Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, March 23, 2009

*An Air-Pocket in our Minds

●イヤ~ナ気分

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たった今、書店から帰ってきたところ。
イヤ~ナ気分。
本当に、イヤ~ナ気分。
経済雑誌コーナーに並ぶ雑誌の表題を見ただけで、
気が滅入った。

「証券業界、金融業界の危機」
「不動産大不況」
「淘汰されるホテル・旅館業」
「マンション業界、総崩れ」などなど。

つまり、みーんな、ダメということらしい。

こうなったら、ヤケクソ。
貯金をはたいてでも、遊びまくってやる!、と。

まあ威勢はいいが、すぐ声はしぼんでしまう。
そんなとき、行きつけの弁当屋で新聞を見ると、
「10兆超の追加経済対策として財政出動」(C新聞トップ)とあった。

「10兆円を超える、お金をバラまく」という意味。
わかりやすく言えば、10兆円分、インフレが
進むということ。
この先、日銀の印刷機だけが、フル回転で回り始める。
世界中が、我も我もと、印刷機を回し始めた。
日本も、負けじと印刷機を回し始めた。

気がついてみたら、お金の価値が半分になっている。
この数年で、そうなる可能性は高い。

「うちはタンス預金だから、だいじょうぶ」などと
言っている人も、結局は、半分は、政府に
吸い取られることになる。

お金があっても地獄。
なければ、さらに地獄。
別の雑誌には、こうあった。
「これから景気は、二番底に向かう」
「アメリカの不況は、20年つづく」と。

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●自転車店業界

私の実家は、自転車屋だった。
だからどうしても、自転車屋に、ひいきしたくなる。
がんばってほしいと思う。
しかし、今、どこも元気がない。
人影もなく、暗く沈んでいる。
こういう時代だから、自転車がもっと売れてよいはず。
健康にも、よい。
しかし実際に売れているのは、大型店のみ。
大量生産の安い自転車のみ。
個人の自転車屋は、どこも、青息吐息。
この浜松でも、店じまいするところが、ふえてきた。

今になって、大型店を規制する県も出てきた(G県G市ほか)。
しかし遅すぎた。
今度の大不況を乗り切れる自転車店は、いったい、どれだけあるというのか。
仮に生き残ったとしても、あとは鉄がさびるように、少しずつ衰退していくだけ。

私の父は、客が来ても、その客を平気で待たせて、別の客と将棋をさしていた。
当時は「盆暮れ払い(8月と12月にツケを払う)」が、常識だった。
そんな牧歌的な温もりが、今は、消えた。
それでよいのか?
それでよかったのか?

多くの個人商店が姿を消した今、最期の砦(とりで)が、自転車屋だった。
その自転車屋まで、今、最後のともし火を消そうしている。
切なくも、言いようのないさみしさ。
このさみしさは、いったい、どこから来るのか。
祖父や父ががんばって守ってきたものは、何だったのか。
今、そんなことを改めて考える。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
不況下の自転車店業界 自転車屋 街の自転車屋 自転車屋不況 消える自転車店)

(追記)
死んで残るもの、死んで残らないもの。
私の実家は、祖父、父、兄と、三代つづいた自転車屋だが、残ったものは何か。
今、そんなことを考えている。
もともと小売業だから、祖父や父が、創造的に作り上げたというものは、何もない。
四輪自転車を開発したとか、新型の高速自転車を開発したとか、そういうことで
あれば、話は別。
またそういうものであれば、残る。
が、何もない。
その点が、こうした小売業の悲しいところ。
ただひたすら問屋から商品を卸してもらい、それを店先に並べる。
店にやってきた客に、それを売る。
この繰り返し。

が、何もないわけではない。
実は、もっと大切なものを、祖父や父は、残した。
それが「街の文化」ということになる。
私が子どものころ感じた、あの祭りの(楽しさ)と言い換えてもよい。
町内の旅行会で感じた、あの(温もり)と言い換えてもよい。
町内で、組ごとに道路に店を出した。
盆踊りをした。
あの(にぎわい)こそが、町の文化ということになる。

