Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, March 22, 2009

*March 23rd 2009

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 3月 23日
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●知能テストbyはやし浩司

もう25年前になるだろうか。
学研から、『よくできました』というおもちゃを、発売した。
当初は(おもちゃ)ということだったが、私は本気だった。
教材にしあげた。

それぞれのテストごとにデータをとり、正解率を70%に調整した※。
が、ここにも書いたように、それから25年。

その後、『よくできました』は、代を重ね、いつの間にか他人の名前で
発売されるようになった。
教材の世界ではよくあることである。
担当者が変わると、それまでの経緯(いきさつ)を知らないまま、
担当者が、別の人の作品にしてしまう。
(オリジナルを制作したのは、私だぞ!)

ともかくも、今度、それをHPに収録した。
題して、『幼児の知能テストbyはやし浩司』。
年齢別に、精密に制作したので、興味のある人は、一度、のぞいてみてほしい。
かなり正確に、幼児の知能を測定することができる。

『知能テスト』へは、はやし浩司のHPのトップページから、
(幼児の知能テスト)へと、進む。
もちろん無料。
こういうことは、損得を考えないでするところに意味がある。
プラス、楽しい。

(注※)市販教材を制作するときは、まず上位10%と、下位10%の子どもは、
販売対象からはずす。
残った80%の子どもたちにテストしてみて、平均点が70点前後になるように
教材のレベルを調整する。
60点以下だと、「むずかしすぎる」ということで、売れない。
80%以上だと、「簡単すぎる」ということで、これまた売れない。

若いころ、『幼児のがくしゅう』『なかよしがくしゅう』(学研)の編集を手伝って
いたとき、編集長のSY氏が、そう教えてくれた。
言いかえると、市販教材で、70%前後の成績がとれれば、ほぼ平均児と判断
してよい。
とくに私が制作した教材は、そうである。
書店に並んでいる教材にはいいかげんなものが多い。
が、こと私がからんだ教材では、そのあたりを、精密に調整してある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
知能テスト 幼児の知能 知能テスト 知能ワーク IQテスト ワークブック)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

はやし浩司+++++++++09+++++++++Hiroshi Hayashi

●ドイツの英雄、シュタウフェンベルク

+++++++++++++++++++

あのヒットラーは、在任中、40回も
暗殺未遂にあっているという。
が、そのつど悪運が強いというか、最後まで
生き延びた。

で、その暗殺未遂事件の中でも、最大級のものが、
「ワルキューレ作戦」。

以前にも何度か映画化されたが、今度、
トム・クルーズ主演の映画として、封切られることに
なった。
題名もそのまま、『ワルキューレ』。
映画パンフによると、シュタウフェンベルクは、
ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を聴いていたとき、
その作戦を思いついたという。

+++++++++++++++++++

シュタウフェンベルクについて、当のドイツでは、英雄視されているという。
ヒットラーを称える右翼組織もあるそうだが、その一方で、シュタウフェンベルクの
ような人物を英雄視する。
このあたりに、ドイツの良識というか、高い文化性が脈づいている。
いつだったか、私は、こんなエッセーを書いたことがある。

「シラーやゲーテを生んだドイツで、その後、ヒットラーのような人間が生まれた。
これを歴史の皮肉と言わずして、何と言う」と。

今なら、「ベートーベンやワーグナーを生んだドイツで……」と書くかもしれない。

しかしドイツでは、ヒットラーといえども、歴史の一部でしかなかった。
つまり歴史という大波は、ヒットラーを乗り越えて、現在に伝わっている。
それがシュタウフェンベルクを英雄視する基盤になっている。
シラーやゲーテたちが創りあげた文化は、けっして無駄ではなかった。

一方、この日本は、どうか。
天皇制にしても、世界大戦くらいでは、びくともしなかった。
奈良時代の昔からつづいている、やはり(大波)である。
こうした大波は、歴史を乗り越えて、過去から現在へとつづく。

で、これはあくまでも歴史的仮説だが、あのときシュタウフェンベルクたちの
暗殺計画が成功していたら、その後、数百万人のドイツ人の命が救われたという。
が、不幸にも(?)、作戦は失敗した。
そののちドイツがどうなったかは、今さら、ここに書くまでもない。

