●マガジン過去版(10)byはやし浩司
【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●学校拒否症と怠学
学校拒否症(school refusal)と怠学(truancy)は、分けて考える。
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学校拒否症の主な症状は、以下のようである(アメリカ内科医学会)。
★Severe emotional distress about attending school; may include anxiety, temper tantrums, depression, or somatic symptoms.
学校に通うことについて、心配、不安、腹立たしさ、うつ、体の変調などの、苦痛が見られる。
★Parents are aware of absence; child often tries to persuade parents to allow him or her to stay home.
両親がそれ気づいていて、子どもが、「行きたくない」と、親を説得する。
★Absence of significant antisocial behaviors such as juvenile delinquency.
少年非行などの、顕著な、反社会的行動をともなわない。
★During school hours, child usually stays home because it is considered a safe and secure environment.
学校へ行く時間に、家にいることが多い。そのほうが安全と考えるからである。
★Child expresses willingness to do schoolwork and complies with completing work at home.
子ども自身は、家庭で宿題をしたり、宿題をすることに応ずる。
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ふつう日本で「不登校」というときは、この「学校拒否症」もしくは、「学校恐怖症」をいう。
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一方、「怠学(truency)」というときは、以下のような診断基準に当てはまる子どもを、いう(同、アメリカ内科学会)。
★Lack of excessive anxiety or fear about attending school.
学校に通うことについて、大きな不安や恐れはない。
★Child often attempts to conceal absence from parents.
両親の知らないところで、勝手に学校へ行くのを、さぼったりする。
★Frequent antisocial behavior, including delinquent and disruptive acts (e.g., lying, stealing), often in the company of antisocial peers.
(ウソ、盗みなどの)反社会的行動をともなうことが多い。集団非行グループに属することが多い。
★During school hours, child frequently does not stay home .
学校へ行く時間でも、家にいないことが、多い。
★Lack of interest in schoolwork and unwillingness to conform to academic and behavior expectations.
学校の勉強そのものに興味を示さず、勉強するのをいやがる。
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怠学については、たとえば、大阪府立M高校などでは、つぎのような対策を立てている(M高校HPより)。あくまでも参考のため。
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● 怠学指導の方法について
(10ポイント制指導)
1. 正当な理由のない遅刻登校、3分以上の授業遅刻、各授業の中抜け、無断早退を各1点として合算し、定期考査毎に五分割した期間に10点に達した者を保護者召喚のうえ一日謹慎させ作文課題などを課して指導する。
2. この後も引き続き怠学習慣の改善がない者は15点に達したところで保護者召喚のうえ三日間の謹慎、作文課題などを課す。
3. 定期考査中に10点もしくは15点に達した者は考査終了後に謹慎指導に入る。
4. 定期考査終了後に合算点は全員0点に戻る。
5. 遅刻の理由が正当か否かの判断は各学年の生徒指導担当者と担任で協議し決定する。
6. 生徒及び保護者への申し渡し、解除は各学年の生徒指導担当者(又は学年主任)と担任で行う。(申し渡し、解除の時間は原則として8時00分とする)
7. 3年生の3学期は4点に達した者を謹慎の対象とする。
8. この謹慎期間の出欠の取り扱いは通常の懲戒処分と同様に出席停止扱いとする。
(但し、翌日になっても課題等の指導が実行されない場合はその日以降は欠席、欠課扱いとする)
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要するに、心身に何らかの病変をともなって、学校へ行けなくなる状態を、「学校拒否症」といい、サボることを、「怠学」と考えるとわかりやすい。(だからといって、不登校児がみな、何らかの病変をともなっていることにはならない。念のため。)
(031125)
【参考】
●なお、アメリカ内科医学会は、「学校拒否症」の要因となる、不安障害(Anxiety disorders)として、つぎのものをあげている。
Separation anxiety (分離不安)
Anxiety disorder(不安障害)
Generalized anxiety disorder (不安障害全般)
Social phobia (社会恐怖症)
Simple phobia (孤立恐怖症)
Panic disorder (パニック障害)
Panic disorder with agoraphobia (広場恐怖症をともなうパニック障害)
Post-traumatic stress disorder (PTSD)
Agoraphobia(広場恐怖症)
Mood disorders(気分障害)
Major depression (うつ病)
Dysthymia(抑うつ症)
●また同じく、「学校拒否症」の要因となる、破滅行動障害(Disruptive behavior disorders)については、つぎのようなものをあげている(同)。
Oppositional defiant disorder (反抗障害)
Conduct disorder (行為障害)
Attention-deficit/hyperactivity disorder (注意力散漫、過集中障害)
Disruptive behavior disorder,(破滅的行為障害)
Other disorders(他の障害)
Adjustment disorder (with depressed mood or anxiety) (うつをともなう、適応障害)
Learning disorder (学習障害)
Substance abuse
Other
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●問題の奥
●MTさんからの抗議
その息子(中学生)は、いつも鼻クソをほじっていた。食事をしているときも、ほじっていた。だから、母親は、それを気にして、いつも、その息子を叱っていた。
こういうケースでは、最初に、疑ってみることは、その子どもの慢性的な耳鼻疾患である。叱って、なおるような問題ではない。
しかしさらに疑ってみることは、その母親が、子どもを、心底、受け入れているかどうかということ。「子どもを愛する」ということは、「受け入れる」ことをいう。どんなに問題があっても、どんなに親の思うとおりにならなくても、だ。が、その「受け入れ」ができないというのであれば、心のどこかに潜(ひそ)む、わだかまりをさぐってみる。
望まない結婚であったとか、望まない子どもであったとか、など。夫婦問題や家庭問題がこじれて、そうなることもある。そういう意味で、この種の問題は、「根」が深い。
ところで、ちょうど半年前、こんな抗議のメールをもらったことがある。名前は、ローマ字で、「MT」とだけあった。
『子育て、はじめの一歩』(PHP)という私の本の中で、私が「学校の先生を信頼しなさい」と書いたことについての抗議だった。「あなたは先生を信じろと言うが、私の子どもの教師のようなものもいる。それを忘れないでほしい」と。
MTさんは、こう書いてきた。
……私の息子(小三)は、学校で、いじめにあっている。先日も、カバンにチョークで落書きをされてきた。その翌日も、うちの子のカバンから教科書を抜き、その教科書を、別の子のカバンに入れられてしまった。
そこで学校の先生に連絡すると、「放課後のことまでは、責任がもてない」と。そこで校長室へ行き、校長とその教師と私との、話しあいになった。そこでも、その教師はノラリクラリと、弁解にもならない、弁解繰りかえすのみ。そして最後には、「私には、責任はない」と。
が、その翌日のこと。あろうことか、その教師は、教室で、うちの子どもの名前を出して、「○○君のカバンから、教科書を抜いた人は、だれですか?」と。
それでうちの子どもが、いじめにあっていることが、みんなにわかってしまった。こういう配慮に欠ける教師の行為で、うちの子どもは、ますますキズついてしまった。そこで私は、再び、校長室へ。
校長とその教師は、名前を出したことはわびたが、みなの前で、「だれですか?」と聞いたことは、まちがっていなかったと弁解。おまけに、「名前を出さなければ、こういうケースでは、指導ができない」と。親の気持ちも知らないで、こういう無神経なことを、ヌケヌケと言う校長や教師を、私は許すことができない!、と。
●先生とのトラブル?
この種の抗議は、よく届く。しかし率直に言って、この種の抗議がくるたびに、私は何とも言いようのない息苦しさを覚える。MTさんの気持ちはよくわかるが、それ以上に、その場にいた、校長や教師の息苦しさが、ヒシヒシと伝わってくる。
その第一。「先生」というのは、本当にいそがしい。どう忙しいかは、たった一人の子どもでさえ、もてあましているあなた自身を、ふりかえってみればよい。そういう子どもを、三〇~三五人も押しつけて、何から何まで、「しっかり、めんどうをみろ!」は、ない。
教育はもちろん、しつけ、家庭問題、さらには、交友関係まで。
それにMTさんは別として、本当にいろいろな親がいる。そして一人ずつ、家庭環境が、みな、ちがう。
そこでたとえば、カナダでは、学校の先生は、「教室内」のことについては責任をもつ。しかし教室を離れたところのことについては、まったく責任をもたない。責任を問われることもない。とくに子どもが学校を離れたところのことは、すべて家庭の問題として、処理される。
一見、冷たいやり方に見えるが、その分、教師は、教育に専念できる。またそういう、たがいの意識を、「自由」という。「自由」というのは、もともと「自(みずか)らに由(よ)る」という意味である。
自分の子どもがいじめられていることを知るのは、たいへんつらい。それはわかる。しかしもう少し、ほかの方法はなかったのか。校長室で、「責任をとれ」と言われれば、私だって、同じように答えるかもしれない。「私には、責任は、ない」と。そんなことは、少し冷静になって考えれば、だれにだってわかることではないか。
そこでたとえば、もう少し穏便に、「こういう問題もありますが……」とか、何とか。先生に笑いながら、話しかけてみる。そういう方法は、考えられなかったのか。いきなり校長室……、というのは、まずい。こうした問題で、一番、先に考えなければならないことは、子どもの世界を守ること。子どもが、わだかまりなく、楽しく学校へ通えること。そういう環境を用意してあげること。
いくら学校と対立しても、子どもの世界は、子どもの世界として、いわば、アンタッチャブルの世界として、そっとしておいてやる。絶対に、子どもを、トラブルに巻きこんではいけない。それは親として、そして教師として、最低限、守るべきマナーではないか。
そこで私は、『子育て、はじめの一歩』の原稿を書いた。『負けるが勝ち』と。その原稿を、ここに添付する。
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●船頭は一人
そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。
ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だからお母さんは、苦労しているのよ」と。
あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。
この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は母親にしてもらう。
つまり互いに高い次元に、相手を置く。たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前ではしない。
父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。
こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子どものいないところで調整する。
子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。まず先生を、信頼する。教育は、そこから始まる。
もし先生に問題があるなら、子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。
ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。
子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。
古いことを言うようだが、そういう「様」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。
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●負けるが勝ち
この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれて、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。
まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、まともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらには、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、四〇歳前後で、二〇人に一人はいる。
このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。
つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集まる。
しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。
……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわからないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではないことは、実はあなた自身が一番よく知っている。
あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよい。
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たしかに問題のある教師というのは、いる。私も、数多く見てきた。それは事実だ。しかしこの原稿の中で、私が書きたかったことは、「親どうしのトラブル」について、である。先生とのトラブルではない。そのことは、この原稿を、もう少し、ていねいに読んでもらえば、わかってもらえたはずなのだが……。
●冒頭の話に
ではなぜ、私が、冒頭で、「鼻クソ」の話をしたか。
実は、MTさんの問題も、たがいの信頼関係があれば、もう少し性質のちがったものになったはずだということ。つまり、MTさんの問題の奥に、もう一つ、別の問題があるのではないかということ。実は、私にも、こんな経験(失敗)がある。
R君(小四)は、もともと多動性のある子どもだった。そのときも、席から離れて、フラフラと歩いていた。そこで私は冗談ぽく、こう言った。「パンツにウンチがついているなら、席を離れていていい。おしりが、ウンチでかゆい人は、立っていていい」と。
いつもなら、そこでR君は、席にもどるはずだった。が、ここでハプニングが起きた。隣の席にいた、別の子どもが、いきなりR君のおしりに顔をあて、こう叫んだ。「先生、こいつの、しり、本当に臭い!」と。
