Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, April 13, 2008

*Humanism vs Naturalism

●人間主義vs自然主義(Humanism vs Naturalism)
Human-beings are not the superior to other animals. Human-beings are also a part of nature and therefore human-beings can not exisit apart from the nature. Now is the time when it is very important for the Japanese to take Naturalism instead of Humanism.

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人間は、万能?
万物の霊長?
人間だけが、最高の生物?

とんでもない!

そういう発想が支配的になったのは、
イギリスでの産業革命以降のこと。
その代表格となったのが、フランシス・
ベーコン。
1561~1626年の人物である。

フランシス・ベーコンは、「自然征服論」
を書き、「知識と科学で、自然を支配、
征服することができる」と唱えた。

『知は力なり』という有名な言葉も、
残している。

その流れは、やがてアメリカに伝わり、
戦後、日本にそのまま移植された。

その象徴となったのが、田中角栄の
「列島改造論」。
その結果、小さな小川ですら、コンク
リートで埋め尽くされた。

私たち日本人がもっている自然観は、今でも、
おおかた、その(流れ)の中にある。
だからこの日本では、「近代化」といえば、
立ち並ぶビルや、その間を縫うように
して走る、高速道路のことをいう。

が、こうした常識は、けっして世界の
常識ではない。

たとえば、ミシェル・フーコがいる。
1926~1984年の人物である。
彼はいわゆる「人間主義」に疑問を
いだき、その人間主義からの訣別を
唱えた。

ミシェル・フーコが自然主義の代表格というわけ
ではないが、こうして人間主義と自然
主義が、今、するどく対立している。

が、一度、作られた意識というのは、
そうは簡単に、変えられない。
5、6年も前のことになるが、1人の
オーストラリア人が、私にこう聞いた。

「ヒロシ、どうして日本では、山を
コンクリートで覆うのか」と。

日本人には見慣れた景色でも、オースト
ラリア人にとっては、そうでない。
それにそのオーストラリア人は、驚いた。

そこでミシェル・フーコは、こう説いた。
「人間は、それほどまでに完全な動物
なのか」と。

答は、「NO!」。

むしろ、知恵が働く分だけ、人間は
ほかの動物たちより、邪悪な生物かも
しれない。
さらに優劣ということになると、何を
もって、「優」といい、何をもって、
「劣」というか、その基準がよくわからない。

人間が優秀なのは、人間に対してだけ。
そういう意味では、つまり人間という
動物を総合してみると、人間ほど、
自己中心的な生物はいないということに
なる。

よい例が、捕鯨問題である。

「クジラがふえれば、水産資源が減る」と
説く日本政府。
「だからクジラは殺してもいい」と説く
日本政府。

そうした発想は、山を切り刻み、谷を埋め
尽くし、高速道路ばかりを作る、あの列島
改造論の延長線上にある。

そうそう、その人間主義で思い出したが、
ほとんどの幼稚園児は、人間は、他の動物たち
とはちがうと考えている。

「人間も、動物の仲間だよ」と教えても、
「ちがう」と言う。
「人間は、動物ではない」と。

人間も、動物の仲間である。
それ故に、人間も自然の一部である。
人間は、自然を離れて、人間では、ありえない。

で、冒頭に書いたことに話がもどるが、
人間は、万能ではない。
万物の霊長でもない。
人間だけが、最高の生物というのは、
明らかに、まちがっている。

だから山の中に、一本の道路を通すに
しても、私たち人間がまずすべきことは、
そこに住む動物たちに許可を求める
ことである。

もちろん動物たちは何も言わない。
しかしそうであるならなおさら、私たちは
動物たちに謙虚でなければならない。

捕鯨問題にしても、「クジラがふえれば、
水産資源が影響を受ける」というのは、
あまりにも短絡的。
身勝手。
自己中心的。

タイトルに、「人間主義vs自然主義」と
書いたが、現在深刻な問題となりつつある
地球温暖化(火星化)の問題にしても、
結局は、人間主義がもたらした弊害と
いうことになる。

人間主義に洗脳されてしまった私たち
日本人。
その日本人の私たちには、むずかしいこと
かもしれないが、今こそ、自然主義に立ち返る
べきときに、来ている。

最後に、一言。
あの長岡半太郎ですら、「(自然に)抗するものは、
容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

今一度、長岡半太郎の言葉を、ここで読み返して
みようではないか。

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少し前にも取りあげましたが、
原稿を一作、掲載します。

私が9年ほど前に書いた原稿
です。

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●ゆがんだ自然観

 もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよう」と。

この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかった。

が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一七四〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかないという事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。

少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。