*We are young old men!
●老後なんて、クソ食らえ!
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私はそのつもりはなくても、まわりの
人たちが、私を、「老人」と決めてかかる。
「老人」「老人」と。
いくら「私はちがう!」と叫んでも、
そういう声は、みなの耳には入らない。
反対に、こう言い返される。
「あなたは還暦を過ぎた」「あなたは退職者だ」
「もうすぐ年金族だ」と。
60歳になるとき、小学生たちですら、
私にこう言った。
「先生も、退職だね」と。
たぶん親たちから、そう聞かされていたのだろう。
しかし、だ。
老後なんて、クソ食らえ!
どうしてこの私が老人にならなければ
ならないのか。
老人でなければならないのか。
まだ61歳だぞ!
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●仕事をふやす
ここ4~5年、半分は意図的に、しかし半分は、体力の限界を感じた
こともあり、仕事の量を減らしてきた。
講演にしても、遠方の講演は、断ってきた。
しかし、どうして?
私の結論は、こうだ。
私は、死ぬまで仕事をする。
「悠々自適な老後生活」とは、いったい、何だ!
何をすればよいのだ!
どうやって時間を過ごせばよいのだ!
私の実家の近くに、満55歳で定年退職したあと、ほぼ30年間、
遊んで暮らしている人がいる。
(本当に、遊んでばかりいる!)
人には、それぞれの生き方がある。
その人の生き様に干渉するつもりはない。
批判するつもりもない。
しかしこの30年間を振り返ってみて、その老人は、(まさにそういう人の
ことを「老人」と呼ぶにふさわしいが)、30年間を1日にして生きてきただけ。
人づきあいも、ほとんどしない。
外出も、ほとんどしない。
近所の仕事も、ほとんどしない。
娘が1人いるが、近所の人の話でも、この30年間、その娘は、一度も、
実家へ帰っていないという。
親子の間で、何か大きな確執があったらしい。
いくら(遊んで暮らす)といっても、それでよいのか。
それがあるべき老後の姿なのか。
●老後の放棄
そこにある老後を認め、自ら老人になるか。
それとも老後を放棄して、生涯、現役で通すか。
結局は、択一の問題ということになる。
で、この数年、私は、擬似老後を体験してきた。
老後を予想しながら、その生き方を模索してきた。
数年、年上の人たちや、あるいはさらにその年上の人たちの生き様を
観察させてもらった。
その結果だが、私には、やはり「老後は、向かない」。
「老人らしく生きろ」と言われても、私にはできない。
だから「老後を放棄する」を選んだ。
具体的には、この4月から、再び仕事量をふやした。
2008年度を、100とするなら、2009年度は、120くらいにする。
さらに2010年度は、140くらいにまで、もっていく。
「人生、50年」ではなく、「人生は、60歳から」。
だからときどき、ワイフにこう言う。
「仕事の最中に、くも膜下出血か、心筋梗塞、あるいは脳梗塞で
倒れても、ぼくには、延命処置は不要」と。
それまで現役で働ければ、御の字。
それ以上に、何を望むのか。
何を望むことができるのか。
●健康
本当にラッキーなことに、繰り返すが、本当にラッキーなことに、私は健康だ。
昨日も、OZ先生(医大の泌尿器科の権威)に会ったとき、
「0・7でした」と告げると、OZ先生は、こう言ってくれた。
「じゃあ、この2、3年は、検査を受けなくてもいいですね」と。
OZ先生というのは、前立腺がんのPSA検査法を
日本に広めたドクターである。
「0・7」というのは、「まったく異常がない」という数値らしい。
で、あと心配なのが、大腸がんだが、それも今回、(-)だった。
とたん、元気がモリモリとわいてきた。
やる気が出てきた。
考えようによっては、30歳のころより、健康かもしれない。
仕事だって、今のほうが、しやすい。
子育てからも、親の介護からも、実家のめんどうからも、解放された。
みな、「はやし浩司」という名前を出すだけで、私がどんな仕事を
しているか、わかってくれる。
私にとって、「現役」ということは、「健康」ということになる。
●墓石
もちろん仕事だけが人生ではない。
「生きる」ということは、ただ「息(いき)る」ことではない。
「生きる」ということは、私のばあい、生きた証(あかし)を、つぎの世代に
残すことを意味する。
そのために墓石を残すこともよいだろう。
しかし私は、それでは満足できない。
墓石に刻まれた名前だけが、「私」ではない。
私は私。
だれにも束縛されず、自由に生きてきた。
たいしたことはできなかったが、自分だけの道を歩いてきた。
あとに残ったのは、細い道かもしれないが、それが私の道。
この道が、何かの役に立つようなら、それを残したい。
それが私の墓石ということになる。
目には見えないが、それが墓石ということになる。
……その墓石を、自分なりにどうやって作っていくか?
