*Magazine for March 25th
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 3月 25日
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★ ★★HTML版★★★
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page013.html
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●病識
++++++++++++++++++
精神医学の世界には、「病識」という言葉がある。
「私は病気」と、自分で自分のことを自覚することをいう。
同じ精神疾患でも、本人にその病識があれば、まだ
症状は軽いとみる。
また治療もしやすいという。
一方、病識のない人も多い。
たとえばアルツハイマー病のばあいは、初期の
段階では、病識のある人が多いという。
似たような病気に、ピック病というのがある。
脳の中でもダメージを受ける部分がちがうそうだが、
ピック病のばあいは、病識のある人は少ないという。
これは精神疾患の話だが、社会を見る目についても、
同じようなことが言える。
+++++++++++++++++++
●身分意識
日本人は、いまだに封建主義的な身分意識をもっている。
その人をみるとき、肩書きや地位で、判断する。
相手によって、威張ったり、へりくだったりする人というのは、
無意識のうちに、相手の身分を意識しているためと考えてよい。
が、おそらく当の本人は、(そしてあなた自身も)、「私はちがう」と思っている。
「私には身分意識はない」と。
しかしそう言い切るのは、待ってほしい。
半年ほど前、私はある会合に出た。
出席したのは、私のほか、数名の研究者だった。
私以外、みな、「~~大学教授」という肩書きをもっていた。
そこでのこと。
もともとある出版社が企画した会合ということもあって、その出版社の社長以下、
数名の社員が顔を出していた。
私がいちばんの長老格だった。
(私は61歳、教授と呼ばれる人たちは、55~60歳前後、出版社の社長は50歳前後。)
が、静かに観察してみると、社長以下、出版社の社員たちの態度が、微妙にちがう。
私に対しては、どこかインギン無礼。
一方、教授たちに対しては、バカをつけたいほど、バカていねい。
驚いたことに、私には、交通費しか支給してくれなかった。
教授たちには、交通費プラス日当が支払っていた。
封筒の中の額は知らないが、2~5万円前後ではなかったか。
つまりこれが私がいう、「身分意識」である。
こうした身分意識は、社会のいたるところに残っている。
そしてそのつど、顔を出す。
が、私以外、その身分意識に気がついている人はいなかった。
長い前置きになったが、これが冒頭に書いた、「病識」に似ている(?)。
●身分コンプレックス
さらに……。
これは余談だが、よく観察してみると、地位や肩書きと関係の
ない、つまり身分制度の外にいる人ほど、身分意識を強くもっているのがわかる。
出版社でいうなら、大手の出版社よりも、中小の出版社の人のほうが、強くもっている。
さらに、社長よりも、編集長、編集長よりも、編集部員のほうが、強くもっている。
これはおもしろい現象かと思う。
言うなれば、身分コンプレックスということになる。
お金のない人ほど、金持ちにコンプレックスをもつ。
それに似ている。
で、こうした意識を名づけるとしたら、「社会意識」ということになる。
もう少し短くして、「社会識」でもよい。
本人に社会意識があれば、まだ対処の仕方もわかる。
話もしやすい。
しかしその社会意識のない人は、どうすればよいのか。
たとえばこの浜松市では、そしてとくに教育の世界では、「東京から来た……」と
いうだけで、みな、頭をさげる。
たとえば東京から来たというだけで、講演会の講師料にしても、30~100万円。
あるいは、それ以上。
反対に、愛知県と浜松市の県境にあるM町から来た講師だと、3~5万円。
ばあいによっては、1~2万円。
浜松まで同じ2時間の距離でも、10倍近い、差をつける。
こうした傾向は、女性、とくに母親と呼ばれる人たちの間ほど、強い。
同じ浜松市に住みながら、地元の人の価値を認めない。
が、当の本人は、それに気がついていない。
つまり、社会意識がない。
●社会意識
……ということで、私たちは常に、偏見や誤解、古い因習や伝統に毒されている。
男尊女卑思想にはじまって、先輩後輩意識、家父長意識、親意識などなど。
そういうものがどういうものであるかを知っている人は、まだ社会意識がある。
