Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 17, 2008

*Educational Faith

●学歴信仰は、迷信?(有M文部大臣への反論) 大学の教授は、高校の先生より、エライ。
高校の先生は、中学の先生より、エライ。中学の先生は、小学校の先生より、エライ。
小学校の先生は、幼稚園の先生より、エライ。少なくとも、大学の教授は、幼稚園の先生より、エライ。
誰しも、心の中でそう思っている。こういうのを学歴信仰という。
 家計がひっくり返っても、親は爪に灯をともしながら、
息子のために学費を送り続ける。が、肝心の息子様はそんな親の苦労など、どこ吹く風。
少しでも仕送りが遅れたりすると、ヤンヤの催促。それでも親は、「大学だけは出てもらいたい」と思う。
そしてそれが「親の務めだ」と思う。こういうのを学歴信仰という。
 浜松にもA高校からD高校まで、ランクがある。
やっとの思いでD高校へ入れそうになると、親は「C高校を」と希望する。そしてC高校が合格圏
に入ってくると、今度は「A高校。それが無理なら、何とかB高校を……」と希望する。親の希望には
際限がないが、そういう思いが、誰にでもある。こういうのを学歴信仰という。
 新聞記事だけなので、有M文部大臣の発言の真意は
わからないが、文部大臣が、母校のA高校へ来て、「学歴信仰があるというのは迷信」と
述べたとか(99年2月)。つまり「日本には学歴信仰はない」と。東大の総長という学歴の頂点に
立ったような人が、しかもその信仰の総本山の、そのまた法主の立場にある有M文部大臣が、
そういう発言をするところに、日本のこっけいさがある。学歴信仰がなかったら、誰も、
受験勉強などしない。誰も自分の息子を塾や予備校に通わせない。もし本当にないのなら、
成績に関係なく、東大の学生を入学させたらいい。あるいは文部省は、学歴に関係なく、役人を雇ったらいい。
 学歴のある人には、学歴は不要だ。しかし学歴のない人は、
それを死ぬほどほしがる。お金と同じだ。金持ちが、いくら「お金では幸福は買えません」と
言ったところで、その日のお金に困っている庶民には、説得力はない。私もある時期、
自分の学歴にしがみついて生きていた。特にこの教育の世界ではそうで、もし私に学歴がなかったら、
私の教育論になど、誰も耳を傾けてくれなかっただろう。反対に肩書きや地位がないため、
いかに辛酸をなめさせられたことか。
 話は変わるが、ニュージーランドのある小学校では、
その年から手話を教えるようになったと言う。教室の壁には、手話の仕方が描いた絵が、
ペタペタとはってあった(テレビ番組より)。理由は、その年から、聴力のない子どもが入学してきたからだという。
こういう姿勢、つまりその子どもに合わせて、学校が自由にカリキュラムを組むという姿勢の中に、
私は学校の本来、あるべき姿を見た。

反対にもし日本の小学校で、こういう身体に障害のある子どもが
入学してきたら、教師や父母は、どのように反応するだろうか。
さまざまな問題が起きるであろうし、その起きる背景に、
学歴信仰がある。天下の文部大臣にさからって恐縮だが、
文部大臣ももう少し庶民の側におりて、ものを考えてほしいと
思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いた時点(01年)と今では、
障害児に対する考え方が、大きく変わってきた。
15年ほど前のことだが、ある小学校(静岡県)で、
1人の身体に障害のある子どもを入学させようとしたことがある。
そのとき、「そういう子どもが入ってくると、
子どもたちの勉強の進度にさしさわりが出る」と、
反対運動を起こした親たちがいた。テレビなどでも、
報道されたので、覚えている人も多いと思う。

 たった15年前には、日本はまだそういう国だった。
が、今、そんな反対運動をすれば、反対に、その親たちが
袋叩きにあうだろう。日本の教育というより、
親たちの意識が、たしかに今、変わりつつある。
(はやし浩司 学歴信仰 学校神話 受験カルト)