R君は、そのときは、照れくさそうに笑っていた。それで終わった。……が、その夜、R君の父親から、猛烈な抗議の電話がはいった。「パンツのウンチのことで、息子に恥をかかせるとは、何ごとか!」と。
ものすごい剣幕だった。しかもその電話が、三〇分以上もつづいた。私は、ただひたすら、あやまるしかなかった。
この事件のときも、もし父親がその場の雰囲気を知っていたら、ああまですごい剣幕にはならなかったと思う。つまり私と父親の間には、信頼関係が、まったく、なかった。
●もう一つの失敗
こんなこともあった。いつものレッスンが終わって、部屋から出ようとすると、E君(年長男児)が、そこに立っていた。そこで「どうしたの?」と声をかけると、「ぼくの出席表が、ない……」と。
よくあることである。だれかがE君の出席表を、まちがえてもっていってしまったらしい。そこで私が、「明日になれば、もどってくるよ。心配しなくていい」と。
が、その夜、母親から、電話がかかってきた。これも、ものすごい剣幕だった。母親は、電話口の向こうで、こう叫んだ。
「あんたは(こういうとき親は、いつも私を『あんた』と呼ぶ。私は、そういう世界に生きている)、うちの子が、泣いて抗議したというのに、『知らない』と言ったそうですね。どうして、もっと子どもの立場になって考えることができないのですかア!」と。
この問題は、それで終わったかのように見えたが、そうではなかった。
E君の母親は、翌日早く、私が出勤する前に幼稚園へでかけ、園長に、「あんな林は、すぐクビにせよ」と息巻いたという。この事件も、やはり私と親の間の信頼関係がないことが、原因だった。
● いかにして信頼関係をつくるか
いかにして信頼関係をつくるか……? これは教師の問題でもあるが、実は、親の問題でもある。信頼関係というのは、向こうからやってくるものではない。自分で、もちかけて、作るものである。
そしてそれは同時に、教師自身のためでもあるが、実は、親のためでもある。そしてさらに言えば、子どものためでもある。
そこで私は、こう書いた。「先生を立てろ」と。
先生という職業を長くしていると、子どもを介して、親の気持ちが、手に取るようにわかるようになる。子どもというのは、そういう意味で、隠しごとができない。まさに親の心が、そのまま子どもの心となる。
そういうとき、先生が、「ああ、この子どもの親は、私を信頼してくれている」とわかると、教える熱意が、何倍もわいてくる。しかしそうでないときは、その熱意が、消えてしまう。消えるだけならまだしも、苦痛になることさえある。
しかしこうなると、教育そのものが成りたたなくなる。居なおるわけではないが、先生とて、生身の人間なのだ。聖人でも、牧師でもない。ただの人間なのだ。あなたや、あなたの夫(妻)と、どこもちがわない、ただの人間なのだ。
だからまず、相手を信頼する。その気持を、子どもを介して、先生に伝える。それがここでいう、「もちかけて、作る」という意味である。
MTさんの事例は、たいへん残念な事例である。私は「先生の悪口はタブー」「まず、先生を信頼しなさい」と書いた。しかしMTさんは、「一方的に、そういうことを書いてもらっては、困る」と。しかしこういう、からみ方をされると、何が、正論で、何が正論でないか、わからなくなってしまう。
教育に熱心になることは、それ自体は、悪くない。しかし神経質になるのは、よくない。過関心は、さらに悪い。かえって子どもの伸びる芽を、つんでしまうことにもなりかねない。それだけは、注意したほうがよい。
もちろんMTさんが、そうであると言っているのではない。MTさんが、そうなる過程で、先生との間に、いろいろあったのかもしれない。それは私には、知る由(よし)もないが……。
(031125)
【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691
●キジバトの子ども
今年も、庭の栗の木の上で、キジバトが、巣をつくった。で、しばらくすると、ヒナが生まれた。ときどき、かわいい声で、ピーピーと鳴いている。
ところが、この数日。ヒナがいるはずなのに、親バトが、まったくやってこない。ワイフに聞くと、「そう言えば、今朝から来てないわね……」と。時計を見ると、もう正午近い。
私は心配になった。ひょっとしたら、親バトがカラスに襲われたかもしれない。あたりを何度も、見回してみたが、親バトの姿は、どこにも見えない。
私は脚立を庭のすみから引き出してきて、栗の木の横に立てた。登って、巣の中をのぞいてみた。
ヒナが、二羽、いた。指をさしだすと、元気よく攻撃態勢。私の指を、か弱い力で、ツンツンとつついた。元気なようだ……。言い忘れたが、大きさは、おとなの握りこぶしの、一・五倍ほど。尾羽は、まだ数センチしかなかったが、体は、じゅうぶん、大きかった。
「元気だよ」とワイフに声をかけると、「よかったわ」と。
私は、ニワトリのエサを、庭にまいた。ついで、植木鉢のトレイをもってきて、それに少しエサをのせた。そしてそのトレイを、巣の近くの枝の上に置いた。
「そこまでしなくていいのに……。過保護よ」と、ワイフは言った。
そう、本当は、そこまでしてはいけない。自然の動物は、自然に任すのが一番よい。しかしそれにしても、冷たい親たちだ。先ほどから、小雨がパラついているというのに、ヒナたちを守ろうともしない。あるいは、そういうふうに、ものを考えること自体、おかしいのか。人間の子育てを、基準にしてはいけない。
例年だと、このまま、親バトたちは、ヒナたちにほとんど、エサを与えなくなる。だから今は丸々と太っているヒナたちも、やがてやせ細っていく。と、同時に、羽がのびて、飛ぶことができるようになる。
親バトの気持を考える。
心を鬼にして、子バトの巣立ちを促している? ……私が見たところ、親バトたちが、そこまで考えているようには、思えない。ただ、エサを与えるのが、ただ、めんどうなのではないのか。
ある時期がくると、親バトの愛情が、急速に冷めてくる? ……それはないと思う。その証拠に、親バトたちは、私たちが見えないところで距離を保って、巣の様子を監視している。子バトが飛びたつとき、いつもそばにいて、子バトをガイドしている。
となると、やはり親バトたちは、自分が受けた子育てを繰りかえしているにすぎないということになるのではないか? 実際のところ、ほとんど何も考えていないと思う。人間だってそうなのだから、キジバトも、きっとそうだろう。
……そのつぎの日。朝食をとるために居間へおりていくと、ワイフがこう言った。「今朝早く、親バトが来ていたわよ」と。どうやら親バトたちは、無事だったようだ。
よかった!
(031125)
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●キジバトの子ども(PART2)
夜、家に帰ると、ワイフが、「子どもが落ちてきた!」と。
見ると、キジバトの子どもだった。
こうした野生の鳥のばあい、より強い一羽を、より弱い一羽を、巣から、つき落とすことがある。生き残るためである。あるいは、より強い一羽だけを、残すためである。
たまたまワイフが、ハナ(犬)の異変に気がついたからよかったものの、寸でのところで、ハナが、子どもを、おもちゃにして遊ぶところだった。
で、そんなわけで、ハトの子どもは、我が家で、一夜を過ごすことになった。
お菓子入れ用に使っていた、バスケットに、ティッシュペーパーを敷き、その中に子どもを入れた。エサは、文鳥を飼っていたときに使った「スポイト」で与えた。(名前は知らない。エサを細いパイプの中につめ、鳥の胃袋に、流し入れるという道具である。)
そう、私は、子どものころから、野鳥が好きで、こうして落ちてくると、いつも、助けてやった。今までに、スズメ、ツバメ、バン、メジロなど。この家に住むようになってからは、毎年のように、キジバトの子どもを助けている。
ここにも書いたように、たいていキジバトは、二個の卵を産み、ヒナにかえす。そしてしばらく大きくなると、ヒナどうしが、けんかをして、より強い一羽が、より弱い一羽を、巣の中から、つき落す。そのため毎年のように、(年によっては、何回も)、子どものハトが、巣から落ちてくる。
キジバトは、キジバトで、カラスの襲撃を恐れて、私の家のような民家の近くに、巣をつくる。それで、つまり、子どものハトを助けるのが、私の仕事のようになってしまった。
そんなわけで、我が家の周囲は、キジバトだらけ……と書きたいが、そういうことはない。子バトでも、さらに大きくなると、親バトに追い払われて、どこかへ行ってしまう。自然界には、さらに過酷な試練があるようだ。
鳥の世界は、人間の世界より、はるかに歴史が長い、一億数千年前以上から、鳥は、この地球に住んでいる。人間の歴史は、たかだか、数十万年だ。
で、そういう鳥の世界を見ていると、そのしくみが、実に、うまくできているのがわかる。(だからといって、より強い子バトが、より弱い子バトをつき落すことが、よいと言っているのではない。また、親バトが、自分の子バトを、自分の縄張りから、追い払うことが、よいと言っているのではない。しかしそういうしくみの中で、鳥たちは、一億数千万年という長い時代を、生き延びてくることができた。またそういうしくみがなかったら、こうまで長くは、生き延びることができなかっただろうと思う。)
今朝、子バトにエサを与えていると、突然、子バトが、ピーピーと鳴いて、あわて出した。見ると、庭先に、親バトが、きていた。
親バトは、あたりを警戒しながら、窓のすぐ外まで、来た。内心、「返してやろうか」と思ったが、やめた。どうせまた、すぐ突き落とされるだけ。しばらく育ててやって、自分で飛べるようになったら、外に放してやるつもり。
そうそう昨夜、ワイフが、「名前はどうするの?」と聞いた。
名前は、考えていなかった。しかし多分、「ピー子」にするつもり。キジバトの子どもは、みな、その名前にしてきたから。
(031126)
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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●自己開示のむずかしさ
少し前、F市のある女性と、自己開示の実験をした。おたがいに、何も隠さず話しあおうという実験だった。私にとっては、生涯で、はじめての試みだった。
しかし、結果は、失敗だった。「失敗」という言い方は、失礼になるかもしれない。「実験」という言葉も、好きではない。(当初は、そういう言葉を使って、メールを交換しはじめたが……。)しかしその結果だが、少なくとも、自己開示には、いくつかの限界があることがわかった。
夫婦や親子で、どこまで自分を、さらけ出せるか。……という問題には、「そもそも、さらけ出す必要があるのか」という問題が、いつもついて回る。そういう点では、人間は社会的動物だし、「社会的」ということには、「裏と表を使い分ける」という意味が含まれる。さらけ出すことによって、相手がキズつくこともある。人間は、人間である前に、動物なのだ。それはそうだが、その動物である部分まで、さらけ出すことは、はたして正しいことなのか。
たとえば、私がAさんと親しくなりたいと思う。そのとき大切なことは、さらけ出しというのは、親しくなることと同時進行の形で、少しずつ、できるということ。さらけ出したから、親しくなるということは、ない。ばあいによっては、嫌われることもある。
極端な例が、露出狂である。
一〇年近くも前のことだが、私の教室の近くで、おかしな男が出没するようになった。二五歳くらいの若い男だった。若い女性が通りを歩いてくると、いきなりその女性の前に立ち、素っ裸の下半身を見せるというものだった。
素っ裸の下半身を見せるというのは、いわば肉体的な、さらけ出しである。しかしそういうさらけ出しを歓迎する女性は、いない。
では、精神的な、さらけ出しは、どうか?
いやな人に会ったとき、露骨に、不愉快な顔をしたら、どうなるか。すてきな人に会ったとき、露骨に、好意を示したら、どうなるか。よいことでも、悪いことでも、思ったままを口にしたら、どうなるか。人間関係そのものが、おかしくなってしまう。つまり、ここに、さらけ出しの限界がある。
そこで「親しくなる」という問題。
私たちはその人と、少しずつ親しくなりながら、そして様子をみながら、さらけ出しをする。そしてそのさらけ出しが、さらにたがいの関係を、親密にする。
自己開示の度合いについては、前にも書いた。以前、書いた原稿を、ここに添付する。話が少しそれるが、許してほしい。
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●自己開示
自分のことを話すという行為は、相手と親しくなりたいという意思表示にほかならない。これを「自己開示」という。その自己開示の程度によって、相手があなたとどの程度、親しくなりたがっているかが、わかる。
(1) 自分の弱点の開示(私は計算が苦手)
(2) 自分の失敗の開示(私はケースを割ってしまった)
(3) 自分の欠点の開示(私は怒りっぽい人間だ)
(4) 自分の家族の開示(私の母は、おもしろい人だ)
(5) 自分の体のことの開示(私は、足が短いことを気にしている)
(6) 自分の心の問題の開示(私は、よく、うつ状態になる)
(7) 自分の犯罪的事実の開示(二年前に、万引きをしたことがある)
(1)の軽度な自己開示から、(7)の重大な自己開示まで、段階がある。相手があなたに、どの程度まで自己開示しているかを知れば、あなたとどの程度まで親しくなりたがっているかがわかる。もしあなたと交際している相手が、自分の体の問題点や、病気、さらには心の問題について話したとするなら、その相手は、あなたとかなり親しくなりたいと願っていると考えてよい。
子どもの心も、この自己開示を利用すると、ぐんとつかみやすくなる。コツは、よき聞き役になること。「そうだね」「そうのとおり」と、前向きなリアクション(反応)を示してやる。批判したり、否定するのは、最小限におさえる。
反対に、子どもがどの程度まで自己開示するかで、子どもの心の中をのぞくことができる。
ときどきレッスンの途中で、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と、話し始める子ども(幼児)がいる。私はそういうとき、「そんな話はみんなの前で、してはいけないよ」と、たしなめることにしている。それはそれとして、子どもがそういう話をしたいと思う背景には、私と親しくなりたいという願望が隠されているとみる。が、こんな失敗をしたこともある。
あるとき、「きのうねえ、パパとママがねえ……」と、言い出した子ども(年中男児)がいた。「何だ?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「寝るとき、裸で、レスリングしていたよ」と。
さてあなたは、だれに対して、どのレベルまでの自己開示をしているだろうか。それを知ると、あなたの心の中の潜在意識をさぐることができる。
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● 夫婦のばあい
夫婦の間には、セックスという、すばらしい自己開示の方法がある。愛しあった状態で、セックスをすれば、同性どうしなら、一年かかってもできないような友情が、瞬時に生まれる。
言うまでもなく、セックスをすることによって、夫婦は、肉体だけではなく、心の中も、感情も、感覚も、すべてさらけ出す。むしろ男も女も、セックスを経験することによって、さらけ出すことを学び、同時に、それまでの自分が、いろいろな意味で、押し殺された存在であったことを知る。
私もそうだ。セックスをはじめてしたのは、XX歳のときだったが、終わったとき、私は相手の女性に、思わず、「ありがとう!」と叫んでしまった。すばらしい体験だった。
実のところ、それまでは、そうした自分は、どこかおかしいのではないかと、悩んでいた。あるときなどは、前を歩く女性の太ももを見ただけで、歩けなくなってしまった。(どうして歩けなくなってしまったかは、男性の方なら、その理由がわかるはず。)
が、そういう誤解と偏見を解くには、あの夜のことは、じゅうぶんすぎるほど、すばらしい体験だった。だからとたん、セックスに対する考え方が、一八〇度、変わった。それまでの私は、そういうヒワイな考えをもつこと自体、悪いことだと思っていた。
さらけ出しができなかったことを、嘆いてもしかたない。とくに、親子ではそうだ。この日本では、おかしな権威主義が、いまだにはびこっていて、さらけ出しをしないのが、親子だと思っている人は多い。「父親は威厳が大切だ」とか何とか。
だから親子で、さらけ出しに失敗したからといって、嘆く必要はない。問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去があることに気づかないまま、その過去の引きずられること。だから、気づけばよい。気づくだけでよい。「私の心は、私の魂は、じゅうぶん、解放されてしなかった!」と。
サニー様という方から、掲示板に、書き込みがあった。ここに書いたことは、その返事ということになる。興味のある方は、私のHPの掲示板をのぞいてみてほしい。
さあ、サニー様、さらけ出しなさい。
勇気をもって、さらけ出しなさい。
娘さんたちに。自分の心を語りなさい。
夫に、裸で、抱きついていきなさい。
自分のすべてを、さらけ出すのです。
あとのことは、あとに任せればよいのです。
詳しくは書けませんが、私のワイフなどは、いまでも、よくこう言います。「あんた、こんなことして(=私にさせて)、恥ずかしくないの?」と。
そういうとき私の答は、いつも同じ。
「恥ずかしい? 私は私だ。私だって、ふつうの男だ!」と。
参考になりましたか?