精神疾患にたとえるなら、まだ症状も軽い。
治療もしやすい。
しかしそれがない人は、症状は重い。
その分だけ、治療も難しい。
中には、「私はだいじょうぶ」「私は正しい」「私はまとも」とがんばってしまう
人もいる。
こういう人は、ホープレス(=希望なし)。
治療のしようがない。
で、こういうばあい、どうするか。
つまり相手が私を差別してきたら、どうするか。
私のばあい、そういう人たちとはつきあわないようにする。
「どうぞご勝手に」と、離れる。
説得してわからせるには、それなりのエネルギーがいる。
それだけのエネルギーがあるなら、もっとほかのことに使いたい。
それに、人は、人。
私は、私。
……ということで、その会合のあとも、いろいろ連絡が届いた。
出版社のねらいは、この私に原稿を書かせて、そこにいた教授たちの名前で
本を出すこと。
意図は見え見え。
で、私はすべて無視した。
インギン無礼に、ただひたすらインギン無礼に……。
私の代わりになるような人間、いくらでもいる。
私の知ったことではない。
つまりこうして世の中を正していくしかない。
とくに社会意識のない人たちには、そうするしかない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
病識 社会意識 社会識)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●シティ・マラソン
+++++++++++++++++++
2月22日、ややうす曇りの好天のもと、
浜松市主催のシティ・マラソンが開催される。
私とワイフは、トラックの出入り口付近に座って、
長男がスタートするのを待っている。
長男が勤める会社の専務といっしょに走るという。
+++++++++++++++++++
市内まで車で行き、教室の駐車場に車を止める。
そこから電車で上島(かみじま)駅へ。
駅から、四池競技場まで。
ゾロゾロと歩く群衆について、そのまま競技場へ。
人が多いのに、驚いた。
「健康」を求める人のエネルギーというか、熱意に
感銘する。
少しおおげさな言い方になるかもしれないが、
「みんな、がんばって生きているんだなア」と。
と、同時に、(走る)のもよいが、(自転車競走)というもの、
やってほしい、と。
自転車なら自信がある。
60歳以上、高齢者部門だったら、優勝できるはず。
足の太さがちがう。
つまり私の足は、太い。
会場には、個人で走る人も多いが、団体で来ている人も多かった。
それぞれが独自のユニフォームを着て、スタートを待っていた。
監督らしい人から、あれこれと指示を受けているグループもあった。
ヘリコプターも飛んでいた。
少しずつだが、ムード(+緊張感)が高まってきた。
私は、スポーツといえば、個人競技が主体だった。
柔道や剣道など。
野球は苦手だった。
サッカーは、まったくといってよいほど、やらなかった。
「サッカー」という名前を知っている人も少なかった。
マラソンにしても、この浜松へ来てから、知った。
ところで何かの本に書いてあったが、江戸時代が終わるまで、日本人というのは、
走ることを知らなかったそうだ。
しかも右足を前に出すとき、右手を前に出して歩く、あるいは走る、
今では想像もつかないような歩き方、あるいは走り方をしていた。
その名残は、能楽に残っている。
能楽では、シテ、ツレなどは、右足を出すと同時に、ゆっくりと右手を、
左足を出すと同時に、ゆっくりと左手を前に出して、歩く。
また忍者走行というのもある。
これは体を横にして、そのつど両手を交差させながら走るというもの。
今で言う(走り方)とは、スタイルがかなり違ったものである。
そのこともあって、日本ではじめて軍人指導をした外国の指揮官は、
日本人の歩き方を見て、たいへん驚いたそうだ。
……ということで、今、この部分は、競技場の中で書いている。
先ほど3キロコースがスタート。
つづいて5キロコースがスタート。
これから10キロコースがスタート。
ゴールの前で太鼓がどんどんと鳴っている。
しばらくすると、3キロコースの人たちが、戻ってきた。
「10分で戻ってきた!」と、ワイフは時計を見ながら驚いていた。
10分で3キロということは、時速になおすと、18キロ!
トップは小学生だったと思う。
走りなれた様子で、スタスタと戻ってきた。
「来年はぼくも走ってみようかな」と思ったところで、この話は
ここまで。
これからギャラリーになって、長男を応援する。
Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司
●社会的制裁(?)
