"Me" in Me
【私の中の私】(“Me” in me)
There are two “Me” in me. One is “Me”, which is not myself. Another “Me” is me which is myself. Sadly 99.99% of “Me” is me which is not myself, or controlled by the brain deep inside myself. Then how can we seek and seize “Me”, which is myself.
●スズメはスズメ
(私)の中には、(私であって、私でない部分)と、(私であって、私である部分)がある。
そのことは、庭に遊ぶ、スズメを見ればわかる。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
それぞれのスズメを見ていると、それぞれに個性があり、自分勝手なことをしているように見える。
が、どのスズメも、スズメという(ワク)の中でしか、生きていない。
あるいは江戸時代のスズメも、現在のスズメも、スズメはスズメ。
その時代、時代に、生きた環境は多少異なっているかもしれない。
が、どの時代のスズメも、スズメという(ワク)の中で、生きてきただけ。
もう少しわかりやすい例で、説明してみよう。
●遅れている?
15年近くも前のこと。
子ども(生徒)たちと、こんな会話をした。
1人の子ども(中1、女子)が、私にこう聞いた。
「先生、TOKIOって、知っている?」「SMAPって、知っている?」と。
こういう質問を受けたときには、私は、知っていても、「知らない」と答えるようにしている。
とくに理由は、ない。
そういう質問に答えるのが、面倒だからだ。
すると子どもたちは、こう言った。
「先生って、遅れているウ~」と。
そこで私は子どもたちに、こう言った。
「ぼくたちの時代にも、西郷輝彦とか舟木一夫とかいうのがいたよ」と。
子「そんな人、知らな~イ」
私「だろ……。でもね、10年後か、20年後か、いつかはわからないが、君たちも、自分の子どもと、同じような会話をするかもしれないよ」
子「私たちは、遅れていないわよねエ~」
私「いいや、そうじゃない。君たちの子どもが、こう言う。『ママ、UPJOP(ユプジョップ)って知っている?』と。そのとき君が、「そんなの知らない」と答えたら、きっと君たちの子どもも、こう言うよ。『ママって、遅れてるウ~』とね」
子「何?、先生、そのユプジョップって?」
私「『TOKIO』のアルファベットを、1文字ずつ、つぎの文字に置き換えたものだよ。Tのつぎは、Uだろ。Oのつぎは、Pだろ……」
子「そんなグループは、ないわよ」
私「ううん、ひょっとしたら、いつかそういうグループができるかもしれない」と。
私たちの世代が、西郷輝彦や舟木一夫に夢中になったのも、そのときの子どもたちが、TOKIOやSMAPに夢中になったのも、一歩退いて見れば、同じ。
同じ(ワク)の中で、そのつど、同じように動かされていただけ。
●化粧を始めた女性
もう一つ、例をあげてみよう。
先日も電車に乗るやいなや、座席に座って、化粧を始めた若い女性がいた。
バッグから鏡と小物入れを取り出し、せわしそうに、顔をいじり始めた。
そのときもし、私がその女性にこう聞いたら、きっと、その女性は、こう答えるにちがいない。
私「あなたは、自分の意思で、化粧をしているのですか?」
女「はい、もちろん、そうです」と。
しかし実のところ、その女性は、もっと内なる力によって、動かされているにすぎない。
自分では意識しない、もっと内なる力によって、だ。
澤口俊之氏(「したたかな脳」日本文芸社)によれば、「私の意思」と思っているその意思ですらも、実は、そのつど、前もって、脳の中で、先に作られているそうだ。
たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。あなたは、そのミカンに手をのばし、それを取って食べようとしたとする。
そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。
が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなたは、その命令に従って、自分の意思を決めているにすぎない、と。
つまり意思を決める前に、すでに脳は、前もって、その意思を決めるための活動を始めているということになる。
