Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, May 02, 2011

●Eマガ創刊のころ(9)

件名:子育て情報(はやし浩司)10-29

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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01-10-29号(13)
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 by はやし浩司(ひろし)
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サイトのほうでは、実用的な記事をふやしました!

今回は、「学習机と勉強部屋」「親子の関係がぎくしゃくするとき」について考えてみます。

すでにこの「学習机」についてのオリジナルの原稿は、一五年以上も前に、「マザーリング」という雑誌に発表しました。以後、何度も反芻(はんすう)し、こうして改めて皆さんにお伝えできることを喜んでいます。お子さんの学習環境を考える上で、参考にしていただければ、うれしく思います。

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学習机と勉強部屋を考える

●机は休むためにある

 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことができれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、なかなかもとに戻らない。
 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もしその食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分の好きなことを、何でも自分の机にもっていってするようであれば、相性が合っているということになる。相性の悪い机を使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

●机は棚のない平机

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使っていると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前のことだが、小学一年生について調査してみた。結果、棚式の机の場合、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわかった。最近の机にはいろいろな機能がついている。が、子どもがそれにあきたとき、机はそのまま物置台になる。机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あるいは低学年児の場合、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は勉強をあまり意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを大切にする。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」ではなく、「一緒にやろうね」と言うなど。

●学習机を置くポイント

 そこで調べてみると、いくつかのポイントがあるのがわかる。

①机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 
②棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
③座った位置からドアが見えるようにする。④光は左側からくるようにする(右利き児の場合)。
⑤イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
⑥窓の位置が重要なポイント。窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強できないということもある。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。ドアが背中側にあると、心理的に落ち着かない。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひじかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。またイス全体が前にかがむようになっているイスがある。確かにそのときは能率があがるかもしれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。
 また学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのように体を休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。たいていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もし「うちの子は勉強しない」というのであれば、思い切って、そういうところを勉強場所にしてみるとよい。子どもは進んで勉強するようになる……かもしれない。

●相性を見極める

 ものごとには相性というものがある。子どもの学習をみるときは、その相性を大切にする。相性があえば、子どもは進んで学習する。相性が合わなければ、子どもは何かにつけ、逃げ腰になる。子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこともある。子どもの学習を家庭で指導するときは、この相性を見極めながらする。

(勉強部屋診断)(図は、省略)詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
(子どもを伸ばす)→(学習環境)をご覧になってください。

◎棚が背側にあり、机の右前に窓があるという点で、配置としては問題ない。イスに座った位置からは、窓の外がよく見え、勉強で疲れたときなど、そのまま気を休めることができる。ドアが背側にあるので、やや不安は残るが、ほぼ理想的な勉強部屋といえる。この部屋の中学生(中一男児)は、「マンガを読むときも、イスに座って読む」と話してくれた。

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親子の間がぎくしゃくするとき

●権威主義の象徴、「水戸黄門」

 「控えおろう!」と一喝して、三つ葉葵の紋章の入った印籠(いんろう)を見せる。するとまわりの者たちが、一斉に頭をさげる……。
 ドラマ「水戸黄門」の中のよく知られた一シーンだが、日本人にはたまらないほど、痛快なシーンでもある。今でもあのテレビ番組の視聴率が、二〇~二五%もあるというから、驚きである。が、それはさておき、オーストラリア人には、それが理解できない。ある日一人の友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、水戸黄門が悪いことをしたら、日本人はどうするのか」と。そこで私が、「いいや、水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、彼は再度、「それでも悪いことをしたらどうするのか」と聞いた。

●権威主義的な民族

 日本人ほど権威主義的な民族は、世界をさがしても、そうはいない。上下意識が強い。長く続いた封建時代が、こういう民族を作った。たとえば男が上で女が下。夫が上で妻が下。先生が上で生徒が下。そして親が上で子が下、と。たとえば日本には「先輩・後輩」という言葉がある。たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をする。そして後輩は先輩に対して、絶対的な服従を誓う。いや、今でこそ、この関係は弱くなったが、私が高校生のときはそうだった。テニス部にしても、一年生は球集めだけ。二年生になってやっとラケットをもたせてもらい、三年生になってはじめて試合に出られた。が、オーストラリアにはそれがなかった。なかったというより、そういう意識そのものがなかった。私は日本の大学を卒業したあと、研究生として、オーストラリアのメルボルン大学に学んだ。そこでのこと。教官と学生がファーストネームで呼びあっているのを見て、私は心底驚いた。私が住んでいたカレッジには、世界中から皇族や王族の子息たちが集まっていた。そのためもあって、毎週金曜日や土曜日には、オーストラリアでも著名な学者や政治家が毎週のようにやってきては夕食をともにしていった。しかしそういう人たちに対してでさえ、オーストラリアの学生たちはきわめて自然に、しかも気楽に話しかけていた!