それもこれからの人生の中で、やり遂げていかねばならない。
●再び、「老後なんて、クソ食らえ!」
老後を急ぐ人も、多い。
満60歳で、隠居生活に入った人もいる。
旅行三昧(ざんまい)の人もいる。
孫の世話に明け暮れている人もいる。
これも繰り返しになるが、私は私、人は人。
その人が、それでハッピーなら、それはそれでよい。
私やあなたが、「それはおかしい」とか、「まちがっている」などとは、
口が裂けても言ってはならない。
また私の生き方が正しいとか、そういうことでもない。
私には、私の無数の(糸)がからんでいる。
その中でもとくに太い糸は、私の(過去という糸)である。
私は子どものころ、(貧乏)を何よりも、恐れた。
(貧乏になっていく)という恐怖感をいつも感じていた。
だから、それが転じて、私は(仕事の虫)になった。
今も、その亡霊は、色濃く残っている。
だから「生涯、現役」というと、かっこよく聞こえるかもしれないが、
本当のところ、人生が下り坂になるのが、こわいだけなのかもしれない。
収入が減少し、まわりの世界が小さくなっていく……。
それがこわいだけなのかもしれない。
しかしそれが私の(糸)なら、受け入れるしかない。
まちがっているとか、正しいとか言う前に、(おかしいことは事実だが)、
それも私の一部。
今さら、フランス人がバカンスを過ごすように、のんびりと生きろと
言われても、私には、できない。
だからあえて再び、こう叫ぶ。
「老後なって、クソ食らえ!」と。
「クソ、食らえ!」という言葉は、尾崎豊が「卒業」の中で使った
言葉である。
私よりずっと若い人だったが、あの人の歌には、いろいろと教えられた。
これは余談。
Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司
●ボケの恐怖
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このところ、ときどき、自分の脳みそが
信じられなくなるときがある。
「本当に信じていいのだろうか?」と、
自分でそう思うときがある。
たとえば、つい先ほども、明日の計画を
立てた。
そのときも、「明日まで、覚えているだろうか」と。
そこでそれをメモにして、そこに残す。
「○○を修理、△に電話、□をする」と。
若いころは、こんなことはしなかった。
メモなどというものは、まったく必要なかった。
が、それを忘れるということでもないが、
ふと、不安になる。
「忘れるんじゃないか」と。
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●ボケの始まり?
だからといって、具体的に何かを失敗したということではない。
今のところ、そういう失敗は、していない。
しかしこのところ、自分で自分の脳みそが信じられなくなってきた。
近くにボケ老人や、認知症、さらにはアルツハイマー病の人がいるせいかも
しれない。
脳みその構造やしくみが、若いころよりも、よくわかってきた。
それでそう思うようになった(?)。
たとえて言うなら、だれかに「明日、20キロ歩いてみませんか?」と
声をかけられたときのような気分に似ている。
「10キロはだいじょうぶと思うが、20キロとなると……」と。
歩こうと思えば、20キロくらいなら歩ける。
しかし仮に、その前夜、眠られなかったら、どうするのか?
風をひいたら、どうするのか?
体の調子が悪かったら、どうするのか、と。
同じように、頭を使うときも、「ぜったい、だいじょうぶ」という
確信がもてなくなった。
それがそのまま不安感となって、戻ってくる。
●ボケとの戦い
私は子どもたちと、よく競争をする。
算数や数学の問題を解きあったりする。
パズルを解きあうことも、多い。
昔は遊び半分だったが、今は、ちがう。
どこか真剣勝負。
が、ここで誤解してはいけないのは、そういう問題が解けるからといって、
だいじょうぶということにはならない。
数学の先生だって、認知症になる人は、なる。
では、どこがちがうか。
たとえばアルツハイマー病のばあい、その前兆症状として、(1)繊細さが
なくなる、というのがある。
繊細な会話ができない、繊細な感情表現ができない、など。
(2)怒りっぽくなり、暴力や暴言が多くなるというのもある。
要するに、心の余裕を失うということらしい。
むしろ、そちらのほうが、心配。
たとえば私の知人の妻(現在、65歳くらい)は、最近、アルツハイマー病
と診断されたという。
その女性のばあい、電話で話しても、会話はいつも一方的。
自分の言いたいことだけを、繰り返し、しかもくどくどと言って、それで
おしまい。
こちらの話には、耳も傾けようとはしない。
どうしても(3)ものの考え方が、自己中心的になる。
では、どうすればよいのか。
数学の問題を解くような知的な作業はともかくも、繊細さや、心の余裕、
さらには自己中心的になることから、自分を守るためには、どうしたら
よいのか。
また仮にそうした能力が低下しているとしたら、それを知る方法は、
あるのか。
●繊細さ
……目の前には、春の陽光を浴びた、森の木々が、白い光をあたりに
反射させている。
葉にあたる白い光が、まぶしい。
そういう景色を見ながら、「繊細さとは何か」を考える。
で、ひとつのヒントだが、ここに書いた妻のばあい、昔から気になっている
ことがある。
ひとつは、本を読まないこと。
DVD(ビデオ)を見ないこと。
もちろん映画館へ足を運ぶことはない。
ゆいいつ文化的なこととしては、布を切りつないで描く、パッチワーク
(キルト)を趣味にしていたことがある。
しかし展覧会に作品を出すとか、そういうことはしなかった。
いつも「私には時間がない」と言っていた。
そういう生活習慣が、その妻をして、アルツハイマー病にしたとも考えられる。
最近読んだ本の中でも、「アルツハイマー病は、生活習慣病と考えていい」※と
いうようなことが書いてあった。
(あるいは、その反対も考えられる。
アルツハイマー病の初期の、そのまた初期症状として、(4)がんこになったり、
(5)興味や好奇心を失うということもある。)
言い換えると、こうは言えないだろうか。
たとえばすばらしい映画を見ても、感動しなくなったら、おしまい。
逆に言えば、すばらしい映画などを見て、おおいに感動する。
そうすることによって、繊細さを維持する。
映画でなくても、美しい景色でもよい。
他人の話でもよい。
そういうものを見たり聞いたりしながら、そのつど感動していく。
つまり数学の問題やパズルで、知的能力を刺激するように、
感情もまた、そのつど刺激する。
そういう形で、繊細さを維持する。
その結果として、がんこになったり、自己中心的なったりすることから、
自分を守ることができる。
が、「心の余裕」については、どうか?
