Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 17, 2008

Freedom of Speech (part1)

【民主主義一考】
What is the Democracy for the Japanese?

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日本人にとって、民主主義とは何か?
私たちが「民主主義」と思っているものは、
それは外国から見れば、まるで異質のもの。

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私たちがもっとも恐れなければならないのは、独裁政治。
戦前の日本を見るまでもない。
現在の北朝鮮を見るまでもない。

そこで民主主義ということになるが、
「選挙をしているから、民主主義」ということにはならない。
むしろこの(選挙)こそ、魔物。
ときとして、世俗的愚衆が、国の進むべき道を誤らせることもある。
1人の代表者が、選ばれたことをよいことに、
好き勝手なことをすることもできる。
つまり選挙そのものが、独裁者の道具として利用されることもある。
戦前の日本を見るまでもない。
現在の北朝鮮を見るまでもない。
北朝鮮の正式な国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」である。
「民主主義」という言葉が、そこにあることに注目してほしい。

そこでギリシア時代のアテナイでは、官職は、くじ引きで選ばれていた。
民イコール、国であり、国イコール、民であるという考えに根ざす。
つまり民主主義という制度は、制度の問題ではなく、その構成員である、
民衆の意識の問題ということになる。

その意識のない国民に、いくら民主主義の重要性を説いても、無駄。
その意識のない国民が、いくら選挙をしても、無駄。
まさにネコに小判(失礼!)。

よい例が、今の日本。

どこかのお笑いタレントが、知名度を利用して、いきなり、
どこかの県の知事になったりする。

あとはお祭り騒ぎに、バカ騒ぎ。
先日も私の近くに住む知人が、あのM県へ行ってきた。
どこかの観光地に行ったのだが、そこにたまたま、あの知事がいたという。
そこでその知人は、その知事と記念撮影。
その知人は、その写真を誇らしげに(?)、みなに、見せていた。

方向こそ逆だが、あの北朝鮮で、「金xx様、金xx様」と騒ぐ民衆と、
どこがどうちがうというのか。

民主主義に対しする一片の畏敬の念すら、ない。
あればそんなバカなことはできない。
私は何も、お笑いタレントが知事になってはいけないと言っているのではない。
そういう人を選ぶ、選挙民が、どうかしていると言っている。
いや、そういう知事に対して、批判的な人も多いはず。
しかしそういう声は、巨大な知名度の前では、ブルドーザーに立ち向かう、
立て札程度の力しかない(※1)。

そこで「思想」ということになる。
選挙について言えば、「弁論」ということになる。
しかしこの弁論ほど、これまたアテにならないものはない。

たいていは美辞麗句。うそにインチキ。大衆にとって心地よい言葉の羅列(られつ)。
へたをすれば、政治そのものが、個人の立身出世主義の道具として利用される。
つまりここにも、選挙がもつ限界が、潜む。

では、どうすればよいのか?

結局は、(考える力)ということになる。
たとえば政治家にしても、思想に思想を重ね、議論に議論を重ね、
その結果として、練りに練られた状態で、政治をめざすなら、よい。

知名度は、あくまでも、あとからついてくるもの。
が、この日本では、それが逆。
まず知名度を利用して、政治家になる。政治家になったあと、
思想らしきものを用意する(?)。

当のM県では、「観光客がふえた」とか、「新婚旅行客がもどってきた」とか言って
喜んでいるそうだが、それを喜ぶのは、まさに世俗的愚衆。
もし日本中の、あちこちの県が、それをまねたら、この日本は、どうなる?
すでに、その兆候は、あちこちに、見え始めている。

私たちは、あの戦争で何を学んだのか?
あの戦争の、どこをどう反省したのか?
アメリカという外圧によって与えられたものかもしれないが、民主主義という
ものを、どう理解しているのか?

民主主義というのは、攻撃的な姿勢で守って、はじめて守れるもの。
そこにある空気のようなものだと思っていたら、おおまちがい。

たとえば言論の自由とはいうが、この日本では、バカなことを
言ったり書いたりする自由は、ある。
しかし宗教団体や皇室、さらには建設業界や官僚を批判したら、
たちまち猛攻撃にさらされる。命の保証すらない。
仕事すら回ってこなくなる。

ちなみに、日本の報道の自由度は、先進7か国の中では最低の42位(※2)。
42位だぞ! 

いいのか、日本! このままで!