●そこで自己診断

 外の世界でならまだしも、この権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものまで破壊する。夫婦関係だってあぶない。権威主義を支えるのは、上下意識だが、その上下意識から上下関係が生まれる。そしてこの上下関係は、保護と依存。命令と服従の関係で成り立っている。「上」の立場にいる者にとっては、たいへん居心地のよい世界かもしれないが、「下」のものにとってはそうではない。その居心地の悪い世界で、いつしか下の者は、上の者の心から離れる。ウソだと思うなら、あなたの周囲の家庭をいくつか観察してみるとよい。父親にせよ、母親にせよ、親が権威主義的な家庭ほど、親子関係はぎくしゃくしている。

 そこであなたはどうか? こう書くと、たいていの親は、「私はリベラルだ」と思ったりする。そこであなた自身を診断してみよう。この診断は、あなたの夫あるいは妻にしてもらうとよい。権威主義的な人ほど、目上の人(身分や地位のある人)に対して、必要以上にペコペコし、目下の人に対しては、尊大かつ横柄な態度で接する。そのことは電話での応対ぶりを観察してみるとわかる。そこでテスト。

①あなたの夫(妻)は、相手にかかわらず、いつも電話の調子が一定しているか。もしそうなら、それでよし。しかし②目上の人に対する態度と、目下の人に対する態度が、まるで別人のように違うというのであれば、あなたの夫(妻)は、かなり権威主義的な人だと思ってよい。心の中に潜む上下意識が、無意識のうちにも、相手そのもののを差別し、そしてここでいうような「違い」となって現われる。冒頭にあげた水戸黄門が大好きという人ほど、あぶない。一度静かに自分自身を観察してみてほしい。

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E-マガ、「はやし浩司の世界」より「親が子育てで行きづまるとき」を、転載しておきます。

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親が子育てで行きづまるとき

●苦労のない子育てはない

 苦労のない子育てはないし、その苦労が親を育てる。親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てで苦労しながら、それこそ幾多の山や谷を越えて、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてきたような親は、確かに若くてきれいだ。しかしどこかツンツンとして、中身がない(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつもしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂の穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。しかしそうでない人は、それをなくしてから気づく。健康しかり。生活しかり。そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。特に二男は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海の真ん中で。しかもほとんど人のいない海の真ん中で、一人魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水泳選手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で泳いでいるはずだった。が、三歳になったばかりの三男が「お兄ちゃんがいない!」と叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟を出すため、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。そのときだった。ふと振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。

 以後、二男については、問題が起きるたびに、私は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したときも。受験勉強を放棄して、作曲ばかりしていたときも。それぞれ、「生きているだけでいい」と思いなおすことで乗り越えることができた。私の母はいつも、こう言っている。「上見てキリなし。下見てキリなし」と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」と。英語では「Forgive & Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という言葉は、「与えるため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、そして忘れるかで、親の愛の深さが決まる。許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろという意味ではない。子どもを受け入れ、自分のこととして、あるがままを認めるということ。それを繰り返しながら、親は真の親になっていく。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」という原点から見る。そしてそれでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してほしい。「許して忘れる」と。それだけであなたの心はずっと軽くなるはずである。


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以下前号
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子どもが非行に走るとき

