Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Sunday, February 17, 2008

*Freedom of Speech (Part2)

●日本人の依存性を考えるとき(Dependance of the Japanese) 

●MSの『おくふろさん』

 MSが歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日本人独特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろんのこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻ってきたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。できないというより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭では、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え方が徹底している。こんなことがあった。一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させること」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどうだろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、それである。

たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア~(だから何とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア~(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強くなると、こういう言い方をする。私「この問題をやりなおしなさい」、子「ケシで消してからするのですか」、私「そうだ」、子「きれいに消すのですか」、私「そうだ」、子「全部消すのですか」、私「自分で考えなさい」、子「どこを消すのですか」と。実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さてMSの歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

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 この記事についての、批評、批判は少なくなかった。こうした日本の名曲を評論するのは、実際のところ勇気がいる。書くほうとしては、それだけのインパクトをねらって書くが、ばあいによっては、読者の逆鱗に触れる。で、この記事はその逆鱗に触れた。今日、からんできた人も、その一人だ。

 が、ここで改めて、日本人の依存性について書くつもりはない。それについては、もうあちこちで、何度も書いてきた。だからここでは、その先について、書く。

 こうした原稿を読んで、不愉快に思うなら、それはそれでよいのでは……? 私は、MSの『おふくろさん』のファンの人に、攻撃をしかけたわけではない。「こういう見方もある」という立場で書いた。それが逆鱗に触れたからといって、つまり私を個人攻撃しても意味はない。そういう攻撃を受けたからといって、私は一度書いたものについての意見は曲げない。(自分で訂正することはある。)また私が自説をひっこめたところで、どうにかなる問題でもあるまい。あるいは私が、「あの原稿の中で書いたことはまちがっていました」と書くとでも、思っているのだろうか。しかもその記事を発表してから、すでに一年半以上もたっている。アフターサービスという考え方からしても、すでに保証期間(?)は過ぎている。

 私はまったくフリーの立場にいて、公的な役職も、責任も、まったくない。要するに、私の意見に同意できなければ、「同意できない」ですむ話である。それをああでもない、こうでもないと批判するなら、その人はその人で、自分の意見を書いて、世に問えばよい。それが言論の自由というものではないのか。

 ときどき自分でも、「どうしてこんな仕事をしているのだろう」と思う。「私にとって、メリットは何か」とも。地位や肩書きなど、私にはもとから無縁だし、名誉といっても、地位や肩書きのように「中身」がはっきりしない。金銭的な利益といっても、こうして地方に住んでいると、ほとんど、ない。ここに「仕事」と書いたが、仕事にはならない。

 いや、もう少し若いころは、有名になりたいと思ったこともある。しかし今からでは遅過ぎる。そういう気力そのものが、消えた。いや、有名になることの虚しさが、自分でもわかるようになった。そしてそれにかわって、私はこの世の中に生きてきた痕跡(こんせき)を残したいと思うようになった。よく私は、「自分の書いたものは、墓石のようなもの」と書くが、それは本心である。私はワイフや息子たちに、「死んでも墓はいらない。私の書いたものを墓と思ってくれ」と言っている。遺言のようなものだが、これも本心である。

 だから私は書く。思ったこと、考えたこと、それを書く。それが評価されるか、されないかは、他人が決めることであって、私の問題ではない。
(02-8-20)※


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

【考える人】(Independent Thinker)

●「考える」こと

 「考える」ということと、「動物的」ということとは、反比例する。これを計算式で、表現すると、(考える)=(定数)/(動物的)ということになる。(こんな公式を作っても、意味ないが……。)

 つまり人間は考えれば考えるほど、動物的ではなくなるということ。動物が動物であるのは、考えないから。一方、人間が人間であるのは、考えるから。だから公式にするまでもなく、こんなことは当然といえば、当然。

 そこで改めて、「考える」ということは、どういうことなのかを、考えてみる。……と考えて、最初に思いつくのが、「言葉」。私のばあい、(おそらく、ほとんどの人にとっても、そうではないかと思うが……)、言葉があるから考えられる。もっとも言葉がなくても、考えることはできる。絵画や音楽、さらに芸術の世界では、言葉というのは、それほど重要な意味をもたない。

が、私にとっては、「考える」ことイコール、「言葉」ということになる。たとえば今、私はこうして文を書いているが、「書く」ということが、「考える」ということになる。実際、こうして書いているとき以外、私はほとんどものを考えない。……考えることができない。ヒラメキのようなものは、しばしば感ずるが、しかしそれは「考え」ではない。

●考える人 

 考える人からは、考えない人が、よくわかる。(多分、考えない人からは、考える人がわからないだろうが……。)たとえば、考えない人は、どこか動物的。ものの考え方が、短絡的。直感的。浅い。それにすぐ感情的になる。子どもでも、「スベリ台を、下からあがってきた子がいます。どうしますか?」と聞くと、「そういうヤツは、ぶん殴ってやればいい」と答える子どもがいる。原因はいろいろあるが、そういうような発想をする。