+++++++++++++++++++++
世俗をだます言葉が、これ。
「社会的制裁」。
先日もある事件の判決文を読んでいたら、
こんなのがあった。
ある公務員の汚職事件にからんだものだが、
こうだ。
「被告はすでに、公務員としての地位を失うなど、
社会的制裁を受けているので……、よって執行猶予
X年とする」と。
(執行猶予刑というのは、実質的に無罪と同じ。)
教師によるハレンチ事件の判決などでも、同じような
表現が用いられることが多い。
つまり(職を失っているので)、(刑罰を受けたことに
なる)と。
しかしこの論法はおかしい。
完全に、おかしい。
職を失うのは、当然の結末であって、それでもって、
社会的制裁を受けたということにはならない。
+++++++++++++++++++++
●目には目を!
政治家を例にあげて考えてみよう。
何かの事件で逮捕、投獄されたとする。
その時点で、議員辞職願いを出して、議員を辞職する。
その判決で、「すでに社会的制裁を……」は、おかしい。
もしその(おかしさ)がわからなければ、あなた自身の
こととして考えてみればよい。
たとえば私は、何も失うものがないと言えるほど、
地位や肩書きとは無縁の世界に生きている。
もしこの論法がまかりとおるなら、私は、日常的に
社会的制裁を受けていることになる。
こんな例もある。
数日前、ニュースサイトをのぞいていたら、こんな記事が目についた。
あのイランで、何と、盲目の刑が科せられた人がいるという。
その人は、ある女性の目に薬剤をかけて、その女性を盲目にしてしまった。
そこで裁判所の判決は、その人を盲目にする、と。
「目には目を……」という、イスラム教にのっとった刑罰とか(?)。
しかしこんな刑がまかりとおるとするなら、今、現在、盲目の人たちは、どうなのか、
ということになる。
そういう人たちは、日常的に刑罰を受けていることになってしまう。
私は権力や組織とは無縁の世界に生きている。
だからといって、社会的制裁を受けているわけではない。
同じように盲目の人たちも、刑罰(?)を受けているわけではない。
もっとひどいのに、こんな話がある。
あるテレビタレントが、何かの事件を起こした。
(こうした事件はよく起きるので、どういう事件かを特定する必要はない。)
そのタレントについて、マスコミ(=新聞やテレビ)は、こう言ったりする。
「あのタレントは、すでにマスコミの世界から、追放されている」と。
となると、この私は、どうなのか?
私は、若いときから今に至るまで、マスコミの世界から追放された状態にある。
(ときどき、テレビや新聞に出たことはあるが、それで利益につながったとか、
そういうことはない。)
私だけではない。
この文章を読んでいる、あなただって、そうだ。
あなただって、マスコミから追放された状態にある。
何も、悪いことなどしていなくても、だ。
●社会的制裁
社会的制裁は、刑罰ではない。
またそれらしき結末になったからといって、判決の内容に影響を与えるものではない。
また影響を与えてはならない。
さらに念を押すなら、こういうことも言える。
政治家や公務員が、何かの事件を起こして職を失ったとする。
それについて、裁判官が、「すでに社会的制裁を……」と言ったとする。
たしかに社会的制裁にはちがいないが、もしそれを(制裁)とするなら、
今、現在、職を失い、その日の生活費にすら苦労している人たちは、
どうなのか、ということになる。
その人たちも、やはり日常的に制裁を受けていることになる。
しかしだれによって?
どうして?
……ということで、私は、あの「社会的制裁」という言葉を聞くたびに、
なんとも言われない不快感を覚える。
視点そのものが、「上」にあって、私たちを、「下」に見ている。
下の世界にいる者は、いわゆる価値のない大衆にすぎない、と。
だから裁判官に私は、こう言いたい。
名誉や地位、さらに仕事を失うのは、あくまでも結末であって、その結末を
先にもってきて、「すでに社会的制裁を……」とは、言ってほしくない。
私たちには、名誉も地位もない。
大半の人たちは、みな、そうだ。
マスコミにも相手にされていない。
だからといって、私は、制裁を受けているとは思わない。
それがわからなければ、もう一度、あのイランでの判決を思い出してみればよい。
刑罰によって、その人を盲目にするということは、それ自体が、盲目の人
たちへの冒涜(ぼうとく)以外の何ものでもない。
はっきり言えば、バカにしている。
一見、合理的に見えるが、合理性は、どこにもない。
「盲目になって苦しんでいる人のために、お前も同じ苦しみを味わえ」という
ことだろう。
が、しかしそれは同時に、今、現在、病気などによって盲目になった
人たちの苦しみを、もてあそぶことになる。
繰り返す。
こういうバカげた、(後付け理由)は、もうやめにしてほしい。
(補記)
さらにダメ押し。
2人の人が、同じハレンチ事件を起こしたとする。
1人は学校の教師、もう1人はフリーターである。
「すでに社会的制裁を……」という論法がまかりとおるとするなら、
教師には、執行猶予がつく。
それはわかる。
しかしフリーターには、もとから失う仕事すら、ない。
日常的に社会的制裁を受けた状態にある。
社会的制裁を受けようにも、受けようがない。
だとするなら、フリーターには、執行猶予はつかないことになる。
この不公平感こそが、そのままこの言葉の不合理性を表していることになる。
さらに言えば、繰り返しになるが、この論法がまかりとおるとするなら、
リストラなどで職を失った人は、どうなのかということになる。
それを「社会的制裁」というのは、あまりにも酷である。
わかったか、裁判官の諸君!