●こぼれた水は戻らない
 子どもは、なだらかな坂をのぼるように成長するのではない。ちょうど階段をトントンとのぼるように成長する。子どもが悪くなるときも、そうだ。(悪くなる)→(何とかしようと親があせる)→(さらに悪くなる)の悪循環の中で、子どもは、トントンと悪くなる。その一つが、非行。暴力、暴行、窃盗、万引き、性行為、飲酒、喫煙、集団非行、夜遊び、外泊、家出など。最初は、遠慮がちに、しかも隠れて悪いことしていた子どもでも、(叱られる)→(居直る)→(さらに叱られる)の悪循環を繰り返すうちに、ますます非行に走るようになる。この段階で親がすべきことは、「それ以上、症状を悪化させないこと」だが、親にはそれが理解できない「なおそう」とか、「元に戻そう」とする。しかし一度、盆からこぼれた水は、簡単には戻らない。が、親は、無理に無理を重ねる……。

●独特の症状
 子どもが非行に走るようになると、独特の症状を見せるようになる。脳の機能そのものが、変調すると考えるとわかりやすい。「心の病気」ととらえる人もいる。実際アメリカでは、非行少年に対して薬物療法をしているところもある。それはともかくも、その特徴としては、①拒否的態度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に、「ウッセー」と拒否する。意識的に拒否するというよりは、条件反射的に拒否する)、②破滅的態度(ものの考え方が、投げやりになり、他人に対するやさしさや思いやりが消える。無感動、無関心になる。他人への迷惑に無頓着になる。バイクの騒音を注意しても、それが理解できない)、③自閉的態度(自分のカラに閉じこもり、独自の価値観を先鋭化する。「死」「命」「悪霊」などという言葉に鋭い反応を示すようになる。「家族が迷惑すれば、結局はあなたも損なのだ」と話しても、このタイプの子どもにはそれが理解できない。親のサイフからお金を抜き取って、それを使い込むなど)、④野獣的態度(行動が動物的になり、動作も、目つきが鋭くなり、肩をいからせて歩くようになる。考え方も、直感的、直情的になり、「文句のあるヤツは、ぶっ殺せ」式の、短絡したものの考え方をするようになる)などがある。

 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、親は家庭のあり方を猛省しなければならない。しかしこれがむずかしい。このタイプの親に限って、その自覚がないばかりか、さらに強制的に子どもをなおそうとする。はげしく叱ったり、暴力を加えたりする。これがますます子どもの非行を悪化させる。こじらせる。

●最後の「糸」を切らない
 家族でも先生でも、誰かと一本の「糸」で結ばれている子どもは、非行に走る一歩手前で、自分をコントロールすることができる。が、その糸が切れたとき、あるいは子どもが「切れた(捨てられた)」と感じたとき、子どもの非行は一挙に加速する。だから子どもの心がゆがみ始めたら(そう感じたら)、なおさら、その糸を大切にする。「どんなことがあっても、私はあなたを愛していますからね」という姿勢を、徹底的に貫く。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう性質をうまく使って、子どもを非行から立ちなおらせる。そのためにも最後の「糸」は切ってはいけない。切れば切ったで、ちょうど糸の切れた凧ように、子どもは行き場をなくしてしまう。そしてここが重要だが、このタイプの子どもは、「なおそう」とは思わないこと。現在の症状を今より悪化させないことだけを考えて、時間をかけて様子をみる。一般に、この非行も含めて、「心の問題」は、一年単位(一年でも短いほうだが……)で、その推移を見守る。こじらせればこじらせるほど、その分、子どもの立ちなおりは遅れる。

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高校の同窓会の案内をもらいました。しかし私はそれを見て、ハタと考え込んでしまいました。
皆さんは、ご自身の高校時代をどのように思い出されますか? 私にとっては、高校時代は
まさに「悪夢」。本当に不幸な高校時代でした。そんな思いを、書いてみました。







件名:子育て情報(はやし浩司)11-10

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サイトのほうでは、実用的な記事をふやしました!

今回は「スキンシップ」」「親子の関係がぎくしゃくするとき」ほかについて考えてみます。

すでにこの「学習机」についてのオリジナルの原稿は、一五年以上も前に、「マザーリング」という雑誌に発表しました。以後、何度も反芻(はんすう)し、こうして改めて皆さんにお伝えできることを喜んでいます。お子さんの学習環境を考える上で、参考にしていただければ、うれしく思います。

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来春、R社から新しい本を出します。よろしくお願いします。
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あなたは、目上の人でも、目下の人でも、同じような電話をかけていますか?
権威主義的なものの考え方をする人、つまり無意識のうちにも、人間の上下関係を
つくる人は、目上の人に対する態度と、目下の人に対する態度が、まるで違います。
そんなことを書いたのが、「親子の関係がぎくしゃくするとき」です。どうか
お読みください。

