*Jury System of Japan which starts on May 2009
●裁判員制度(Juryman System of Japan)
+++++++++++++++
2009年5月から、日本でも
裁判員制度が始まる。
裁判員に選ばれると、裁判官と
いっしょに法廷に立ち合い、
量刑まで決定しなければならなく
なる。
裁判員は、抽選で選ばれる。
対象となる事件は、「殺人のほか、
強盗致死傷、傷害致死、危険運転致死、
放火、誘拐など」となっている。
民事事件については、適応されない。
で、制度が開始されると、
有識者(市民)の裁判員6人と、
プロの裁判官3人で、事件に関する、
証拠調べなどを行うことになる。
証人や被疑者への直接的な
質問もできるという。
陪審員制度については、アメリカ映画
などで、すでに馴染み深いが、
しかしそうはうまくいくものか?
あるいは、そのメリット、デメリットは
何か?
++++++++++++++++
欧米、とくにアメリカやオーストラリアのような移民国家では、「民が犯罪者を裁く」という意識が、その根底にある。それをコントロールするのが、「国」であり、「法律」ということになる。(ただしオーストラリアでは、大英帝国時代の裁判制度が、そのまま踏襲されている。)
一方、この日本は、奈良時代の昔から、中央官僚制度。「国が犯罪者を裁く」という意識が、その根底にある。「(無知で無学な)民は、国のすることに、口を出すな」という意識も、根強く残っている。
同じ裁判員制度(陪審員制度)といっても、そこに向かう出発点が、まったく逆なのである。
そこで賛否両論が、巻き起こっている。
これは私が法学部の学生だったころからよく言われてきたことだが、法律家というのは、えてして、法律バカになりやすい。法律のことは熟知しているが、そのため、世俗的な常識から遊離しやすい。とくに裁判官のように、(世間)と直接的な接点をもたない法律家はそうである。
それではいけないということで、そのあと、いろいろな改革がなされてはきている。きてはいるが、じゅうぶんではない……ということで、今度の「裁判員制度」が生まれた。
表向きは、「市民の社会常識を刑事裁判に反映し、(裁判を)、身近でよりわかりやすいものにする」(内閣府)ということになっている。
一般論から言えば、法律の専門家ほど、この制度に疑問を感じている。一方、選ばれる市民にしても、これはえらい迷惑(?)。いろいろな模擬裁判があちこちでなされているが、評判は、たいへん悪い。アメリカの陪審員制度では、有罪か無罪かを決めるだけだが、日本の裁判員制度では、量刑、つまり刑の内容まで決めなければならない。
(責任、重大だぞ!)
しかし動き出した以上、やるしかない。これから先、いろいろな試行錯誤はあるだろう。しかしその一方で、日本人ほど、法に無知な国民も、そうはいない。こうした制度が、日本人の民主主義意識を高揚させる起爆剤となれば、それはそれで、すばらしい。
「法律は、私たちが作る」「私たちが法律を守る」と、そんな意識が、日本人の中にも芽生えてくれば、こんなすばらしいことはない。
すこし前、京都で教壇に立っている先生から、こんなメールが届いた。掲載許可をもらったので、そのまま紹介させてもらう。
+++++++++++++++++
京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。
「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。
++++++++++++++++++++
●はやし先生へ
先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。
大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。
詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、
(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。
(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、
(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。
大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。
そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。
「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。
かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。
基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。
いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。
素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。
++++++++++++++++++++++
【SE様へ】
実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私もそうだったのかなあ?」と、当時を思い出しています。
とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、そもそも独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そんな話ばかりでしたから……。
ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。
しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と言われてしました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をしていました。
たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法学への興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。
もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ入っただけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったというわけです。
そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまったく、タイプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、「私はとても、M教授のようには、なれない」と実感しました。
で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話をT先生にすると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていました。学部はちがっても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。
話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした傾向というのは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。
たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の80~90%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学していきます。夢や目標は、とうの昔に捨てているわけです。
もちろん希望も、ない。
だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりたいという学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純粋法学をめざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。
このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。
つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私のばあいは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、外国へ出るというだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いますが……。)
そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番目。行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよかったから、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインドの国費留学生試験にも合格しました。
(結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)
まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活躍をした時代だったと思います。
が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になりたかった。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですから、役割混乱もいいところです。もうメチャメチャでした。
ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、(1)のタイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、まったくなかったと思います。
私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、結論(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知のように、勝手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)
テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい世界だったんだなあ」と感心しているほどです。)
ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふつうだったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく覚えているのは、こんな質問があったことです。
「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振ってもよいそうだが、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。
そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。ハハハと笑っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。
また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学の話などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公害」とか、そんな話ばかりしていたような気がします。
日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、自分で勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たちから講義を受けていました。
自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。
以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生は、つぎのように書いています。
「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。
つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、複々線化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できないのでしょうか。
このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の教育には、明日はないということではないでしょうか。
返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、お許しください。
今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。そのあと、昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけでも、たいへんです。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。
Hiroshi Hayashi++++++++Feb 08++++++++++はやし浩司
●行列のできる法律S談所
+++++++++++++++++++
ただし一言。
法律は、あくまでも紛争解決の手段として
用いられるもの。
「はじめに法律ありき……」という
発想は、そもそも、法の精神に反する。
よい例が、あの『行列のできる法律S所』
というテレビ番組。
で、改めて、考えてみる。
法律が先か、それとも法律はあとか、と。
法律が先に立つ世界は、まさに闇。
『行列のできる法律S談所』という
番組には、そんな基本的な認識すら
ないのでは?