そこで私は考える。
もしあのとき、東条英機がいなかったとしたら、日本はどうなっていたか、と。
あるいはだれかに暗殺されていたとしたら、日本はどうなっていたか、と。
日本は戦争を回避することができただろうか。
答は、「NO!」。

(大波)といっても、その中には、(中波)もあれば、(小波)もある。
軍国主義を(中波)とするなら、東条英機は(小波)。
仮に東条英機がいなかったとしても、軍国主義という(中波)は、
また別の人物をリーダーに立て、びくともしなかったはず。

となると、事情はドイツでも同じ。
ワルキューレ作戦でヒットラーの暗殺が成功していたとしても、それで
「政権転覆が一気に成し遂げられた」(映画パンフ)とは、考えにくい。
言い換えると、歴史の(波)を変えることは、それほどまでに難しい。

たとえば官僚制度というものがある。
絶対的権威者である、王や皇帝を立て、そのもとで政治を行う。 
この日本も、奈良時代の昔から、現在の今も、基本的には官僚制度国家である。
日本が民主主義国家と思っているのは、日本人だけ。
国政選挙にしても、いかに形骸化しているかは、日本人なら、みな知っている。
その陰で、今、問題になっている、「かんぽの宿」の払い下げ事件を例にあげるまでもなく、
官僚たちは、やりたい放題のことをしている。
天下り、渡り問題にしても、そうだ。
そのつど問題にはなるが、官僚制度そのものは、ビクともしない。

つまりこれが(大波)。
この大波は、私やあなたが少しくらい騒いだくらいでは、どうにもならない。
あるいは反対に、そうした(騒ぎ)を逆に学習しながら、彼らはさらに巧妙化する。

……ということで、私の結論。

ワルキューレ作戦が成功していたとしても、ドイツは変わらなかった。
波というのは、そういうもの。
しかし……。

『スパイ大作戦』にかぎらず、この種の陰謀映画は、成功してはじめて、
ハッピーエンドで終わる。
が、『ワルキューレ』は、はじめから失敗するとわかっている映画である。
つい先日も、ドイツ製の『ワルキューレ作戦』というDVDを見たが、
どこかドキュメンタリー風といった感じで、あまりおもしろくなかった。
このあたりを、トム・クルーズは、どう演ずるのだろう。
見ものである。
+楽しみ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ワルキューレ シュタウフェンベルク ヒットラー ヒットラー暗殺計画)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●チェンジリング(Changeling)

+++++++++++++++++++++

今夜、仕事の帰りに、ワイフと映画を見てきた。
『チェンジリング(Changeling)』
よかった、泣いた、感動した。
星は5つの、★★★★★。
見ているとき、K国による拉致被害者の皆さんの
苦しみや悲しみが、そのまま映画にダブった。

+++++++++++++++++++++

「チェンジリング」というのは、「取り換え」「子どもの誘拐」という意味だそうだ。
知らなかった。
家に帰って、辞書を引いて、はじめて意味を知った。
監督は、あのクリント・イーストウッド。
『マジソン郡の橋』でも泣いたが、今回も泣いた。
久々に大粒の涙を、ポロポロとこぼした。

クリント・イーストウッド監督の映画は、どれもすばらしい。
こういう映画を自由に制作できる「能力」が、うらやましい。

だれが主演でとか、そういう話は意味がない。
最初に「True Story」(真実の物語)という文字が、浮かび上がってくる。
それがすべて。
この一言が、すべて。

正義と勇気、この2つを忘れたら、人間はおしまい。
映画館を出るとき、改めて、それを確認した。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●2月20日

+++++++++++++++++++

昨日、二男とスカイプで話す。
元気そうで、よかった。
「アメリカはだいじょうぶか?」と聞くと、
「だいじょうぶだよ」と。

安心した。
私たちに心配をかけまいとしている気配りが、よくわかった。
二男は、子どものときから、おかしなところで、がんこになる。
無理にがんばる。
すなおに負けを認めない。
ワイフ譲りの性格。
そういう二男が、いじらしい。

