Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Monday, May 02, 2011

●Eマガ創刊のころ(10)

件名:子育て情報(はやし浩司)11-23

 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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    子育て最前線の育児論
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01-11-23号(15)
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 by はやし浩司(ひろし)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

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ウィルス対策について……
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文字化けして、お読みになりにくい点がありましたら、
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より、(マガジン読者)のコーナーへおいでください。少しだけ読みやすくしてあります。
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今回も、マガジンをご愛読くださり、感謝しています。ありがとうございます!
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メニュー

(1)よい幼稚園の選び方
(2)よい先生の見分け方(子どもとの相性を知る)
(3)教育者の美談にだまされない法
(4)子どもを本好きにする法(子どもの方向性を知る)

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来春、R社から新しい本を出します。よろしくお願いします。
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あなたは、目上の人でも、目下の人でも、同じような電話をかけていますか?
権威主義的なものの考え方をする人、つまり無意識のうちにも、人間の上下関係を
つくる人は、目上の人に対する態度と、目下の人に対する態度が、まるで違います。
そんなことを書いたのが、「親子の関係がぎくしゃくするとき」です。どうか
お読みください。

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よい幼稚園を選ぶ法(先生を見て選べ!)

親が幼稚園を選ぶとき 

●「どこの幼稚園がいいですか?」
 「どこの幼稚園がいいですか」という問い合わせが、ときどきある。私のばあい、立場上、具体的に幼稚園の名前を出すということはできない。しかしよい幼稚園を選ぶポイントはある。その一。まず園長を見る。園長が運動服でも着て、園児の中で汗をかいている幼稚園はすばらしい。理由がある。教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでも手がかけられる。反面、手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。しかし園長が率先して教育の中に飛び込んでくるような幼稚園では、現場の先生は手を抜くことができない。
 次に、幼稚園は子どもの視点で見る。たとえばピカピカにみがかれた、汚れ一つない幼稚園は、親には受けがよい。しかしそれは子どもの世界ではない。よい幼稚園というのは、園舎のあちこちに子どもの臭いがする。落書きがあったり、いたずらをしたあとが残っていたりする。そういう臭いがする幼稚園は、よい幼稚園ということになる。そして三つ目のポイントは、哲学があるかどうかということ。富士宮市にR幼稚園というのがある。その幼稚園では、独自に玄米食の給食をしている。給食の時間になると、子どもたちが「♪カメカメカメよ、カメさんよ」と歌を歌いながら、玄米を懸命にかみながら食べている。大阪市のI幼稚園の園長は、ものを大切にするという意図から、いつもヨレヨレのスーツを着ている。浜松市のK幼稚園では、無数の動物を飼っている。私が見に行ったときも、アヒルの子どもが生まれて、子どもたちはワイワイと喜んでいた。そういう幼稚園は、すばらしい。
●幼稚園は先生を見て選ぶ
 が、何といっても最大のポイントは、現場の先生だ。先生が生き生きと活動している幼稚園は、すばらしい。よい幼稚園には活気がある。先生もハツラツとしている。明るい声が飛び交っている。静岡市の郊外にR幼稚園という幼稚園がある。その職員室でお茶を飲んでいたときのこと。若い先生たちが、大きな声で、「今日の資料できていますかア!」「ハイ、できてるわよ!」と、皆が声をかけあっていた。そういう幼稚園は、すばらしい。「先生」というには、「先に生き生きとするから先生」、……というのは、こじつけだが、しかし先生と言うのは、そうでなくてはいけない。その活気の中に、子どもたちが巻き込まれていく。あるいは先生が庭にいたりすると、子どもたちが、先生のまわりに集まってくる。先生に飛びついたりして、楽しそうにはしゃいでいる。そういう幼稚園はすばらしい。子どもと先生の関係を、外から観察してみるとそれがわかる。もちろんあまり推薦できない幼稚園もある。経営第一主義の幼稚園だ。それを感じたら、子どもをやらないほうがよい。こういう幼稚園はやることだけはどこか派手だが、一本スジが通っていない。それについてはここにはこの程度しか書けないが、要するにここに書いたすばらしい幼稚園の、反対の幼稚園だと思えばよい。
●メリハリのある授業がよい授業
 また先生のよしあしは、メリハリのある授業ができるかどうかでみる。発言のときになると、子どもたちが自由かったつに意見を言い、作業のときになると、シーンと静まりかえる。しっかりとした口調で、テキパキと指導を進める。そういう授業のできる先生はすばらしい。が、一番のポイントは、子ども好きの先生かどうかということ。教えることを楽しんでいるかどうかでみる。子どもが何かを失敗したときの様子をみれば、それがわかる。先生が子どもを叱るときでも、子ども好きの先生だとどこかなごやかな雰囲気になる。そうでない先生は、ピリピリとした雰囲気になる。
 ……とまあ、偉そうなことを書いてしまったが、許してほしい。園長や現場の先生なら、私のような人間にこういうことを言われると、頭にカチンとくるものだ。「教育は権威だ」「運動着など着られるか」と言う園長もいるにはいる。そういう気持ちはよくわかる。一応ここでは、私は常識的なことを書いた。あくまでも一つの参考になればよい。