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スキンシップは魔法の力(ぐずったら、抱いてみる)(心を開く魔法の力)※

 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう二〇年ほど前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。アメリカのある自閉症児専門施設の先生の講演だが、そのときその講師の先生は、こう言っていた。「うちの施設では、とにかく『抱く』という方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。その施設の名前も先生の名前も忘れた。が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思ったことが、たびたびある。言い換えると、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに何か「心の問題」があるとみてよい。たとえば緘黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。許さない分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら丸太を抱いているような気分なる。これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと身を寄せる。さらに肉体が融和してくると、呼吸のリズムまで同じになる。で、この話をある席で話したら、そのあと一人の男性がこう言った。「子どもも女房も同じですな」と。つまり心が通いあっているときは、女房も抱きごこちがよいが、そうでないときは悪い、と。不謹慎な話だが、しかし妙に言い当てている。

 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんでいたり、苦しんでいるのを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。私「これはよい本だね」、子「値段が高い」、私「読んでみたら」、子「表紙がダサイ」と。このタイプの子どもは、「信じられるのは自分だけ」というような考え方をする。だれかに親切にされても、それを受け入れる前に、それをはねのけてしまう。「あの人が私に親切なのは、私がもっている本がほしいからよ」と。自分からその人から遠ざかってしまうこともある。こういうのを防衛機制という。その人に裏切られて自分の心がキズつくことを恐れるあまり、先手を打って遠ざかり、自分の心を防衛しようとする。そのためどうしても自分のカラにこもりやすい。異常な自尊心や嫉妬心、虚栄心をもちやすいのはそのため。あるいは何らかのきっかけで、ふつうでないケチになることもある。こだわりが強くなり、お金や物に執着したりする。完ぺき主義から、拒食症になった女の子(中三)もいた。もしあなたの子どもが、あなたという親に甘えることを知らないなら、あなたの子育てのし方のどこかに、大きな問題があるとみてよい。今は目立たないかもしれないが、やがて深刻な問題になる。その危険性が高い。

 ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行きづまりを覚えたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなときである。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたら、やさしく抱いてみる。しばらくは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も安定する。

(参考)
こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。「全国各地の保育士などが預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった「拒否、抵抗する」などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、「臨床育児・保育研究会」(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明」と。「……その結果、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割戦後見られ、調査した六項目の平均で二五%に達した。また保育士らの実感で、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も平均で二〇%の赤ちゃんから報告された。さらにこうした傾向の強い赤ちゃんの母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかった。またこの数年、流行している「抱っこバンド」を使っている母親が、東京都内では特に目立った。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、二~三割はいると実感してきたが、『新生児のスキンシップ不足や、首もすわらない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは』と話す」とも。

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ぬいぐるみで育つ母性

(ぬいぐるみの不思議な力)(虐待ママにしないために)

 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。しかもそれが、三~五歳のときにわかる。父性や母性が育っている子どもは、ぬいぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さもいとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関心、無感動。抱き方もぎこちない。中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児の約八〇%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうち約半数が「大好き」と答えている。

 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリアに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。つまり子どものときから、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通して、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性や母性を学ぶ。そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。やわらかい素材でできた、ぬくもりのあるものがよい。日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれは偏見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐるみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのは、ここでいう人形ではない。

 また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。そのあらわれが、五月人形。弓矢をもった武士が、力強い男の象徴になっている。三〇〇年後の子どもたちが、銃をもった軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、あの日本独特の男女差別思想も、この出世主義から生まれた。

 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ち着きがある。おだやかで、ものの考え方が常識的。どこかほっとするようなぬくもりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみればわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スーッと頬を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言い換えると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。

 ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。

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本を好きにさせるために(レベルをさげる)(方向性は図書館で)※実用

 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。数時間、図書館の中で自由に遊ばせてみればよい。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察する。サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を見る。動物が好きな子どもは、動物の本を見る。そのときその子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性に、すなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすこともある。ここでいくつかのコツがある。