(031125)
++++++++++++++++++
【F市のMさんへ】
長い間、メールを出さなくてすみません。以来、ずっと、「さらけ出し」(自己開示)が、私の心の中で、大きなテーマになっています。
私は子どものころから、自分をさらけ出すことができず、苦労しました。今も、基本的には、同じです。どこかで「いい人」ぶってしまいます。そして相手に気に入られるよう、また好かれるよう、自分を作ってしまいます。そういう自分と、どうしたら、また、いつ、決別することができるようになるでしょうか。
しかしMさんと、メールを交換するようになって、少しずつですが、しかし自分でもはっきりとわかるほど、大きな変化が自分の中で起きたのがわかります。
講演会でも、自分のことを、堂々と(?)、さらけ出すことができるようになりました。言いたいことを、言えるようになったのです。
Mさんの心には、キズをつけてしまったかもしれませんが、しかし同時に、インターネット自体がもつ、、「限界」もあることも事実です。「さらけ出し」をしながらも、インターネットでは、「親しくなる」ことができません。あなたがいつかおっしゃったように、もともとは「バーチャルな世界」なのかもしれませんね。
お元気であることを願いながら、今日は、これで失礼します。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●居なおって生きる
いくらエネルギーが残っていても、それをうしろ向きに使ったのでは、意味がない。悩んだり、クヨクヨしたりするのが、それだが、しかし年齢が進むにつれて、どうしても、ものの考え方が、うしろ向きになる。
「明日は、どうなるのだろう」「来年は、どうなるのだろう」「一〇年後は、どうなるのだろう」と。健康問題や経済問題がからむと、さらに深刻になる。
私の知人の中には、定年退職したとたん、うつ病になってしまった人がいる。それまでは、「退職したら、女房と二人で、石垣島で一年、暮らす」と言っていた人が、である。実のところ、私も休みになったとたん、体の調子が悪くなる。「休み」といっても、一、二週間前後つづく休みのことをいう。
たとえばこうして毎日、原稿を書いているが、休みになったとたん、もっと原稿が書けるはずのだが、かえって、書けなくなってしまう。気が抜けてしまうというか、緊張感が消えてしまうというか……。本来なら時間ができて、もっと書けるはずなのだが……。
だから最近は、私はワイフにこう言っている。「どんなことがあっても、ぼくは、死ぬ直前まで、仕事をするよ」と。いろいろと計画はある。たとえば数年間、オーストラリアで暮らすとか、同じように、数年をかけて、世界を一周するとか。しかしそれらは、多分、「夢」で終わると思う。
そこで私は、こんなことを心がけている。もともと(うつ病に近い)「うつ気質」なので、油断すると、そのままうつ状態になってしまう。だから、朝起きたら、その日にやることを決める。そしてそれがどんなに小さいことでも、前向きにぶつかっていく。
たとえば今朝は、子ども(生徒)たちへのクリスマスプレゼントを考えた。先日、コンビニで見つけた、恐竜の組みあわせパズル(M社製「恐竜の卵」)が、よい。そこでインターネットを使って、会社を調べ、XX人分の見積もりを出してもらうことにした。
その組みあわせパズルをつかって、ゲームもできる。「早く組みたてた人は、○○賞!」とか、何とか。高学年の子どもには、さらに何匹かの恐竜のパーツを、ごちゃ混ぜにしてやらせるという方法もある。……などなど。
一見、つまらないことのように見えるが、しかし、どうにもならないことを、クヨクヨ悩むよりは、よい。そこで私なりの、処世術をまとめてみることにした。
無責任、おおいに結構……私はもともと無責任な男なので、そうたいして努力しなくても、無責任でいられる。神経は、細いくせに、あるところまでくると、居なおってしまう。「勝手にしろ」と。
二人の人に、いい顔はできない……私のことを、悪く思っている人は多い。もう少し若ければ、そういう人たちとの関係を修復しようと思うのだろうが、このところ、そういう意欲が、ほとんど、なくなってしまった。どうがんばったところで、残りの人生は、あとX十年(?)。それまでに頭もボケるだろうし、行動範囲は、さらに狭くなる。修復するエネルギーが残っているなら、今、良好な関係にある人との関係を、もっと大切にしたい。
どうせ先細り……これからの人生は、どうせ先細り。「仕事があるだけでも、ありがたい」「家族がいるだけでも、ありがたい」「生きているだけでも、ありがたい」と、まあ、そんなふうに、あきらめて生きている。私の年代になると、「明日が、今日よりよくなる」などということは、ありえない。「来年が、今年よりよくなる」ということは、さらにありえない。
ありのままで……「飾る」ということに、このところ、ほとんど興味がない。世間体や、見栄、メンツなどは、まったく気にしない。それはよいことなのだろうが、同時にさみしいことかもしれない。いや、本当のところは、ときには、いい格好(かっこう)もしてみたいと思うこともある。しかしそう思ったとたん、同時に、「だから、それがどうなのだ!」という、別の思いが、それを打ち消してしまう。
こうして処世術を並べてみて気づいたが、要するに「居なおって生きる」ということか。言いかえると、老後をうまく生きるということは、いかにじょうずに、居なおって生きるかということになる。その居なおりのし方が、これからの人生を決める。
私のことを悪く思いたければ、思え。勝手に、そう思え。
私のことをバカだと思うなら、思え。勝手に、そう思え。
私は、気にしないぞ。そんなヒマとエネルギーがあるなら、
私は、それを、自分のために使うぞ。バカヤロー、と。
みなさんは、どうですか? 生きザマが、どこかうしろ向きになっていませんか?
(031124)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
【近況】
● コンビニでの、おもちゃ買い
コンビニへ行くたびに、五〇〇円とか一〇〇〇円とか、おとなげもなく、おもちゃを飼っている。昨夜は、グリコのおまけ付、アメを買ってきた。しかし、だ。これにも驚いた。五センチ大のバイクに、人形が二体。バイクは、ハンドルもタイヤも動く。スタンドも動く。しかも塗装がすごい。人形の顔も、きちんと、描いてある! またまたハマりそう!
● 毎晩、電話
このところ、毎晩のように、長電話。昨夜は、名古屋に住む従兄弟(いとこ)と、一時間近く、話した。
(しかし「従兄弟」という漢字だが、もう少し、簡単にならないものか。これを「いとこ」と読むのには、無理がある。たとえば「糸子」とか、「異戸子」とか。ひらがなで、「いとこ」と書くのも、おかしい?)
それに従兄弟と書いても、男性なのか、女性なのか、わからない。一応、「従弟」「従妹」「従兄」「従姉」などという漢字を使うこともあるが……。
従兄弟と話をしていて、心のどこかで、ふと、そんなことを考えていた。
● 小六の漢字
昨夜、小六のWさんが、漢字の勉強をしていた。今度、某進学塾の検定試験を受けるという。かなりむずかしい漢字が混ざっていた。「こんなむずかしい漢字は、もう使わないよ」と言うと、「知っておかないと、本が読めなくなるウ~」と。
そこで私が、「そんな漢字のある本なんか、読まなければいい」と言うと、「先生が、そんなこと言って、いいのオ~?」と。
世の中には、文学者と呼ばれる人がいる。しかし私は、ああいう人たちの書いた、やたらと難解な文章が、大嫌い。苦手(失礼!)なのは、大江K氏。日本を代表するノーベル賞受賞作家だそうだが、私の頭が悪いせいか、大江氏の文章は、何度読んでも、理解できない。が、私も、まねて書くことぐらいなら、できる。
『自我の洞察は、観念と実念の過酷なまでの相克から始まる。魂の慟哭は、その必然的かつ弁証法的過程を経て、観念と実念を混濁させる。そこに究極の自我が宿る……』
(自分でも、さっぱり、意味がわからなア~イ。)
● 今週の幼児教室から
今週は、「工作」をテーマにした。線引きの使い方から始めて、最終的には、箱作りまで指導した。
で、その途中で……。
「騒いでいる子どもには、チューをしてあげる」と私。
すると、子どもたちが、「どうしてチューなの?」と。
私「いいか、ここでは、チューイ(注意)はしない。チューだ」
子「いやだア~」
私「だから、するのだ。私とチューしたい子は、いない」
子「だったら、私、騒ぐ!」
私「どうして?」
子「だって、チューしてもらいたい」
私「……?」と。
しかし今、アメリカでは、マイケル・ジャクソンが問題になっている。こういう言い方は、それ自体、セクハラ行為になる。が、私の教室は、全参観授業。いつも母親たちが、そばで見ている。だから過去、三〇年以上、問題になったことはない……。と、書きたいが、実は、あった。
私はよく「虫」を食べるまねをしてみせる。「これは怒り虫だよ」と言って、虫を食べる。そしてプリプリと怒ったフリをする。しかしそれはあくまでも演技。
が、あるときのこと。私が、その怒り虫を食べたあと、怒ったフリをして、プリントを丸めて、一番前にいた、Yさんという女の子(年中児)の頭をたたいてみせた。あくまでも、そのフリをしたのだが、それがよくなかった。
その夜、Yさんの母親から電話がかかってきた。
母「先生は、今日のレッスンで、うちの子をたたいたそうですね」
私「はあ、……たたきました」
母「あなたは、体罰は、反対ではなかったのではないですか?」
私「はあ、そうですが……」
母「しかも、うちの子は、何も悪くなかったのに、先生は、私をたたいたと言っています。どういうことか、ちゃんと、説明してください」
私「ああ、あれはですね、私が怒り虫を食べてですねえ……」
母「そうですってね。あなたはときどき、子どもの前で、虫を食べてみせるそうですね。どうしてそういう気味の悪いことをするのですか。うちの子も、気味悪がっています」
私「冗談です。冗談で食べてみせるだけです」
母「冗談でも、そういうことを、してもらっては、困ります!」(ガチャン!)と。
母親は、怒っているから、何でもすべて、悪いほうへ悪いほうへと、とってしまう。そういう失敗は、よくある。最近は、少しは、慎重になったつもりだが……。
(031126)
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■自殺を考える
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03-12-6号(328)
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto771
【小四クラスで……】
突然、M君が、「ボッキ!」と言った。「先生、ボッキって、何だか知っている?」と。
私が、「何だ……それ?」と、とぼけていると、「先生、ボッキって知らないの? チンチンが立つことだよ」と。
そこでさらにとぼけて、「へえ、チンチンが立つの? じゃあ、チンチンは座ることもできるの?」と言うと、みなが、ゲラゲラと笑いはじめた。
笑いが、一段落したとき、「あのね、チンチンが立つって、どんなときに、立つの?」と、私が聞くと、「おしっこが、一杯たまったとき……」と。ナルホド!
