Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 17, 2008

*What is "Public Education"?  *Our leaders in Meiji Period

●「公」について(What is “Public”?)

 以前、教育改革国民会議は、つぎのような報告書を、中央教育審議会に送った。いわく「自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬(いけい)の念をもち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てるとともに、社会生活に必要な基本的知識や教養を身につけることを、教育の基礎に位置づける」と。

 こうした教育改革国民会議の流れに沿って、教育基本法の見なおしに取り組む中央教育審議会は、〇二年一〇月一七日、中間報告案を公表した。それによれば、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かんよう)することが大切」とある。

 一読するだけで頭が痛くなるような文章だが、ここに出てくる「涵養(かんよう)」とは何か。日本語大辞典(講談社)によれば、「知識や見識をゆっくりと身につけること」とある。が、それにしても、抽象的な文章である。実は、ここに大きな落とし穴がある。こうした審議会などで答申される文章は、抽象的であればあるほど、よい文章とされる。そのほうが、官僚たちにとっては、まことにもって都合がよい。解釈のし方によっては、どのようにも解釈できるということは、結局は、自分たちの思いどおりに、答申を料理できる。好き勝手なことができる。

 しかし否定的なことばかりを言っていてはいけないので、もう少し、内容を吟味してみよう。

 だいたいこの日本では、「国を守れ」「国を守れ」と声高に叫ぶ人ほど、国の恩恵を受けている人と考えてよい。お寺の僧侶が、信徒に向かって、「仏様を供養してください」と言うのに似ている。具体的には、「金を出せ」と。しかし仏様がお金を使うわけではない。実際に使うのは、僧侶。まさか「自分に金を出せ」とは言えないから、どこか間接的な言い方をする。要するに「自分を守れ」と言っている。

 もちろん私は愛国心を否定しているのではない。しかし愛「国」心と、そこに「国」という文字を入れるから、どうもすなおになれない。この日本では、国というと、体制を意味する。戦前の日本や、今の北朝鮮をみれば、その意味がわかるはず。「民」は、いつも「国」の道具でしかなかった。

 そこで欧米ではどうかというと、たとえば英語では、「patriotism」という。もともとは、ラテン語の「パトリオータ(父なる大地を愛する人)」という語に由来する。日本語では、「愛国心」と訳すが、中身はまるで違う。この単語に、あえて日本語訳をつけるとしたら、「愛郷心」「愛土心」となる。「愛国心」というと反発する人もいるかもしれないが、「愛郷心」という言葉に反発する人はいない。

 そこで気になるのは、「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識や、態度を涵養(かんよう)することが大切」と答申した、中教審の中間報告案。

 しかしご存知のように、今、日本人の中で、もっとも公共心のない人たちといえば、皮肉なことに、公務員と呼ばれる人たちではないのか。H市の市役所に三〇年勤めるK市(五四歳)も私にこう言った。「公僕心? そんなもの、絶対にありませんよ。私が保証しますよ」と。

とくに長年、公務員を経験した人ほどそうで、権限にしがみつく一方、管轄外のことはいっさいしない。情報だけをしっかりと握って、それを自分たちの地位を守るために利用している。そういう姿勢が身につくから、ますます公僕心が薄れる。恐らく戦争になれば、イの一番に逃げ出すのが、官僚を中心とする公務員ではないのか。そんなことは、先の戦争で実証ずみ。ソ連が戦争に参画してきたとき、あの満州から、イの一番に逃げてきたのは、軍属と官僚だった。

 私たちにとって大切なことは、まずこの国や社会が、私たちのものであると実感することである。もっとわかりやすく言えば、国あっての民ではなく、民あっての国であるという意識をもつことである。とくに日本は民主主義を標榜(ひょうぼう)するのだから、これは当然のことではないのか。そういう意識があってはじめて、私たちの中に、愛郷心が生まれる。「国や社会など、『公』に主体的に参画する意識」というのは、そこから生まれる。

 これについて、教育刷新委員会(委員長、安倍能成・元文部大臣)では、「本当に公に使える人間をつくるには、個人を一度確立できるような段階を経なければならない。それが今まで、日本に欠けていたのではないか」(哲学者、務台理作氏)という意見が大勢をしめたという(読売新聞)。私もそう思う。まったく同感である。言いかえると、「個人」が確立しないまま、「公」が先行すると、またあの戦時中に逆もどりしてしまう。あるいは日本が、あの北朝鮮のような国にならないともかぎらない。それだけは何としても、避けなければならない。

 再び台頭する復古主義。どこか軍国主義の臭いすらする。教育の世界でも今、極右勢力が、力を伸ばし始めている。S県では、武士道を教育の柱にしようとする教師集団さえ生まれた。それを避けるためにも、私たちは早急に、務台氏がいう「個人の確立」を目ざさねばならない。このマガジンでも、これからも積極的に、この問題については考えていきたい。
(02-11-4)

(読者のみなさんへ)
 私の意見に賛成してくださいそうな人がいたら、この記事を転送していただけませんか。みなさんがそれぞれの立場で、民主主義を声を高くして叫べば、この日本は確実によくなります。みんなで、子孫のために、すばらしい国をつくりましょう!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 公僕意識 公教育 道徳教育)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●明治の偉勲たち(Our leaders in Meiji Period)

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847~1889年の人である。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、おかしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であったことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひきずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。
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