 一方、考えない人は、その分、反応が鈍くなる。子どもでもそうで、考える子どもは、どこか様子が重い。「重い」というのは、何かテーマを与えたりすると、それを頭の中で反芻(はんすう)するようなしぐさを見せる。もっとも、それは相対的なもので、考えない子どもと比較してみて、はじめてわかる。考えない子どもは、ペラペラと調子はよいものの、中身がない。

 ……となると、「考える・考えない」は、能力の問題というよりは、習慣の問題ということになる。あるいは教育の問題といってもよい。たとえば日本では、学校の授業でも、「わかったか?」「では、つぎ!」が、教え方の基本的な形になっている。しかしアメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ!」が、教え方の基本になっている。この「形」は、家庭でも同じで、こうした形の違いが、やがて独特の日本人像をつくったともいえる。つまり日本人は、その構造からして、もともと、考える人間をつくる構造になっていない。

●違った意見

 日本人が、考えない民族であることは、世界へ出てみると、よくわかる。あるいは、小学生でもよい。外国の小学生とくらべてみてもわかる。ひとつの基準として、それぞれの子どもが、どの程度、違った意見をもっているかが、ある。それを知れば、それがわかる。

 たとえばオーストラリア人の子どもに、「将来、何になりたい?」と聞くと、それぞれが、てんでバラバラなことを言い出す。中には、「イタリアの女王様になりたい」と言う子ども(女児)もいる。おそらく一〇人に聞けば、一〇人の意見が出てくるのでは……。しかし日本では、子どもの意見というのは、そのときどきにおいて、流行に流される。そして子どもたちのものの考え方は、ある一定のパターンに集約される。……することができる。

 少し話がそれるが、この私の意見を補足するために、こんなことを書いておきたい。

 七〇年代に、中国の北京大学へ留学したオーストラリア人の友人がいた。その友人が、北京から帰ってきて、こう言った。「向こうでは、みな、テープレコーダーみたいだった」と。つまりどの学生も、同じ意見しか言わなかったというのだ。こうした傾向は、独裁国家ほど、顕著になる。ほかの意見をもたせない。もつことを許さない。つまりそもそも考える人間を必要としていない。

 では、日本はどうか。日本はどうだったか。日本も戦前は、今の北朝鮮のようなものだった。あるいは江戸時代は、今の北朝鮮以上に北朝鮮的だった。こうした傾向は、私が子どものときですら、何かにつけて、まだ色濃く残っていた。よく覚えているのは、政府を批判しただけで、父や母から、それをとがめられたこと。あるいは「天皇」と呼び捨てにしただけで、父に殴られたこと。岐阜県の田舎のほうでは、言論の自由はもちろん、思想の自由すらなかった。

●考える人間にするために

 こう考えると、日本人が考えない民族であることは、民族性というよりも、長くつづいた封建時代と、そのあとの君主(天皇)官僚制度の中で、「ものを考えない国民」に飼育されたためということになる。しかもそれがあまりにも長くつづいたので、「考えない」ということが、社会のスミズミまで、根をおろしてしまった。あるいは、脳の構造そのものにまで、影響を与えてしまった。

 言いかえると、日本人を考える国民にするということは、同時に、こうした過去の亡霊との決別を意味する。またその決別なくして、日本人を考える国民にすることはできない。教育の世界では、いかにして、中央による思想管理を排除するかということにもなる。家庭においては、いかにして、価値観の多様性を、親がもつかということになる。

たとえば教科書問題をひとつ取りあげても、いまどき、検定制度があること自体、おかしい。国としては、「まちがったことを教えたくない」という意図があるのだろうが、それは同時に、「思想統一」につながる。繰り返すが、中央政府が、思想を統一しようとすればするほど、それは国民から考える力を奪うことになる。

 今、この日本で大切なことは、たとえば「A」というテキストで学んだ子どもと、「B」というテキストで学んだ子どもが、たがいに自由に意見を対立させ、討論することである。「考える」という習慣は、そういう軋轢(あつれき)の中から、生まれる。

 家庭においても、同じで、今のように、「学校以外に道はなく、学校を離れて道はない」と親が考えているような状態の中で、どうやって子どもの個性を伸ばすことができるというのか。親自身が、ガチガチの思想にこりかたまっていて、子どもに向かって、「個性をもて」「もっと考えろ」は、ない。

●「考える」こと

 「考える」というテーマは、実は、このように奥が深い。そしてそのテーマは、個人の問題というだけではなく、社会や家庭など、あらゆる部分にからんでくる。もちろん「考える」ことによって、人間は、より人間らしくなる。つまり「人間とは何か」というテーマにもからんでくる。

 ……と書いても、こんなことは、実は、常識。識者の意見を並べてみる。

 よく知られているのが、パスカル(一六二三~六二、フランスの哲学者、数学者)。『人間は考えるアシである』(「パンセ」)と書いた、あのパスカルである。『人間は一本のアシにすぎない。自然のうちで、もっともひ弱いアシにすぎない。しかし、それは考えるアシである』と。彼は、同じ本の中で、こうも書いている。『思考が人間の偉大さをなす』と。「考えるから、人間は人間であり、そこに人間の偉大さがある」という。