一方、長男の車がパンク。
そのまま会社へ行ってしまったので、
私がタイヤ交換をした。
ワイフが「あなたにできるの?」と、さかんに心配した。
が、自動車のタイヤ交換など、朝飯前。
本当に朝飯前に、それをした。

午後から人と会ったが、意味のないミーティングだった。
時間を無駄にした。

+++++++++++++++++++

●消息

20年ほど前、いっしょに仕事をしたことがあるNMさんと、しばらく電話で話す。
声を聞くのは、20年ぶり。
10年ほど前まで年賀状を交換していたが、そこまで。
元気な声だった。
一声で、NMさんと、すぐわかった。
が、そのうち知人の話になった。

「あの人も亡くなりましてねえ」「この人も亡くなりましてねえ」と。
20年という時間は、人と人の距離まで遠ざける。

言い忘れたが、NMさんは、今、77歳だそうだ。
私より少し年上かと思っていたが、16歳も年上とは知らなかった。

こうして『人、来たりて、また去る。あたかも、何ごともなかったかのように……』
(ジャン・ダルジー)か。


●不況

長男の会社も、今週から、金曜日も休みになった。
昨年の夏までは、土日出勤もあったが、今は、金、土、日が休み。
うらやましいような、かわいそうなような、プラス申し訳ないような……。
(どうして私が申し訳ない気持ちになるのか、不思議だが、そう感ずるのは事実。)

加えて、三男の会社でも、いろいろあるらしい。
が、「会社のことは何も書かないでほしい」と、釘を刺されている。
どこの会社も、こういう時代だから、みな、ピリピリしている。

ゆいいつの希望は、中国の上海B株が、わずかだが、上昇に転じてきたこと。
中国政府は、人為的に、ミニバブルを起こそうとしているらしい。
そんな動きが、素人の私にも、わかる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●AS首相

+++++++++++++++++++

私は最初から、現在の首相をAS首相と
書いてきた。
昨日の新聞によると、支持率は13%。
(13%でも、首相をつづけるつもりなのか?)
一方、不支持率は、80%に近づいている。
が、当の本人は、「9月まで、任期をまっとうする」と。

ギョーッ!

これからも、軽蔑の念をこめて、「AS首相」と書く。

+++++++++++++++++++++

●権力の亡者

「支持率が1桁になるのも時間の問題」(某、ニュース・サイト)とか。
いまや、日本中が、「やめろ」「やめろ」の、大合唱。
しかし当の本人は、「9月まで、任期をまっとうする」と。

いろいろな政治家がいたが、AS首相ほど、醜い政治家を、ほかに知らない。
「おバカ」(週刊B春)というよりは、「権力の亡者」。
1週間だけのつなぎ首相だったはずなのに、経済危機を理由に居座り、
予算案通過を理由に居座り、今度は「任期満了」を口実に居直り始めた。

こういうズルイ人は、いくらでもいる。
その場その場で、適当な約束をし、状況が変わったことを理由に、約束を反故に
していく。
あとはなし崩し的に、自分の立場を作っていく。

ずるいぞ、AS首相!


●日韓経済戦争

++++++++++++++++

日本経済も危ういが、韓国経済は、
もっと危うい。
もうあれこれ書く必要は、ない。
いちいちデータを並べて説明する必要も、ない。
なるようにしかならないし、その先も、
わかりきっている。

++++++++++++++++

言うなれば、消耗戦。
日韓経済戦争も、今は、そういう状態。
で、韓国の戦略は、こうだ。

今のような大不況も、必ず回復期に向かうときがやってくる。
そのときイチ早く、その波に乗る。
日本を追い抜くのも、そのとき、と。
1週間ほど前も、こんなことを書いている新聞があった。
「韓国は、いちばん乗りができるはず」と。

そうかな?
そうはうまくいくかな?

