*Liberalization of Education of Japan
●教育の自由化
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アメリカの教育は、実用的。その基礎を
つくったのが、ジョン・デューイ。
アメリカを代表する、哲学者、兼、教育者である。
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アメリカの教育を考えるとき、ジョン・デューイをはずして語ることはできない。1859~1952年の人物である。彼は、「哲学と教育は密接に関連性をもつべきだ」と考え、哲学を教育の場で実践しようとした、最初の教育者であると考えてよい。
彼は、日常経験を最重要視し、教育もまた、実用的(道具的)であるべきだと主張した。それ以前、つまりちょうど彼が生まれたころ、アメリカは、法律によって、「実用的なことを教えることが教育」であると、自らの教育の方向性を定めている(1862年)。その方向性に、デューイは、まさに理論的根拠を与え、補強したことになる。そののち、アメリカには、農業、工業など、実用的な教育を目ざした学校が、無数に設立された。
どうして教育は、実用的であってはいけないのか?
一方、この日本では、明治時代までの本山教育が、教育の基礎になっている。「寺子屋」という教育システムそのものが、それを踏襲したものと考えてよい。小僧を教育する本山では、毎日、一方的な詰めこみ教育が、その柱となっていた。その本山教育に、ドイツ流のアカデミック教育が混入した。
それが今にみる、日本の教育の原型と考えてよい。
が、今、日本の教育は、大きな転換期を迎えつつある。おおざっぱに言えば、アカデミックな教育から、実用的な教育へと脱皮しつつある。もっとわかりやすく言えば、アメリカ流実用主義的教育へと、脱皮しつつある。よい例が、英語である。
日本の英語教育は、将来、英語の文法学者になるためには、すぐれた体系を整えていた。それもそのはず。もともと日本の英語教育は、その道の学者たちによって組み立てられていたからである。だから、おもしろくない。だから役にたたない。だいたい、子どもたちの中で、将来、英語の文法学者になるのは、何%いるのだろうか? そこで今の、小学校における英語教育が始まった。実用面に重きをおいた、英語教育である。
数学教育も、理科教育も、同じ。さらに歴史教育も、同じ。暗記につづく、暗記。その方式こそが、本山における小僧教育そのものと言ってよい。明けても暮れても、修行という名目の、読経、写経。
なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去の経験を、未来に生かすためである。年表を暗記し、登場人物を暗記するような歴史教育に、どんな意味があるというのか。たとえばスペインの小学校では、1年をかけて、1つのテーマについて、子どもたちは学ぶという(スペイン在住の読者より)。その報告を寄せてくれた人の子どもは、1年をかけて、フランス革命について勉強をしているとのこと。
こうした教育が、なぜ、この日本では、できないのか?
デューイは、とことん日常的経験にこだわった。そしてやがて「概念は、道具である」という、ある意味で、当然とも言えるべき結論に達した。わかりやすく言えば、道具にならない概念には、価値がない、と。空理空論だけでは、人は生きてはいかれない。またそういう幻想を、教育にいだいてはいけない。
アメリカの中学校では、たとえば中古車を買うというテーマで、数学の授業を始める。そのテーマを通して、金利計算、損得の計算、少数の計算などなどを教える。ついでに小切手の使い方まで、教える。学んでいることが、そのまま社会に出てからも役立つ内容となっている。
重要なのは、自ら考える子どもを育てること。知識ではない。自ら考える子どもである。
日本の教育の最大の欠陥といえば、自ら考える子どもを育てないこと。いまだに明治以来の、「もの言わぬ従順な民づくり」が、教育の柱になっている。またそのワクから一歩も、抜け出ていない。むしろこの日本では、考える子どもを、異端視する傾向が強い。そういう子どもを嫌う傾向すらある。
何も考えないで、受験勉強だけをしていれば、それでよいのか? またそういう子どもを、優秀な子どもと言ってよいのか?