みながそれぞれの人たちと、有機的につながっていて、たがいに
助けあったり、慰めあったりしていた。
祖父や父は、それを残した。

残念ながら、兄を最後に、私の実家の自転車屋はつぶれた。
しかしその文化は、残っている。
もしその文化まで消してしまうようなことになったら、本当に、祖父や父の人生は、
ムダになってしまう。
何としても、それだけは、避けたい。
でないと、……つまり今、この世界を生きている人たちの人生まで、
ムダになることになる。

さあ、あなたも勇気を出して、自分にこう問いかけてみよう。
「私は、何のために生きているのか」と。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●心の盲点

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信仰の自由とはいうが、その信仰にも
いろいろある。
特定の宗教団体を攻撃するためではないので、
数値などは、おおまかなものにとどめる。

つまり精神病の患者を調べてみたら、
M教というカルト教団に属する信者の罹患率が、
そうでない人たちの、3~4倍前後もあったという※。

またあるアメリカの研究者が、内々に調査した
ところ、M教というカルト教団の信者のうち、
16%が「入院が妥当」な状態である。
さらにそのうちの44%が精神病であり、
50%が慢性的な精神病と診断されたという※。

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これについては、2つのケースが考え方ができる。
もともと精神に何らかの問題がある人たちが、より多く、その教団に入信したという
ケース。
もうひとつは、その教団で信仰するうちに、より多くの信者が、精神を病むようになった
というケース。
そのレポートは、その両方の可能性があると、レポートを結んでいる。

ただE教では、身内にそうした患者が出るのを隠そうとする傾向が強いので、
実際には、患者はもっと多いはず、とも。
E教というのは、日本でも多数の信者をかかえ、いろいろな問題を引き起こしている。
が、身内で、たとえば夫や妻が、そうした宗教に走ることによる悲劇には、想像を
絶するものがある。
最悪のばあいは、離婚もしくは、どちらか一方の自殺ということにもなりかねない。
あるいは家庭内の争いが原因で、どちらか一方が、重篤な病気になるというケースも
ある。
私の知っている人(夫)に、妻がE教の熱心な信者になったあと、まもなく、
くも膜下出血で急逝した人がいる。
その話を聞いたとき、その向こうに、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。
けっして、軽く考えてはいけない。
「宗教戦争」であるだけに、たがいに「命」までかける。

で、これは私の意見だが、こうした宗教に走る人というのは、特殊な人たちではない。
ごくふつうの、どこにでもいるような、そしてしっかりとした常識をもっていそうな
人たちが、ある日突然、入信したりする。
そして一度、入信してしまうと、視野が極端に狭くなる。
(これに対して、入信した人本人は、たいてい「世界が広くなった」と言う。)

私はいろいろあって、そういう信者たちを何百例も見てきた。
けっして大げさなことを書いているのではない。
私は過去に、その種の本を、何冊も書いてきた。
で、その結果だが、私は脳みその中に、人間にはもともとそういう欠陥というか、
ポケットのようなものがあるのではないかと考えるようになった。
脳のほかの部分とは隔離された、別の小部屋か、思考回路のようなもの。
ある日突然、そのポケットの中に、スポンと入ってしまう。

くだらない例としては、血液型による性格判断がある。
最近では、スピリチュアルブームというのがある。
占いや、まじないを信じている人となると、何百万人もいる。

こうした(信仰)が基礎となって、それがその先で、カルトと結びついていく。
きっかけは、いろいろある。
たいていは何らかの不幸が、きっかけとなることが多い。
ここで「家庭内宗教戦争」という言葉を使ったが、どちらか一方が宗教に走ったから、
家庭が崩壊したというよりは、もともと崩壊状態だったとも考えられる。
そういう家庭を立て直そうと、どちらか一方が必死になった結果、宗教に走るという
ケースもある。

が、一度入信してしまうと、あとは人間ロボットとして、その教団の言いなりとなって
働く。

そこで最初のレポートに話を戻す。

オーストラリアという国を考えるなら、キリスト教徒といっても、カトリック系もあれば、
プロテスタント系もある。
そういう中でも、M教だけの信者だけに、特異な(差)が見られたという。
その教団では自殺を禁止しているにもかかわらず、自殺者もそうでない人たちより多いと
いう。
さらに驚いてはいけないのは、その教団では、医師による治療を拒否しているため、
そのため年間約3000人の人たちが、死んでいるという。
もちろんその中には、子どもも多い。

では、どうするか?