少しは人間社会を、「下」から見ろ!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
社会的制裁 社会的制裁論 刑罰 刑罰論 判決)
Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司
●富めるときは貧しく……
++++++++++++++++++++
今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。
今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。
しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。
+++++++++++++++++++++
私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。
が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。
そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。
私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。
私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。
つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。
幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
たいていは1年保育。
さらにクーラーがある。
数年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。
が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?
私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。
が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。
悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。
これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。
……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。
実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。
スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。
が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。
この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。
『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。
「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。
偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
豊かな時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)
Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司
●貧しさの中の豊かさ
++++++++++++++++++
貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。
このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずるほど。
++++++++++++++++++
フロイト学説によれば、2~4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。
一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。
そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。
たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。
ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。
ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。
そういう女性は、輝いている。
体の奥から、輝いている。
が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。
ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。
が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。
では、どうするか?
いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。
押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、KTという人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。
いつかKTについて詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。
言い忘れたが、KTというのは、「xxxxx」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、日本を代表する大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。
……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。
こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。
50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
損の美学 損論 損得論 ケチ けち ケチ論 フロイト 肛門期)
【4】(子育て危険度)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(一部を紹介します。もっと読んでくださる方は……
http://hiroshihayashi9.ninja-web.net/page012.html#label1
へ、おいでください。)
どうして生徒なんか紹介するのよ!
すべて計算づく(失敗危険度★★)
●母親族たち
母親たちを総称して、「母親族」という。決してバカにしているのでも、また差別してい
るのでもない。一人ひとりの母親をみていると、どの母親もすべて違う。しかし全体とし
てみると、その母親にはどこか共通点があるのがわかる。そういう母親像を最大公約数的
にまとめて、「母親族」という。それはちょうど、若者たちをみて、「若者族」、老人たちを
みて、「老人族」というのに似ている。決して気分を悪くしないでほしい。で、その中の一
例。
●母親族の特徴
(1)サービスも、三回つづくと、当たり前……ある音楽教室でのこと。レッスン時間は
レッスン時間としてあるのだが、たまたま隣の部屋があいていた。そこで学校帰りの子ど
もについて、早く来た子どもはその部屋を自由に使ってもよいということにした。宿題が
ある子どもは宿題を、レッスンをしたい子どもはレッスンを、と。最初のころこそ、親も
子どももどこか遠慮がちにその部屋を利用していたが、三か月もすると様子が変わってき
た。その日のレッスンでない子どもまでやってくるようになった。その上、三〇分とか一
時間という常識的な時間ではなく、中には数時間もいる子どもまで出てきた。そこで半年
ぐらいたったある日のこと、その音楽教室の先生は、その部屋を閉鎖した。が、母親たち
は納得しなかった。中には怒って、「約束が違う」と、音楽教室をやめてしまう母親すらい
た。
(2)すべてが計算づく……これはある英会話教室の話だが、この不況下、その教室でも
生徒集めに苦労をしていた。その教室では、生徒数が一〇人前後いないと、講師に払う時
間給が赤字になるのだが、生徒数はたったの四人。が、その講師の先生は、アメリカの州
立大学を優秀な成績で卒業した女性。教え方もうまい。しかし三か月たっても、半年たっ
ても、生徒はふえなかった。クラスを閉鎖しようと経営者は何度も考えたが、その講師を
手放すのは忍びなかった。で、結局ほぼ一年間、その状態がつづいたが、やっと一人、新
しい生徒が入ってくることになった。が、そのときのこと。その新しい生徒は、先の四人
の中の一人が紹介した子どもだったのだが、生徒の親どうしの間で、争いが起きたという
のだ。「どうして新しい生徒なんか紹介するのよ。生徒がふえれば、それだけうちの子たち
がていねいに教えてもらえないでしょ!」と。親たちは協力しあって、新しい生徒がふえ
ることに抵抗していたのだった。
(3)こまかい授業設定……これは学習塾での話。その塾では、小学五年生のクラスだけ
で、それぞれ別々の四クラスがあった。週二回のレッスンだったので、計八クラスという
ことになる。が、小学五年のG君だが、ほとんど毎週のようにレッスン日の変更を申し出
てきた。「今度の火曜日に行かれないので、明日の月曜日にしてほしい」とか。受付の女性
はそのつど、その申し出に応じていたが、ある日、出席日数をチェックしてみて驚いた。
どの子どもも、週二回、月八回のレッスンになっていたが、G君だけは、毎月九~一〇回
になっていた。変更をうまくやりくりしながら、レッスンの回数をふやしていたのだ! つ
まり塾というところは、月単位で運営するところが多い。だから月によっては、四週ある
クラスと、五週あるクラスがうまれる。五週あるときは調整休みをするのだが、その間を
うまく行ったり来たりすると、月八回のレッスンを、九回にしたり一〇回にしたりできる。
……とまあ、ふつうの人なら、こんなこまかい計算はしない。しかしG君の母親はした。
しながらレッスン日をふやしていた。
●母親族こそ犠牲者
結論から先に言えば、今、子育てそのものが、個人の欲得の追求の場になっている。エ
ゴイズムが、その底流ではげしくぶつかりあっている。「自分の子どもさえよければ、それ