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一~二年、レベルをさげる。親というのは、どうしても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子どもには、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもを本嫌いにする。「うちの子どもはどうも本が嫌いなようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。そして本の選択は、子ども自身に任す。こういう親がいた。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本をもってくると、「こんな本はダメ。もっといい本にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本から遠ざける。

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。少しだけでもひざに抱いて、読んであげるとか。これを動機づけという。この動機づけがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違う。まずいのは、買ってきた本を、袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力があるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」、子「……わかんない」と。もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごと、質問してみるとよい。「うさぎさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終えたら、その内容について絵をかかせるとよい(※)。読解力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。なお読解力のある子どもは、一ページを読むごとに深く考える様子をみせたり、そのつど挿し絵を見ながら読む。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。

 最後に、作分を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字好きにする。が、日本人はどうしても「形」にこだわる傾向が強い。こだわり過ぎる。書き順もそうだが、文法もそうだ。接続詞という言葉こそ使わないが、小学二年生から、その接続詞の使い方を学ぶ。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、五人に三人はいる。

(参考)
※……この考えに対して、「子どもに本を読んであげるときには、途中で、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読み聞かせをしている人からのものだった。

 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひとりの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。パソコンを相手にしていると、そういう場面によく出あう。「TIFFファイル(インターネットファックスファイル)を、EASYFAXPRO2001EXのファックスビューワーに関連付けますか」などという表示が突然出てきたりすると、パソコン歴三〇年以上の私ですら、いまだにドキッとする。あくまでも子どもの立場で考えたらよい。

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幼児期に決まる国語力

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二〇年以上も前のことだが、私は国語力が基本的に劣っている子どもたちに集まってもらった。そしてその子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどうちがうかを調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

①使う言葉がだらしない。ある男の子(小学二年)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」というような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま戦国自衛隊という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴイ。バババ……戦車……バンバン。ヘリコプタ-、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったく伝わってこなかった。

②使う言葉の数が少ない。ある女の子(小学生)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウフン」だけで会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「まあまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

③正しい言葉で話せない。そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの子も外国語を話すように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のようでもあった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上にイ~、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのことを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ……」と。

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎日、「帽子、帽子!ハンカチ!ハンカチ!バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしていて、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうばあいは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチをもっていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いているからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水のように、ペラペラと本を読む子どもが現れる。しかしたいてい、文字を音にかえているだけで、内容はまったく理解していない。なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を自分の耳で聞いて、その文を理解する。黙読は文字を「形」として認識するため、一度右脳を経由する。一方音読は左脳がつかさどる。黙読と音読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませるとよい。

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかってもらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思っている人も多い。しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本は、幼児期に決まる。それを私は言いたかった。


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学習机と勉強部屋を考える

●机は休むためにある

 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくすると疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことができれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、なかなかもとに戻らない。
 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もしその食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分の好きなことを、何でも自分の机にもっていってするようであれば、相性が合っているということになる。相性の悪い机を使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。

●机は棚のない平机

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使っていると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前のことだが、小学一年生について調査してみた。結果、棚式の机の場合、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわかった。最近の机にはいろいろな機能がついている。が、子どもがそれにあきたとき、机はそのまま物置台になる。机は買うとしても、棚のない平机をすすめる。あるいは低学年児の場合、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は勉強をあまり意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを大切にする。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」ではなく、「一緒にやろうね」と言うなど。

●学習机を置くポイント

 そこで調べてみると、いくつかのポイントがあるのがわかる。

①机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 
②棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。
③座った位置からドアが見えるようにする。④光は左側からくるようにする(右利き児の場合)。
⑤イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。
⑥窓の位置が重要なポイント。窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強できないということもある。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。ドアが背中側にあると、心理的に落ち着かない。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひじかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。またイス全体が前にかがむようになっているイスがある。確かにそのときは能率があがるかもしれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。
 また学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのように体を休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。たいていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もし「うちの子は勉強しない」というのであれば、思い切って、そういうところを勉強場所にしてみるとよい。子どもは進んで勉強するようになる……かもしれない。

●相性を見極める

 ものごとには相性というものがある。子どもの学習をみるときは、その相性を大切にする。相性があえば、子どもは進んで学習する。相性が合わなければ、子どもは何かにつけ、逃げ腰になる。子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこともある。子どもの学習を家庭で指導するときは、この相性を見極めながらする。