いろいろ聞くと、子どもたちは、どうやらそういう情報を、上級生から仕入れているようだ。「だれから、そういうことを教えてもらうの?」と、聞くと、「五年生の、○○君が言っていたア!」と。
念のため言っておくが、このクラス(金曜日、小四)は、男児のみ。女児はいない。
やがて、英語の話になった。
「ウンチは、英語で、何ていうの?」「シィッツ」
「チンチンは?」「ディック」
「おっぱいは?」「ブレスト」
「おしりは?」「バック」
「じゃあ、ボッキは?」「イレクト」と。
すると一番、はしゃいでいたI君が、「じゃあ、先生、耳クソは何て言うの?」と。
そこで私が、「外人の耳には、耳クソはないの。耳クソがポロポロと出るのは、日本人だけだよ」と言うと、またまた大爆笑。
どういうわけか、外人(白人)には、耳クソがない。ベタベタの耳アカにはなるが、日本人のような耳クソは出ない。だからたとえば、アメリカには、耳かき棒のようなものは、ない。
で、男児のばあい、小三から小四にかけて、性に対する関心と興味が、急速に高まってくる。女児も、このころを境に、父親といっしょに入浴するのを拒(こば)むようになる。この時期というのは、一方で、ちょうど、自己意識※が急速に発達する時期と重なる。
このとき大切なことは、「セックス」に関して、暗いイメージをもたせないこと。そこで性教育ということになるが、もともと欧米で性教育というときは、性にまつわる古い因習や、性をしばる伝統や文化を打破し、男女に対する偏見と誤解を、取り除くための教育をいう。
しかしこの日本で、「性教育」というと、「セックスにまつわる教育」というイメージが強い。だから小四の子どもたちでも、「性教育」という言葉を聞いただけで、みな、ニヤニヤと笑い始める。
私「どうして、ニヤニヤ笑うの?」
子「だってさあ……」
私「どうして、おかしいの? 理由を言いなよ」
子「言えないよ。……じゃあ、先生は笑わないの?」
私「笑うよ」
子「じゃあ、先生は、ヘンタイだア!」と。
今では、小学生でも、「フェラ」「クリトリス」「クリニングス」などという言葉を知っている。私の時代には、そういう言葉すら、なかったと思うが……。
※ ……フロイトは、人間の生きる力(リピドー)の原点には、つねに「性」があるという。そういう視点に立つと、自己意識というのは、すわなち、異性への関心と興味ということになる。その関心と興味が転じて、自己意識へとつながっていく。このことは、私の経験に照らしても、正しいと思う。
私がはじめて他人の目を意識したのは、やはり初恋を経験してからである。それまでは、自分がどんなふうに見えるかとか、また見られているかとかいうことには、ほとんど関心がなかった。
しかし初恋をしてからは、とくに、その相手に対しては、目立つことを考えるようになった。「自分は、その子には、どう見られているのか」「もっと、その子の注意をひくためには、どうすればいいのか」と。そしてそういう思いが、やがて、「私」を意識する意識(=自己意識)へと、つながっていった。
(031128)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●水槽の中の魚
水槽で熱帯魚を飼うようになって、もう一四年目になる。平成元年に飼い始めたから、一四年という数字にはまちがいはない。その熱帯魚たち。ときどきその熱帯魚を見ながら、私はこう考える。
「この魚たちにとっては、この水槽が全世界なのだろうな」「生まれから死ぬまで、一生、水槽の中に住んでいるから、外の世界を知る由(よし)もない」と。
考えてみれば、人間の意思も似たようなものだ。たとえば「自由」にしても、自由な世界を知ってはじめて、不自由な世界がどういうものかがわかる。たとえば江戸時代という時代。
あの時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった。それは客観的にみれば事実なのだが、では、その時代に住んだ人がそう感じていたかどうかは疑わしい。あの時代の人は、徹底した鎖国制度のもと、外国へ出るということすら許されなかった。
だから外の世界など、知る由もなかった。それはちょうど、今の北朝鮮の人たちのようなものではないか。聞くところによると、首都のピョンヤンに住めるのは、ごく一部のエリートだけという話だ。それに旅行すら自由にできなという話も聞いている。日本という外の世界からみると、ずいぶんと窮屈な感じがするが、では当の北朝鮮の人たちがそう感じているかどうかは、疑わしい。彼らは彼らで、結構自分たちの国は自由な国だと思っているかも知れない。
が、だからといって、日本が自由の国だとか、また日本人がもっている意識は、グローバルな意味で、世界の標準だと思うのは危険なことである。ひょっとしたら私たち日本人とて、水槽の中の熱帯魚と同じかもしれない。そういう例は、実は教育の世界には多い。
たとえば私が、三井物産という会社をやめ、結果的に幼稚園の講師になったとき、みなは、「はやしは頭が狂った」と笑った。母まで、電話口でオイオイと泣き崩れてしまった。しかしそんな中でも、私を支えてくれたのが、オーストラリアの友人たちだった。「ヒロシ、すばらしい選択だ!」と。
こうした意識の違いというのは、それがない人には理解できないものであり、それがある人には、外で呼吸をするくらい当たり前のことなのだ。そういう意味でも、意識の違いというのは恐ろしい。
たとえば今の「私」ですら、ひょっとしたら私という範囲の中だけで「私」なのかもしれない。ほんの少し意識が変われば、私は私でなくなってしまう可能性だってある。絶対的に正しいものなどというのは、ないということか?
今日も水槽の中の熱帯魚を見ながら、私はそんなことを考えた。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●人間は動物
このところおかしな現象が身のまわりで起きている。たとえばレストランで食事をしたとする。そこで人々が食事をしている人を見ていると、そういう人たちが人間というより、動物に見えてくるのだ。
みながみなではないが、しかし一〇人もいると、そのうち七~八人が、そう見えてくる。(だからといってそういう人たちをバカにしているというのではない。誤解がないように!)
「食べる」という、動物全体に共通する行為を見ていることもある。それはあるが、しかしそのときだ。私は人間は動物と同じと感ずると同時に、動物も人間と同じと感ずる。どちらでもよいが、人間と動物を区別するものが何なのか、それがその瞬間わからなくなる。(だからといって人間が愚かだと言っているのでもない。誤解がないように。)
たとえばきのうも、ななめ向こうの席で、ひとりスポーツウェアの中学生が食事をしていた。弟らしき子どももその横にいたが、その弟はよく見えなかった。反対側に父親もいた。私がその中学生が気になったのは、ハンバーグののった皿に、直接口をつけ、フォークでその料理をガツガツと口の中にかき込んでいたからだ。(欧米の習慣では、皿に口をつけて食べるのは、最悪のマナーということになっている。実際にはそういう食べ方をする人はいない。)
で、その様子を観察すると、食事を楽しむというよりは、まさに胃袋にモノを詰め込んでいるといったふう。しかも目つきが死んだ魚のようで、その上表情がなく、正直言って、不気味だった。
私が女房に、「人間が万物の霊長だというのは、ウソだね」と話すと、女房もそれに同意した。いや、人間が動物的であることが悪いのではない。人間も一度、自分たちは動物であるという視点で、見なおす必要があるということ。
人間だけが特別の存在であると考えるほうがおかしい。つまりその上で、教育がどうあるべきかを考えるということ。よく「日本の教育は子どもに考えることを教えない」という。しかし日本に住んでいると、それがよくわからない。「考える」という言葉の意味すら、よくわかっていないのでは?
人間が人間なのは、考えるからであって、言いかえると、考えなければ、人間は人間としての価値をなくす。日本の教育には、そういう基本的な視点が欠けている。
……話が脱線したが、こんな格言もある。『思考はヒゲのようなものである。成長するまでは生えない』(ヴォルテール「断片」)と。教育にも限界があるということか。あるいはひょっとしたら、何もしないことが教育になるのかもしれない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●ツッパル子ども
ツッパル子どもの、もっとも目立つ特徴は、拒否的態度である。何かを提案しても、それを考える前に、即座に、それを拒否する。
親「パンを食べるの?」
子「いらねえヨ~」
親「どこかへ、おいしいものを食べに行こうか?」
子「うるせえナ~」と。
それだけ心が緊張状態にあるとみるが、さらにその原因はといえば、人間関係がうまく結べないことがある。うまく結べないため、態度や姿勢が、攻撃的になる。子ども自身にしてみれば、攻撃的になることにより、自分の周囲に、自分にとって居心地のよい世界をつくろうとする。
……というようなことは、たびたび書いてきた。ここでは、もう少しその先を、具体的に考えてみたい。
あるお母さんから、こんな相談をもらった。何でも学校で、先生が、「勉強が嫌いな人?」と声をかけたら、そのお母さんの子ども(小二男児)だけが、「嫌いだヨ!」と答えたというのだ。そこでさらに先生が、「本当に嫌いな人?」と声をかけたら、また、「嫌いだヨ!」と。
よく見られる拒否的態度である。で、こういうとき、親や先生は、子どもの言葉に、引き回されやすい。「さあ、たいへんだ!」「本当に嫌いなのかしら!」「どうしよう?」と。
しかし心配は、ご無用。(拒否的態度は、また別のところで問題にするとして、「嫌いだヨ!」と言ったことは、心配しなくてよいという意味。)
こうしたツッパリ症状が見られたら、それが軽いばあいは、相手にしない。適当に聞き流しておけばよい。本気にずればするほど、わけがわからなくなる。つまりその「適当に聞く」という部分が、親や先生の、度量(=心のふところ)の深さということになる。親や先生が、子どもに同調して、カリカリすればするほど、子ども自身が、方向性を見失ってしまう。
相手は、しょせん、子ども。ときに生意気なことも言うが、子どもは、子ども。いろいろなことがわかっていて、そう言うのではない。こういうケースでまずいのは、そのつど、親や先生が、動揺すること。その動揺が、子どもの心を、かえって、不安定にしてしまう。
子育てで大切なのは、「一貫性」である。よきつけ、あしきにつけ、この一貫性が、子どもの心を育てる。実は、ツッパル子どもの背景には、この一貫性がない。甘い生活規範と、暴力や威圧がともなうきびしい生活環境が、同居している。そのアンバランスな生活環境が、子どもの心を、不安定にする。
だからむしろ、なおすべきは、そちらのほうということになる。そちらがなおれば、拒否的態度は消え、ついで、「勉強は嫌いだヨ~!」という言葉も消える。
えてして私たちは、子どもの表面的な様子だけをみて、それに引き回されやすい。しかしそれでは、問題は、解決しない。
(031127)
ミ ( ⌒⌒ ) 彡
∞((((( )∞
│6 6 b
(" 。 "人
ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
○ ヽ ABC ○
 ̄ ̄ ̄ヽ ヽ ヽ ̄ ̄ ̄ 何か、テーマがあれば、
 ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ 掲示板にお書き込みください。
【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
● 萎縮する子ども
親の過干渉、過関心、威圧的育児姿勢、暴力、虐待、育児拒否、冷淡、無視、家庭崩壊など、子どもの精神を萎縮させる要因は、たくさん、ある。しかしその中でも、親の情緒不安ほど、子どもを萎縮させるものは、ない。
機嫌がよいときは、やさしくて、思いやりのあるママ。しかしひとたび機嫌が悪くなると、子どもをはげしく叱ったりする。叱るならまだしも、子どもがおびえるほどまで、子どもを押さえつけてしまう。
神戸の方から、相談のメールが入った。(掲載の了解はもらっていないので、ここでは紹介できない。)
++++++++++++++
五歳の男の子について。幼いころからハキがなく、気弱。ブランコを横取りされても、取りかえすことができない。おもちゃを横取りされても、取りかえすことができない。そこで「どうして、やりかえさないの!」と叱るのが、効果なし。先日も、一時間ほど、そのことで子どもを説教した。
子どもは、「今度からは、取りかえす」と言ったが、つぎに同じような状況になったときも、私のほうを、心配そうに見ながら、ただモジモジしているだけだった。
保育園へは、三歳のときから通っているが、このところ、何かにつけて、「こわいよ……」を繰りかえすようになった。階段をのぼるときも、「こわいよ……」。通りを歩いていても、「こわいよ……」と。
さらに最近では、死ぬことに対して、ものすごく恐怖感を覚えているよう。「死ぬ」という言葉が、子どもの口から、よく出てくる。こういうときは、どこかへ、相談に行ったほうが、よいのか。子どもの心に、キズは、残らないか。(以上、要約)
+++++++++++++++
ほかにもいろいろ書いてあったが、文面からして、母親の、威圧的な育児姿勢が、子どもの心を、萎縮させてしまった感じがした。その母親は、「私は、いつもひどいことをしていたわけではない」と書いていたが、こうした育児姿勢から生まれるショックは、週に一度でも、子どもの心に深刻な影響を残す。月に一度でも、残す。あるいはたった一度、はげしく叱ったことが原因で、自閉症になってしまった女の子さえいる。
その女の子は、二歳のとき、はげしく母親に叱られた。で、そのときをきっかけに、一人二役の、ひとり言を言うようになってしまった。母親は、「気味が悪い」と相談してきたが、こうした例は、少なくない。
一見、タフに見える子どもの心だが、一方で、薄いガラス箱のように、もろい。こわれるときは、簡単にこわれる。子どもにもよるが、この時期、「無理をしない」は、子育ての大鉄則。
で、相談の内容は、「こわれた心は、どうするか?」という問題に、集約される。
このときでも、親は、「なおそう」と考える。しかし一度、顔についたキズは、消すことはできない。心のキズは、さらに、消すことはできない。私は、こうした相談を受けるたびに、「どうして親は、こうまで身勝手なのだろう」(失礼!)と思う。決して親を責めているのではない。もっと子どもの立場で、子どもの心を考えろと言っている。
幼児でも、「死」への恐怖をよく口にする子どもは、いる。それがある一定の、つまり、だれでもそうだというレベルを超えたとき、そういう子どもは、不安を基底とした、ものの考え方をするようになる。これを「基底不安」という。そして一度、そういう状態になると、残念ながら、生涯にわたって、つづく。(だから心理学では、「基底」という言葉を使う。)
この基底不安は、薄められたり、変化することはあっても、消えることはない。程度のちがいはあるが、生涯にわたって、その不安感から、解放されることはない。それに「死」の問題がからむと、ことは、さらに深刻になる。「死」に近い分だけ、何かにつけて、「死ぬ」ことで、問題を解決しようとする。当然、自殺の問題も、それに含まれる。
R氏(四八歳、男性)は、こう言った。「私の人生は、いつも、何かに追いたてられているような感じでした。子どものときも、おとなになってからも、そうです。休みの日にも、心を休めることができません。翌日からの仕事が、心配になってしまうのです。ですから私のことを、みなは、働きバチと言います」と。
では、どうするか。一般の恐怖症に準じて、できるだけ、その「問題」には、触れないようにする。遠ざかって、忘れる。
そして心のキズについては、あ・き・ら・め・る。冷たい言い方だが、この「あきらめる」ことには、二つの意味が含まれる。
どんな人もでも、何らかのキズをもっている。キズをもっていない人など、いない。だからもし、あなたがそうであるとしても、またあなたの子どもがそうであるとしても、「みんな、そうなのだ」という前提で、わ・り・き・る。
もう一つの意味は、そういう自分、あるいはそういう子どもを、受け入れ、仲よく、つきあうということ。それは持病のようなものかもしれない。悪いことばかりではない。そういった持病があるおかげで、体をいたわるようになる。
私も、子どものころから、扁桃腺炎に悩まされた。しかし今では、その扁桃腺が、健康のバロメーターになっている。風邪のひきはじめでは、必ず、まずのどが痛くなる。で、のどが痛くなると、「ああ、風邪だな」と思う。体を大切にする。そのおかげというわけでもないが、おとなになってからは、風邪で、寝込むということは、ほとんど、なくなった。
それぞれ、みんな、どんな親も、懸命に、子育てをしている。しかし完ぺきな親は、いない。いつも、どこかで失敗する。もともと子育てというのは、そういうもの。
だから問題は、失敗することではなく、その失敗に気づかないまま、同じ失敗を繰りかえすこと。幸いにも、この相談をしてきた母親は、それに気づいている。「キズは残らないか」と、その「キズ」を認めている。つまり、その母親は、「今」を原点に、もう一度、ここから子育てを始めればよい。五歳というのは、もう一度、そのやりなおしがきく、年齢である。
(031128)
【補注】
子どもの性格や性質をいじる時期は、二度ある。一度は、満一歳前後。もう一度は、満五歳前後である。
この時期というのは、(乳幼児期から、幼児期)、(幼児期から、少年少女期)への移行期にあたる。この時期をうまくとらえ、指導すると、その子どもの性格、および、性質を、変えることができる。
しかしこの二度の時期を過ぎると、子どもの性格、性質は定着する。以後、子どもの性格や性質をいじるのは、たいへん危険なことである。大切なことは、そういう子どもであることを認めること。認めたうえで、その子どもに合わせて子育てをすること。「あなたはダメだ」式の、マイナスのストロークをかけてしまうと、子どもは、自信をなくしたり、さらに将来に対して、大きな不安を覚えるようになる。
● 基底不安
心理学の世界には、「基底不安」という言葉がある。生まれながらにして、不安が基底になっていて、そのためさまざまな症状を示すことをいう。
絶対的な安心感があって、子どもの心というのは、はぐくまれる。しかし何らかの理由で、その安心感がゆらぐと、それ以後、「不安」が基本になった生活態度になる。たとえば心を開くことができなくなる、人との信頼関係が結べなくなる、など。
そこで子どもは、さまざまな方法で、心を防衛する。(1)服従的態度(ヘラヘラとへつらう)、(2)攻撃的態度(威圧したり、暴力で相手を屈服させる)、(3)回避的行動(引きこもる)、(4)依存的行動(同情を求める)などがある。これを「防衛機制」という。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●自殺系マガジン
電子マガジンの中には、発行部数が、数万部というもの、数多くある。どんなマガジンかと思いながら、いくつかに目を通してみた。
で、驚いたことに、その中に、「自殺マガジン(自殺系マガジン・仮称)」というのがあった。ギョッ!