+++++++++++++++++++
ときどき、『行列のできる法律S談所』という番組を見る。が、あの番組を見るたびに、「?」と思ってしまう。法律の基本そのものが、わかっていない(?)。
昨夜(3・5)の番組では、こんなテーマが取りあげられていた。
結婚前は美しい女性だった。が、結婚後、ガラリと妻の様子が変わった。化粧はせず、だらしない生活。夫の返事にも、おならで答えるという。しかも新婚1月後で、である。こういう妻のばあい、離婚はできるかどうか、と。
いつもの番組である。で、弁護士たちが、「できる」「できない」と議論する。たしか4人の弁護士のうち、3人は「できない」。1人は「できる」ではなかったか。
が、この発想そのものが、基本的な部分でまちがっている。私も元、法科の学生。その立場で、一言、意見を書いてみたい。
法律があるから、それに人は従うのではない。とくに民法は、そうである。何かの紛争が起きたとき、その紛争を解決手段として、法律がある。「はじめに法律ありき」という姿勢は、本来の法の精神に反する。仮に法律に反していても、たがいにそれで納得し、満足しているなら、法の出る幕はない。
しかしあの番組では、いつも先に、法律ありき……という姿勢が目立つ。その影響だろうが、私の教室でも、私が何かをするたびに、「慰謝料請求するぞ」「行列のできる法律S談所に訴えてやる」と言う子どもがふえてきた。
たとえばその慰謝料にしても、「これこれこういうことをしたから、慰謝料が請求できる」というのではない。「私は、精神的損害をこうむった。それをつぐなってもらうにはどうしたらいいか」と考えたあと、法律が登場する。そこではじめて慰謝料を請求するという話が出てくる。
弁護士の世界のことは知らないが、こんなことは、法学の世界では、常識。どうしてそういうことをきちんと言う学者が、あの番組には、出てこないのか? あの番組を見ていると、かえってまちがった法律意識を、子どもたちに植えつけてしまうことになりかねないのではないかと心配する。
で、夫の会話に、おならで答える妻についてだが、「おならで答えたから、離婚事由になる」「ならない」という発想そのものが、ナンセンス。もっと基本的な部分はどうなのかというところまで見て、はじめて、離婚の話になる。民法で定める離婚事由は、つぎのようになっている(民法770条、法定離婚事由)。
++++++++++++++
夫婦の一方は、左の場合に限り、離婚の訴を提起することができる。
1、配偶者に不貞な行為があったとき。2、配偶者から悪意で遺棄されたとき。3、配偶者の生死が3年以上明かでないとき。4、配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき。5、その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。
2 裁判所は、前項第1号乃至第4号の事由があるときでも、一切の事情を考慮して婚姻の継続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。
+++++++++++++
つまり(妻のおなら)が、5の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」に該当するかどうかということ。これについては、たとえば裁判所でも、もろもろの状況を総合的に判断して、結論を出す。おならだけを見て、判断するということはない。
で、そのおならで返事をする妻についてだが、すでに夫婦関係が冷え切ってしまっているということが考えられる。その冷え切った理由が、妻側にあるとするなら、離婚は可能であろう。おならは、その一部にすぎない。
が、冷え切った理由が、妻側に存在しないときは、どうか? 妻にしてみれば、ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしているつもりかもしれない。化粧をしないということでも、それ自体は、何でもないこと。夫は、そのふつうの様子が理解できないだけということになる。で、このばあいは、離婚事由にはならない。むしろ夫のわがままということになる。
どちらにせよ、ことの細部をとりあげて、「これは離婚できる」「これは離婚できない」と論ずるのは、先にも書いたように、ナンセンス。こんな形で法が運用されたら、それこそ、この世界は、闇。めちゃめちゃになってしまう。弁護士にもなった人たちだから、そんなことは、百も承知のはずと、私は思うのだが……。
ただ刑法のほうは、そうとばかり言えない面がある。しかし刑法においても、法は、あとに来るべきではないのか?