今では、脳の中を走り回る、かすかな電気信号や化学物質の変化などもは、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえることができる。
つまり(私の意思)と思っている(意思)ですらも、繰りかえすが、実は、それ以前に、脳の中で先に作られているということ。
先の若い女性の例で言うなら、その女性は、自分の意思で電車の中で化粧を始めたつもりでいるかもしれないが、実は、それ以前に作られた命令によって動かされているだけということになる。
その意思を前もってつくる部分、それがここでいう(私であって、私でない部分)ということになる。
●99・99%
こうして考えてみると、(私)の中のほとんどの部分は、(私であって私でない部分)ということになる。
計数的に表現するのは正しくないかもしれないが、99・99%は、(私であって私でない部分)と考えてよい。
私やあなたしても、その(ワク)の中で、生きているだけ。
生かされているだけ。
北海道の人も、沖縄の人も、人間は人間。
それぞれの人を見ていると、それぞれに個性があり、自分勝手なことをしているように見える。
が、どの人も、人間という(ワク)の中でしか、生きていない。
あるいは江戸時代の人も、現在の人も、人間は人間。
その時代、時代に、生きた環境は多少異なっているかもしれない。
が、どの時代の人も、人間という(ワク)の中で、生きてきただけ。
●私自身のこと
たまたま今日の午後、古いビデオを見た。
アメリカ映画だったが、猛烈社員をテーマにした映画だった。
その猛烈社員は、寸陰を惜しんで、仕事をする。
恋人とデートをする時間もない。
どこへ行くにも、携帯電話とパソコンをもって歩く。
そのビデオを見ていたとき、ふと、私は横にいたワイフに、こう漏らした。
「若いころのぼくに、そっくり」と。
するとワイフが、すかさず、「そうね。あなたみたいね」と。
そう、あのころの私は、いつも何かに追い立てられるように、仕事ばかりしていた。
1か月で、休みが、1日だけという月も、何年も、つづいた。
もちろんそれがムダだったとは思わない。
私は私なりに懸命に生きた。
が、不思議なことに、それほどまでに懸命に生きたはずなのに、今、思い出してみると、何も残っていない。
部分的に、(事実)が、記憶としては、残っている。
アルバムに張られた写真のように、事実としての思い出は、残っている。
が、それだけ。
それ以外に何もない。
そこで私はワイフにこう言った。
「この男性も、いつか、自分のしていることの空(むな)しさに気づくだろうか」と。
●では、(私)はどこに?
私「どうしてだろ?」
ワ「どうしてって?」
私「いいか、ぼくはみなより、何倍も、濃い人生を生きたと思う。でもね、何も残っていない。どうしてだろ?」
ワ「あなたがいつも言っているように、あなた自身が、操られていただけだからよ」
私「……そう、そう思う。このビデオを見ながら、それに気がついた。この男性にしても、自分の意思で、仕事をしていると思っているかもしれない。しかし実際には、(私であって、私でない部分)に、操られているだけ」
ワ「もっと大きな力によって?」
私「大きな力というより、もっと内に潜む力によって、だ」と。
さらに最近の研究によれば、たとえば私たちが感ずる食欲にしても、脳のある部分が、コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学、J・S・フライヤー、E・マトラス・フライヤー)。
脳のある部分というのは、視床下部のことだが、その視床下部が、血中のグルコースやインスリン、コレシストキニン(CCK)、さらには消化器系由来のホルモンなどを監視しながら、そのつど、脳のほかの部分に向かって、シグナルを出す。
そのシグナルに応じて、脳が(意思)を決め、それをさらにつぎの段階へと、シグナルを送る。
私たちが、「おなかがすいた」「何かを食べたい」と意識するのは、そのあと、ということになる。
これは食欲のメカニズムだが、こうしたシグナルは、何も食欲にかぎらない。
もちろん性欲も、その中に含まれる。
●性的エネルギー
あのジークムント・フロイトは、人間の生きる源泉に、性的エネルギーがあると説いた。
言いかえると、性的エネルギーこそが、人間の生きる源泉である、と。
これに対して、フロイトの弟子の、ユングは、「生的エネルギー」という言葉を使い、この見解の相違が、2人の間を決定的に遠ざける結果となった。
それはともかくも、生存欲が人間の生きる原点であるとするなら、フロイトの学説は、まさにその要点をついたことになる。
(生存欲)イコール、(性的エネルギー)ということになる。
