Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 17, 2008

*Liberalization of Education of Japan

●教育の自由化

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アメリカの教育は、実用的。その基礎を
つくったのが、ジョン・デューイ。

アメリカを代表する、哲学者、兼、教育者である。

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 アメリカの教育を考えるとき、ジョン・デューイをはずして語ることはできない。1859~1952年の人物である。彼は、「哲学と教育は密接に関連性をもつべきだ」と考え、哲学を教育の場で実践しようとした、最初の教育者であると考えてよい。

 彼は、日常経験を最重要視し、教育もまた、実用的(道具的)であるべきだと主張した。それ以前、つまりちょうど彼が生まれたころ、アメリカは、法律によって、「実用的なことを教えることが教育」であると、自らの教育の方向性を定めている(1862年)。その方向性に、デューイは、まさに理論的根拠を与え、補強したことになる。そののち、アメリカには、農業、工業など、実用的な教育を目ざした学校が、無数に設立された。

 どうして教育は、実用的であってはいけないのか?

 一方、この日本では、明治時代までの本山教育が、教育の基礎になっている。「寺子屋」という教育システムそのものが、それを踏襲したものと考えてよい。小僧を教育する本山では、毎日、一方的な詰めこみ教育が、その柱となっていた。その本山教育に、ドイツ流のアカデミック教育が混入した。

 それが今にみる、日本の教育の原型と考えてよい。

 が、今、日本の教育は、大きな転換期を迎えつつある。おおざっぱに言えば、アカデミックな教育から、実用的な教育へと脱皮しつつある。もっとわかりやすく言えば、アメリカ流実用主義的教育へと、脱皮しつつある。よい例が、英語である。

 日本の英語教育は、将来、英語の文法学者になるためには、すぐれた体系を整えていた。それもそのはず。もともと日本の英語教育は、その道の学者たちによって組み立てられていたからである。だから、おもしろくない。だから役にたたない。だいたい、子どもたちの中で、将来、英語の文法学者になるのは、何%いるのだろうか? そこで今の、小学校における英語教育が始まった。実用面に重きをおいた、英語教育である。

 数学教育も、理科教育も、同じ。さらに歴史教育も、同じ。暗記につづく、暗記。その方式こそが、本山における小僧教育そのものと言ってよい。明けても暮れても、修行という名目の、読経、写経。

 なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去の経験を、未来に生かすためである。年表を暗記し、登場人物を暗記するような歴史教育に、どんな意味があるというのか。たとえばスペインの小学校では、1年をかけて、1つのテーマについて、子どもたちは学ぶという(スペイン在住の読者より)。その報告を寄せてくれた人の子どもは、1年をかけて、フランス革命について勉強をしているとのこと。

 こうした教育が、なぜ、この日本では、できないのか?

 デューイは、とことん日常的経験にこだわった。そしてやがて「概念は、道具である」という、ある意味で、当然とも言えるべき結論に達した。わかりやすく言えば、道具にならない概念には、価値がない、と。空理空論だけでは、人は生きてはいかれない。またそういう幻想を、教育にいだいてはいけない。

 アメリカの中学校では、たとえば中古車を買うというテーマで、数学の授業を始める。そのテーマを通して、金利計算、損得の計算、少数の計算などなどを教える。ついでに小切手の使い方まで、教える。学んでいることが、そのまま社会に出てからも役立つ内容となっている。

 重要なのは、自ら考える子どもを育てること。知識ではない。自ら考える子どもである。

 日本の教育の最大の欠陥といえば、自ら考える子どもを育てないこと。いまだに明治以来の、「もの言わぬ従順な民づくり」が、教育の柱になっている。またそのワクから一歩も、抜け出ていない。むしろこの日本では、考える子どもを、異端視する傾向が強い。そういう子どもを嫌う傾向すらある。

 何も考えないで、受験勉強だけをしていれば、それでよいのか? またそういう子どもを、優秀な子どもと言ってよいのか?

