*The Child is Father of the Man
●The Child is Father of the Man
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My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :So was it when my life began,So is it now I am a man,So be it when I shall grow oldOr let me die !The Child is Father of the Man :And I could wish my days to beBound each to each by natural piety.
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●子どもは、人の父
イギリスの詩人ワーズワース(1770~1850)は、次のように歌っている。
空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
子どもは人の父。
自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
そうであることを、私は願う。
訳は私がつけたが、問題は、「子どもは人の父」という部分の訳である。原文では、「The Child is Father of the Man. 」となっている。
この中の「Man」の訳に、私は悩んだ。
ここではほかの訳者と同じように「人」と訳したが、どうもニュアンスが合わない。詩の流れからすると、「その人の人格」ということか。つまり私は、「その人の人格は、子ども時代に形成される」と解釈したが、これには二つの意味が含まれる。
一つは、その人の人格は子ども時代に形成されるから注意せよという意味。もう一つは、人はいくらおとなになっても、その心は結局は、子ども時代に戻るという意味。
誤解があるといけないので、はっきりと言っておくが、子どもは確かに未経験で未熟だが、決して、幼稚ではない。子どもの世界は、おとなが考えているより、はるかに広く、純粋で、豊かである。しかも美しい。
人はおとなになるにつれて、それを忘れ、そして醜くなっていく。知識や経験という雑音の中で、俗化し、自分を見失っていく。私を幼児教育のとりこにした事件に、こんな事件がある。
ある日、園児に絵をかかせていたときのことである。一人の子ども(年中男児)が、とてもていねいに絵をかいてくれた。そこで私は、その絵に大きな花丸をかき、その横に、「ごくろうさん」と書き添えた。
が、何を思ったか、その子どもはそれを見て、クックッと泣き始めたのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。そこで「どうして泣くのかな?」と聞きなおすと、その子どもは涙をふきながら、こう話してくれた。「ぼく、ごくろうっていう名前じゃ、ない。たくろう、ってんだ」と。
もし人が子ども時代の心を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。もし人が子ども時代の笑いや涙を忘れたら、それこそ、その人の人生は闇だと、私は思う。ワーズワースは子どものころ、空にかかる虹を見て感動した。そしてその同じ虹を見て、子どものころの感動が胸に再びわきおこってくるのを感じた。そこでこう言った。
「子どもは人の父」と。
私はこの一言に、ワーズワースの、そして幼児教育の心のすべてが、凝縮されているように思う。
(040220)
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