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子どもと先生の相性を見分ける法(休み時間を観察せよ!)

子どもがよい先生を見分けるとき

●よい先生VS悪い先生
 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教える」という立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに毎日のように心を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っているときでも、子どもたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしまう。よく「仕事のストレス」を問題にする人がいる。しかし私のばあい、職場そのものが、ストレス解消の場となっている。
●「子ども的」ということ
 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし誤解しないでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに知識は乏しく、未経験だが、決して、幼稚ではない。むしろ人間は、おとなになるにつれて、多くの雑音の中で、自分を見失っていく。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、何ら恥ずべきことではない。特に私のばあい、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の貿易業務を手伝ったり、医学の世界をかいま見たこともある。しかしこれだけは言える。園や学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世界よりは、はるかに少ない。
●目線が子どもと同じ高さ?
 そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高さにいる先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプの先生は妙に権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらしい世界を、ムダにしている。それはちょうど美しい花を見て、それを美しいと感動する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあるごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子は問題児」とこぼす先生である。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明るさが消える。
 そこで子どもと先生の相性があっているかどうかを見分ける、簡単な方法……。子どもに紙とクレヨンを渡して、「園の先生と遊んでいるところをかいてね」と指示する。そのとき子どもがあれこれ先生の話をしながら、楽しそうに絵をかけばよし。そうでなく、子どもが暗い表情になったり、絵をかきたがらないようであれば、子どもと先生の相性は、よくないとみる。もしそうであれば、この時期はできるだけ早い機会に、園長なら園長に相談して、子どもと先生の関係を調整したほうがよい。

(参考)
●教師の外部評価制
 教師の指導力を、地域住民がチェックするという「外部評価制」が、二〇〇二年度より東京都品川区で実施されることになった。評価結果は項目ごとに四段階で示され、年度末に公表し、学校選びの目安にしようというもの。一つの自治体が小中学校に外部評価を導入するのはたいへん珍しい。学校そのものを外部のきびしい目にさらすことで、学校改革を促す試みとして、今注目されている。
 品川区には現在、公立小中学校は五八校あるが、各学校ごとに保護者と地域の住人数一〇人に「評価モニター」を委託し、月に一度以上学校を訪れてもらい、一年間かけて学校の様子を評価してもらおうというもの。具体的には、①教員の指導が行き届いているか、②いじめなどで子どもが不当な扱いを受けていないか、③学校の方針は妥当かなど、約二〇項目についてA~Dの四段階で評価する。結果は品川区のホームページで公表し、区が新入生に配る学校案内にも掲載されるという。また評価の低かった項目については、各学校に改善計画を提出させ、評価結果とあわせて公表するという。
●私の経験から……
 「古い体質をなかなか変えようとしない学校教育を改善するには効果的」(若月秀夫教育長)ということだが、私ももう二〇年近く前に、浜松市内の小学校について、学校に対する評価を調査したことがある。しかしその結果、①評価は、複数の学校を相互に比較してはじめて可能。②客観的評価は、たいへん難しいの二点で、「この種の調査は、あまり意味がない」という結論を出したことがある。その学校しか知らない父母や子どもに、「あなたの学校をどう思いますか」と質問しても、その質問自体にあまり意味がないということ。そこで県外からの転校生や、兄弟で別々の学校に通っている子どもやその父母に聞き取り調査をしてみたが、今度はサンプル数そのものが少なくて、「結果」と言えるほどまでに集計できなかった。さらに親の評価はたいへん主観的なもので、「友だち先生」をよい先生とする親もいれば、悪いとする親もいる。また同じ先生でも、比較的勉強がよくできる子どもの親はよい先生と評価し、勉強ができない子どもの親は悪い先生と評価するということもわかった。品川区のお手並みを拝見したい。

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教育者の美談にだまされない法(美談にだまされるな!)