 ジョン・デューイ流教育論にも、問題がないわけではない。しかしなぜ今、デューイかと言えば、この混沌とした混乱状況を見ればわかる。それもそのはず。旧態依然の教科書教育の上で、それをねじまげながら、ただ何とかしようともがいている。たとえて言うなら、歌舞伎という舞台の上だけで、現代映画を作ろうとするようなもの。この方式には、おのずと、無理がある。

 どうしてこの日本は、アジアのほかの国に先がけて、(検定)教科書を撤廃しないのか。

 今は、どう考えても、もう、そういう時代ではない。中央で作った教科書を、地方がありがたくいただきながら、子どもたちを教育する。そんな時代ではない。日本以外の先進国で、どの国が、検定教科書など、使っているか? 文科省は、「日本の教科書は、検定であって、中国や韓国のように国定ではない」という、どこか「?」な答弁を繰りかえしている。検定も、国定も、どこもちがわない。

 自由なる教育こそが、日本を発展させる。

 これから先のことはわからないが、しかしなぜ今、アメリカがアメリカであるかといえば、そこに自由な教育があったからにほかならない。ホームスクール(日本のフリースクール)をはじめとして、アメリカでは、学校の設立そのものが、完全に自由化されている。もちろん失敗も多いという話も伝わってきているが、そのダイナミズムこそが、一方で、アメリカの原動力にもなっている。

 ジョン・デューイが、すでに100年前の人と知って、改めて、私は驚く。この100年間の間に、日本の教育は何を学んだのか。日本の文部省は、何を学んだのか。ほかの省庁が、戦後こぞって欧米化を推し進めたのに対して、日本の文部省だけは、あえてそれに背を向けた。なぜか? どうしてか? 

 われわれはもう、文科省が心配しているような愚民ではない。
(はやし浩司 デューイ 日本の教育 教育の自由化)

【付記】

 韓国や中国が、日本の教科書にいちゃもんをつけてきたら、日本は、こう言えばよい。「日本には、もう、そんなものは、ありませんヨ~」と。「そんなものを使っている国は、全体主義国家だけだヨ~。ハハハ」と。

 気持ちいいだろうな。もし、そう言えたら、さぞかし、気持ちいいだろうな。

 それに教科書という名称は、もうやめたらよい。「テキスト」でじゅうぶん。で、オーストラリアにも、テキストの検定制度というのがあるには、ある。しかしその検定をするのは、純然たる民間団体。しかも検定するのは、暴力と性についての描写のみ。歴史については、検定してはいけないことになっている(南オーストラリア州など)。

 自由とは、「自らに由る」こと。日本が真に自由な国となるためには、まず教育から、自由化すること。子どもたちの世界から、自由化すること。なぜなら、この国の未来は、その子どもたちがつくるのだから。

 で、中には、「教科書がなければ、国がバラバラになる」と説く人がいる。それがどっこい。もしそうなら、アメリカやオーストラリアは、とっくの昔にバラバラになっているはず。ちがいますか?

 さらについでに、「日本の天皇制がなくなれば、日本人の心はバラバラになる」と説く人もいる。「日本人のアイデンティティは、天皇制にある」と説く人さえいる。

 本当に、そうかな? そう思いこまされているだけではないのかな?

 もしそうなら、中国や韓国は、とっくの昔にバラバラになっているはず。国の歴史ということになれば、中国や韓国のほうが、日本のそれより、はるかに長~イ。日本だって、中国の歴史の一部にすぎない。「東洋史」という考え方は、そういう視点においた歴史観をいうのですね。少なくとも、世界の歴史学者たちは、そう見ている。

 日本の歴史を、1500年とするなら、中国の歴史は、5500年。線で表現すると、こうなる。もとから、かないっこない。

 日本***************(15)
 中国*******************************************************(55)

 日本人も、ここらで、そろそろ意識革命する時期にきているのではないのかな? そう、意識革命。おかしな復古主義にこだわるのではなく、未来に向かって、前向きに進んでいく。そのための意識革命。

 それができたとき、日本は、アジアの中でも、真の先進国になれると思うのだがなあ……。(つぶやきでした。)