私たちの脳みその中には、そういうポケットがあることを、前もって知っておく
ということ。
それを知っておくだけでも、予防にはなる。
そして自分が入りそうになったら、「これがポケット」と、自分で自分をコントロールする。

それにしても罹患率が3~4倍というのは、見過ごせない。
この点から考えても、あのM教なる宗教団体には、じゅうぶん、注意した方がよい。

(注※:参考資料)(日本M協会の案内書より抜粋)
「……M教団の精神疾患罹患率に関する5つのオリジナルな既刊の研
究のうち、最も新しいのがスペンサー(1975)である。スペンサーは、
西オーストラリアの精神病院に入院した全患者7,546人について、1971年
1月から1973年12月までの36ヶ月間調査した。患者が自己申告した宗教の加
入状況のデータから、活発なM教団の50人が含まれているという数字
を得た。M教団の統計によれば、西オーストラリアには1974年
には約4,000人の信者が居住している。1974年の人口総計は1,068,500人
である。スペンサーはこれらの数値を用いて、一般の入院者数の比率と
M教団の入院者数の比率を比較した。全疾患について見ると、人口全
体に対して一年あたり1000人中2.54人の比率であるのに対し、M教団
1,000人中4.17人、つまりM教団が1.54倍高いという結果に
なった。妄想性分裂病のレベルは人口全体では0.38、M教団では
1.4であり、一般と比較すると3.68倍高いことが分かる。神経症は人口
全体に対する増加数が一番小さく、人口全体に対する比率は0.39であった
が、M教団に対する比率は0.76(1.95倍)であった。つまり、こ
れらの数値によれば、分裂病の発病率はM教団の場合、一般と比べ
てほぼ3倍、妄想型分裂病は約4倍高いと言える」(1975・スペンサー)。

(注※)
「……(M教団の信者のうち)、16%が「入院が妥当」な状態である。さらにそのうちの
44%が精神病であり、50%が慢性的な精神病と診断された」(1949・ペスカー)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●仮面(ペルソナ)の下に

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世の中には、「いかにも私はよくできた人間でございます」というような、
様子をして見せる人がいる。
穏やかな表情、やわらかい物腰、控え目な態度、やさしいものの言い方……。
しかしそういう人は、たいてい仮面をかぶっていると思ってよい。
そういう人はそういう人で、年季が入っている。
簡単には見抜けない。
そういう人間に見せかけるために、10年単位の積み重ねをしている。
が、仮面は仮面。
しかしこれは本人自身の問題でもある。

脱ぎ方を忘れると、精神そのものが、バラバラになってしまう。
若いうちはともかくも、やがて歳を取り、気力が弱くなってくると、ボロが出る。
そういう人は、多い。

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子どもでも、(いい子)ほど、要注意。
集団の中では、おとなしく、目立たない。
幼稚園でも、先生の指示にはすなおで、だまってそれに従う。
自分から声をあげて騒ぐといったこともない。
まさに(いい子)といった様子をして見せる。
意図的にそうしているというよりは、そういう様子が定着してしまっている。

で、心理学には、「抑圧」という言葉がある。
子どもは、(おとなもそうだが)、心理的な抑圧状態がつづくと、心の中に別室をつくり、
そこへ不満や怒り、悲しみや苦しみを閉じこめる。
閉じこめることによって、心のバランス(?)を保つ。

だから幼児期に(いい子)だった子どもほど、思春期前夜くらいから、別人のように、
暴れたり、暴言を吐いたりするようになる。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」「コノヤロー!」と。
おとなだと、20年前、30年前の話を、つい先日のできごとのようにして、
怒ったりする。
「あのとき、お前はア!」と。
その典型的な例が、家庭内暴力である。