(勉強部屋診断)(図は、省略)詳しくは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
(子どもを伸ばす)→(学習環境)をご覧になってください。

◎棚が背側にあり、机の右前に窓があるという点で、配置としては問題ない。イスに座った位置からは、窓の外がよく見え、勉強で疲れたときなど、そのまま気を休めることができる。ドアが背側にあるので、やや不安は残るが、ほぼ理想的な勉強部屋といえる。この部屋の中学生(中一男児)は、「マンガを読むときも、イスに座って読む」と話してくれた。

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日本の教育レベル(一六五カ国中、一五〇位?)

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、一〇〇〇近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(「週刊新潮」)だそうだ。オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのは勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んでいる」と。

 さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう一五年以上も前のこと。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(※)(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、二〇年先、三〇年先を見越して、「形」を作らねばならない。が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに一〇年以上も前から、小学三年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学一年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、一科目選択できるようになっている。(メルボルン市にあるウェズリー・グラマースクールに問い合わせたところ、中学一年で、中国語、インドネシア語、フランス語、日本語、ドイツ語の中から一科目選択できるとのこと。もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータなど。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で聞くと、それも必須科目の一つだとのこと。)

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界なのである。もっとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、これからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。よい例が、日本の総理大臣だ。

 G8だか何だか知らないが、日本の総理は、出られたことだけを喜んで、はしゃいでいる(二〇〇〇年春)。本当はそうではないのかもしれないが、私にはそう見える。総理なのだから、通訳なしに、日本のあるべき姿、世界のあるべき姿を、もっと堂々と主張すべきではないのか。が、そういう迫力はどこにもない。列国の元首の中に埋もれて、ヘラヘラしているだけ。そういう総理しか生み出せない国民的体質、つまりその土壌となっているのが、ほかならぬ、日本の教育なのである。言いかえると、日本の教育の実力は、世界でも一五〇位レベル? 政治も一五〇位レベル? どうして北朝鮮の、あの悪政を、笑うことができるだろうか。

(付記)
※……京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったという。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。
さらに西村教授は四則演算だけを使う小学生レベルの問題でも調査したが、正解率は約五九%と、東京の私立短大生なみでしかなかったという。わかりやすくいえば、経済学を研究する大学院生も、東京の私立短大の学生も、小学校でするような(足し算、引き算、かけ算、わり算の)計算問題で、一〇〇点満点中、六〇点も取れなかったということだ。

(付記)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第五位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。

 ここで注意しなければならないのは、日本では、数学や理科にあてる時間数そのものが多いということ。たとえば中学校では週四~五時間を数学の時間をあてている。アメリカのばあい、単位制を導入しているので、日本と単純には比較できないが、週三~四時間。さらにアメリカでもオーストラリアでも、小学一、二年の間は、テキストすら使っていない学校が多い。

また偏差値(日本……世界の平均点を五〇〇点としたとき、数学五七九点、理科五五〇点)だけをみて、学力を判断することはできない。この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(四八%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

 日本の中学生は、ますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっている。
 

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親子の間がぎくしゃくするとき

●権威主義の象徴、「水戸黄門」

 「控えおろう!」と一喝して、三つ葉葵の紋章の入った印籠(いんろう)を見せる。するとまわりの者たちが、一斉に頭をさげる……。
 ドラマ「水戸黄門」の中のよく知られた一シーンだが、日本人にはたまらないほど、痛快なシーンでもある。今でもあのテレビ番組の視聴率が、二〇~二五%もあるというから、驚きである。が、それはさておき、オーストラリア人には、それが理解できない。ある日一人の友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、水戸黄門が悪いことをしたら、日本人はどうするのか」と。そこで私が、「いいや、水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、彼は再度、「それでも悪いことをしたらどうするのか」と聞いた。(欧米では、主従関係は契約で成り立っている。日本はこれに対して、忠誠心=終身雇用関係で成り立っている。この違いはあるにはあるが……。)