それについては、また別の機会に考えてみたい。
Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司
●心の余裕
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先日、観光バスで旅行をしたときのこと。
うしろの席の女性が、ペチャペチャとしゃべり始めた。
甲高い声だから、かなり気になった。
で、バスが高速道路に入ってしばらくしたあと、
私は、ていねいな言い方で、こう言った。
「もう少し、小さい声で話していただけると、うれしいのですが」と。
これは余談だが、こういうばあい、男性というのは、すかさず、
「すまん、すまん」とか言って、それを改めてくれる。
が、女性というのは、そうでない。
たいてい気分を悪くしたというような表情をしてみせ、逆にこちらをにらみ返してくる。
そのときもそうだった。
で、一日の観光も終わり、帰りのバスになった。
そのときも、その女性たちは、しゃべりつづけていた。
口先だけで軽く話すため、男性のように、いくら話しても
喉が枯れるということはないらしい。
が、今度は、私は、ややきつい言い方をして、それを注意した。
「バスの中で、静かに休んでいる人もいます。
もう少し小さい声で話してください」と。
すると、すかさず1人の女性が、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行、来ているのよ、ねエ~?」と。
私は無視した。
それまでの会話の内容からして、相手にするような人たちではなかった。
相手にもならなかった。
それに私は「しゃべってはいけない」と言っているのではない。
「小さい声でしゃべってほしい」と言っただけである。
心に余裕のない人というのは、そういう女性たちをいう。
やわらかさが、ない。
ユーモアのセンスも、ない。
少し批判めいたことを言われただけで、カッとなる。
で、問題は、どうして、そうなるか、ということ。
ふつうなら、(つまり私なら?)、そういうふうに注意されたら、すかさず、
「ああ、ごめんなさい」と言って、笑い返すだろう。
以後、おしゃべりを慎むだろう。
しかし心に余裕のない人は、そうでない。
どこかギスギスしている。
ピリピリしている。
カリカリしている。
相手をやさしくする、包容力がない。
しかもそういうタイプは、女性に、多い。
●低劣なオバチャン
一方、いやみを言われた私は、どうか?
実は、私もそれほど心の余裕のある人間ではない。
子どものころは、喧嘩早いということで、通っていた。
が、そのばあいは、笑って、無視することができた。
(もう少し若ければ、喧嘩していたかもしれない。)
が、喧嘩はしなかった。
それには、先にも書いたように、それまで彼女たちの会話を聞いて
いたからである。
あまりにも低俗。
あまりにも低劣。
かいま聞こえてくる話の内容に、ただただあきれるばかり……。
一言ごとに、そう感じていた。
はっきり言えば、英語で言えば、「ノー・ブレイン」。
「世の中には、こういう低劣な人もいるんだな」と、むしろ、そちらの
ほうに感心していた。
つまりその時点で、私は、「彼女たちを相手にしない」という姿勢が
作られていた。
だから気にしなかった。
最後にバスをおりるときも、その女性は、私にこう言った。
「おだいじに、さようなら」と。
再び、イヤミである。
強い視線を感じたが、私は無視した。
完全に無視した。
私が相手にしなければならないような人たちではない。
が、これが(心の余裕)ということか。
●昇華する
要するに、心の余裕をつくるためには、自分自身を昇華させるしかない。
わかりやすく言えば、相手を飲み込めるほどまで、自分を高める。
その結果として、包容力をもつ。
言い換えると、心の余裕というのは、その人のもつ徳性と深く結びついている。
そしてその徳性というのは、日々の研鑽の中で養われるもの。
で、これも健康論と似ている。
健康のための運動を怠ったとたん、その人はその時点から不健康になっていく。
同じように、日々の研鑽を怠ったとたん、その人はその時点から、特性を
失っていく。
で、日々の研鑽とは何か。
いつも智力の窓をあけ、考えること。
自ら考えること。
相手が、取るに足らない、つまらない人間に見えるまで、自分を高めること。
それができたとき、心の余裕が生まれる。
Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司
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