内容といっても、自由投稿が主体のもので、編集者や発行者の意見は、ほとんどない。で、私はそれを読んで、改めて、「私」を考えさせられた。
「死にたい……」
「Aさんへ、まだ早いわよ……」
「生きていて、何になる? Bさん、いっしょに、死のう」
「Cさんへ、明日は、今日より、ひょっとしたらよくなると思うから、生きているだけ……」と。
こうした内容のやり取りが、毎号つづく。
私は、そういたマガジンを読みながら、こうした人たち(若者が中心だが……)、自分であって自分でない部分に、大きく動かされているのを知った。
恐らく、不幸にして、不幸な家庭に育ったのだろう。しかし当の本人たちは、それに気づいていない。「私は私だ」と思っている。「自分の意思で、死にたい」と思っている。しかしそうした「私(自分は自分と思っている部分)」のほとんどは、環境の中で、つくられたものなのである。
たとえば乳幼児に、「あれはダメ」「これはダメ」「ああしなさい」「こうしなさい」と言いつづけたとする。
やがてその子どもは、自信喪失から自己否定をするようになる。こうなると、自我はつぶれ、子どもから、子どもらしいハツラツとした表情が、消える。
そういう子どもがすべて、将来、自殺願望をもつようになるというわけではない。しかし自殺願望をもつ子どもは、みな、何らかの大きな心のキズをもっている。そうしたキズは、こうしたマガジンの寄せられた投稿を読めば、わかる。
私の中には、私であって、私である部分と、私であって、私でない部分がある。私であって、私である部分というのは、比較的わかりやすい。しかし私であって、私でない部分というのは、それ自体を、その人は、「私」と思いこんでいるいため、それに気づくのは容易ではない。
たとえば長男や長女は、どうしてもケチになりやすい。これは、弟や妹に対して、生活態度が、防衛的になるためである。その防衛的な部分が転じて、ケチになる。
が、たいていの長男や長女は、自分がケチだとは思っていない。気づいても、そういう自分が、「私」だと、思いこんでいる。あるいは、ケチを前提とした生き方をしたり、さらにそれを正当化しようとする。「私は、モノを大切にする人間だ」と。
こうしてその人は、ますます「私であって、私でない部分」に、気づかなくなる。あるいは「私であって、私でない部分」を、「私」と思いこんでしまう。
はっきり言おう。
自殺をしたい人は、「私であって、私でない部分」に気づかないまま、それを「私」と思いこんでいるだけ。「死にたい」とは言うが、そう思わせているのは、「私であって私でない部分」。決して、その人の「私であって私の部分」ではない。
「私」を知ることは、そういう意味でも、たいへんむずかしい。私は、その自殺系マガジンを読みながら、改めて、それを思い知らされた。
(031128)
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この「私」に関して、以前、「残像症状」という
言葉を考えた。それについて書いたのが、つぎ
の原稿です。
私たちは、私であって、私でない部分に、みな
動かされている。それについて書きました。
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●残像症状
「残像症状」という言葉は、私が考えた。
たとえば子どもが何かの心の問題をもったとする。赤ちゃんがえりなら赤ちゃんがえりでもよい。赤ちゃんがえりは、五~六歳をピークに、この時期を過ぎると急速に症状が消えていく。
しかしそのあと「残像」のようなものが残る。後遺症というような症状ではないが、しかし関係がないとは言えないような症状をいう。はっきりとした形で残るときもあるが、別の形となって残るときもある。私はそれを勝手に「残像症状」と呼んでいる。いろいろな残像症状がある。
赤ちゃんがえり……幼児期に赤ちゃんがえりを経験した子どもは、気むずかしい、いじけやすい、くじけやすい、意地っ張りになりやすいなど。形としてはわかりにくが、ほかにケチになりやすい、意地悪、仮面をかぶる、よい子ぶる、さみしがり屋など。愛情への屈折した欲求不満が、どこかすなおでない子ども像をつくる。
分離不安……孤独に弱い、恐怖心をもちやすい、人なつっこい、心をいつわりやすい、相手にあわせて行動する、人の心にとりいるなど。一度幼児期に分離不安になると、分離不安はいろいろな形であらわれてくる。ある妻は、夫の帰りが少し遅いだけで、極度の不安状態になってしまう。あるいは夫が出張で家をあけたりすると、不安で不眠症にねっつぃまうなど。
指しゃぶり……髪いじり、爪かみなどを総称して、代償的行為という。心を償うために代わりにする行為と考えるとわかりやすい。つまり代償的行為をすることによって、子どもは不安定な自分の情緒を安定させようとする。だからこうした行為を叱ったり、禁止しても意味がない。無理にやめさせると、かえって子どもの情緒を不安定にする。
で、こうした代償的行為は、おとなにも見られる。これはベトナム戦争に行ったオーストラリアの友人から聞いた話だが、サイゴンに帰ったオーストラリア兵は、皆、「女を買った」そうだ。しかしセックスが目的ではない。皆、女性を買って、一番中、女性の乳首を吸うためだったそうだ。戦争という極度の緊張状態に置かれた兵隊たちは、そういう形で、自分の心をなぐさめた。
こうした指しゃぶりは、おとなにもよく見られる。指の腹を吸う、なめるなど。ヘビースモーカーの人は、よく「くちびるがさみしいからタバコを吸う」というが、それも代償的行為と考えてよい。もともと情緒が不安定の人とみてよい。
以上、おとなでも残像症状をもっている人はいくらでもいる。で、あなた自身はどうか。一度自分を静かに観察してみるとおもしろい。「あなた」を発見する、新しい手がかりになるかもしれない。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●死にたくなったら……
風邪をひくと、熱が出る。
しかしその熱は、いくらがんばっても、
自分の意思では、どうにもならない。
同じように、心が風邪をひくと、
死にたくなる。
しかしその思いは、いくらがんばっても、
自分の意思では、どうにもならない。
脳の中には、そういう思いが、
すでにプログラムされている。
そのプログラムが、勝手に動き始める。
だから、死にたくなる。
しかしそれは決して、
あなたであって、あなたではない。
風邪で熱を出しているときの
あなたが、あなたではないように、
心が風邪をひいて、死にたくなっているあなたは、
決して、あなたであって、あなたではない。
だから、死んではだめだ。
そのときの「あなたに」に、すべてを
ゆだねては、だめだ。
だからあなたは、ただじっと、
ただ静かに、時の流れるのに
身を任せばよい。
相談したところで、どうにかなる問題ではない。
嘆いたところで、どうにかなる問題ではない。
やがてあなたの中の、別のプログラムが作動し始める。
それをただ静かに、見守る。
あとは、時間が、解決してくれる。
++++++++++++++
地の底から、ふと、やさしい声が聞こえる。
お前は、さみしいだろ。苦しいだろ。
足元をすくわれるような孤独感。
身の置き場がない、さみしさ。
再び、その声はこう言う。
生きていて、どうなる。楽になりたいか、と。
私は静かに目を閉じる。これは風邪だ。
閉じて、体を丸める。これは風邪なんだ。
やがて、私は、その向こうの、
漆黒の暗闇の中に、落ちていく。
……やがて気がつくと、朝だった。
まっ白な光が、あたりを照らす。
穏やかな心。平和な心。静かな心。
それをもう一度、確認して、あたりを見まわす。
朝だ。朝だ。朝なのだ。
私はさらにしっかりと目を開き、
腹に力を入れて、ゆっくりと起きあがる。
(031128)
● 自殺のために、もっともらしい理由をつける人は、つまらない人間だ。(エピクロス「断片」)
● いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い。(川端康成「末期の眼」)
● 生に対する無限の信仰と尊重を抱いて立つ時、自殺は絶対的の罪悪ではあるまいか。(倉田百三「愛と認識との出発」)
● 自殺は、この上ない、臆病の結果である。(デフォー「投機論」)
【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691
●二番底
ある母親から、こんな相談をもらった。「うちの子(小四男児)が、不登校児になりそうです」と。そしてその母親からのメールを読むと、こうあった。
11月10日(水)欠席
11月11日(木)遅刻。二時間目から四時間目まで授業を受ける。
11月12日(金)欠席
11月15日(月)おなかが痛いと言って、昼から出席
11月16日(火)朝、学校まで送っていくと、そのまま夕方まで出席
11月17日(水)欠席、と。
母親は、「何とか励まして、連れていくが、校門をくぐらせるのに苦労する」と書いていた。そのため、「どうしたら、いいか?」と。
こういケースで、最初に注意しなければならないことは、親は、「今が、最悪の状態だ」と思いやすいこと。しかし「今が、最悪」ではない。その「最悪」の下には、さらに「最悪」がある。これを二番底という。
今は、その子どもは、かろうじて、学校に通っているが、この段階で、対処方法をまちがえると、まったく学校へ行かなくなってしまう。さらに対処法をまちがえると、情緒障害、さらには精神障害へと進むかもしれない。つまり二番底から、さらに三番底へと落ちていく。
こういうケースでは、「がんばれ」式の励まし、「こんなことでは……!」式のおどしは、禁物。言うとしたら、「あなたは、よくがんばっているわ」「あなたにも、いろいろつらいことがあったのね」式の理解である。
たとえば子どもが、午前中くらいなら学校へ行きそうだったら、「無理をしなくていいのよ。二時間で、迎えにいってあげるからね」と言ってあげる。そういう「やさしさ」が、子どもの心に穴をあける。
この種の問題は、「まだ以前のほうが、症状が軽かった」ということを繰りかえして、さらに症状は、悪化する。だから鉄則は、ただ一つ。「今の状態を、より悪くしないことだけを考えて、対処する」。「なおそう」と思わないのが、コツ。
もう一言、つけ加えるなら、この種の問題は、「半年単位。できれば一年単位で、症状の変化を見守る」。数日や、数週間の変化くらいで、一喜一憂してはいけない。心の問題と言うのは、そういうもの。外から症状が見えない分だけ、親は、安易に考えやすいが、決して、安易に考えてはいけない。
(031127)
ミ ( ⌒⌒ ) 彡
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(" 。 "人
ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
○ ヽ ABC ○ このマガジンが、お役に立てそうな
 ̄ ̄ ̄ヽ ヽ ヽ ̄ ̄ ̄ 方が、いらっしゃいませんか?
 ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ よろしくお伝えください!
【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●ハナがキジバトを、かみ殺す
ハナ(犬)が、やっと飛び立ったキジバトのヒナを、かみ殺した。瞬間だった。ちょうど、私とワイフが、朝食をとっていたときのことだった。
それまで私たちは、親バトと、子バトが、並んで、庭を歩いているのを見ていた。ハナは手前から、うらめしそうに、それを見ていた。私は何度も、ハナを制した。ハナは、そのときは、私の指示に従った。
しかしつぎの瞬間。ほんの少し、目を離したとたん、ワイフが、「ギャーッ」と。見ると、ハナが、子バトの体を振りまわしているところだった。即座に、私は怒鳴りながら、庭へ飛び出た。しかし、遅かった。
子バトは、首の下から、真っ赤な血を流しながら、二度、三度とバタつかせたあと、息を絶えた。
私は、そばでうずくまっていたハナのしりを、力いっぱい、蹴った。「バカヤロー」と。ハナは、腰を落として、自分の犬小屋へ逃げた。私は、そばにあった、棒きれを、ハナめがけて、思いっきり、投げた。怒りが収まらなかった。悲しさが、どっとこみあげてきた。
かわいそうな子バト。今朝、はじめて巣立って、そのまま死んだ。何とも言いようのない、やるせなさが心の中に充満した。しかしハナが、そこまでバカだったとは! なさけなかった。
しばらくして、私は、山の斜面に、穴を掘った。その間に、ワイフは、死んだ子バトを、紙に包んでいた。私は黙ってそれを受け取ると、その子バトを、埋めた。そして上から、土をかぶせた。
巣箱に逃げたハナを、私は思いっきり、にらんだ。ハナは、視線をはずして、顔をうなだれた。それを見て、私はまた怒鳴った。「バカヤロー。ハトは、お前の友だちだろ!」と。
部屋に帰ると、もう一羽の子バトがいた。おとといの夜、木から落ちてきたハトである。カゴから出してやり、指の上に止まらせた。もう私を見ても、驚かない。逃げようともしない。
「お前の兄ちゃんは、死んでしまったよ……」と。
ほんの少し前まで、そのハトにはこう言っていた。「早くお前も大きくなって、あのお前を蹴落としたお兄ちゃんを、見返してやれ」と。そして私は、そのハトの中に、首がふくれるほど、エサをつっこんでやった。
しかし何とも言いようのない、やるせなさは、残った。だからといって、ハナを叱っても意味はない。どうせ人間の言葉はわからない。ワイフは、「猟犬だから……」と、何度も、ため息まじりに、言った。
それから私たちは、約束があったので、W小学校のN校長に会いに行った。途中、何度も、死んだハトの話になった。そしてそのたびに、やはり、言いようのない、やるせなさが心を押しつぶした。W小学校から、帰ってくるときも、同じだった。
「ハナなんか、保健所送りだ。動物園の動物のエサになればいい」と私。
「猟犬だから……」と、またワイフ。
何度、話しても、同じ会話になってしまう。
で、その日の午後。私とワイフが、コタツに入っていると、突然、ハトの子どもが、ピーピーと鳴いた。羽をバタつかせた。見ると、親バトが近くへ来ていた。
私は、ハナを、犬小屋の中に閉じ込めると、子バトを、そっと、庭に放してやった。子バトは、一目散に、親バトのところへ走っていった。そして抱きつくように、首を重ねると、エサをねだった。
親バトは、そのたびに、首をくねらせて、子バトに、エサを与えた。ワイフと私は、それをじっと、見守った。
私とワイフは、何も言わなかった。だまって、その親子を見守った。目頭が、ジーンと熱くなった。
(031127)
【追記】
朝、ピー子(子バト)に、エサを与えていると、ピー子が、ピーッと鳴いた。外を見ると、親バトが、そこにきていた。
私は、ハナを犬小屋に閉じ込めると、ピー子を手に載せて、外へ連れ出した。親バトは、そこにいた。
しばらくそなままにしていると、突然、ピー子が、一直線に飛びあがった。そしてそのまま近くの松の木の枝にとまった。間髪を入れず、親バトが、追いかけた。
ワイフは、「ああ、飛んだ、飛んだ!」と、子どものように、はしゃいだ。
そのあと、親バトは、子バトに、懸命に、エサを与えていた。私とワイフは、目をこらしながら、しばらくそれを見ていた。
一一月二八日の朝だった。ピー子を保護して、四日目の朝だった。おしまい!
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●老後の自分
老後は衰退期か、はたまた円熟期か。
当然、私は、「円熟期」説をとる。
問題は、その老後を円熟させるために、私はどうするか、だ。
(1) 精神面の充実……私はもともと、不和随行型のいいかげんな人間だった。相手に合わせて、カメレオンのように、自分をつくr、そんな人間だった。だから、いつか、本当の自分が、わからなくなってしまった。これでは、精神面の充実など、望むべきもない。
そこで私は、五〇歳を過ぎてから、飾らない、隠さない、本音で生きるを、モットーにしてきた。まず「私」を、そのまま、あるがままに、さらけ出してみようと思った。
しかしこれは予想していたより、たいへんなことだった。それまでの生きザマを変えるということは、並大抵の努力ではできない。さらけ出すことの抵抗よりも、さらけ出す自分に自信がもてなかった。
(2) 限界の受容……限界を認めることは、敗北だと、少し前まで、考えていた。しかしこのところ、「限界」を認めるようになった。「まだ、何とかなる」という人生観から、「まあ、こんなものだ」という人生観に転換しつつある。
したいことはあった。夢もあった。今でも、やり残したと思うことは、多い。しかし私は、それぞれの時点で、最大限、生きてきた(……と思う)。だから、「ここらあたりが、限界か」と思うようになった。
その限界を、認め、受け入れる。しかしそれは、決して、あきらめることを意味するのではない。あきらめて引きさがることを意味するのではない。自分のできることと、できないことの間に一線を引き、そのできることの範囲では、さらに最大限、生きていく。
(3) 男から人間へ、人間から人類へ……そろそろ「男である自分」から、脱皮しつつあるように思う。「男だから……」「女だから……」という考え方は、もう二〇年以上も前に、捨てた。しかし意識は、残っている。その意識と、決別しつつある。と、同時に、「人間」から「人類」へと、その視点を、飛躍させつつある。
ものの考え方を、「男」や、「人間」に限っていたのでは、その生き方にも限界が生まれる。まだその境地には達していないが、そのうち、「人類とは……」というようなものの考え方ができるようになれば、と願っている。
くだらないことだが、私は幼児教育の道に入ってからというもの、「君は男だろ」とか、「君は女の子だる」というような、言い方をしたことがない。「お兄ちゃんだから……」とか、「お姉ちゃんだから……」というような、言い方もしたことがない。そういう発想そのものがない。いわんや、「男の子らしく」とか、「女の子らしく」というような、言い方をしたことは、絶対にない。
(4) 目標を夢にかえる……老後は、まさに目標づくりの年齢ということになる。日々の目標、月々の目標、そして年単位の目標をつくる。そしてそれに向うことを生きがいにする。
この操作に失敗すれば、老後は、さみしく、みじめなものになる。だから老後を意識したら、その目標を、いかにつくるかを、考える。私のばあいは、今は、(あくまでも今は……の話だが)、「電子マガジンを、一〇〇〇号までつづける」ことが、目標になっている。そしてこれも目標のうちだが、毎号、A四サイズの用紙で、約二〇枚前後の原稿を書くようにしている。そうでないと、「一〇〇〇号」という意味がなくなってしまう。たった原稿用紙一枚のマガジンでも、一号は一号ということになってしまう。
しかしこの目標は、たいへんよかった。日々の生活に、ほどよい緊張感が生まれた。もちろんその反面、肝心の本の出版のほうは、たとえば今年は、ゼロになってしまった。どうせこういう時代だから、本は売れない。かえってよかったのではなかったかと、と思っている。
それに一言、つけ加えるなら、本を書くときも、雑誌に記事を書くときも、どこか相手に合わせてしまうようなところがある。(私は、(1)に書いたように、もともとそういう人間である。)しかしマガジンには、それがない。無料ということは、無料。好き勝手なことを書くことができる。(だからといって、いいかげんなことを書いているのではない。毎日、真剣勝負で書いている。)
以上、(1)~(4)までが、私の老人論ということになる。『みんなで目ざそう、心豊かな、円熟の老後』。どこかの団体がつくるような標語になってしまったが、今は、そう思っている。
(031128)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
子育て随筆byはやし浩司(379)
●一般保護エラー
ホームページ専用に使っている、P社製のパソコンの調子が、このところ、どうもおかしい。電源を入れると、WINDOW98のロゴが画面に出たあと、「一般保護エラー」「再起動してください」と表示される。(一般保護エラーって、何?)
そこで再起動をかけると、今度は、「セーフモード起動」となる。で、セーフモードで一度、立ちあげてから、また再起動をかけるのだが、それでも、うまくいくのは、一〇回のうち、一回ぐらいしかない。
P社の相談窓口に電話をすると、「システムの故障です。リカバリーをかけてください」とのこと。何ともトンチンカンな回答ではないか。こちらは、リカバリーをかけたくないから、相談しているのに……!
で、こうしてだまし、だまし使って、ほぼ二週間。その間、片手まに、あちこちをいじってみる。で、だんだん、原因がわかってきた!
ウィルス・スキャンに、S社製のソフト(ノーXX、何とか)を使っている。どうやら、このソフトが、いたずらをしているらしい?
私はほかのパソコンには、M社製のソフト(マカXX何とか)を使っている。S社製とM社製のソフトの大きな違いは、S社製のソフトは、コンピュータのCPU(中央演算装置)を操作しながら、ウィルスチェクをしていること。そのためUPDATEするたびに、再起動が必要となる。一方、M社製のソフトは、あくまでもソフトレベルで対応している。UPDATEしても、ほとんどのばあい、再起動までは、必要ない。
そのS社製のソフトでは、起動と同時に、初期検査をする設定になっていた。どうやらその部分が、不都合を起こしているらしい?
しかし正直に告白するが、このS社製のソフトは、最初からトラブルつづき。ここに書き出したら、キリがない。(もう二度と、S社製のソフトは、買わないぞ!)
そこで、S社製のソフトのCDを入れて、再度、上書き。そしてUPDATE。
その苦労のかいがあって、今のところ、順調に作動している。……といっても、まだ不安は不安……。ハラハラしている。
そこで今日、仕事に行く途中に、書店でガイドブックを立ち読みしてきたら、そのガイドブックには、こうあった。
「一般保護エラー……、ソフトのプログラムミスなどにより、本来なら使ってはいけないメモリー領域まで、そのソフトが入りこんだときに起こる」と。
立ち読みなので、この部分の記述は不正確。しかし、まあ、そんなところ。つまりS社製のソフトのプログラムミスが、今回のパソコンの不調の原因だったということになる。
それにしても、パソコンという機械は、本当にやっかい。こうしてパソコンの不調で起こるストレスを、「パソコン・ストレス」という。実際、パソコンの不調から受けるストレスは、相当なもの。ばあいによっては、神経がヘトヘトになる。
パソコン歴、三〇年以上という私ですらそうなのだから、一般の人をや! 故障がきっかけで、パソコンを投げ出した人は、多い。しかしこれも、過渡的な問題なのか。そんなことも、今、ふと考えた。
(031128)
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
件名:■■子育て最前線の育児論byはやし浩司■■子育ての溝
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子育て最前線の育児論by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
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【1】子育てポイント∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞upto771
●大学の独立法人化
やっとというか、日本でも大学の独立法人化が動き出した。教官の身分が保証されないという理由で、反対意見も多いが、しかしこんなことは日本以外の国では常識。
アメリカではもう三〇年も前から、大学入学後の学部変更は自由。転籍も自由。それも即日に転籍できる。で、学生たちはより高度な授業を求めて、大学の間をさまよい歩いている。そのため学科のスクラップアンドビルドは、日常茶飯事。やる気のない教官はどんどんクビになっている。学生に人気がなければ、学部すら閉鎖される。
その結果だが……。
たまたまある日、二人の学生が遊びにきた。二〇〇一年にアメリカの州立大学を卒業したA君。もう一人は一九九九年に横浜の国立大学に入学したB君。そのB君を見て、A君が驚いた。「よくアルバイトをする時間があるな」と。
アメリカの大学生にしてみれば、アルバイトなどは考えられない。実によく勉強する。毎週金曜日に試験があるということもあるが、毎晩夜遅くまで勉強しても、それでも時間が足りないそうだ。
アメリカでは、オーストラリアでもそうだが、一単位ずつお金を出して講座を買うシステムになっている。(実際にはまとめて買うが……。)そのお金は、たいてい奨学金でまかなう。だから私たちがモノを選んで買うように、彼らもまたよい講座を選んで買う。そういう意識があるから、いいかげんな講義を許さない。
私も一度、オーストラリアの大学で日本語を教えていたことがある。そのとき一人の学生が私にこう聞いた。「『は』と『が』の違いを説明してほしい」と。「私は行く」と、「私が行く」はどう違うかというのだ。
そこで私が「わからない」と答えると、その学生はこう言った。「君は、この講義でお金を受け取っているのか」と。それで私が「受け取っていない。私はボランティアだ」と言うと、「じゃあ、いい」と。だから教えるほうも必死だ。
きびしさがあってはじめて、質は高くなる。ぬるま湯につかりながら、「いい教育」はできない。できるはずもない。しかし今まで、日本の大学教育は、そのぬるま湯につかりすぎた。教授人事も、「そこに人がいるから人事が慣例化している」(東大元教授)。
そこで、改革ということになったが、それにしても遅過ぎた。今の改革が成果を生み出すのは、さらに二〇年後、三〇年後ということになる。そのころ世界はどこまで進んでいることやら。日本はどこまで遅れていることやら。考えれば考えるほど、暗澹(たん)たる気持ちになるのは私だけではあるまい。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●馬に水を飲ますことはできない
イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』というのがある。
要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されている。
大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。
認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。
つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。)
思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確ではない」(新井康允氏)ということになる。
脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。
新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。
親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。
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【2】特集∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●詳しくはわからないが……
情報が不足しているので、詳しくはわからない。しかし最近、こんな事件があった。あくまでも、新聞などで報道されている範囲で、少し、考えてみる。
ある中学校に、一人の不登校の子どもがいた。(新聞の報道によれば、そのとき、すでに、不登校を繰りかえしていたことになる。)
その不登校の子どもに、ある日、先生が、「怠け心は、だれにでもある」(記事)と、言ったという。(どういう席で、どういう形で、そう発言したかについては、不明。個人的に言ったのか、公の場所で、そう言ったのか。一対一の状態で、そう言ったのか?)