こんな状況があと数1、2月もつづいたら、韓国経済は、足腰を折られてしまう。
再び立ち上がることさえ、難しくなる。
そういう深刻さが、まるでわかっていない。

一方、この日本だが、こうまでガタガタになるとは、私も思っていなかった。
トヨタやパナソニック、ソニーを例にあげるまでもない。
つまりはそれほどまでに、今度の大不況は、深刻ということ。
あるいはみな、綱渡り操業をつづけていた(?)。
根が深いというよりは、底なし。
「どこまで落ちるのか?」と、みな、頭をかかえて見ているだけ。
なすすべも、ない。

日本より先に、韓国が破綻するのはしかたないとしても、日本にしても、
どこまでふんばることができるか。
あるいはどうすれば、ふんばることができるか。
今は、そういう状態。
はっきり言えば、日韓経済戦争どころでは、なくなってしまった。

が、韓国よ、これだけは覚えておくとよい。
反米、反日も結構だが、アメリカあっての韓国、日本あっての韓国。
それだけは忘れてはいけない。……いけないよ。


●K国の遠吠え

++++++++++++++++++

K国が、さかんに危機感をあおっている。
だれにも相手にされていない。
だれも相手にしていない。
今、世界は、それどころではない。
K国自身もそれがわかっているのか、
まさに言いたい放題。

周辺の国々は、「自国向けの引き締め」と
解釈しているようだ。
しかしひとつの国家の末期的症状ととらえるなら、
油断は禁物。

と、同時に、K国が何をしてきても、相手にしない。
ただひたすら冷静に、6か国協議の開催に向けて、
準備する。

+++++++++++++++++++

●忍耐

ところで話は変わるが、私は前回、バス旅行の中で、
忍耐について、学んだ。
せっかくの旅行だったが、真後ろ席に座った
オバチャンたちのおしゃべりには、心底、閉口した。
何しろ、午前中4時間、午後4時間、である。
オバチャンたちは、カラカラ、ケラケラ、
ペラペラ、ペチャクチャと話しつづけた。

私は、その間、ただひたすら、「忍」の一文字。

で、そのあと、私は自分自身の中の変化に気づいた。
少し、ものの考え方が変わった。

●ある男性

これは近所に住む、ある男性の話である。
今年80歳くらいになるのではないか。
現役時代は、警察署のエラーイ人だったらしい。
そういうこともあって、道路にある車がやたらと
気になるらしい。

どこかの工事車両がしばらく止まっただけで、
すぐパトカーを呼ぶ。
たぶんそういう男性だから、警察署も断れないの
かもしれない。
それはわかるが、しかしそのつどパトカーを
呼ぶのは、どうか?
常識のある人だったら、呼ばない。

つまりその男性には、忍耐力がないということになる。

●忍耐

よく子どもの世界でも誤解されるが、
好きなことを一日中しているからといって、
忍耐力のある子どもということにはならない。

忍耐力というのは、(いやなことをする力)をいう。
たとえば台所のシンクにたまった生ごみの始末や、
風呂の排水口にたまった毛玉などを始末できる。
そういう子どもを、忍耐力のある子どもという。

その反対側、つまり忍耐力のない人は、道路に
車が止まった程度でも、パトカーを呼ぶ。
(もっともその男性のばあい、脳のある病気が
疑われているが……。)

●忍耐力の鍛練

今回のバス旅行を通して、私はひとつのことを学んだ。
「忍耐力は、鍛練によって、鍛(きた)えられるものである」と。

旅行としては、さんたんたるものだったが、しかし
私はその計8時間の修行を通して、忍耐力というものを
学んだ。

仏道の修行には、荒行(あらぎょう)という訓練方法が
あるという。
それとはちがったものだが、しかし目的は同じ(?)。
言い換えると、私たちは日常生活の中でも、
行者の修行に似たこともできる、ということ。

●変化

ともすれば、私たちは安易な生活の中で、楽な生活のみを
追い求めてしまう。
「耐える」ということを避けてしまう。
結果、忍耐力のない人間になってしまう。

そういう意味でも、世俗との接点を忘れてはいけない。
ときには電車に乗る。
ときにはバスに乗る。
(私は、しょっちゅう、乗っているが……。)