ジョン・デューイ流教育論にも、問題がないわけではない。しかしなぜ今、デューイかと言えば、この混沌とした混乱状況を見ればわかる。それもそのはず。旧態依然の教科書教育の上で、それをねじまげながら、ただ何とかしようともがいている。たとえて言うなら、歌舞伎という舞台の上だけで、現代映画を作ろうとするようなもの。この方式には、おのずと、無理がある。
どうしてこの日本は、アジアのほかの国に先がけて、(検定)教科書を撤廃しないのか。
今は、どう考えても、もう、そういう時代ではない。中央で作った教科書を、地方がありがたくいただきながら、子どもたちを教育する。そんな時代ではない。日本以外の先進国で、どの国が、検定教科書など、使っているか? 文科省は、「日本の教科書は、検定であって、中国や韓国のように国定ではない」という、どこか「?」な答弁を繰りかえしている。検定も、国定も、どこもちがわない。
自由なる教育こそが、日本を発展させる。
これから先のことはわからないが、しかしなぜ今、アメリカがアメリカであるかといえば、そこに自由な教育があったからにほかならない。ホームスクール(日本のフリースクール)をはじめとして、アメリカでは、学校の設立そのものが、完全に自由化されている。もちろん失敗も多いという話も伝わってきているが、そのダイナミズムこそが、一方で、アメリカの原動力にもなっている。
ジョン・デューイが、すでに100年前の人と知って、改めて、私は驚く。この100年間の間に、日本の教育は何を学んだのか。日本の文部省は、何を学んだのか。ほかの省庁が、戦後こぞって欧米化を推し進めたのに対して、日本の文部省だけは、あえてそれに背を向けた。なぜか? どうしてか?
われわれはもう、文科省が心配しているような愚民ではない。
(はやし浩司 デューイ 日本の教育 教育の自由化)
【付記】
韓国や中国が、日本の教科書にいちゃもんをつけてきたら、日本は、こう言えばよい。「日本には、もう、そんなものは、ありませんヨ~」と。「そんなものを使っている国は、全体主義国家だけだヨ~。ハハハ」と。
気持ちいいだろうな。もし、そう言えたら、さぞかし、気持ちいいだろうな。
それに教科書という名称は、もうやめたらよい。「テキスト」でじゅうぶん。で、オーストラリアにも、テキストの検定制度というのがあるには、ある。しかしその検定をするのは、純然たる民間団体。しかも検定するのは、暴力と性についての描写のみ。歴史については、検定してはいけないことになっている(南オーストラリア州など)。
自由とは、「自らに由る」こと。日本が真に自由な国となるためには、まず教育から、自由化すること。子どもたちの世界から、自由化すること。なぜなら、この国の未来は、その子どもたちがつくるのだから。
で、中には、「教科書がなければ、国がバラバラになる」と説く人がいる。それがどっこい。もしそうなら、アメリカやオーストラリアは、とっくの昔にバラバラになっているはず。ちがいますか?
さらについでに、「日本の天皇制がなくなれば、日本人の心はバラバラになる」と説く人もいる。「日本人のアイデンティティは、天皇制にある」と説く人さえいる。
本当に、そうかな? そう思いこまされているだけではないのかな?
もしそうなら、中国や韓国は、とっくの昔にバラバラになっているはず。国の歴史ということになれば、中国や韓国のほうが、日本のそれより、はるかに長~イ。日本だって、中国の歴史の一部にすぎない。「東洋史」という考え方は、そういう視点においた歴史観をいうのですね。少なくとも、世界の歴史学者たちは、そう見ている。
日本の歴史を、1500年とするなら、中国の歴史は、5500年。線で表現すると、こうなる。もとから、かないっこない。
日本***************(15)
中国*******************************************************(55)
日本人も、ここらで、そろそろ意識革命する時期にきているのではないのかな? そう、意識革命。おかしな復古主義にこだわるのではなく、未来に向かって、前向きに進んでいく。そのための意識革命。
それができたとき、日本は、アジアの中でも、真の先進国になれると思うのだがなあ……。(つぶやきでした。)
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