Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Saturday, April 19, 2008

*We think, therefore we are

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●情報と思考

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情報と思考は、別。
もの知りな子どもイコール、頭がよいということ
にはならない。

たとえば掛け算の九九をペラペラと言ったからと
いって、その子どもは、頭がよい子どもとは言わない。
いわんや、算数ができる子どもとは、言わない。

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 もちろんテレビ番組の影響だが、子どもたちの世界でも、「IQサプリ」「知能サプリ」という言葉が、日常的に使われるようになった。昔でいう、「トンチ」、あるいは「ダジャレ」と考えればよい。いわゆる、脳みその体操のようなものだが、英語でいう、クイズとか、リドルも、それに含まれる。

 かたくなった脳みそを刺激するには、よい。体でいえば、今まで使ったことのない筋肉を動かすようなもの。しかし誤解してはいけないのは、そういうことができるからといって、頭がよいということには、ならない。またそういう問題で訓練をしたからといって、頭がよくなるということでもない。頭のよさは、論理性と分析力によって決まる。もっと言えば、論理性と分析力は、一応、ひらめき思考とは、区別して考える。

 そのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。

 中に、つぎからつぎへと、パッパッと、言動が変化していく子どもがいる。言うことなすこと、まさに天衣無縫。ひらめきというか、勘がよいから、何かクイズのようなものを出したりすると、その場でスイスイと解いてみせたりする。

 が、そういう子どもが頭がよいかというと、そういうことはない。トンチや、ダジャレがうまい子どもイコール、頭がよいということではない。(もちろん中には、その両者をかね備えた子どももいるが……。)

 むしろ現実には、いわゆる頭のよい子どもというのは、静かで、落ちついている。どっしりとしている。私はよく、『子どもの頭のよさは、目つきを見て判断したらいい』と言う。このタイプの子どもは、目つきが鋭い。何か問題を出しても、食い入るようにそれをじっと見つめる。

 もちろんこのタイプの子どもは、知能サプリ的な問題でも、スイスイと解くことができる。が、その解き方も、論理的。理由を聞くと、ちゃんとした説明が返ってくる。

 で、私も、そういった番組を、ときどき見る。たまたま昨日(11・19)は、こんな問題が出されていた(「IQサプリ」)。

 四角い紙の真中に、小さい文字で、「つ」と書いてある。これを「失格」とするなら、「合格」は、どんな紙に、どう書けばよいか、と。

 四角い紙の真中に「つ」が書いてあるから、「四角の中に、つ」、だから、「し(つ)かく」と。

 この方法で、「合格」を表現しようとすると、五角形の中に、「う」を書けばよいということになる。「五角形の中に、(う)だから、ご(う)かく」と。

 「なるほど」と思いたいが、しかし、これは論理の問題というよりは、まさにダジャレ。こうした問題が、論理性と結びつくためには、そこに法則性がなければならない。が、その法則性は、どこにもない。その法則性がないから、こうした問題には、発展性がない。もちろん実益もない。

 たとえばこうした問題を土台にして、(形)と(最小の文字)で、言葉を表現できるようにすれば、それが論理性ということになる。

 三角と、(あ)で、「錯覚」
 四角と、(い)で、「鹿」
 五角と、(う)で、「誤解」とかなど。(少し苦しいかな……。)

 つまり、ダジャレは、どこまでもダジャレ。が、それよりも恐ろしいと思うのは、こうした意味のないダジャレが、いくら娯楽番組とはいえ、全国津々浦々に、放送されているということ。そのために、日本人の何割かが、くだらないダジャレにつきあい、時間をムダにする。言いかえると、それまでの巨大メディアを使ってまで、こんなことを全国に知らせしめる必要があるのかということ。

 ケバケバしい舞台。チャラチャラした出演者たち。その出演者たちが、意味もなく、ギャーギャーと騒いだり、笑ったりしている。知恵をみがく番組というのなら、それなりに知性を感ずる番組でなければならない。が、おかしなことに、その知性を感じない。

私は、今の今も、多くの子どもたちを見ている。そういう子どもたちと比較しても、この種の番組は、質というか、レベルが、2つも、3つも低い。つまりそれが、こうした番組のもつ限界ということになる。

【補足】

●情報と思考力

 もの知りイコール、賢い人ということにはならない。つまりその人がもつ情報量と、賢さは、必ずしも一致しない。たとえば幼稚園児が、掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、その子どもは、頭のよい子ということにはならない。もちろん算数のできる子ということにはならない。

 しかし長い間、この日本では、もの知りな子どもイコール、優秀な子と考えられてきた。受験勉強の内容そのものが、そうなっていた。一昔前までは、受験勉強といえば、明けても暮れても暗記、暗記また暗記の連続だった。

 さらにそれで勉強がよくできるからといって、人格的にすぐれた人物ということにはならない。もっとわかりやすく言えば、有名大学を出たからとって、人格的にすぐれた人物ということにはならない。

 しかし私が子どものころは、そうではなかった。学級委員と言えば、勉強がよくできる子どもから選ばれたりした。勉強のできない子どもが、まれに学級委員に選ばれたりすると、先生が、その選挙のやりなおしを命じたりしていた。

 話がそれたが、その子どものもつ情報量と、その子どもがもつ思考力とは、関係はない。(もちろん、中には、その両方を兼ね備えている子どももいる。あるいはその両方ともに、欠ける子どももいる。)

 そこでさらに一歩、情報と思考について、考えてみる。

 情報というのは、ただ単なる知識にすぎない。その情報が、思考と結びつくためには、その情報を、選択→加工→連続化しなければならない。最後にその情報を、論理的に組みあわせて、実生活に応用していく。それが思考である。

 これをまとめると、つぎのようになる。

(1) 情報量(情報そのものの量)
(2) 情報の選択力(必要な情報と、そうでない情報の選択)
(3) 情報の加工力(情報を別の情報に加工する力)
(4) 情報の連続性(バラバラになった情報を、たがいに結びつける)
(5) 情報の応用性(情報を、実用的なことに結びつける)

 (1)の情報量をベースとするなら、(2)~(5)が、思考力の分野ということになる。

 言うなれば、「IQサプリ」にせよ、「知能サプリ」にせよ、(1)の段階だけで、停止してしまっている。「だからどうなの?」という部分が、まるでない。ムダだとは思わないが、しかしその繰りかえしだけでは、意味がない。

 以前、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。情報と思考のちがいがわかってもらえれば、うれしい。

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●知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年・田丸先生指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、1533~92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。
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