Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Friday, November 28, 2008

*To look after our Parents

【親の介護】

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白い薄日の下を、鉛色の雲が、気ぜわしく流れる。
庭の木々が、冬の冷気にさらされ、ときおりザザーッと、音をたてる。
見ると、落ち葉が雨に地面にペッタリと張りついている。
昨夜の雨は、かなり激しかったようだ。
青木の下に無造作に置いてある鉢が、なみなみと水を蓄えていた。

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●介護

老人の事故死が、けっこうあるという。
1週間ほど前、そんな記事が新聞に載っていた。
ベッドの手すりの間に、首や体をはさまれて死ぬ人もいるという。
私はその記事を読んで、即座に母のことを思い出した。
私も「あわや!」というような事故を、3度経験している。

現在、家庭で老人を介護している人も多いと思うので、そのときの
様子を書き止めておきたい。

(1) 母が私の家に来たとき、私は母の部屋に、塩化ビニール製の
パイプを、20~30本ほど、取りつけた。
母は、何かにつかまれば、まだ歩ける状態だった。
ベッドからポータブルトイレへ。
ベッドからソファへ、と。
歩行訓練用のパイプも取りつけた。
塩化ビニールのパイプは、芯は鉄製だが、外は塩化ビニール
でおおわれている。
接着剤で、自由自在に、自分の好きなように工作できる。
が、ある夜のこと。

たまたま家にいた長男が、母の部屋の前を通ると、「助けてくれ」
という声を聞いた。
長男が戸をあけてみると、母は、ベッドとポータブルトイレの間の
パイプに首をはさんで、ほぼ逆さまになっていたという。
長男が見つけたからよかったようなもの。
もしあと1~2時間、発見が遅れていたら、母は、そのとき
死んでいたかもしれない。

(2) 2度目も同じような状況だった。
母は、パイプにつかまれば、何とか立つことができたが、
ペタリと床に座り込んでしまうと、自分では立ち上がることが
できなかった。
やはりある夜のこと。
今度は私が母の部屋の前を通り過ぎると、「起こしてくれ」という
声が聞こえてきた。
いつだったかは忘れたが、寒い夜のことだった。
もしあのときも、朝までそれを知らないでいたら、母は死んで
いたかもしれない。

で、(1)のときもそうだったが、そういう緊急時のため、
無線で作動するスイッチを、首にかけていたのだが、そういうとき
ほど、母は、それがあることを忘れてしまっていた。
一方、たいした用もないときほど、そのスイッチを押したりした。

(3) 3度目は、ワイフが発見した。
母は、昼間は静かにベッドで横になっていることが多かったが、
夜になるとあちこちを歩き回った。
部屋の隅に大きなダンボール箱が置いてあった。
母の衣類がそこに入っていた。
母は、その中の衣類を取ろうとしたのだろう。
ワイフが見たとき、母は、頭を下にして、ダンボール箱の中に
さかさまになっていた。

こうした事故が重なると、介護をするほうも、こわくなる。
そのつど、あれこれと配置を変えたり、安全策を講じたりした。
が、母のつぎの事故が、予想できなくなった。

(1) 夜中に動き回ることが多い。
(2) 緊急連絡用のベルは、あまり役に立たない。
(3) 行動が予測不可能。

●家庭での介護は無理

ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談すると、「そうなったら、
添い寝しかありませんね」と言われた。
しかし実際には、添い寝は不可能だった。
それには、こんな事情がある。

どういうわけか、母と、犬のハナの相性がたいへん悪かった。
母がカーテンを開けるたびに、庭先からワンワンと大声で吠えた。
が、母は母で、まだ世も開けやらぬ早朝から動き出す。
これでは近所迷惑、ということで、私たちは母の部屋の電気は、
一日中、つけっぱなしにしておくことにした。
そうすれば、早朝にカーテンを開けることはないと思った。
この方法は、うまくいった。
やがて母は、カーテンを開けなくなった。

そんな部屋で添い寝はできない。
かといって、そのときすでに、パイプの助けなしでは、母は
自分では用を足すこともできなくなっていた。

で、私たちの出した結論は、こうだった。
「家庭での介護は、無理」と。

便の始末と食事の世話まではできるが、入浴となると、かなり
たいへん。
もっとも入浴については、ディサービスを利用して、センターで
してもらっていたので、私たちは何もしなかった。
今では、車椅子に座ったまま、入浴できる。
ほとんどのセンターは、そんな設備を整えている。