(注※1)

●知名度

かつて、こんな調査がなされた。「上司としてふさわしいのは、どんな人物か?」と。

その結果、テレビでの知名度順に、お笑いタレントたちが、ズラリと名を連ねた。それもそのはず。

こういう例で考えてみよう。

A氏、知名度90%。1億x0・9=9000万人の人がその名を知っている。

B氏、知名度10%。1億x0・1=1000万人の人がその名を知っている。

しかしA氏に対して嫌悪感を抱いている人は多い。約80%の人が嫌悪感をいだいているとする。で、残りの20%の人が、A氏を支持したとする。結果、支持者の数は、9000万x0・2=1800万人となる。

一方B氏のほうは、反対に約80%の人が好感をもっていたとする。従ってその支持者の数は、1000万x0・8=800万人となる。

A氏の支持者は、嫌悪感をいだく人が7000万人もいたとしても、1800万人。
B氏の支持者は、そのほとんどが好感をもっているとしても、800万人。

もしこういう計算が、選挙にも働くとしたら……。A氏とB氏が、同じ選挙区で立候補したら、その勝敗は、選挙の前に決まっていることになる。それがここで私が言う、「ブルドーザーに立ち向かう立て札程度」という意味である。

(注※2)

●報道の自由度、42位

パリ発10月26日の時事通信によれば、日本の報道自由度は、昨年と比べわずかにランクアップしたものの、先進7カ国中最低の42位だったという。報道の自由の擁護を目指す国際団体、「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)は、世界167カ国の報道の自由度の順位を発表した。

 最上位は、デンマークやアイルランドなど北欧を中心とする欧州8カ国。最下位はランクづけ発表当初から3年連続で、北朝鮮だったという。 

 日本では、一応、報道の自由が確保されているかのように見えるが、国際的にみれば、どうも、そうではないということのようだ。

 くだらないゴシップ記事のような報道については、たしかに、自由はある。何を書いてもよいという、つまりは無責任な姿勢はある。しかし報道の自由といっても、あくまでも、そのレベル。

 日本の外で、よく問題にされるのが、皇室報道。さらには官僚批判。私も、いろいろなテーマについてものを書くが、こうしたテーマでものを書くときは、いつもどこかで、何かしらの(息苦しさ)を覚える。

 この(息苦しさ)こそが、日本の報道の自由の限界ということになる。日本は、世界に名だたる、官僚主義国家。日本の中だけに住んでいる人には、それがわからない?

 あのK国が最下位だったということについては、異論はない。しかしあのK国の人たちは、自分たちではそうは思っていない。「外の世界のほうが狂っている」と思っている。その国の人がもっている、意識というのは、そういうもの。

 しかしそれにしても、42位とは! この数字には、いろいろ考えさせられる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●はびこるカルト信仰(Cult)

  ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中心に、三~四名の若者があと追い自殺をした。

家族によって闇から闇へと隠された自殺者は、もっと多い。自殺をする人にはそれなりの人生観があり、また理由があってそうするのだろうから、私のような部外者がとやかく言っても始まらない。しかしそれがもし、あなたの子どもだとしたら……。

 一九九七年の三月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件がアメリカで起きた。「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。結果、三九人の若者が犠牲になった。

この種の事件でよく知られている事件に、一九七八年にガイアナで起きた人民寺院信徒による集団自殺事件がある。この事件では、何と九一四名もの信者が犠牲になっている。なぜこんな忌まわしい事件が起きたのか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起きない」と考えるのは早計である。子どもたちの世界にも大きな異変が起きつつある。現実と空想の混濁が、それである。

あの「たまごっち」にしても、あれはただのゲームではない。あの不可解な生きもの(?)が死んだだけで、大泣きする子どもはいくらでもいた。そして驚くなかれ、当時は、あのたまごっちを供養するための専門の寺まであった。ウソや冗談で供養しているのではない。本気だ。本気で供養していた。中には手を合わせて、涙を流しているおとなもいた(NHK『電脳の果て』)。

さらに最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯楽の範囲だからよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったらどうなるか。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、二一世紀は暗い。一緒に死のう」と言えば、それに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現の自由だなどと、のんきなことを言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、その延長線上にいるにすぎない。

 さて世紀末。旧ソ連崩壊のときロシアで。旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞれカルト教団が急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをなくしたとき、こうしたカルト教団が急速に勢力を伸ばす。

終戦直後の日本がそうだったが、最近でも、経済危機や環境問題、食糧問題にかこつけて、急速に勢力を拡大しているカルト教団がある。あやしげなパワーや念力、超能力を売りものにしている。「金持ちになれる」とか「地球が滅亡するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト教団もある。

フランスやベルギーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、この日本ではまったくの野放し。果たしてこのままでよいのか。子どもたちの未来は、本当に安全なのか。あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。あなたの子どもが犠牲者になってからでは遅い。

このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくりとながめてみてほしい。