*We live in the world, called "Heaven".
●極楽浄土(Heaven)
We live in the world which is heaven.
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死んだあと、極楽世界に生まれ変わる
ことを、「極楽往生」という。
「浄土往生」ともいう。
その極楽往生という言葉は、「浄土信仰」
とともに生まれた言葉である。
「浄土」というのは、もともと仏や菩薩
が住んでいる、理想郷をいう。
で、その理想郷は、どこにあるのか。
仏教によれば、十方それぞれに、諸仏の
理想郷があるとされる。
が、この日本では、阿弥陀仏の住む西方こそに、
その浄土があると教える。
私も子どものころ、「天竺(てんじく)」と
いう言葉を、よく聞いた。
天竺というのは、インドをさす。
国語大辞典にも、「日本・中国で、インドを
さす古語」とある。
母の母、つまり祖母も、よくこう言っていた。
「死んだら、天竺へ行く」と。
しかし少なくとも今という現在、インドが
理想郷などとは、だれも思わない?
マザーテレサの生きていた時代を思い浮かべて
みればよい。
つまり浄土といっても、観念的なもので、
実在の場所をいうのではない。
(当たり前のことだが……。)
では、実在(?)しないのかというと、
どうもそうではないようだ。
が、このところ、ものの考え方が、少し
変わってきた。
私自身のものの考え方が、である。
「ひょっとしたら、あの世は、あるかも
しれない」と考えるようになってきた。
まず、この宇宙を見渡してみてほしい。
夜の星空が、わかりやすい。
しかし天空にまばたく星の多くは、
1個の星とはかぎらない。
その1個が、無数の星のかたまり、
つまり銀河であることが多い。
そういう銀河が無数に集まり、この
大宇宙を形成している。
よく私は、子どもたちに、「宇宙の星の
数は、中田島砂丘(浜松市にある、日本の三大砂丘
のひとつ)にある砂の数よりも多い」と
教える。
(ただし地球は、惑星であって、ここでいう
星には含まれない。)
しかし実際には、それよりも、はるかに多い。
「数」で考えることができないほど、多い。
そんな大宇宙でも、最初は、小さな点、もしくは線、
さらにもしくは(無)から、生まれたという。
「ビッグ・バン」と呼ばれる、大爆発によって、
生まれたという。
しかも、こうしたビッグバンが、私たちの
知らないところで、常に、無数に起きている
という。
もちろん私たち人間は、私たちが住む、この
大宇宙しか知らない。
この大宇宙しか、見ることができない。
そのため、この大宇宙だけが、大宇宙だと思っている。
が、「そこに見えないから」という理由だけで、
ほかの大宇宙を否定してはいけない。
私たちが今もっている、時間や空間の概念ほど、
これまたアテにならないものはない。
私たちがいう1秒にしても、別の天体では、
数万年かもしれない。
私たちがいう数万年にしても、別の天体では、
ほんの1秒かもしれない。
空間にしてもそうだ。
この大宇宙で、「遠い」「近い」という言葉を
使うこと自体、ナンセンス。
また「光の速度以上の速度は不可能」という。
しかしこの大宇宙の果てには、その光の速度以上の
速さで、この地球から遠ざかっている星がある。
もしそうだとするなら、その星から見れば、
私たちの住むこの地球が、光の速度以上の速さで
遠ざかっていることになる。
私たちの常識を基準にして、この大宇宙を考えては
いけない。
別の大宇宙については、さらに、そうだ。
そうした大宇宙は、ホーキング博士によれば、
ここにも、そこにも、どこにでもあるという。
けっして、荒唐無稽な話をしているのではない。
私たちが住んでいるこの大宇宙そのものが、
荒唐無稽な世界といえば、これほど荒唐無稽な
世界はないということ。
荒唐無稽というより、「不可思議」?
それがわからなければ、宇宙の(果て)に、
思いをはせてみたらよい。
この大宇宙には、(果て)がないという。
(果て)がないこと自体、不可思議なこと
ではないか?
つまり私は果てのない宇宙に住んでいる。
そのこと自体が、荒唐無稽な話ではないか?
話がそれたが、しかし現実に、私たちはここに
いて、ここで生活をしている。
わかりやすく言えば、(ありえない世界)で、
こうして生きている。
アインシュタインの言葉を借りるまでもない。
「この世界すべてが、奇跡」ということになる。
つまり私たちがいう、(あの世)は、今の
今も、つぎからつぎへと生まれている。
(同時に、消滅もしているが……。)
となると、私たちが住んでいる(この世)が、
(あの世)であっても、何もおかしくない。
同時に、何も(あの世)が理想郷である必要は
ない。
私たちが住んでいる(この世)こそが、理想郷
といってもよい。
この世こそが、「浄土」といってもよい。
つまり(この世)自体に、阿弥陀仏が住んでいる!
もっと言えば、私たちは、極楽往生して、(この世)
にやってきた!
……とまあ、荒唐無稽(?)なことを考える。
あとは、私たちが与えられたこの(奇跡)を、
どう使うとかということ。
私たちは死んで、極楽浄土へ行くのではない。
この世が極楽浄土なのだ!
この世を、極楽浄土にするのだ!
極楽浄土という言葉にかこつけて、「生きる」ということが
どうあるべきかを、もう一度、考えてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 浄土 浄土論 極楽 極楽浄土)
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