教育者が美談を口にするとき

●どこかおかしい美談
 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話がある。
 あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやってきて、「あなたのもっているペンをくれ」と頼んだという。理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強をして、この国を救う立派な人間になりたい」と。そのタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(二〇〇〇年夏、H市での教育講演)。しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神をもっている子どもが、「ペンをくれ」などと、物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れても、インクの補充はどうするのか。「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレントは言いたかったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。
 一五年ほど前のこと。K県の私塾連盟の有志が、トラック一杯の学用品を、インド洋にあるS国に送ったことがある。で、その二年後、その文房具がどう使われているか、二人の教師が見に行った。が、それらの文房具はほとんど手つかずのまま、倉庫に眠っていたという。理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の一日の給料よりも高価なノートや鉛筆を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう話ならわかるが、「立派な人間になりたい」とは?
 そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおかしい。貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取りあげられ、その後、映画にもなった。しかし私がその場にいた親なら、かけそばには箸をつけない。「私はいいから、お前たちだけで食べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこんな話も……。
●「ぼくのために負けてくれ」
 運動会でのこと。これから一〇〇メートル走というときのこと。横に並んだB君(小二)が、A君にこう言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。そこでA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならない思い、途中から本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。ある著名な教育家が、ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものがおかしい。その教育者は、二人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたことのある人ならすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、小学二年生には、まだない。仮にあったとしても、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな話も……。
●こんな美談も……
 ある小学校教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。小学一年生の生徒たちが、「先生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出ていた。そこでその教師は、三〇分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そして再び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立つときは心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。その三〇分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、子どもたちは教室に残されたままだったということになるのだが……?
 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意したらよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい話で自分の説話を飾りたがる。

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子どもを本好きにする法(方向性は図書館で知れ!)

子どもの方向性を知るとき 

●図書館でわかる子どもの方向性
 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。数時間、図書館の中で自由に遊ばせてみればよい。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性にすなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツがある。
●無理をしない
 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一~二年、レベルをさげる。親というのは、どうしても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子どもには、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。本の選択は、子どもに任す。こういう親がいた。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本をもってくると、「こんな本はダメ。もっといい本にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本から遠ざける。
●動機づけを大切に
 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。本のばあいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるとよい。この動機づけがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは読む意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。
●文字を音にかえているだけ?
 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力があるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」、子「……わかんない」と。もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終えたら、その内容について絵をかかせるとよい。読解力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。なお読解力のある子どもは、一ページを読むごとに深く考える様子をみせたり、そのつど挿し絵を見ながら読む。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。
●文字の使命は心を伝えること
 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。接続詞という言葉こそ使わないが、小学二年生から、その接続詞の使い方を学ぶ。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、五人に三人はいる。

(付記)
●私の記事への反論
 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときには、途中で、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読み聞かせをしている人からだった。
 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひとりの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。パソコンを相手にしていると、そういう場面によく出あう。「TIFFファイル(インターネットファックスファイル)を、EASYFAXPRO2001EXのファックスビューワーに関連付けますか」などという表示が突然出てきたりすると、パソコン歴三〇年以上の私ですら、いまだにドキッとする。あくまでも子どもの立場で考えたらよい。






件名:子育て情報(はやし浩司)12-9

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2002年、ほぼ1年半ぶりに、(株)リヨン社から新刊を出します。
どうか、そのときは、よろしくお願いします。

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16号のメニュー
(1)子どもを過保護から守る法
(2)子どもの燃え尽きを防ぐ法
(3)子どものウソをつぶす法

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親が子どもに手をかけすぎるとき

●「どうして泣かすのですか!」 
 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。
S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。
●親が先生に指導のポイント
 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがいになっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こういうときには、こう指導してください」と。
●泣き明かした母親
 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。
●「先生、こわい!」
 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だった。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今でも、そうだ。そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこの子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。
●自分勝手でわがまま
 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が遅れる。
 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイプの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけで育ったような感じになる。人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとりでは何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れないなど、溺愛児に似た特徴もある。
●「心配」が過保護の原因
 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そしてその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動面で過保護にするケースなどがある。
 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけで、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくなる。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。
 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にしているかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されることになる。
●じょうずに手を抜く
 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずにだが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。
『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分でさせるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。
『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるにしても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえて言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。
●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくなる。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それはちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがたいへんになる。
 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにならない。これは子どもを育てるときの常識である。

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子どもの心が燃え尽きるとき

●「助けてほしい」   
 ある夜遅く、突然、電話がかかってきた。受話器を取ると、相手の母親はこう言った。「先生、助けてほしい。うちの息子(高二)が、勉強しなくなってしまった。家庭教師でも何でもいいから、してほしい」と。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラス中、二~三人。二年生で、五~六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。一クラス四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみるか、少ないとみるか?
●燃え尽きる子ども
 原因の第一は、家庭教育の失敗。「勉強しろ、勉強しろ」と追いたてられた子どもが、やっとのことで目的を果たしたとたん、燃え尽きることが多い。気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減退、朝起きられない、自責の念が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、強い虚脱感と疲労感を訴えるようになる。概してまじめで、従順な子どもほど、そうなりやすい。で、一度そうなると、その症状は数年単位で推移する。脳の機能そのものが変調する。ほとんどの親は、ことの深刻さに気づかない。気づかないまま、次の無理をする。これが悪循環となって、症状はさらに悪化する。その母親は、「このままではうちの子は、大学へ進学できなくなってしまう」と泣き崩れていたが、その程度ですめば、まだよいほうだ。
●原因は家庭、そして親
 親の過関心と過干渉がその背景にあるが、さらにその原因はと言えば、親自身の不安神経症などがある。親が自分で不安になるのは、親の勝手だが、その不安をそのまま子どもにぶつけてしまう。「今、勉強しなければ、うちの子はダメになってしまう!」と。そして子どもに対して、しすぎるほどしてしまう。ある母親は、毎晩、子ども(中三男子)に、つきっきりで勉強を教えた。いや、教えるというよりは、ガミガミ、キリキリと、子どもを叱り続けた。子どもは子どもで、高校へ行けなくなるという恐怖から、それに従った。が、それにも限界がある。言われたことはしたが、効果はゼロ。だから母親は、ますますあせった。あとでその母親は、こう述懐する。「無理をしているという思いはありました。が、すべて子どものためだと信じ、目的の高校へ入れば、それで万事解決すると思っていました。子どもも私に感謝してくれると思っていました」と。
●休養を大切に
 教育は失敗してみて、はじめて失敗だったと気づく。その前の段階で、私のような立場の者が、あれこれとアドバイスをしてもムダ。中には、「他人の子どものことだから、何とでも言えますよ」と、怒ってしまった親もいる。私が、「進学はあきらめたほうがよい」と言ったときのことだ。そして無理に無理を重ねる。が、さらに親というのは、身勝手なものだ。子どもがそういう状態になっても、たいていの親は自分の非を認めない。「先生の指導が悪い」とか、「学校が合っていない」とか言いだす。「わかっていたら、どうしてもっとしっかりと、アドバイスしてくれなかったのだ」と、私に食ってかかってきた父親もいた。
 一度こうした症状を示したら、休息と休養に心がける。「高校ぐらい出ておかないと」式の脅しや、「がんばればできる」式の励ましは禁物。今よりも症状を悪化させないことだけを考えながら、一にがまん、二にがまん。あとは静かに「子どものやる気」が回復するのを待つ。


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子どものウソをつぶす法(過干渉を避けろ!)

子どもがウソをつくとき
●ウソにもいろいろ
 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。
 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。
 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。
●空想の世界に生きる子ども
 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。
 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこともあった。
●「お前は自分の生徒を疑うのか!」
 ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常識では考えられなかった。そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情のまま、やはりことこまかに話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?
 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を聞いた。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落としたという金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことがたびたび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、そのつど、どこかつじつまが合わなかった。そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えることにした。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。
ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引きさがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」といくら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。
●空中の楼閣に住まわすな
 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。
●ウソは、静かに問いつめる
 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。
 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのいい子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側から見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。
 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもをやってしまうことになるから注意する。


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