そして私たちの日常的な行動のほとんどは、この(性的エネルギー)によって支配されている。
若い女性が化粧をするのも、若い男性が、スポーツで励むのも、そこにいつも異性を意識するからにほかならない。「意識する」というよりは、「性的エネルギーに操られて意識する」と言いかえたほうが、正確かもしれない。
で、この性的エネルギーには、ものすごいパワーがある。
大脳には前頭前野という部分があって、この部分に、理性の中枢があるとされている。
が、理性などでコントロールされるような代物ではない。
たとえば若い男性が、美しい女性の裸体を見たとする。
そのとき若い男性の脳の中では、ドーパミンというホルモンが大量に分泌される。
それが脳の線状体という部分を、刺激する。
線状体というのは、(報酬と行動欲求に関係する部分)、つまり条件反射を司る部分と考えるとわかりやすい。
その反応がいかにパワフルなものであるかは、たとえばタバコ中毒になった人や、アルコール中毒になった人を見ればわかる。
もし理性だけの力で、タバコをやめたり、酒をやめたりすることができるようなら、この世の中には、タバコ中毒の人も、アルコール中毒の人も、いないということになる。
若い男性が、美しい女性の裸体を見たときも、脳の中では、まったく同じ反応が起きる。空腹なとき、食物を見たときも同じ(同、ハーバード大学、J・S・フライヤー、E・マトラス・フライヤー)。
だから、知性や理性もじゅうぶんあるような大学の教授ですらも、セクハラ事件を起こしたりする。
手鏡で、若い女性のスカートの中を、のぞいたりする。
●では「私」はどこに?
となると、たとえ0・01%ではあるにせよ、(私であって私である部分)は、どこにあるかということになる。
それを説明するために、もう一度、スズメに登場してもらう。
今一度、庭で遊ぶスズメを、よく見てほしい。
それぞれのスズメには、たしかに個性がある。
それぞれがそれぞれに、好き勝手なことをしている。
キーウィの枝の間を飛び回るスズメ。
畑の脇をチョンチョンと跳ねながら、餌をさがすスズメ、などなど。
しかしスズメは、スズメ。
が、もしそのとき1羽のスズメが、スズメであるという(ワク)を超えて、たとえば水瓶の中に潜って、水遊び始めたとしたら、どうだろうか。
あるいは、花の花びらを一枚ちぎり、それで身を飾ったとしたら、どうだろうか。
そのスズメは、(ワク)を超えて、自分らしさを追求し始めたということになる。
が、それだけでは足りない。
水瓶に潜るにしても、花の花びらを一枚ちぎり、身を飾るにしても、スズメの中の(性的エネルギー)によって、操られただけかもしれない。
そこでそのスズメがつぎに、こうしたとする。
餌をついばみ、その餌を、近くにいる年老いたスズメのところへもっていったする。
そしてその餌を、その年老いたスズメの前に、置いたとする。
そのときそのスズメは、あえて(私であって、私でない部分)に逆らったことになる。
(私であって、私でない部分)は、いつも、自分勝手でわがまま。
もともと生存欲、つまり性的エネルギーといったものは、そういうもの。
それがわからなければ、子どもの受験勉強で狂奔している親たちを見ればよい。
彼らとて、また、性的エネルギーの奴隷に過ぎない。
「うちの子さえよければ、それでいい」
「他人をけ落としてでも構わない」と。
……ということで、答は、もうおわかりのことと思う。
つまり(私であって、私である部分)というのは、(私であって、私でない部分)に逆らった部分にあるということ。
もっと言えば、(私であって、私でない部分)が、「したい」と思うことを、否定する。その否定するところから、(私であって、私である部分)が、生まれる。
●「私」を知る実益
こう書くと、では何のために、(私であって、私である部分)を知るのかという疑問をもつ人がいるかもしれない。
実は、ワイフも私にそう聞いた。
「それがわかったからといって、それでどうなるの?」と。
実は、この問題は、「どうなるの?」程度では、すまない。
生きることの根幹に関わる問題が隠されていると言っても、過言ではない。
もし私やあなたが、いつも(私であって、私でない部分)に操られるまま生きているとするなら、私やあなたは、「ただの人(das Mann)」(ハイデガー)ということになる。
わかりやすく言えば、(ワク)の中で生きているだけ。
生かされているだけ。
江戸時代のほとんどの人が、そうであったように、明治時代のほとんどの人が、そうであったように、私やあなたは、「ただの人」。
自分ではそう思っていないかもしれないが、あるいは自分では、「私だけはちがう」と思っているかもしれないが、そう思っているのは、私やあなただけ。
