなど。
こういう(遊び心)が、絵のみならず、人生を
うるおい豊かなものにする。
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●冗談
ところでそのコンビニでは、1000円分で、1本のクジが
引ける。
2000円以上に買ったので、私は、クジを2本、引いた。
私「当たり! この店の商品、全部!」と。
クジに当たると、何かの商品がもらえるようになっていた。
私の前にクジを引いた人は、カップラーメンをもらって帰っていった。
私の言葉を聞いて、女子店員が、一瞬、ギョッとした。
私「あのう、この店の商品全部と書いてありますが……」
女「エッ……、そんなはずはないわよ」
私「ハハハ……」と。
そこで2本目を引く。
私「またまた大当たり! 店員と女房を交換と書いてありますよ」
女「失礼ね」と。
横にいたワイフも笑ったが、店を出てから、ふと考えた。
「どうしてあの店員は、『失礼ね』と言ったのか」と。
いろいろな解釈ができるが、
「こんなバー様と同じにしないでよ」とも解釈できるし、
「あんたのようなジジーなんか、いやよ」とも解釈できる。
こういうばあい、「失礼ね」という言葉は、「私をバカにしないでよ」
という意味。
「まずいことを言ったかな」と思いつつ、車に乗った。
……さて、本題。
「世界の名画」(PHP版、定価952円)は、先にも書いたように、
おもしろかった。
それぞれの絵については、ダイジェスト版といった感じで、
つっこみは甘いが、雑学用としては、じゅうぶん。
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に始まり、
プッサンの『アルカディアの牧人』、ベラスケスの『ラス・メニーナス』、
ボッティチェリの『プリマヴェーラ(春)』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』と
つづく。
私は個人的には、ルノワールやクリムトの絵画が好き。
ダ・ヴィンチやレンブラントは有名だが、どうも肌に合わない。
どこか技巧主義的?
「絵画」というワクにとらわれすぎて、その中に、画材をギューギューに
押し込んでいる。
その窮屈さが、息苦しさとなって伝わってくる。
(私は、もともと閉所恐怖症なのだ!)
少なくとも、部屋に飾ってまで見たいとは、思わない。
その点、モネやモディリアーニの絵には、開放感がある。
そういう絵なら部屋に飾ることに抵抗感はない。
さらに言えば、「名画」「名画」というが、どうして
ゴッホの絵が、名画なのか。
『ひまわり』にしても、見れば見るほど、不気味。
ムンクの『叫び』などは、見ているうちに、こちらまで
気がヘンになりそう。
私は、こと絵画に関しては、楽しく、わかりやすい絵が好き。
美しい女性の裸体であれば、なおよい。
そう、私も一度でよいから、女性のヌード画を描いてみたい。
一日中、肌の汗腺までジロジロと眺めながら、描いてみたい。
モデルはいやがるだろうが……。
いや、死ぬまでに、1枚くらいは描いてみたい。
こんなことを書くと、ワイフは怒るだろうな……?
Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司
●損得論
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数百億円の損失?
ヘ~~エ!
報道によると、あのイギリス王室が、土地の評価価格の
値下がりなどで、数十億円の損失をこうむっているという。
数十億円?
しかし王室ともなれば、それ以上の財産を所有しているだろう。
また女王の年齢にもなれば、金銭的な損失など、「損失」というふうには、
考えないだろう。
それだけの損をしたからといっても、王室は王室。
女王も、そのまま。
何も変わらない。
今年も、バッキンガム宮殿のまわりは、美しい紅葉で彩られている
にちがいない。
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●金銭的感覚
「損とは何か?」
「得とは何か?」
それを考えていくと、その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?
いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
私の大嫌いなテレビ番組に、『○○○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという番組である。
しばらくああいう番組を見ていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)
「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。
その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。
●懸命に生きる
私は毎朝起きると、まず心にこう誓う。
「今日こそは、懸命に生きてみよう」と。
しかし今までに、それが実行できたためしがない。
いつも中途半端で終わってしまう。
そこでまず、「懸命」の意味を考える。
たとえば私は、こんなことに心がけている。
昨日も、こんなことがあった。
地元のC新聞社が、私について取材したいと言ってきた。
その日にちを決めるとき、11月5日~11日までのうちの1日にしてほしいと、
伝えてきた。
こういうケースのばあい、私は、たいてい、最初の日の、いちばん
早い時刻を選ぶ。
このばあい、11月5日ということになる。
「できること」「したいこと」は、けっして、あと回しにしない。
旅行の日程を決めるときも、そうだ。
が、だからといって、それで私が懸命に生きたということにはならない。
「懸命に生きる」というのには、2つの意味がある。
行動面で、やるべきことをやる。
もうひとつは精神面で、やるべきことをやる。
が、ここでひとつの問題に直面する。
最初にあげた、(お金)の問題である。
私は何も、お金を稼ぐことが悪いことだと言っているのではない。
(お金を稼ぐ)というのは、常に手段ではあっても、目的であってはいけない。
たとえば「ただお金がふえればいい」と考えて、お金を稼ぐというのであれば、
ただの守銭奴になってしまう。
しかし子どもが自分の夢を実現できるように、その学費を得るためにお金を稼ぐ
というのであれば、ここでいう「懸命に生きる」ということになる。
が、中には、(私には、そういう人たちの気持ちがどうしても理解できないが)、
お金はじゅうぶんあるはずなのに、「子どもを大学へやるのは、ムダ」と
考えている人もいる。
「子どもを大学へやると、(親から離れて)、遠くに住むようになる。
だから損」と。
そういう人は少数派かと思っていたが、結構、多い。
こういう話をすると、「私の父親がそうだ」とか、「叔父がそうだ」
という声が、かならず、出てくる。
●精神面では……
人格の完成度を測るひとつのバロメーターとして、「他人との良好な人間関係」
があげられる(EQ論)。
他人と良好な人間関係をつくりあげられる人を、人格の完成度の高い人といい、
そうでない人を、そうでない人という。
そういう意味では、私は、きわめて人格の完成度の低い人間だった。
(今もそうかもしれないが……。)
性格的な欠陥、情緒的な不安定さ、精神的な未熟性などが理由である。
だから私のような人間は、いつも、努めて、懸命に生きなければならない。
ワイフとの関係。
息子たちとの関係、など。
親類縁者も含まれるが、しかし私はもう、浜松に住んで40年近くになる。
「兄弟、姉妹」というと、ワイフの兄弟、姉妹ということになる。
ワイフが間で、じょうずにコントロールしてくれるせいもあるが、
今のところ、良好な人間関係を保っている。
7人の兄弟姉妹がいるが、(ワイフを含めて)、みな、仲がよい。
友人については、できるだけ広く、あたりさわりなく交際するようにしている。
が、それにもある程度の努力が必要。
その(努力)という部分に、(懸命さ)が必要となってくる。
●時間という財産
話が脱線してしまったが、最近は、(時間の使い方)の中にこそ、
損・得論があると考えるようになった。
だからといって、あえてお金を嫌う必要はないが、それよりも大切なのは、(時間)。
この限られた時間をいかに有効に使うか。
それでほんとうの、損・得が決まる。
たとえばこんな例で考えてみよう。
日々の生活には困らない金持ちがいたとする。
その金持ちは、毎日、釣り三昧。
あちこちへ出かけていっては、釣りを楽しんでいた。
その金持ちがこう言った。
「こういう道楽をするために、私は今まで、一生懸命、働いてきた。
今こそ、その金を道楽のために使うべきとき」と。
が、この金持ちは、たしかにお金では、得(?)をしたかもしれない。
しかし時間の使い方をみると、損(?)をしていることになる。
「明日も今日と同じ」という人生に、どれほどの意味があるというのか。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
しかしこの世に生きていることを奇跡(アインシュタイン)ととらえるなら、
その奇跡にこそ、無限の価値がある。
その無限の価値に気づかないまま、(時)を浪費することこそ、まさに
損というべきではないのか。
が、それには条件がある。
(1)すべきことを見つけ、それをすること。
ほとんどのばあい、(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
運動にたとえるなら、早朝のジョギングのようなもの。
健康を維持するためには、運動は不可欠だが、だれだって(多分?)、
苦痛がともなうことは、避けたいと願う。
しかしそれでも(すべきこと)を、する。
これを心理学の世界でも、「自己の統合性」と呼ぶ。
その統合性を確立した人は、強い。
(2)無益であること。
金銭的な損得勘定が混入したとたん、自己の統合性は、霧散する。
どんなささいなことでもよい。
短時間であってもよい。
無私、無益、無我でするところに、統合性の意味がある。
たとえば朝のジョギングにしても、だれかにお金をもらってするようになったら、
おしまい。
「健康のため」という本来の目的を見失ってしまう。
ひょっとしたら、お金が切れたとき、ジョギングそのものをやめてしまうかもしれない。
……しかし(すべきこと)など、一朝一夕に見つかるものではない。
長い時間をかけて、少しずつ、作りあげるもの。
「定年退職をしました。で、明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木でも
植えてきます」というわけにいかない。
(やるべきこと)そのものが、その人の人生の集大成ということになる。
そのために使うのが、ここでいう(時間)。
その時間を有益に使うことを、「得」といい、無駄に使うことを、「損」という。
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