母は6か月間、私の家にいたあと、特別養護老人ホームへ入居した。
一年中、冷暖房完備。
まさに至れり尽くせりの環境だった。
そういう環境を知って、それまでの私の家の介護設備が、(設備と
言えるものかどうかは知らないが)、いかに貧弱なものであるかを、
思い知らされた。

たとえばやがて母は、嚥下(えんげ)障害を起こすようになった。
食べたものが逆流して、喉につまったり、食べたものが肺のほうに
入ったりした。
食べたものが肺のほうに入れば、肺炎になる。
それで死ぬ老人も多いと聞く。

もしあのまま私が家で介護をしていたら、母は、そのあと、数か月を
待たずして死んでいたかもしれない。
センターでの介護を見ながら、何度も、私はそれを思い知らされた。
つまり、老人の介護は、プロに任せるのが、いちばんよい。

●生かされているだけ?

が、ここで大きな疑問をもつようになった。
「母にとっては、どちらが幸福なのか」と。

母の立場に、自分を置いてみると、それがわかる。

私なら、たとえ事故で死ぬことになろうとも、自分の家で死にたい。
あるいは家族のいる家で死にたい。
センターはここにも書いたように、至れり尽くせりの環境だが、
しかしそこで長生きすることが、はたして母には幸福なことか、と。

ワイフはああいう性格だから、「私もこういう環境の中で
老後を送れたら、いいわあ」と、そのつど言った。
しかし私はそれには、同意しなかった。

「生きる」というよりは、「生かされているだけ」。
私にはそんな感じがしてならなかった。
つまり「生きる」ということは、もっと別のことだと、私は考えた。
仮に私が母の立場だったら、こう言ったにちがいない。
「もういいから、私を殺してくれ」と。

つまり事故死であるにせよ、そういう状態になったら、その前に、
死んだも同然。
N市に住む学生時代の友人は、電話で私にこう言った。
「あのなあ、林君、自分で飯が食えなくなったら、人間はおしまいだよ。
そうなったら、オレはさっさと死ぬよ」と。

しかし生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
生きたくても生きられない人は、ゴマンといる。
が、死にたくても死ねない人も、これまたゴマンといる。
なかなかうまくいかないのが、世の常、人の常。

センターの母は、孤独だったと思う。
いつしか私たちの、見舞いも、週2、3回から、週に1回程度に
なっていた。
あるいはそれ以下になったときもあった。
が、母のことはいつも気がかりだった。
日帰りの旅行をするときも、その前日には電話を入れ、容態を聞かねば
ならなかった。
仕事をしていても、いつなんどき、携帯電話が鳴るか、それが気になった。
結局、約2年間、母はこの浜松市にいたが、私たちが一泊の旅行をしたのは、
一度だけだった。
三男の大学の卒業式に、仙台市まで行ったのが、そのときだった。

●天命

が、私の母などは、まだ楽なほうだった。
病気らしい病気をもっていなかった。
腹に子どもの握りこぶしくらいの、動脈瘤があったが、老人なら、みな、
同じような動脈瘤をもっているという。

中には、暴力を振るったり、大声で家人を罵倒したりする老人もいるという。
認知症が加われば、さらに介護がむずかしくなる。
脳梗塞を起こしても。介護は、むずかしくなる。
で、私の結論は、こうだ。
「素人には、末期の老人介護は、無理というより、不可能」と。

もちろん中には、「老人だから、事故で死んでもしかたない」と考える
人もいるかもしれない。
私も他人の家族のことなら、そう考えるだろう。
しかし実際、それが自分の肉親となると、そうはいかない。
たとえ事故でも、後味の悪さが、残る。
またいくら母が安楽死を望んだとしても、私はぜったいに、それには
応じなかっただろう。

「いつかは死ぬだろう」とは覚悟していた。
「いつまでもこんな状態がつづくのもいやだ」と思ったことはある。
「早く母の介護から解放されたい」と願ったこともある。
しかしそれはあくまでも心の一部。
毎日、そう思ったり、願ったりしていたわけではない。