それがわからなければ、あなたが死んだあとのことを、ほんの少しだけ頭の中で、想像してみればよい。
死んだあとの、10年後とか、20年後でも、よい。
あるいは反対に、10年前、20年前に死んだ、あなたの知人や友人を思い浮かべてみればよい。
「ただの人」というのは、そういう人をいう。
つまり(私であって、私である部分)を知ることによって、その「ただの人」であるという(ワク)を超えることができる。が、それだけではない。
●2つの実益
もう少し具体的に言えば、(私であって、私である部分)を知ることには、2つの実益がある。
ひとつは、自分らしく生きることができるということ。
「私は私」として生きることができる。
いつか「私は私の人生を生きた」という実感を、自分のものとすることができる。
この価値は大きい。
それを説明する前に、もう一度、私の若い時代の話を思い出してほしい。
私は、ビデオの中の男性のように、猛烈に働いた。
一時は、まさに餓鬼のかたまりのような人間だった。
しかし今、振り返ってみると、そこには、何も残っていない。
先ほども書いたように、(事実=記憶の1コマ)としての思い出はある。
たとえば少し前も、私が、TOYOTAのビッツ(もっとも安い車)に乗っていることを知って、1人の子ども(小5男児)が、こう言った。
「ビッツ~ウ?」と。
明らかに、私をバカにした言い方だった。
そこで私はこう言ってやった。
「ぼくはね、君たちは信じないかもしれないが、30歳のころは、リンカーン・コンチネンタルという車に乗っていたよ。運転手つきだったよ。どんな車か、知っているか? 当時は、バスほどもある長い車だったよ」と。
私はその車で、東京と浜松の間を、週に1、2度は往復した。
そういう思い出は、(事実)として残っている。
が、しかしそれだけ。
何も残っていない。
恐ろしいほど、何も、残っていない。
●私が私であったとき
ただそのとき、(私であって、私である部分)が、ひとつだけあった。
「これは私だ」と言える部分である。
それはワイフが指摘してくれた。
ワイフがこう言った。
「あなたが社会の流れに背を向けて生き始めたときが、そうね」と。
結果としてみると、それがよかったのか悪かったのかはわからない。
しかし私はあるとき、こう心に決めた。
「私ひとりくらい、社会に背を向けて生きる人間がいてもよいのではないか」と。
今でこそ、フリーターという言葉がある。
しかし当時の日本で、あえて(流れ)に逆らって生きる人間は、ほとんどいなかった。
私が三井物産という会社をやめて、幼稚園の講師になったときも、私を知っている人たちは、みな、こう言った。
「あの林は、頭がおかしくなった」と。
当時は、そういう時代だった。
そういう時代の中で、私は、あえて心に誓った。
「生涯、肩書きや地位とは無縁の世界を生きてやろう」と。
ワイフは、それを指摘した。
「そのときのあなたは、(私であって、私である部分)をつかんだのかもしれないわ」と。
●生きがい
そして、もうひとつの実益。
もし「ただの人(das Mann)」で生きるなら、それでは生きたことにはならない。
仮に20年を生きたとしても、30年を生きたとしても、20年とか、30年を、1日にして生きたにすぎない。
しかし「私であって、私である部分」で生きた人は、たった1日でも、その1日を、20年として、あるいは30年として生きることができる。
けっして、大げさなことを言っているのではない。
(生きる)ということは、(死を乗り越えて生きる)ことをいう。
死ぬことを恐れてビクビクして生きるというのであれば、すでにその人は死んでいることになる。
私がそう言うのではない。
あのキング牧師が、そう言っている。
「死ぬための何かを発見できなかった人は、生きる価値はない(If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther King Jr.)」と。
もう少しわかりやすい訳をつけると、こうなる。
「命がけでできることを発見できない人は、生きていてもしかたない」と。
この言葉を逆に読むと、こうなる。
「そのために死ぬことができる、何かを発見した人こそが、本当に生きていることになる」と。
さらに「命がけでできることを発見した人は、死すらも克服できる」とも読める。
わかりやすく言えば、私たちは死ぬことを恐れる必要はない。
恐れなければならないことは、死ぬことではなく、死ぬまでにどう生きるか、それがわからないこと。
命がけでできることを、発見できないこと。
それこそ、まさに恐怖。
生き地獄!