たとえばこんな事例で考えてみよう。
一旦停止の4つ角がある。その角の少し入ったところで、2人の婦警たちが、ミニパトカーを止めて、見張っている。そして一旦停止しないで、4つ角に進入してきた車のドライバーに対して、つぎつぎと違反キップを渡している。
よく見かけるシーンである。
このばあいでも、婦警たちは、まず法律ありきという姿勢で、違反者を見張っているのがわかる。もし本当に、交通ルールをドライバーに守らせようとするなら、運転者がその前にわかるように、一旦停止線のところに立って、見張るべきである。
では、なぜ、一旦停止で車は止まらなければならないのか。それはルールというより、ドライバー自身の安全のためである。相手の車に、迷惑をかけないためである。ルールは、それを裏から、補強する。一旦停止の線が描いてなくても、一旦停止が必要と感ずれば、ドライバーは、そこで一旦停止する。一旦停止の線がないからといって、本線に一旦停止しないで、飛び出してよいというものではない。
で、仮にそのあたりで、何かの交通事故があったときはじめて、法律が登場する。「あなたは一旦停止すべきだったのに、一旦停止しなかった。一旦停止して、左右の安全の確認をすべきだった。が、それをしなかった。つまりあなたのほうに過失がある」と。
ふつうの人が、ふつうの生活をしていれば、また、それができれば、本来、法などというものは、必要ないのである。仮に、法(民法)に反していても、それで当事者たちが、納得していれば、これまた法などというものは、必要ないのである。
「配偶者の生死が3年以上明かでないとき、離婚事由になる」という項目についても、「3年たったら、だれしも離婚すべき」というのではない。中には、夫の帰りを待ちながら、10年でも、20年でも、妻のまま待っている人だっているはず。本来、ユートピアというときの理想世界では、そういう世界をいう。
しかしそこで何か紛争が起きる。争いが起きる。そのときはじめて、法が前に出てくる。それが法なのである。
はじめに法ありきという発想が、どういうものか、これで理解してもらえただろうか。……ということで、あの番組には、私は以前から、少し疑問に思うところがあった。あなたも、一度、そういう視点から、あの番組を見てみるとよい。
【補足】
法的正義とは何かといえば、それは人間が本来的にもつ良識をいう。良識ある人が、良識ある行動をしていれば、本来、法など、いらない。不要。が、人間の世界には、良識ある人ばかりではない。ときとして、その良識ある人が、何かのトラブルに巻き込まれることがある。そのとき、その良識ある人を守るために、法が、前に出てくる。それが法律である。
(悪人を守るためにあるのではないぞ!)
「~~したら、離婚できる」「~~したから、慰謝料が請求できる」というように、教条的に法を運用するのは、本来の法のあり方ではない。「良識ある妻が、夫と別れられなくて困っています。どうしたらいいでしょう」「良識ある人が、ひどいめにあって苦しんでいます。どうしたらいいでしょう」という問題が提起されたとき、法的正義が発揮される。法律が前に出てくる。
法は、決して、悪人の味方をしてはいけない。そういう意味でも、法律を、教条的に解釈するのは、たいへん危険なことでもある。
繰りかえすが、ああいう番組を見て、子どもたちが、法律というのはこういうものだと、まちがった先入観をもつのは、たいへん危険なことである。「法に触れなければ、何をしてもよい」というふうに、法を解釈するようになるかもしれない。あるいは法の抜け道をさがすようになるかもしれない。もし法律が、そういう形で利用されるようになったら、この世の中は、どうなる。小ズルイ悪人ばかりの世界になってしまう。それを、私は、「闇」という。
(はやし浩司 離婚 離婚事由 離婚論 法的正義)
●良識ある善人を守るための法律が、良識ある善人を苦しめるための道具として機能するとき、その世界は、闇となる。(はやし浩司)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 裁判員制度 陪審員制度 法 法とは 法律とは)
<< Home