 そのパスカルと、どこかで接点があったのかもしれない。さらに思考の重要性を、完結させたのが、デカルト(一五九六~一六五〇、フランスの哲学者)。『われ思う、ゆえにわれあり』(「方法序説」)という、有名な言葉を残している。「私は考えるから、私はここに存在するのだ」と。もうこの言葉を疑う人は、だれもいまい。

 「考えること」を、決して、粗末(そまつ)にしてはいけない。生きることの「柱」にしてもよいほど、重要な問題と言っても、決して言い過ぎではない。
(02-12-18)

【追記】

●一般論として、人間は、そのレベルに応じて、自分のまわりに仲間をつくる。そこで、では、そのレベルとは何かということになると、思考の深さということになる。思考の深い人は、深い人どうしで集まる。思考の深い人は、浅い人の間にいると、落ち着かない。同じように、思考の浅い人は、浅い人どうしで集まる。思考の浅い人は、深い人の間にいると、落ち着かない。実は、子どもの世界もそうで、もしあなたがあなたの子どもを客観的に、どういう子どもであるかを知りたかったら、あなたの子どもが、今、どんな友だちとつきあっているかを見ればよい。

●それはさておき、子どもでも、考える子どもと、考えない子どもは、かなり早い時期に分かれる。小学一年生くらいの段階で、かなりはっきりしてくる。考える子どもは、考えることそのものを楽しむ。そうでない子どもは、考えることから逃げる。こうした子どもの違いは、かなり早い時期に決まるのでは。おそらく生後まもなくからの、親の接し方によって決まる? 要するに、子どもを考える子どもにしたかったら、親の過干渉などで、子どもを振りまわさないこと。いつも親のほうが一歩、退いて、子どもが自分で自分の考えを言うまで、待つ。この「待つ」という姿勢が、子どもを、考える子どもにする。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●言論の自由(Freedom of Speech)

 週刊「B」が、発刊停止処分になった。元国会議員の娘の記事が問題になった。が、それに対して、東京高裁は、発刊停止を、無効とした。当然である。

 言論の自由は、あらゆる権利の中でも、神聖不可侵な権利である。国民の権利として、最大限尊重されねばならない。たかがこの程度の離婚問題で、言論の自由が制限されたら、たまらない!

 しかしなぜ、その娘の記事が、週刊「B」に載ったか? 理由など、述べるまでもない。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 あなたの周辺にも、離婚した人がいるだろう。しかしそういう人の記事が、週刊「B」に載ることはあるだろうか? ぜったいに、ない! その娘の記事が週刊「B」に載ったのは、あの元国会議員のT氏の娘だからである。

 娘は公人か、公人でないかという議論もある。しかしその娘のことは、私でさえ、よく知っている。母親のT氏と、よくマスコミにも、顔を出してきた。一方で、そうしてマスコミをさんざん利用しておきながら、「私生活を暴かれた」は、ない。

 ただ私にも、言いたいことはある。

 週刊「B」側は、言論の自由を盾(たて)にとって、自分たちの正当性を主張している。しかしこういうくだらない記事は、「言論の自由」というときの言論とは、意味がちがう。ただのゴシップ記事。そういう記事が問題になったからといって、言論の自由が侵害されたと騒ぐのも、どうかしている。

 週刊「B」側は、著名な文士をズラリと並べ、反論記事を掲載した。どの文士も、週刊「B」の息のかかった、イエスマンばかりである。東京あたりで、週刊「B」に嫌われたら、メシを食っていかれない。

 言論の自由。

 本当に、この日本には、言論の自由はあるのかという議論から、始めねばならない。もちろん、くだらないことを、そのレベルで、ギャーギャー騒いでいる間は、問題ない。元国会議員の娘の離婚記事など、その範囲の話題でしかない。

 しかしその範囲をひとたび超えて、たとえば、天皇制の問題、国歌、国旗の問題となると、そうはいかない。さらに日本にはびこる宗教団体の問題。政治と宗教の問題となると、さらにむずかしい。

 こうした問題について、率直な意見を書いたりすると、私のところでさえ、いやがらせの電話などがかかってくる。教室へ怒鳴り込んできた人さえいる。

 まあ、あえて言うなら、週刊「B」も、もう少し、高い視点から、日本をながめたらよいということ。今回の事件は、週刊「B」が、くだらないゴシップ記事を載せた。だから、書かれた人が、待ったをかけた。それだけの事件である。

 それを仰々しく、「言論の自由が侵害された」と、おおげさに騒ぐことのほうが、おかしい。週刊「B」は、たくみに問題をすりかえようとしている。しかし、そうはいかない。

 こうした軽薄なゴシップ記事を書かれた人は、ウソやまちがいがあれば、そのつど、名誉毀損(きそん)か何かで、出版社をどんどん訴えればよい。それは正当な権利である。決して、泣き寝入りしてはいけない。