そういう世俗の中でもまれてはじめて、忍耐力が身につく。
女性のおしゃべりはいやだ、騒音はいやだ……と言っていると、
自分自身が社会から、はじき飛ばされてしまう。

とは、いえ、バス旅行について言えば、今、しばらくは、
コリゴリ。

なお帰りのバスの中では、「アヤノコージなんとか」という
タレントのビデオが流された。
意味のないギャグの連続。
人をもちあげながら、一転、今度はこき下ろす。
この繰り返し。
ワンパターン。
1、2度は、私も、ハハハと笑ったが、そこまで。
オバチャンたちは、ゲラゲラと笑っていたが、私は静かに
目を閉じて、音楽を聴いていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090222)

●長男のマラソン

明日、長男が浜松市主催のシティ・マラソンに出場する。
朝、8時45分のスタートという。
長男は何も言わないが、ワイフと2人で、応援に行くことにした。
「朝、早いわね」と、ワイフ。

恐らく駐車場はないだろう。
電車で行くしかない。
順位は関係ないそうだ。
時間内にゴールできれば、新聞に名前が載るとか。
長男は、それをめざしている。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2月19日

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昨夜、義兄の父が死去。
通夜ということで、仕事から帰ってきたあと、弔問。
そんなわけで、床についたのが、午後11時半過ぎ。

1、2度、20年ほど前に会っただけだが、このところ
知人の死が、ズシンズシンと心に響く。

+++++++++++++++++++

●介護でバラバラになる兄弟、姉妹

ところで同じ昨日、健康診断に行くと、看護婦の人が、
こんな話をしてくれた。
20年も通っていると、それなりに親しくなる。

いわく、「親の介護を10年もしたという話を聞くと、
『ああ、この家族もバラバラになっているだろうな』と
思います」と。

どうしてその看護婦がそういう話をし始めたかはわからない。
しかしそう言った。
つまり、こういうこと。

「親の介護も10年つづくと、子どもたちの関係がおかしくなる」と。
その看護婦は、「親の介護で、家族がバラバラになる」と言った。
すかさず、私も、それに同意した。

「そうですね。介護の負担、介護疲れ、介護費用の問題、それに遺産相続の
問題もからんできますからね。
それに親子いっても、いろいろありますから」と。

私のばあいは、10年というか、実のところ、この40年近くもつづいていた。
介護そのものは、5、6年というところだが、しかしいろいろな問題が、
ひっきりなしにつづいた。
一時は、(というより、そのつど)、気がヘンになりそうになった。
しかし「運命は受け入れる」。
そう自分に言ってきかせて、それを乗り越えることができた。

●運命論

『運命というのは、それを避けようとすると、キバをむいて襲いかかってくる。
しかし受け入れてしまえば、運命のほうから、シッポを巻いて逃げていく』。
これは私が、自分の体験から考えた格言である。

それぞれの人には、それぞれ、どうしようもない問題をかかえている。
親の介護、家族の問題、仕事の問題などがそうだ。
そしてそれぞれの問題が、その人を、思わぬ方向に引っ張っていってしまうことが
ある。
それが「運命」ということになれば、それが運命。

ただこういうことは言えるのではないか。

こうした問題に直面したとき、それを重荷とするか、それとも笑って過ごせるかは、
もっぱらにその人の文化性による、と。
つまりなぜ私たちが常に、自分の文化性を磨くか、磨いていかねばならないかといえば、
こうした問題に直面したとき、うろたえないためではないか。
『浅瀬に仇波(あだなみ)』という諺(ことわざ)があるように、文化性の低い人ほど、
運命を前にして、大騒ぎする。
そうでない人は、そうでない。

●文化性(宗教性)

これはワイフの意見だが、ワイフはこう言った。
「宗教観も必要なのではないかしら」と。

「ほら、キリスト教などでは、愛を説くでしょ。もしマザーテレサがもっていたような
愛の1万分1でも、みなにあれば、たとえば親の介護の問題程度のことで、ガタガタしないわよ」と。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。

しかしそれ以上に大切なのは、やはりまわりの人たちを思う心ではないか。
それがあればよし。
というのも、親の介護にしても、子どもの世話にしても、きれいごとだけでは
できない。

私も6か月、母の便の世話をしたが、こんなことがあった。
そのあと母は、特養老人ホームに入居した。
それからしばらくしたときのこと。
母が、再び、私の自宅に戻ってくるというような話がもちあがった。
そのときのこと。
それに対して、私は生理的な拒絶反応を示した。
母を嫌うとか、そういうことではない。
「再び、便の始末ができるか」と自問したとき、自分自身の中の私が、猛烈に
それに反発した。
それははげしい拒否反応だった。
……ということで、母を再び、私の自宅に迎えることができなかった。
つまり(きれいごと)だけでは、で・き・な・い。
(あるいはこれは、私の哲学観の欠陥によるものか?)