その言葉に憤慨(ふんがい)した親が、学校を訴えた。X〇万円の慰謝料を請求した。そこで当然、裁判ということになったのだろうが、教師側は、恐らく、示談で話をすませたいと思ったのだろう。ほぼ同額の示談金を用意して、親に渡した。そのお金は、教師が、自腹(ポケットマネー)を切って、用意したものだった。
が、親は、「性格のわからないお金は、受け取れない」と、それを拒否した(以上、報道記事を、要約。Y新聞、全国版・〇三年一一月末)。
その親の置かれた立場は、よくわかる。心理状態も、よくわかる。しかし私は、この記事を読んで、まず感じたことは、「そんなことで!」であった。
もっとも新聞報道だから、すべてを報道していないと思う。ほかにも、その子どもや親をキズつける言葉が、あったのかもしれない。それはわからないが、もし新聞報道のとおりだとするなら、やはり、「そんなことで!」である。
むしろ、「怠け心は、だれにである」という発言は、その子どもを守った言葉とも、受け取れる。日本でも、昔から、その人を半ばかばうような意味で、「魔がさした」という言葉を使うときがある。「あの人は、あんなことをしたが、きっと、魔がさしたのだろうね」と。
つまりそう言うことによって、「本当は、あの人は、いい人なんだよ」という気持をこめる。この事件のときも、先生には、「本当は、もう少し深刻な問題かもしれないが、軽く(怠け)としておきましょう」という気持があったのかもしれない。
もちろん不登校といっても、内情は、さまざま。「学校拒否症(school refusal)」もあれば、「怠学(truancy)」もある。私の二男も、ひどい花粉症から、毎年、その季節になると、不登校を繰りかえした。
TBSの報道※によれば、その子どもは、小学時代、小児神経症だったという。もしそうなら、この中学生は、怠学よりは、学校拒否症による不登校が疑われる。「怠学」というと、その言葉から受ける印象は暗いが、わかりやすく言えば、「ズル休み」のこと。
しかし、どうしてこの事件が、こうまで大げさになってしまったのか。しかも報道によれば、教師がお金を渡したのは、昨年(〇二年)の一二月だという。すでに一年近くもたっている!
何とも、よくわからない事件である。どうしてこうまで、こじれてしまったのだろうか。ただ心配するのは、こういう事件が重なるたびに、一方で、現場の先生たちが、ますます萎縮してしまうということ。実際、どこの学校へ行っても、「そんなことで!」と思われるような事件で、現場の先生たちが、心を痛めている。悩んでいる。苦しんでいる。そしてその分だけ、先生たちは、萎縮してしまっている。
今では、子どもの頭を、プリントで叩くことすら、許されない。軽い冗談を、口にすることすら、許されない。北海道のどこかで起きた事件だが、先生が、「死ぬつもりでがんばれ」と言ったことがある。運動会でのことだったが、この事件も、全国紙で問題にされた。「死ぬつもりとは、何だ!」と。
たしかに今の先生たちは、サラリーマン化している。(サラリーマン的であることが、悪いと言っているのではない。念のため。)しかし、もともとサラリーマンだから、しかたないではないか。
そういう先生に、高徳な道徳や正義を求めても、意味はない。中には、先生を、牧師か僧侶のように思っている人もいる。しかし先生だって、ごくふつうの人間である。あなたや、あなたの夫(妻)とは、どこもちがわない、ごくふつうの人間である。
だったら、先生を、そういう前提で考え、また教育のしくみも、それに合わせていく。今のように、教育はもちろんのこと、しつけ、道徳、倫理、はては家庭指導まで、先生に押しつけて、「何とかしろ」と迫るほうが、おかしい。
教育というのは、もともとファジー(いいかげん)なものである。ファジーであることが悪いと言っているのではない。そのファジーな部分で、子どもは、羽をのばし、自分を伸ばす。
「学校? 行きたくなければ、行かなくてもいいのよ。そのかわり、ママと、いっしょに、図書館へでも行って、本を読みましょうね」
「あんな、バカ教師、何よ。別に怠けているわけじゃ、ないわよね。気にすることはないわよ」と。
先生の一言一句で、子どもがキズつくことはある。それは認める。しかし人間というのは、そういうキズまるけになって、成長する。もちろん意図的に、生徒をキズつけるようなケースは、許されない。しかし、そうでないなら、もう少し、親のほうも、肩の力を抜いて、気を楽にしては、どうか。
「そんなことで!」と書いた、私の本音は、そんなところにある。
(031130)
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※【TBS・iニュースより】
●生徒の不登校巡り教師が母親に現金
S県I市の中学校で、不登校になっていた女子生徒の母親に対し、教師が見舞金として現金を渡していたことがわかりました。
中学校によりますと、いじめなどが原因で 不登校がつづいていた、現在、X年生の女子生徒に対し、去年まで担任だった女性教師が、「怠け心は誰にでもある」 などと発言しました。
これに生徒の母親が強く抗議し、学校側へ 慰謝料X0万円を要求。教師はポケットマネーからX0万円を用意し、校長と共に見舞金として去年12月、母親に手渡しましたが、今年に入って、母親が「意味不明の金だ」として、全額を返却したということです。
「払うことによって教育に支障がなくなれば、それはいいかなと思った」「今は、まちがったことをしたと思っている」(校長)と。
女子生徒は小学生のときから不登校気味で、小児神経症と診断され、現在も学校を休んでいるということです。
【3】心に触れる(Touch your Heart)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞691
●子育ての溝(みぞ)
子育てには、失敗は、つきもの。ほとんどの親たちは、子育てが何であるかもわからないまま、子育てを始める。あるいは無意識のうちにも、自分が受けてきた子育てを、繰りかえす。
それは人間の心に深く刻まれた、溝(みぞ)のようなもの。簡単に消すことはできない。あるいはいくら、頭の中で、「おかしい」と思っていても、ふとゆだんすると、その溝に、足をとられてしまう。
たとえば不幸にして、不幸な家庭に育った父親や、母親ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」という、気負いばかりが先行して、子育てで失敗しやすい。ギクシャクする。溝が、でこぼこであったり、あるいは本来あるべき方向に、溝が刻まれていないためだ。
だから問題は、そういう溝があることではなく、溝のあることに気づかないまま、その溝に足をとられて、いつも同じ失敗を繰りかえすこと。よく知られた例は、自分自身が親に暴力を振るわれた人は、(あるいは親の暴力を日常的に見てきた人は)、自分が親になったとき、その子どもに対して、暴力を、振るいやすい。
こういう形で、子育ては、親から子へと、伝播(でんぱ)する。もっとはっきり言えば、子育ては、頭でするものではなく、無意識のうちに、溝に従ってするもの。だからたいていの親たちは、こう言う。「頭の中では、わかっているのですが、いざ、その場になると、どうしても、できません」と。
そこで問題は、どうやって、その心の溝に気づくか、である。方法が、ないわけではない。
まず、あなた自身の過去を、静かに、振りかえってみる。そのとき、あなたの両親は、あなたに対して、どういう親であったかを、あれこれ思い出してみる。
●あなたに対して、権威主義的ではなかったか……親意識が強く、いつも親風を吹かしてはいなかったか。
●あなたを溺愛してはいなかったか……やることが、ふつうの親とは、ちがってはいなかったか。
●あなたに対して、過干渉や過関心ではなかったか……あなたはその反面、親の前で、仮面をかぶってはいなかったか。
●家庭は平和で、のどかだったか……あなたは親の、やさしい愛情に包まれていたか。何一つ、不自由なく育ったか。
●あなたは幼児期から、少年少女期にかけて、幸福だったか……心豊かで、楽しい思い出がたくさんあるか。
●今の、この時点において、あなたと両親の関係は、良好か……あなたはあなたの親と、良好な人間関係を築いているか。
こうした問題を、一つずつ、自分の心に問いかけてみる。そしてそのとき、全体から浮かびあがってくるあなた自身の親像が、一定の輪郭(りんかく)をもっていれば、それでよし。そうでなく、どこかにゆがみを感ずるようなら、今度は、今の、あなた自身の、子育て観を疑ってみる。
私は、たまたま幼児教育に接していたこともあって、いつごろからか、生徒である幼児を見ながら、自分さがしを、始めた。
たとえば私は、「お前は愛想がいい」と、人によく言われた。が、私自身は、つまり本当の私は、人との接触が苦手だった。相手にへつらいながら、自分をごまかしてしまう。だから、人と会うと、すぐ疲れてしまう。それだけではないが、そこで、そういう自分を追求していくと、最終的には、自分自身の、不幸な幼児期にたどりつくことができた。
私は結婚してからも、妻にさえ、心を開かなかった。子どもが生まれてからも、子どもにさえ、心を開かなかった。子どもが、「パパ!」と叫んで、走りよってきたときも、すなおにそれを喜ぶ前に、「何か、ほしいから、そうしているのだ」と思ったりした。
私は、暖かい家庭に、飢えていた。父親と、母親が、仲むつまじく語りあい、励ましあい、教えあい、助けあう。その間に子どもがいて、家族が、笑いあう……。そんな家庭がほしかった。言いかえると、私には、そういう家庭がなかった。
あとになって、そのことを、父や母に話すと、とくに母は、「お前を産んでやったではないか」「育ててもらって、何てことを言う!」と言い、私を叱った。つまり、「それでじゅうぶんではないか」と。
だからといって、父や母を責めているのではない。当時は、日本中が、そういう時代だった。親たちにしても、毎日、食べていくだけで、精一杯。家庭教育の「カ」の字もない時代だった。私はまさに、戦後直後生まれの、団塊の世代である。
だから私にしても、子育ては、失敗の連続だった。おかしな男尊女卑思想、権威主義、仕事第一主義などなど。戦前の、というより、江戸時代そのままの封建意識すら、もっていた。結婚したころは、ワイフに、こんな暴言を吐いたこともある。「お前は、だれのおかげで、メシを食っていかれると思っているのか! それがわかっているのか!」と。
よきにつけ、悪しきにつけ、こうした溝は、だれにでもある。そしてその溝にはまりながら、それが私と思いこんで、子育てをする。そこで大切なことは、よい溝であれば問題はないが、悪い溝であれば、まず、それに気づくこと。気づけばよい。気づけば、あとは、時間が解決してくれる。
繰りかえすが、まずいのは、それに気づかないまま、その溝に、振りまわされること。そして同じ失敗を、繰りかえすこと。
(031129)
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【4】フォーラム∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
●結婚式
甥(おい)の結婚式に出る。ワイフと二人で、出る。感動的な結婚式だった。
式は、別の会館で。披露宴は、市内のホテルで行った。義兄や義姉の、涙でくしゃくしゃになった顔を見たとき、「ああ、これが結婚式なんだなア」と思った。
ただ、私やワイフは、新郎新婦からみれば、いわゆる伯父、伯母になる。世代的には、たった一世代しかちがわないが、今の若い人たちとの間には、大きな距離を感ずる。そこで私は、こう考えた。
式は、両方の家から、親類縁者が集まってする。それでよい。しかし披露宴は、若い人たちに任せて、私たちのようなジジ・ババは、遠慮する。そのほうがよいのではないか、と。
というのも、今の結婚式は、どこかギャク化している。バラエティ番組が、そのまま式場にやってきたという感じすら、する。それが悪いというのではない。若い人たちが、それで楽しいというのなら、それでよい。しかし、こうしたやり方は、私たちの年代には、あまり合わない。合わないというより、どこかで大きな違和感を覚えてしまう。
若い人たちがはしゃいでいるのを、見たりすると、それを楽しむ前に、楽しんでいるフリをしなければならないという重圧感ばかりが、心にのしかかる。(まさか、シラけて見ているわけにも、いかないし……。)
だからやはり、披露宴は、若い人たちだけで、したほうがよい。またそのほうが、若い人たちも、心置きなく、楽しむことができる。
いくつか、気がついた点がある。
(1) 新郎新婦の紹介では、学歴を披露するのは、もうやめよう。
(2) 席順は、アイウエオ順にして、エライ人が上座で、そうでない人が下座というような席順は、もうやめよう。
(3) 何かにつけて、男女を差別する風習が残っているが、男女を差別する風習(言い方、祝辞など)は、もうやめよう。(たとえば「(妻は家庭で)、夫を助ける」「夫の仕事を支える」などというような言い方。)
(4) 引き出物という、みやげを、帰りに渡すのは、もうやめよう。
(5) 服装を、もっと自由にしよう。男は、黒の礼服、女は、留袖と、決めてかかるのは、おかしいのではないかと思う。(これについては、結論は、まだ出ていない。)
(6) 「両家」という言い方ではなく、「両人」という言い方を主体にして、あくまでも新郎新婦の祝宴パーティということにしよう。
(7) それからここにも書いたように、式は、親族が集まってするとしても、披露宴は、新郎新婦を中心とした、若い人たちだけに、任そう。そのほうが、費用も安くあがる。豪華な結婚式は、それなりに豪華だが、しかし今のように、あそこまで豪華にする必要は、ないのでは……?