でいい」「何とか自分の子どもだけでも」と。そしてそれが日本全体を包む大きな流れであ
るとするなら、その流れの中で翻弄されている母親族こそ、本当の犠牲者なのかもしれな
い。だれもそういう母親族を責めることはできない。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
一緒に学校へ抗議に行ってほしい!
親の身勝手(失敗危険度★★★★)
●「しっかりめんどうをみろ」
三〇人もいれば、いろいろな生徒がいる。たとえあなたの子どもに問題がないとしても、
多いか少ないかと言えば、問題のある子どものほうが多いに決まっている。中には親です
ら、手に負えない子どももいる。そういう子どもを三〇人も一人の先生に押しつけて、「し
っかりめんどうをみろ」はない。もっと言えば、あなたという親から見れば、先生とあな
たの関係は一対一かもしれないが、先生のほうから見れば、一対三〇になる。たとえばあ
なたは「一〇分くらいの相談ならいいだろう」と思って電話をするかもしれないが、三〇
人ともなると、それだけで計五時間となる。五時間である! が、親にはそれがわからな
い。どの親も、「私だけ」と思って行動する。あるいは自分や自分の子どものことしか考え
ない。こんなことがあった。
●一〇〇%完ぺきな授業はない
ある日一人の母親が血相を変えて私の家にやってきた。そしてこう言った。「今日、学校
で席決めのとき、先生が『好きなどうし並んでもよい』と言ったという。ウチの子(小二
男児)のように、友だちがいない子どもはどうしたらいいのか。そういう子どもに対する
配慮が足りない。これから学校へ抗議に行くので、一緒に行ってほしい」と。もちろん私
は断った。
すべての子どもに対して満点の指導など、実際には不可能だ。九〇%の子どもによかれ
と思ってしても、残りの一〇%の子どもにはそうでないときもある。たまには自分の子
どもが、その一〇%に入るときもある。そういうことでいちいち目くじらを立てていた
ら、学校の先生だって指導ができなくなる。
●本当の問題
学校や学校の先生に対して完ぺきさを求める親というのは、それだけで依存心の強い人
とみる。もし教育は親がするもの、その責任は親がとるものという考えがもう少し徹底す
れば、こうした過関心は、少しはやわらぐはず。このタイプの親は、「何とかせよ」と学校
や学校の先生に迫ることはあっても、その責任は自分にあるとは思わない。席決めを問題
にした親にしても、先生の発言よりも、むしろその子どもに友だちがいないことこそ問題
にすべきではないのか。「なぜ友だちがいないのか?」と。また友だちがいないからといっ
て、それは先生の責任ではない。子ども自身が自分で、「ぼくには好きな子がいない」とで
も言えば、それはそれでわかるが、そうでなければ、先生にそこまで把握することは不可
能。家へ帰ってから子どもが親に、「ぼくには友だちがいない」と訴えたとしても、それは
子ども自身の問題と考えてよい。
子どものことに関心をもつのは、それはしかたないことだが、しかしそれが過関心にな
り、こまかいことが気になり始めたら、心の病気の初期症状と思ったらよい。ほうってお
けば、あなたは育児ノイローゼになって、自らの心を狂わすことになる。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
ただより高いものはない
親のエゴ、親の計算(失敗危険度★★)
●身内や親戚は教えない
昔から『ただより高いものはない』という。教育の世界ほどそうで、とくに受験勉強の
ような「危険物」は、割り切ってプロに任せたほうがよい。実のところ、私も若いころ、
受験塾の講師もしたことがあるが、身内や親戚、あるいは親しい知人の子どもについては、
引き受けなかった。理由はいくつかある。
まず受験勉強ほど、その子どものプライバシーに切り込むものはない。学校での成績を
知るということは、そういうことをいう。つぎに成績があがればよいが、そうでなければ、
たいていは人間関係そのものまでおかしくなる。ばあいによっては、うらまれる。さらに
身内や親類となると、そこに「甘え」が生じ、この甘えが、金銭関係をルーズにする。私
も一度だけ、遠い親戚の子ども(小二のときから中二まで)預かったことがある。F君と
いう男の子だった。
●F君との出会い
F君が最初に私のところにやってきたのは、小学一年生のときのことだ。今でいう学習
障害児と言ってもよいような子どもだった。女房の遠い親戚にあたる子どもだったので、
頼まれるまま引き受けた。いや、本来なら親戚の子どもは引き受けないのだが、母親は私
の熱心なファンだと言った。それで引き受けた。
●月謝は半額
で、親戚ということで、月謝は当初から半額だった。正確には、当時八〇〇〇円の月謝
(一クラス五人程度、週一回)の半額の四〇〇〇円だった。が、そういう子だったから、
半年もしないうちに、母親から「週二回みてほしい」と言ってきた。そこで私は時間を何
とかつくり、週二回、教えることにした。しかし効果はほとんどなかった。こうなると、
私のほうが立場が悪くなる。物価もそれなりに上昇したが、F君だけは月謝を据え置いた。
いや、何度か断りたいと思ったが、親戚ということで、それもできなかった。その状態が
三年、四年とつづいた。で、いよいよ中学というとき、思うような結果が出せなかったの
で、私のほうから申し出て、週三回にしてもらった。もちろんふやした分は、ただである。
母親は感謝したが、しかしそれも最初だけだった。
●通常の月謝で……