が、正直に告白するが、「長生きしてほしい」とは、あまり思わなかった。
それは私のためというよりは、母のためだった。
先ほども書いたように、そんなふうにただ生かされているだけなら、
私ならそれに耐えられなかっただろう。
ひとりポツンとテーブルの前に座っている母を見ながら、
「かわいそう」という思いが、日増しに強くなっていった。
「長生きしたところで、つらい思いをするのは、母」と。

そういう母だったが、08年の2月に脳梗塞を起こすまでは、
頭のほうはかなりしっかりしていた。
冗談も通じたし、昔の話も、よくした。
しかし一度、昏睡状態になり、救急車で大病院へ運ばれてからは、
それ以後、寝たきりになってしまった。

そうそう、その寝たきりについても、素人の介護は無理。
私の知人は、寝たきりの親を介護していたが、床ずれが悪化し、
その部分が腐ってしまったという。
そのため、ひどい悪臭が近所の家に届くほどになったという。

床ずれを防ぐためには、それなりに訓練を受けた看護士や介護士の
助けが必要である。

結局、その知人の親は、それからほどなくして、死んでしまったという。

●事故死

そんなわけで、私は、「夜、寝ている間に、父(母)は死にました」
という話を聞くたびに、ひょっとしたら事故で死んだのではないかと
思うようになった。

もちろん本当に、寝ている間に死んでいく人も多いだろう。
また事故で死んだからといって、その家の人たちを責めているのではない。
そういう事故も含めて、天命は天命。
寿命は寿命。
こればかりは、家族でもどうしようもない。
こと介護について言えば、一生懸命するとか、しないとか、
そういう問題ではない。

淡々とする。
やるべきことはやりながら、いつもそれでよしとする。
「孝行」という言葉で、自分を縛ると、かえって負担感がますだけ。

たとえば最初のころは、私たちも、母をセンターから連れ出し、
近くの公園や、山荘に連れていったりした。
しかし母は、そういったことを楽しむということは、もうなかった。
介護というのは、そういうもの。

……ということは、いつか私たち自身も、いつか介護される立場になる。
これには例外はない。
で、私は母の介護をしながら、いろいろと勉強をした。
そのひとつが、これ。

生きるのも、私ひとりなら、死ぬのも、私ひとり、ということ。
介護はそれ自体、家族に大きな負担をかける。
それを考えるなら、家族に過大な期待をもつのは、酷というもの。
センターへ入れるだけも、御の字。
仮に一度も見舞いに来なくても、私はだれもうらまないし、それを
悲しいことだとも思わない。
私のおかげで息子たちが安心して旅行へも行けないというのであれば、
反対に、念書を書き残してもよい。

「お前たちがいない間に、ぼくが死んでも、気にしないように」と。

そうそう、それから私が死んだら、センターから直接火葬場へ死体を
運んでくれればよい。
そのあとのことは、息子たちに任せる。
遺骨に私の魂など宿るはずはない。
またそんなものを、おおげさに大切にしなくてもよい。

私の魂は、今、こうして書いている文章の中にある。
もしできればいつか、年をとって、今の私と同じ年代になったら、
一文でもよいから、私が書き残したものを読んでほしい。
それが私にとって、何よりもすばらしい供養になる。

……話が脱線したが、介護といっても、自然体で臨めばよい。
そのときどきの自分の気持ちに、すなおに従ってすればよい。

最後に、私の母は、元気なころは、いつもこう言っていた。
「私が死んだら、葬式だけは、きちんと出してほしい」と。
そしてあちこちの葬式を見てきては、「あんなみじめな葬式はなかった」と、
よく批判したりした。

しかしそんな母だったが、この浜松市へ来てからは、まったくの別人に
なった。
私の家に来たとたん、すべてを受け入れ、すべてを許していた。
私たちのやり方に、一言すら、不平、不満を述べることはなかった。
「優等生」という言い方には語弊があるかもしれないが、優等生だった。
まったく手のかからない優等生だった。

だからここへ来てからの母なら、こう思っていたにちがいない。
「葬式? そんなもの、どうでもいい」と。

私たちは母の葬儀を内々で、質素に、それですませた。
私の親類とワイフの兄弟以外、だれにも知らせなかった。
全部で20~30人前後の、静かな葬儀だった。
若いころの母なら、「あんなみじめな葬儀はなかった」と、
それを批判しただろうが……。