思春期に激しい家庭内暴力を繰り返す子どもほど、幼児期には(いい子)だったという
ケースが多い。
ほとんどがそうであると、断言してよい。
だから子どもでも、表面的な様子だけを見て、判断してはいけない。
だいたい5歳や6歳の子どもに、(よくできた子)など、いるはずがない。
いたら、仮面をかぶっていると考えてよい。

おとなも、またしかり。

「いかにも私はよくできた人間でございます」として見せる人ほど、要注意。
しかし人格の完成度は、別の尺度で測る。
そういう姿を見て、「この人はすばらしい人」と思ってはいけない。
よい例が、どこかのカルト教団の信者たちである。
ああいう人たちもまた、「いかにも私はよくできた人間でございます」というような
様子をして見せる。

どこかへん?
どこかおかしい?
どこか不気味?

しかし心に別室を作ると、その程度では、すまない。
それが高ずると、二重人格性をもつようになる。
どちらの自分が本当の自分か、わからなくなってしまうこともある。
ふだんは、「別室の中の自分は、ニセモノ」と思う。
しかし別室の中の自分が優勢になってくると、「ふだんの自分は、ニセモノ」と思う。
これを繰り返しているうちに、人格がバラバラになってしまう。

「よくできた人」というのは、人格の完成度の高い人のことをいう。
が、人格を完成させるというようなことは、簡単にはできない。
研鑽に研鑽を重ね、日々にその努力をした人だけが、人格を完成させることができる。
しかしそういう人は少ない。
はっきり言えば、私も含めて、そこらのオジチャンやオバチャンが、仮面を
かぶったところで、それは化けの皮。
見る人が見たら、すぐわかる。

……ここまでこの原稿を読み聞かせたら、ワイフがこう言った。
「音楽でも美術でも、本物を知っている人は、ニセモノにだまされないわ。
それと同じじゃ、ないかしら?」と。

まったく、同感。
だったら、自分を飾ることはない。

やはり人間は、自然体で生きる。
ありのままをさらけ出して生きる。
よくても、悪くても、それが「私」ということになる。

ついでに言うなら、これはこわいことでもある。
(さらけ出して生きる)に足りる(自分)を、どこかで作りあげて
いかねばならない。
その努力を怠ると、それこそ、それだけの人間になってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●消息

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若いときは、前しか見なかった。
前しか見えなかった。
しかし最近は、その様子が大きく
変わってきた。
友人と話していても、いろいろな
人たちの消息が話題になる。
「あの人は、どうなった」
「この人は、どうなった」と。

が、それだけではない。
私たちには、「先」がない。
先がない分だけ、(消息)イコール、
(その人の人生の結末)ということになる。
その(結末)だけが、大きく、
浮かびあがってくる。

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●行方不明

ことの発端は、同窓会名簿の知らせだった。
「名簿を編集するにあたって、消息不明の人の情報を知らせてほしい」と。
見ると、そこには、数名の名前が連ねてあった。
私がよく知っていた女性の名前も、そこにあった。
一時は、この浜松市にも住んでいたこともある。
が、それも、30年以上も前の話。
今は、知らない。
10年ほど前、同窓生に会ったとき、その女性の名前も出たが、みな、
「今は、どうしているか知らない」と。
今、生きていれば、私と同じ年齢の、満61歳。
夫は、6歳年上と聞いていたから、満67歳。

しかし私が書けるのは、ここまで。
消息を調べようと思えば、できるが、それは相手の女性に対して、
失礼というもの。
世の中には、そっと生きていたいと願っている人も多い。
他人である私が、それを調べて、どうなる?
どうする?
またみなが、住所や連絡先を知ったところで、どうなる?
どうする?