ともかくも、看護婦の女性の話のように、親の介護が原因で、子どもどうし
(兄弟姉妹)が、いがみあうようになるケースは、少なくない。
だから看護婦の女性は、こう言った。
「私はね、その人が10年も親の介護をしたという話を聞くとね、
ああ、兄弟姉妹は、バラバラだろうなと思いますよ」と。

●では、どうするか

これは私の経験だが、(1)とにかく誠実に、(2)とにかくウソをつかない、
(3)とにかく約束を守る、(4)とにかく他人にグチを言わない。

これだけは、とくに親の介護をするときの、大原則。
この大原則を破ると、兄弟姉妹の関係は、ギクシャクしたものになる。
小さな誤解が、とたんに大増幅し、爆発する。

そしてここが重要だが、一度壊れた人間関係は、元には戻らない。
兄弟姉妹とて、例外ではない。
親の介護には、そういう深刻な問題も含まれる。
なぜか?

親の問題は、それくらい根が深いということ。
兄弟姉妹といえども、親を大木とするなら、枝葉にすぎない。
親の問題でギクシャクすれば、枝葉は当然、揺れる。

私にも姉がいるが、????。
遠方に住んでいることもあって、誤解が誤解を生むということもあった。
だからそうならないように、先の4つの大原則は守る。
これは運命と闘うためのコツということにもなる。

(補足)
しかし(自分の力や努力でどうにかなる問題)については、ふんばる。
土俵際に追いつめられても、ふんばる。
ふんばってふんばりまくる。
そのふんばるところに、人間の生きる価値がある。
ドラマもそこから生まれる。

私たちがなぜ生きているかといえば、そのドラマにこそ、生きる価値が
あるからではないか。
平凡は美徳だが、その平凡からは、何も生まれない。
平凡であることを、喜んではいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

2月17日(火曜日(2009)

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寒い朝だ。
おとといまでの陽気は、昨日の台風並みの風で、
南の彼方へ吹き飛んでしまった。

で、再三再四で恐縮だが、「この世・あの世論」。
今のところ、こんなばかげた(論)を展開しているのは、
どうやらこの私だけのよう。
つまり、この世が、あの世で、あの世が、この世。
わかるかな?

++++++++++++++++++++

●実は、この世があの世?

私たちが思っている(この世)、つまり此岸(しがん)こそが、実は、あの世の、
彼岸(ひがん)であるという説。
私たちは、あの世に、天国や地獄があると教えられている。
(極楽と地獄でもよいが……。)
しかし天国も地獄も、みなさんご存知のように、実はこの世にある。
天国に住んでいるような生活をしている人もいれば、地獄に住んでいるような
生活をしている人もいる。

……と考えると、実は、私たちが言っている、(あの世)こそが、実は、元の世界、
つまり(この世)ということではないのか。

私たちは、元の世界(=この世)から、こうしてあの世(=私たちが「現世」と
呼んでいる、この世)へ、やってきた。
そう考えるほうが、何かにつけ、合理的である。
話をわかりやすくするために、こうしよう。

私たちが今、こうして住んでいる世界を、(世界A)とする。
私たちが死んだら行くという、あの世を、(世界B)とする。

たとえばその世界の、(時間的長さ)にしても、世界Aのそれは、あまりにも短い。
長生きをしたとしても、100年前後が限度。
(たったの100年だぞ!)
しかし世界Bでは、時間は永遠。
世界Aとは、比較にならない。
それだけでも、世界Bのほうが、(元の世界)ということになる。
つまり私たちは、世界Bのほうから、ときどき世界Aのほうへやってくる。
ときどきやってきては、天国や地獄を経験する。
世界Aのほうには、天国も地獄もある。