こうして計算してみると、すでにそのころ月謝は、通常の四分の一以下になっていた。
が、それでも何とかF君との人間関係はつづいた。が、私を激怒させる事件が起きた。何
とF君が、同じ教室で、数歳年下の子どもをいじめていたのである。そのいじめ方につい
ては、ここに書く必要はないと思う。が、その事件を目撃して、私はF君への思いが消え
た。(今から思うと、F君も犠牲者だったのかもしれない。毎週三回も、いやいやながら私
の家に足を運んでいたのだから……。)
で、ある日、母親に、通常の月謝にしてほしいと申し出た。いや、その直前に、たまた
ま母親のほうから、週三回を、さらに週四回にしてほしいという申し出があった。私は、
「通常の月謝で教えさせていただけるなら、引き受ける」というようなことを言った。
が、この言葉がどういうわけだか、母親を怒らせた。F君の母親は、「それなら結構です」
と言って、そのまま私の教室を去っていった。
何とも割り切れない別れ方だったが、以後、そのF君の母親もF君も、いっさい音信は
ない。葬儀の席か何かで会ったことがあるが、母親は私には視線を合わせようともしなか
った。
●無料の受験特訓
もう一つ、こんなこともあった。
私はほんの数年前まで、高校を受験する受験生については無料で教えていた。受験指導
はあくまでも「指導」であって、教育とは異質のものと考えていたからだ。方法はこう
だ。
この静岡県では、中学三年が、受験期としてたいへん重要な意味をもつ。だからその時
期を迎えた子どもは、毎年七月から一一月まで、毎晩七時ごろから一一時ごろまで教えた。
教えたといっても、つきっきりで指導したわけではない。ときどき生徒の様子をうかがい、
わからないところだけを教えた。
しかしこの方法を長い間つづけていると、どこからか情報がもれて、その教室を目的に
私のところへやってくる生徒がふえ始めた。最初のころこそ、気前よく迎えていたが、
それが四人、五人となると、さすがの私も負担に思い始めた。が、ある夜こんなことが
あった。
●無料レッスンを請求した子ども
そろそろ七月という暑い初夏の夜だった。その年は何かとあわただしく、七月からの無
料学習(私は受験特訓と呼んでいたが)、その日程の調整がつかなかった。中学三年生はそ
のとき、五人ほどいた。うち一人だけが幼児教室のOBで、残りは中学三年生になってか
ら、入ってきた生徒だった。私は週一回、二時間という教室でそれまで教えていた。その
夜のことだ。
帰りまぎわになって、一人の中学生がこう言った。「今年はいつから受験特訓を始めてく
れるのですか?」と。私は驚いた。私は一度も、私のほうからそういう連絡をした覚えは
ない。あくまでも私の好意であって、それをするかしないかは、私が決めるものだとばか
り思っていた。そこで、「始める? ……どうして?」と聞くと、その中学生はこう言った。
「お母さんが聞いてこいと言った」と。
●ガラガラと音とをたてて……
とたん、私の中からやる気がガラガラと音をたてて崩れていくのを感じた。この生徒た
ちは、(無料の!)受験特訓を目的に、中学三年になってあわてて私のところへきたのだ。
しかし毎晩、四~五時間の指導を、半年近くもする受験塾がどこにあるだろうか。そのと
き生徒五人から手にしていた月謝を合計しても、学生による家庭教師代より少ない。私は
思わず、「今年は忙しいからな……」と言ったのだが、もう一人の中学生も、不機嫌な顔を
していた。見ると「約束が違う」というような表情だった。
私はその年は七月になっても、受験特訓を始めなかった。八月になっても、受験特訓を
始めなかった。が、九月になると、その中の三人が私の教室をやめると言い出した。しか
たないことだ。もともとそういう生徒だった。
で、九月になった。私は二人の生徒だけで、一一月まで受験特訓をした。一一月という
のは、最後の校内模試が終わる月であった。内申書の成績はこの試験を最後に決まる。静
岡県では、当時は、この内申書でほとんどが入学先の高校が決まるしくみになっていた。
その翌年から、私は受験特訓をやめた。おかげで生徒は、一人もいなくなったが……。
●受験勉強はしごき
受験指導というが、子どもの側からみると、「しごき」以外の何ものでもない。子ども
の側で考えてみれば、それがわかる。勉強がしたくて勉強する子どもなど、いない。偏差
値はどうだった、順位はどうだった、希望校はどこにするとやっているうちに、子どもの
心はどんどんと離れていく。だからいくら教える側が犠牲的精神をふるいたたせても、率
直に言えば、親に感謝されることはあっても、子どもに感謝されることは、まずない。受
験勉強というのは、もともとそういうもの。「教育」という名前を使う人もいるが、ここ
に書いたように、受験指導は「指導」であって、教育ではない。もともと豊かな人間関係
が育つ土壌など、どこにもない。
●受験勉強はプロに任す
長い前置きになったが、そこで本論。中に子どもの受験勉強を、親類や知人に頼む人が
いる。そのほうが安いだろうとか、ていねいにみてもらえるだろうとか考えてそうする。
しかし実際には、冒頭に書いたように、ただより高いものはない。相手がプロなら、成績
がさがれば、「クビ!」と言うこともできるが、親類や知人ではそういうわけにもいかな
い。ズルズルと指導してもらっているうちに、あっという間に受験期は過ぎてしまう。そ
んなわけで教訓。受験勉強は、多少お金を出しても、その道のプロに任せたほうがよい。
結局はそのほうが安全だし、長い目で見て、安あがりになる。
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