逆の立場でそれを考えてみれば、わかる。

私は死んでも、だれにもそれを知らせたくない。
親戚にも、知らせたくない。
そのようにワイフや息子たちには伝えてある。
消息にしても、そうだ。

母の介護をしていたときも、そうだ。
ある人から電話があった。
母の様子を詳しく知っていた。
「どなたに聞きましたか?」とたずねると、
「Mさんから……」と。
Mさんは、毎日のように私のHPをのぞいては、みなに連絡していた。

こんなことを書くと、矛盾しているように思う人もいるかもしれない。
私は、自分の消息をたずねられるのが、いやだ。
だからHPやBLOGで、自分の現状を公開しながらも、いわゆる
(スパイ)のために、私のHPやBLOGをのぞかれるのが、
不愉快でならない。

中には、そういう人がいる。
用もないのに、私のHPやBLOGをのぞいては、私の内情をさぐろうとする。
さぐっては、それを、たがいに話題にしあっている。

私のHPやBLOGは、私の書いたことを必要とする人たちのためのもの。
もし、今、あなたがスパイ目的で、私のHPやBLOGをのぞいているとするなら、
そういうハレンチなことは、即刻、やめてほしい。

つまりそういう気持ちがあるから、私は、他人の人生はのぞきたくない。
関心はあるが、しかしそこまで。

●死者に時間はない

それでも何かの話題の中で、その人の消息を耳にすることはある。
メルボルン大学にいたころ、領事のI氏には、たいへん世話になった。
で、たまたま外務省の役人にそのことを話すと、あとでこう教えてくれた。
「あの方は、在フィリッピンの日本大使館の大使を最後に、19xx年に、
亡くなっています」と。

あるいは最近も、学研で世話になった、NN氏に電話で連絡を取ると、
「FKさんは、2年前に亡くなりました」と。

年数という数字の上では、「10年」「20年」ということになる。
しかしその実感が、ほとんど、ない。
死んだ人にとっては、10年も20年も同じ。
1年でも30年でも同じ。
時間が、そこで止まってしまう。
それを聞く私たちにしても、そうだ。
10年も20年も同じ。
1年でも30年でも同じ。

同じように、私が死んだときもそうだ。
だれかが私の死を、5年後に知ったところで、また10年後に知ったところで、
同じ。
死んだ人には、時間はない。
死んだ人は、死んだ人。

だったら、あえて知らせなくても、相手が知ったときが、私が死んだときと
考えてくれればよい。

●人生の結論

ともあれ、繰り返しになるが、(先)がないという点で、(消息)イコール、
(人生の結末)ということになる。
映画にたとえるなら、ラストシーン。
観客も疲れてきたころの、ラストシーン。
「まだつづきがあります」と言ったところで、みなが席を立ち始める。
60代という年齢は、そういう年齢である。

経済的に成功した人。
失敗した人。
家族に恵まれた人。
恵まれなかった人。
世界へ出て行った人。
ずっと地元に残った人、などなど。
その中には、もちろん消息不明の人たちもいる。

ただ誤解してはいけないのは、消息不明だから、敗残者というわけではない。
実は、私も30代のはじめまで、同窓生の間では、「消息不明」となっていた。
それもそのはず。
私の住所の番号がちがっていた。
(住所も、「入野町」ではなく、「八野町」になっていた。)
私の住所の番号は、5桁。
このあたりでは、いまだに昔の農地番号を使っている。
地番が、届け順になっている。
だから番号からは、場所がわからない。
その番号が、名簿上では、4桁になっていた。

が、同窓生イコール、みな仲間というわけではない。
とくに進学校のような学校ではそうだ。
私はやがて、中に、「あの林は、行方不明だ」と、半ば喜んでいた人たちがいたのを
知り、がく然としたことがある。

そういうこともあって、それぞれの人には、それぞれの事情があると思うようになった。
同時に、行方不明だからといって、その人を詮索するのは、正しくない。
そう思うようになった。

冒頭に書いた女性にしてもそうだ。
消息を知ったからといって、連絡を取るつもりはない。
これから先、旧交を温めるつもりもない。
どちらが先に死ぬかは知らないが、静かにたがいの最期を迎えるだけ。

しかし、だ。
みなさん!
私の人生は、これから!
ハハハ。
まだまだ結末を迎えたわけではない。
ジジ臭い話は、ここまで。
私の人生の結論は、まだ出たわけではない。
これから先、もうひと暴れする。
消息をたずねてくれる人がいたら、そのあとでよい。

だから、もう一度。
ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司