●権威主義的な民族

 日本人ほど権威主義的な民族は、世界をさがしても、そうはいない。上下意識が強い。長く続いた封建時代が、こういう民族を作った。たとえば男が上で女が下。夫が上で妻が下。先生が上で生徒が下。そして親が上で子が下、と。たとえば日本には「先輩・後輩」という言葉がある。たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をする。そして後輩は先輩に対して、絶対的な服従を誓う。いや、今でこそ、この関係は弱くなったが、私が高校生のときはそうだった。テニス部にしても、一年生は球集めだけ。二年生になってやっとラケットをもたせてもらい、三年生になってはじめて試合に出られた。が、オーストラリアにはそれがなかった。なかったというより、そういう意識そのものがなかった。私は日本の大学を卒業したあと、研究生として、オーストラリアのメルボルン大学に学んだ。そこでのこと。教官と学生がファーストネームで呼びあっているのを見て、私は心底驚いた。私が住んでいたカレッジには、世界中から皇族や王族の子息たちが集まっていた。そのためもあって、毎週金曜日や土曜日には、オーストラリアでも著名な学者や政治家が毎週のようにやってきては夕食をともにしていった。しかしそういう人たちに対してでさえ、オーストラリアの学生たちはきわめて自然に、しかも気楽に話しかけていた!

●そこで自己診断

 外の世界でならまだしも、この権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものまで破壊する。夫婦関係だってあぶない。権威主義を支えるのは、上下意識だが、その上下意識から上下関係が生まれる。そしてこの上下関係は、保護と依存。命令と服従の関係で成り立っている。「上」の立場にいる者にとっては、たいへん居心地のよい世界かもしれないが、「下」のものにとってはそうではない。その居心地の悪い世界で、いつしか下の者は、上の者の心から離れる。ウソだと思うなら、あなたの周囲の家庭をいくつか観察してみるとよい。父親にせよ、母親にせよ、親が権威主義的な家庭ほど、親子関係はぎくしゃくしている。

 そこであなたはどうか? こう書くと、たいていの親は、「私はリベラルだ」と思ったりする。そこであなた自身を診断してみよう。この診断は、あなたの夫あるいは妻にしてもらうとよい。権威主義的な人ほど、目上の人(身分や地位のある人)に対して、必要以上にペコペコし、目下の人に対しては、尊大かつ横柄な態度で接する。そのことは電話での応対ぶりを観察してみるとわかる。そこでテスト。

①あなたの夫(妻)は、相手にかかわらず、いつも電話の調子が一定しているか。もしそうなら、それでよし。しかし②目上の人に対する態度と、目下の人に対する態度が、まるで別人のように違うというのであれば、あなたの夫(妻)は、かなり権威主義的な人だと思ってよい。心の中に潜む上下意識が、無意識のうちにも、相手そのもののを差別し、そしてここでいうような「違い」となって現われる。冒頭にあげた水戸黄門が大好きという人ほど、あぶない。一度静かに自分自身を観察してみてほしい。

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E-マガ、「はやし浩司の世界」より「親が子育てで行きづまるとき」を、転載しておきます。

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親が子育てで行きづまるとき

●苦労のない子育てはない

 苦労のない子育てはないし、その苦労が親を育てる。親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てで苦労しながら、それこそ幾多の山や谷を越えて、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてきたような親は、確かに若くてきれいだ。しかしどこかツンツンとして、中身がない(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつもしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂の穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。しかしそうでない人は、それをなくしてから気づく。健康しかり。生活しかり。そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。特に二男は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海の真ん中で。しかもほとんど人のいない海の真ん中で、一人魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水泳選手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で泳いでいるはずだった。が、三歳になったばかりの三男が「お兄ちゃんがいない!」と叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟を出すため、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。そのときだった。ふと振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。

 以後、二男については、問題が起きるたびに、私は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したときも。受験勉強を放棄して、作曲ばかりしていたときも。それぞれ、「生きているだけでいい」と思いなおすことで乗り越えることができた。私の母はいつも、こう言っている。「上見てキリなし。下見てキリなし」と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」と。英語では「Forgive & Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という言葉は、「与えるため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、そして忘れるかで、親の愛の深さが決まる。許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろという意味ではない。子どもを受け入れ、自分のこととして、あるがままを認めるということ。それを繰り返しながら、親は真の親になっていく。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」という原点から見る。そしてそれでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してほしい。「許して忘れる」と。それだけであなたの心はずっと軽くなるはずである。