(私であって、私である部分)を知ることによって、ひょっとしたら、私やあなたは、(死の恐怖)すらも、乗り越えることができる。
●愛、慈悲、そして仁
99・99%の人は、99・99%の生活の中で、(私であって、私でない部分)に振り回されているだけ。
振り回されていると気づくこともなく、振り回されているだけ。
その(ワク)の中で、生かされているだけ。
そういう意味では、私たち人間も、庭に遊ぶスズメと、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。
そこでもう一度、(私であって、私でない部分)を考えてみる。
考えてみるが、輪郭(りんかく)が、なかなか見えてこない。
それもそのはず。
(私)を知るということは、それほどまでにむずかしい。
そう簡単にはできない。
ソクラテスもそう言っているし、ギリシアのターレスもそう言っている。
『汝自身を、知れ』と。
私を知ることは、哲学の世界でも、究極の目標にもなっている。
しかし、その反対側にあるものなら、わかる。
(私であって、私でない部分)の反対側にあるもの、である。
そのためには、まず、(私)から(私)を取り去ってみる。
徹底的に、取り去ってみる。
その結果残るのが、「無私の世界」。
この無私の世界から、もう一度、私をながめてみる。
(私であって、私でない部分)をすべて取り去り、その上で、あえて、(私であって、私でない部分)が求めることと、反対のことをしてみる。
わかりやすく言えば、(私であって、私でない部分)がしたがること、つまり人間が本来的にもつ(どん欲さ)に対して、あえて、反対のことをしてみる。
(どん欲)さの反対側にあるものを、「自己犠牲」というのなら、自己犠牲でもよい。
その自己犠牲の中でも、究極の自己犠牲が、キリスト教でいう、「愛」であり、仏教でいう、「慈悲」ということになる。儒教でいう、「仁」にも通ずる。
●終わりに……
ここに書いたことにしても、私個人にとっては、いわば努力目標のようなもの。
だからといって、私は、生きがいを手にしたことにはならない。
死を克服したことにもならない。
キリスト教でいう「愛」がわかったわけでも、仏教でいう「慈悲」がわかったわけでもない。
もちろんそれらを実践しているわけでもない。
道のりは、まだまだ遠い。
やっと山のふもとの、その入り口にたどりついたようもの。
しかし、ここに書いたことは、おおかたの点では、まちがっていないと思う。
あのサルトルにしても、意識から、自我(=私)を取り除こうとし、死を克服する手段として、最終的に、「無の概念」に到達する(『存在と無』1943)。
そのために、いかにして「無私」の状態をつくるかということ。
それが(私であって、私である部分)を知るための、第一歩ということになる。
そこにほんの少しでも打算が混入すれば、その時点で、「無私」は、霧散する。
(私であって、私でない部分)に操られた奴隷に、なりさがる。
ともかくも残り少ない人生。
私の人生も、秒読みの段階に入った。
今のままでは、この先、20年とか30年を、1日にして生きることになってしまうかもしれない。
何としても、そういう無様(ぶざま)な人生を送ることだけは、避けなければならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 無私 愛 慈悲 仁 私であって私でない部分 私論 はやし浩司)
(付記)
今日(4月12日)、ワイフとドライブをしながら、こんなことも話した。
ワイフが、「あの世ってあるの?」と聞いた。
それに対して、私は、「不治の病か何かになって、生きる可能性が、1000に一つもないと言われたら、ぼくは、あの世が、1000に一つあるという可能性に、自分の希望をつなぐよ」と。
ひょっとしたら、あの世はあるのかもしれない。
この世そのものが、大宇宙という、(ありえない世界)であるとするなら、あの世のほうが、ずっと現実味のある世界ということになる。
その可能性は、1000にひとつどころか、もっと高い。
反対にこの世のほうが、幻覚(?)ということも考えられる。
私たちは光と分子の織りなす、幻覚の世界で、生きている(?)。
「謎は、死んだときにわかるかもね」
「それまでのお楽しみね」と。
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