わかりやすく言うと、天国Bの住人たちは、折につけ、世界Aのほうへやってくる。
世界Aのほうへやってきて、天国や地獄を経験する。
もちろん努力によって、世界Aのほうでも、地獄を天国に変えることはできる。
反対に、天国を地獄にしてしまうこともある。

(どういう状態を「天国」といい、どういう状態を「地獄」というかについては、
いろいろな意見があると思うが……。)

……とまあ、突飛もないことを考えているが、そう考えることによって、私たちが
住んでいるこの世界Aを、また別の角度から、眺めることができる。
と、同時に生きるということがどういうことなのか、別の角度から、考えることが
できる。

●かぎりない自己中心性

この世がこの世と思うのは、あまりにも自己中心的。
かぎりなく幼稚。
幼児は、「自分たちが今、ここに住んでいるから、この世界が(元)」と考える。
こうした幼稚性は、自分たちの住んでいる世界から、一歩、外へ出てみるとわかる。
こんな例で考えてみよう。

少し前、息子夫婦が、義理の妹(アメリカ人)を連れて日本へ来た。
そのときのこと。
その妹は、日本の海苔(のり)を食べることができなかった。
寿司屋でも、軍艦寿司は、そのつど海苔をはずして食べていた。
私は、その話をワイフから聞いたとき、心底、驚いた。
どういうわけか、驚いた。
いろいろな話は聞いていたが、海苔を食べられない外人の話は、聞いたことがない。
(あとで、そういう外人も多いということは知ったが……。)

「世界の人は、海苔が好きなはず」と思っていた私は、それだけ自己中心的な
ものの考え方をしていたということになる。

つまりこういうこまかいことが積み重なって、世界Aをつくる。
私たちには常識的な世界かもしれないが、常識そのものが、自分に都合のよいように、
作られていく。
言うなれば、むしろこちらの世界のほうが、虚構の世界ということになる。

もし、世界Bが本当に存在するとするなら、(私は存在しないと思っているが)、
私たちが「この世」と呼んでいる、世界Aのほうこそが、世界Bから見れば、
「あの世」ということになる。

つまり私たちは、この世で、あの世のあの世を生きていることになる。

もしも、本当に、あの世(世界B)があるとするなら……という前提での
話だが……。


【4】(子育て危険度)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(一部を紹介します。もっと読んでくださる方は……
http://hiroshihayashi9.ninja-web.net/page012.html#label1
へ、おいでください。)

パンツのウンチで恥をかかせるとは!
結婚するというのは冗談です(失敗危険度★★)

●やがて大騒動になるとは!
 乱暴な子どもというのは、いる。「こんにちは」と言いながら、足でこちらを蹴飛ばして
くる。「さようなら」と言いながら、また蹴飛ばしてくる。丸井さん(年中女児)もそうだ
った。そこである日、丸井さんが私をいつものように蹴飛ばしてきたので、すかさずこう
言った。「丸井さん、ぼくは君がおとなになっても、結婚しないからな。結婚するなら、あ
の大野さんとする」と。たまたま大野さんの顔が目に入った。だからそう言った。が、こ
の一言が、やがて大問題になるとは!

●「もちろん冗談です」
 それからちょうど一週間後のこと、同じクラスの母親の一人に会うと、その母親がこう
言った。「先生、大野さんの件ですけどね。何でも大野さんが、私はおとなになったら、林
先生と結婚するんだと、真剣に悩んでいるというのですよ」と。大野さんが私の冗談を真
に受けてしまったらしい。「まずかった……」と思っていると、たまたまその日、大野さん
の父親が大野さんを迎えにきていた。そこで立ち話だったが、私はこう言った。「実のとこ
ろ、大野さんといつか結婚すると言ってしまいましたが、あれはもちろん冗談です。ご本
人は本気にされてしまったようですが、どうかお許しください」と。

●私の失敗談
 が、その夜のこと。夕食を終えて、そろそろ風呂の用意をと考えていたら、玄関先で人
の気配が……。出てみると、大野さんの父親と母親がものすごい剣幕で立っているではな
いか。「どうしたのですか?」と声をかけると、「説明してほしい」「どういうことですか」
と。父親は、「大野さん」というところを、自分の妻のことだと思ってしまったらしい。私
が大野さんの妻に結婚の話をした、と。

