Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 17, 2008

*Easy Education & Decline of Learning Ability of Children

●ゆとり教育

産経新聞(2月17日)は、「未来像…学力低下はさらに進む!!」と題して、つぎのように伝える。

『昨年12月下旬、福島県相馬市から県立S高校の2年生14人が、元文部大臣の有M朗人氏(77)を東京に訪ねてやってきた。 生徒たちは研究発表の資料を携えていた。「学力低下の要因の1つは『ゆとり教育』」「授業で習うことが社会で役に立たないから、学習意欲・関心が低下している」「教員の質も問題だ」…。資料には有M氏を詰問するかのような学力低下の“分析結果”が並んでいた』。

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私が過去に書いてきた原稿を集めて
みた。

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【日本の教育】

●英語教育

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外国人の客が、私の家にいるときは、
みな、英語で話すようにしている。

ワイフも、カタコト英語だが、懸命に
英語で話す。

それは客に不安感を与えないための、
最低限のマナーではないのか。

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●英語教育に「待った!」をかけた、文科相

 I文科相は、こう言った。「私は、(小学校での英語教育を)必修化する必要は、まったくないと思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と。

 こういうのを、パラドックスという。わかるかな?

 『張り紙を刷るな』という張り紙を張る。
 『私は逆らっていない』と言って、相手に逆らう。

 『美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ』と言って、きたない日本語を話す。

 「外国の言葉をやったってダメ」? ……美しい日本語では、「外国の言葉を学んでも、意味がありません」という。

 もう10数年も前から、同じような論理で、小学校での英語教育に反対している教授がいる。しかし今どき、「英語教育が必要ない」なんて……!!

●予定では…… 

中央教育審議会の外国語専門部会は、2006年3月、「小学5年生から、週1時間程度、英語教育を必修化する必要がある」という提言をまとめた。が、それに「待った」をかけたのが、ほかならぬ、I文科相だった。それが冒頭に書いた言葉である。

「やったって、ダメ」と。

 そこで各小学校では、総合学習の時間を利用して、英語教育というよりは、英語活動をするようになった。英語でゲームをしたり、リズム運動をしたりしている。結果、文科省の調べによれば、公立小学校の93・6%が、何らかの(英語の活動)を、授業の中に取り入れている。

 しかし現実には、過半数の学校では、月1回か、それ以下だという(以上、「朝日キーワード」2007)。

●現実はどうか?

 日本が国際社会で勝ち抜き、生き残るためには、国際語としての英語教育は、MUST! 数年前に書いた原稿を、そのままここに転載する。

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●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2002年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ2を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、一六五か国中一五〇位・九九年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、1つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(2002年時)。

ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小1)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んでいる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに10年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。

メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、一科目選択できるようになっている。もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もある。

芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減しているという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、これからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。

つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目標だ」と。事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の席)と。

オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。

もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。

「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第3回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる気をなくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育まで押しつけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。

「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もいた。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない(バンクーバー市)。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとしばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかについては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れてはいけない。

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 「英語を学んだから、日本語がおろそかになる」というのは、根拠のない、まったくのデマ。ウソ。たしかに乳幼児期に、バイリンガルの環境で子どもを育てると、言語中枢そのものの発達に、支障をきたすという報告は、しばしば耳にしている。しかし満5、6歳以上の子どもには、そうした影響はない。むしろこの時期のほうが、発音にせよ、感覚的に言語をとらえるため、すなおに身につけてくれる。

 さらに言えば、「美しい日本語」というのは、母親の会話能力によって決まる。母親が、子どもに向って、「テメエ、殺すぞ!」(実際、ある人がコンビニで耳にした会話)というような言い方をしていて、どうして子どもが美しい日本語を話すようになるというのか。

 文章能力(=作文力)にいたっては、英語を学ぶことによって、よい刺激を受けることはあっても、それで文章がへたになるということは、ない。

 I文科相の発言を聞いていると、「日本もこの程度」と思うと同時に、「日本も、ここまでだな」と思う。

 ちなみに、現在、アジアの経済の中心地は、東京から、シンガポールに移動している。アメリカでも、日本の経済ニュースですら、シンガポール発で、配信されている。

 ついでに日本の子どもたちの学力について。5年前に書いた原稿だが、その後、日本の子どもたちの学力が、よりさがったという話は聞くが、あがったという話は、聞いていない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
英語教育 日本の英語教育)

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【公立小中学校・放課後補習について】

 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度から導入する方針をかためた(〇二年八月)。

 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環で、全国でモデル校二〇〇~三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指導を行う」(読売新聞)という。「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつませる一石二鳥の効果をめざす」とも。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくするのがねらいだという。具体的には、つぎのようにするという。

 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、(1)授業の理解が遅れている児童、生徒に対する補習を行う、(2)逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々の学力に応じて指導するという。

 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗する。理由は、現場の教師なら、だれしも知っている。順に考えてみよう。

第一、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、昔から「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに残り勉強を課するが、子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強をします」と告げただけで泣き出す子どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、なおさらである。残り勉強が、子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためである。

第二、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間で、パニックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」と。あるいはかえって受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度の中で、「優秀」というのは、「受験勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという問題が、同時に起きてくる。

 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりかえないでほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」なのだ。どうしてそういうウソをつく! 新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減された。わかりやすく言えば、今まで小学四年で学んでいたことを、小学六年で学ぶことになる。

しかし一方、私立の小中学校は、従来どおりのカリキュラムで授業を進めている。不利か不利でないかということになれば、公立小中学校の児童、生徒は、決定的に不利である。だから親たちは心配しているのだ。

 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 「東京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限りいませんよ」と。こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の改革(?)に不信感をいだき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単なことが、わからない!

 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆる天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁の中でもダントツに多い。文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩くことによって、死ぬまで優雅な生活を送れる。……送っている。そういう特権階級を一方で温存しながら、「ゆとり学習」など考えるほうがおかしい。

この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかというところにメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。ああ、私だって、この年齢になってはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死ぬまで就職先と、年金が保証されている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやというほど、思い知らされている。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。その教育改革にしても、ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は自由選択制の単位制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体にカリキュラム、指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(アメリカ)。いくらでも見習うべき見本はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。しかし検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入学後の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。学科はもちろんのこと、学部のスクラップアンドビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。なのになぜ日本の文部科学省は、そうした自由化には背を向け、自由化をかくも恐れるのか? あるいは自分たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいのか?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」というよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに日本の教育はにっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校の話ではない。大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。その文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教育学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。いわんや私立大学の学生をや! そういう学生が、小中学校で補習授業とは!

 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れた。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこまで進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはない」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。私はその改革について、つぎのように提案する。

(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平である。この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することになる。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改革」と言うにふさわしい。ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカでは、すでに教師のインターン制度を導入して、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。オーストラリアでは、父母の教育補助制度を導入して、二〇年以上になる(南オーストラリア州ほか)。

大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもしれないが、こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言うような改革ではない。で、ここにあげた(1)~(8)の改革案にしても、日本人にはまだ夢のような話かもしれないが、こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日はない。日本に明日はない。なぜなら日本の将来をつくるのは、今の子どもたちだからである。
(02-8-28)※
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(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようがない。同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。

反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、もはや幻想でしかない。

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(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったという。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。
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