いらぬ、お節介かもしれないが、あくまでも、参考意見として、結婚式について、書いてみた。日本を変えていくためには、こうした点からも、少しずつ、改めていかねばならない。そして……。世界からみて、日本を、もう少し、常識的な国、わかりやすい国にしよう!
(031129)
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●私のバカ論
「バカなことをする人を、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」(映画『フォレスト・ガンプ』)と。
そのバカの中でも、最近のバカは、だれか?
先日の衆議院議員選挙で、私の地元の、KG氏が落選した。H新党の前代表である。私の自宅から、歩いて数分のところに、彼の選挙本部があった。
が、その翌日。KG氏の秘書が、逮捕された。新聞報道によれば、KG氏の秘書は、在日外国人らを使って、相手側候補を誹謗(ひぼう)するチラシを、各家庭に配ったという。
秘書は、『「劣勢を挽回(ばんかい)するためにやった」「外国人なら、バレないだろうと思った」などと言った』と、報道されている。(まだ起訴された段階なので、真偽のほどは、わからない。)
KG氏といえば、元中央官僚。もともとは自民党員だったが、H党を新しく作るために、自民党を脱党した。そして昨年(〇二年の終わり)、H党から、H新党に名前を変えるとき、そのまま、そのH新党の代表になった。
私はともかくも、ワイフは、最初から、このKG氏を嫌っていた。「何となく、うさん臭そうな顔をしている」というのが、その理由だった。「どこが?」と聞くと、「ほら、あの北海道の鈴木M※と、顔が似てるでしょ」と。ナルホド!
私のワイフは、選挙では、候補者を、その雰囲気で選ぶらしい。それはさておき、もし新聞報道のとおりだとするなら、KG氏は、バカだ。(秘書が勝手にやったという、言い逃れは、もうできないぞ!)
最高の頭脳と、最高の権力と、最高の名誉を手中にしながら、何たるザマ! やることが、ミミッチイ。姑息(こそく)。秘書が有罪に決まれば、連座制とかで、KG氏は、今後五年間、政治活動ができなくなるという。
しかし私は、この事件を聞いたとき、別のことを考えていた。「権力というのは、かくも、人を狂わすものなのか」と。H新党は、政権与党の一角に、しっかりと食い込んでいた。大臣も、出していた。そのH新党の代表だったから、日本の総理大臣とも、直接、電話で話すこともできたはず。
しかしここで考えなくてはいけないことは、KG氏に、それだけの自覚があったかということ。「日本を代表する」とか、「日本を背負う」とか、そういう自覚である。
およばずながら、私には、ある。まったく、権力とは無縁の世界にいる私だが、その私にすら、ある。ときどきワイフは、私にこう言う。「あんた、ひとりで、日本を背負っているみたい。バカみたい!」と。
そう、バカみたい。「みたい」ではなく、私は本物のバカ。自分でも、それがわかっている。だれも、私のような人間など、相手にしていない。いくら吼(ほ)えても、世間は、ビクともしない。しかし私は、ひとりで、吼えまくっている。
だからといって、私が高潔であると言っているのではない。もし政治家になれば、私は、ワイロを、バンバンともらうだろう。断る勇気は、ない。だから、私は、政治家にはならない。……なれない。
ところで人間というのは、自分がもつ醜さと、同じ醜さをもっている人間を嫌うらしい。たとえば私は、あの鈴木M氏が、大嫌い。最初から、大嫌い。で、あるとき、考えてみた。「どうして、私は、鈴木M氏を、こうまで毛嫌いするのか?」と。
やがてその理由が、わかった。あの鈴木M氏は、私に似ている。どこか似ている。だからまた別の日、私はこう思った。「もし、私が政治家になったら、あの鈴木M氏と、そっくり同じことをしているだろうな」と。
しかし私は、KG氏は、嫌いではなかった。いつか、KG氏に、いつか、一票を入れたこともある。今回、選挙で落選したが、それほど、悪い人だとは思っていなかった。たまたま選挙の前夜、M町のレストランで食事をしていたら、そこへKG氏の選挙カーがやってきた。私は、しばし、KG氏の生の声を聞きながら、「KG氏に、入れてもいいな」と考えていたくらいである。
しかし、それにしても、バカなことをしたものだ。もしKG氏の指示で、秘書が動いていたとしたら、さらにバカなことをしたものだ。正々堂々と、政策論議でもするならまだしも、誹謗するチラシを配るとは!
KG氏は、実にバカげたことで、それまでの名誉や地位を、棒に振ってしまった! このあたりの人の話では、「KGは、もうだめだ」という雰囲気に、なりつつある。支持者の信頼を裏切った罪は、大きい。
たまたま今、「バカ」という言葉が、マスコミをにぎわせているので、私も、まねして、バカ論を書いてみた。
(031129)
※鈴木M……現在、製材会社「YR」(北海道帯広市)からのあっせん収賄、「SD建設」(網走市)からの受託収賄で起訴されている。偽証罪での国会議員の起訴は、一九九五年のYG元労相についで、鈴木M氏が、二人目。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●女性の激ヤセについて
これは「男」の意見。私も、長年、「男」をしてきた。そういう「男」の意見。
最近、街角でも、よく見かけるのは、若いが、ぞっとするほど(失礼!)、激ヤセした女性。健康的に、つまり体をきたえ、筋肉をひきしめて細くなったのならまだしも、明らかに無理なダイエットで細くなったような感じ。ところどころ、筋肉のかたまりを残したまま、そのほかの部分で、肉が、げっそりと落ちている。
「男」というのは、「女」のどこに、セックスアピールを感ずるかといえば、それは、どこかムチッとした、健康的な美しさである。太っているから悪いということではない。「太った女性、大好き」という「男」も、かなりの割合でいる。
ただ、無理なダイエットで、不自然な細くなったような女性は、美しさを感ずる前に、痛々しく思ってしまう。たいていこのタイプの女性は、肌もカサカサ(ガサガサ)していて、中には、二〇歳代の半ば前なのに、四〇歳くらいの女性の肌を思わせるような人もいる。
もっとも本人がそれでハッピーなら、それでよい。しかしその「男」の立場で、一言。
「細い女性ほど、男にもてる」「細い体ほど、男には魅力的」と考えるのは、とんでもない誤解。まったくの誤解。少なくとも、私は、そうは思っていない。これは「男」もそうなのだろうが、本物のセックスアピールというのは、外に向って、光り輝くように、体のシンから、わき出てくるもの。
きびしいことを書いたが、そのために、つまり、若い女性たちは、その真の美しさを得るために、運動をしたらよい。ジョギングでも、ランニングでもよい。水泳でもテニスでもよい。サイクリングは、さらによい。この時期に無理なダイエットをすれば、その影響は、つぎに、出産のときに、現れる。さらに中年から老年にかけて、現れる。
この先は、私は専門家ではないので、何とも書きようがないが、繰りかえす。「若い女性たちよ、無理なダイエットはやめなさい!」と。
このことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。「どうしてあなたが、そんなことを心配するの? あなたの好みを、他人に押しつけてはいけないわ」と。
じゃあ、書いてやる。私の好みは、どこか理知的で、どこかもの静かで、どこかむっちりとした白い肌で、胸の大きさは、ふつうで、腰がくびれた女性。
私はメガネ族だから、おかしなことに、メガネをかけた女性のほうが、親しみを覚える。そのことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「あら、それって、私のこと?」と。
バカめ。一つ言い忘れた。年齢は、X五歳前後まで。五X歳のワイフは、対象外!
(031130)
【追記】サルは、お尻が赤くて、しわクチャになっているメスほど、オスにもてるそうだ。「ああ、サルでなくてよかった」と、今、思った。いくら何でも、しわクチャのお尻の女性だけは、XXX。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●山荘にて
今日の空は、幻想的。厚い雲が、ボコボコと空を隠し、その間を、幾筋もの細い雲が、横切っている。が、それでいて暗くはない。雲の切れ間から、白い光線が地上にもれ、ところどころで、薄い赤味をおびた、無数の光の束をつくっている。小さいが、しかしコバルトブルー色の、澄んだ空さえ見える。
風はない。どんよりと湿った空気が、山の景色を上から、押さえつけている。紅葉した山々の木も、そのため、どこか沈んでいる。いつかだれかが、こういう景色を見て、「山の葬式」と呼んだ。だれが死んだのだろう。だれが死ぬのだろう。
たった今、木を切ってきたところ。裏の空き地にあった木だが、いつの間にか、その空き地全体をおおうようになった。そばまでいってみると、どの木も、直径が、一五センチほどになっていた。一本切るたびに、上半身から力が抜け、それにかわって、どっと汗が出た。
全部で、一〇本ほど、切っただろうか。途中でワイフがやってきて、切った枝のあと片づけを手伝ってくれた。こういう仕事は、ここでは、私の役目ということになっている。で、おかしなことに、切った枝は、山のようになっているのに、それほどあたりが明るくなったとは、思えない。山の木というのは、そういうものか。
部屋にもどって、ミカンを口に入れる。そこへ、ワイフがやってきて、「風呂がわいたわよ」と。私は再び、空の雲を見る。先ほどよりも、さらに明るくなったようだ。今朝まで、ワイフは、「台風がこちらに向かっているみたい」と言っていた。が、どうやら台風は、日本をそれたようだ。
それにしても、けだるい午後だ。そう言えば、今日は、昼寝をしていない。横になろうか、どうしようか。横になれば、このまま一、二時間は、眠ってしまうかもしれない。私は、ふと、今朝、見た夢を思い出した。
私は、そのとき、見知らぬ通りを歩いていた。金沢の石川門の前だったような気もするが、そうでないような気もする。しばらく歩いていくと、小さな小川にかかる、橋があった。はね橋のような小さな橋で、私は、そこに止まった。
あたりには、だれもいない。人の気配はするが、人は、見えない。近くに、いくつかの家があって、窓もある。その窓の向こうから、だれかが私を見ているようだが、その人までは、見えない。あまりよい気分ではない。
……たったこれだけの夢、というより、覚えているのは、これだけ。ほかにも何かを見たようだが、どうしても、思い出せない。
しかし、この夢は、何を意味するのか。対人恐怖症? 回避性障害? それとも自意識過剰? 私は日常の生活の中では、だれにどう思われようと、ほとんど、気にしない。他人の目は、ほとんど、気にしない。なのに、どうしてこんな夢を見るのか?
対人恐怖症とか、回避性障害とかとは違って、私のばあい、人に会うのが、めんどうなだけ。よく気を使う。使う分だけ、疲れやすい。そういう意味では、仮面型人間かもしれない。少なくとも、若いころの私は、そうだった。
ワイフは、勝手にひとりで、風呂に入ったようだ。お湯を流す音が、聞こえてくる。しかしこうして、ぼんやりとできる時間が、このところ、たいへん貴重になってきた。が、それで頭の中がすっきりとするわけではない。
こうして窓の外の、どこか憂うつな景色を見ていると、つぎからつぎへと、新しい考えが、頭の中に浮かんでくる。それはモヤモヤした煙のようなものだ。放っておくと、やがて頭の中に充満し、重苦しくなる。
このモヤモヤを消す方法は、ただ一つ。それを文章にして、外にたたき出すことだ。そう、今、決めた。風呂をあびてから、また原稿を書く。このモヤモヤを、たたき出してやる!
では、山荘からのレポートは、ここまで!
(031130)
【追記】
何とも、はっきりしない、原稿のしめくくり方で、ごめんなさい。山荘で、とった写真をHTML版のほうに、載せておきます。今年の秋(紅葉)は、例年より、かなり遅い感じがします。
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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