私はこの幼児教育の世界へ入ってからというもの、子どもでもすべて名字で呼んでいる。
それが誤解を招いた。つまり父親は、私が母親とただならぬ関係にあると誤解した。こ
んな失敗をしたこともある。

●ウンチのついたパンツ
子どもを指導するとき、「○○をするな」とか「○○をしなさい」とかいう命令は、でき
るだけ避けたい。これは私の教育理念の一つでもある。で、たとえば授業中フラフラと
歩いているような子どもには、私はこう言う。「パンツにウンチがついているなら、立っ
ていていい」と。そしてそれでも立っていたら、さらに「おしりがかゆいのか?」と真
顔で聞いたりする。そのときもそうだった。小学三年生のK君が、フラフラと歩いてい
た。そこで「ウンチがついているなら、立っていていい」と。ところがそのあとハプニ
ングが起きた。私がそう言い終わらないうちに、別の子どもが、K君のおしりに顔をう
ずめて、「先生、本当にくさ~い」と。

 その夜K君の父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「息子のパンツのことで、皆
に恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。

 これらの話は、この本のタイトルとは関係ない。つまり私の失敗談ということになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)

●子どもの茶パツ
 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに
眉をひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。
講演などに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけでは
ないから、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡
単に茶パツにすることができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理
 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、
個性とはいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。ま
た「だれにも迷惑をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まった
くない。裏を返していうと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、
「迷惑か迷惑でないか」を、そこらの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを
低俗文化の論理という。こういう論理がまかり通れば通るほど、文化は低俗化する。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷
惑をかけなくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い
道徳性によって決まる。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、
それを口にするというのは、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味す
る。

●学校側の抵抗
で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めて
かかっているようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止して
いるところもあるが、小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思というこ
とになる。が、学校の校長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということにな
る。学校全体を包むモヤモヤとした風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。
だから校長にしても、それが気になる。……らしい。

●まるで宇宙人の酒場!
 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒュ
ーストン国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座って
いると、まるで映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら
覚える。身長の高い低い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別
の惑星から来た生物のような、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。
服装もそうだ。国によって、まるで違う。アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに
書くまでもない。そういうところで茶パツを問題にしたら、それだけで笑いものになるだ
ろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外というにふさわしいほど、互いに違ってい
る。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさげて歩いていても、だれも見
向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?
 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシ
から沖縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かも
しれないが、しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。
ただこの日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしても
よい」という論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校
長にしても、それを心配しているのではないか? 私にはよくわからないが……。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

乾電池を入れかえれば動く!
死は厳粛に(失敗危険度★★)

●死を理解できるのは、三歳以後
 「死」をどう定義するかによってもちがうが、三歳以前の子どもには、まだ死は理解で
きない。飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く!」と言った子
ども(三歳男児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(三歳男児)や、「病
院へ連れて行こう」と言った子ども(三歳男児)もいた。子どもが死を理解できるように
なるのは、三歳以後だが、しかしその概念はおとなとはかなり違ったものである。三~七
歳の子どもにとって「死」は、生活の一部(日常的な生活が死によって変化する)でしか
ない。ときにこの時期の子どもは、家族の死すら平気でやり過ごすことがある。

●死への恐怖心
 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひ
とりぼっちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。たとえば母親が臨終
を迎えたとき、子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものでは
ない。ちなみに小学五年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、
八人全員が、「こわくない」「私は死なない」と答えた。一人「六〇歳くらいになったら、
考える」と言った子ども(女子)がいた。質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死
ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいやだ」「それは困る」と答えた。

●死は厳粛に
 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人
がそれを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとでは
ないと知る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。死を茶化してはいけない。
もてあそんでもいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。たとえば飼
っていた小鳥が死んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイ
と捨てれば、子どもは「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれ
ではすまない。

死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死を
ていねいにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死
を粗末にすれば、子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

●死をとおして生きることの大切さを
 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめ
るという目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えて
よい。そんなことも頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。


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