*When we roll down the Road *Cult
●下り坂を下るとき
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それまでは前だけを見ながら、登りつめてきた道が、
50~60歳になると、今度は、下り坂になる。
「下る」というよりは、「先細り」といったほうが、
正確かもしれない。
それまでの道が、突然、途切れ、その先が、暗い
モヤに包まれる。
そんなとき、自分にこう言って、問う。
「健康は、だいじょうぶか?」
「仕事は、だいじょうぶか?」と。
健康と仕事さえあれば、何とか生きていかれる。
夢や希望があれば、さらによい。
しかしぜいたくは言っておれない。
今、ここに生きているというだけでも、御の字。
「明日は何かあるかもしれない」と思えるだけでも、御の字。
ほかに何を望むことができるのか?
ほかに何ができるというのか?
ワイフはこう言う。
「私たちは幸せなほうよ」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
こういうばあい、他人との比較は、あまり好きではない。
私たちより不幸な人たちは、いくらでもいる。
だからといって、私たちが幸福とは、思いたくない。
他人は他人。
私は私。
人、それぞれ。
で、こういうときは、自分にこう言って聞かせる。
「とにかくがんばるしかない」
「今日、できることを、やるしかない」
「どうせやるなら、懸命にやろう」と。
あとは、日々に、この繰りかえし。
繰りかえしながら、明日に、命をつなげていく。
人生は今は、下り坂。
あとはそれを認めて、あくせくせず生きていく。
とにかく(その日)が来るまで・・・。
この人生観、少し暗いかな・・・?
Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司
●カルト
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昨日も、G―BLOGへのアクセス数が、
1000件を超えた。
(G-BLOGだけだぞ!)
その分、コメントも、いろいろ寄せられた。
そのコメントを読みながら、ふとこんな
ことに気づいた。
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まずAさん(文の感じからして、若い女性)
のコメント。
「S」というグループ・シンガーについて書いた
エッセーについて、(その「S」を批判したわけではないが)、
「結成した年月日がまちがっている」「あなたの
書いていることは、意味不明」と。
つまり一部がまちがっていることを理由に、
私の書いた原稿を、全否定している。
同じようなコメントだが、「あなたは武士道を否定
しているようだが、教育者として資格なし」
というのもあった。
このコメントも、やはり一部が気に入らない
ことを理由に、私のすべてを、全否定している。
こうした傾向……つまり、一部が気に入らないことを
理由に、ほかのすべてを否定するというのは、
カルト教団の信者によく見られる特徴の一つである。
「誇大視化」という。
「巨大視化」ともいう。
少し前だが、こう言ったある仏教系カルト教団の信者がいた。
「キリスト教はまちがっている。キリストは、最期は、
十字架に張りつけになっている。その無惨な死に方が、
キリスト教がまちがっているという証拠だ」と。
こうして考えてみると、(カルト)と呼ばれているものは、
何も信仰の世界だけの話ではないということになる。
ここにもある、そこにもある、どこにでもある。
……となると、もう一度、ここでカルトについての定義を
再確認しておかねばならない。
以前書いた原稿の中から、それをさがしてみる。
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●誇大視化
カルト教団の指導法には、いくつかの特徴がある。その一つが「誇大視化」。「巨大視化」と呼ぶ人もいる。ささいな矛盾や、ささいなまちがいをとらえて、ことさらそれを大げさに問題にし、さらにその矛盾やまちがいを理由に、相手を否定するという手法である。
しかしこうした手法は、何もカルト教団に限らない。教育カルトと呼ばれる団体でも、ごくふつうに見られる現象である。あるいは教育パパ、教育ママと呼ばれる人たちの間でも、ごくふつうに見られる現象である。つい先日も、こんなことがあった。
私はときどき、席を立ってフラフラ歩いている子どもに、こう言うことがある。「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」と。もちろん冗談だし、そういう言い方のほうが、「座っていなさい」「立っていてはだめ」と言うより、ずっと楽しい(?)。そのときもそうだった。が、ここでハプニングが起きた。
そばにいた別の子どもが、その子ども(小二男児)のおしりに顔をうずめて、「クサイ!」と言ってしまったのだ。「先生、コイツのおしり、本当にクサイ!」と。
で、そのときは皆が、それで笑ってすんだ。が、その夜、彼の父親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「息子のパンツのウンチのことで、恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。私はただ平謝りに謝るしかなった。が、それで終わったわけではない。
それから3か月もたったある日のこと。その子どもが突然、私の教室をやめると言い出した。見ると、父親からの手紙が添えられてあった。いわく、「お前は、教師として失格だ。あちこちで講演をしているというが、今すぐ講演活動をやめろ。それでもお前は日本人か」と。
ここまで否定されると、私とて黙ってはおれない。すぐ電話をすると、母親が出たが、母親は、「すみません、すみません」と言うだけで、会話にならなかった。で、私のほうも、それですますしかなかったが、それがここでいう、「誇大視化」である。
たしかに私は失敗をした。しかしそういう失敗は、こういう世界ではつきもの。その失敗を恐れていたら、教育そのものができない。教育といっても、基本的には人間関係で決まる。で、そういう一部の失敗をことさら大げさにとらえ、それでもって、相手を全否定する。ふつうの否定ではない。全人格すら否定する。
そういえば、あるカルト教団では、相手の顔色をみて、その人の全人格を判断するという。「死に際の様子を見れば、その人の全生涯がわかる」と説く教団もある。それはまさに誇大視化である。皆さんも、じゅうぶん、この誇大視化には、注意されたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 誇大視 誇大視化 巨大視 巨大視化)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●心を解き放て!
今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。
実際、妻に向かって「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れても、「K先生、K先生」と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。「ふだんはいい女房だと思うのですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言っているの!』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうするか?
宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴がある。
排他性(他の思想を否定する)、
情報の遮断性(他の思想を遮断する)、
組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、
迷信性(外から見ると?、と思うようなことを信ずる)、
利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。
巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学者もいる。
信仰のし方としては、
催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、
反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)、
隔離性(ほかの世界から隔離する)、
布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)、
献金の奨励(結局は金儲け?)、
妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)など。
その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがある。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団体などがあった。
人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定しても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないということ。みな、それぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、それについては謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また言ってはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の悲しみや苦しみを共有することでしかない。
冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめて、この問題は解決する。
「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人もいるが、妻が入信したとき、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで夫が信仰に反対すればするほど、夫婦関係はさらに崩壊する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 カルトの特徴 カルト カルト信仰の特徴 2006年11月記)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
これらの原稿の中で、とくに重要なのは、
つぎのところ。
少し、補足してみたい。
【カルトの特徴】
●全体的な特徴としては、
(1)排他性(他の思想を否定する)
「私は絶対正しい」と言いながら、その返す刀で、「あなたは絶対に
まちがっている」と切り返す。
他者との価値観の融和性がない。
(2)情報の遮断性(他の思想を遮断する)
他者との接触はもちろん、その教団に対して批判的な団体、もしくは
批判的な記事のある雑誌や本を、極端なまでに排斥する。
「接しただけで、地獄へ落ちる」と教える教団もある。
(3)組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)
徹底した上位下達方式による組織を形成する。
そのため信者は、ロボット化されているとも気づかず、
ロボット化する。
(4)迷信性(外から見ると?、と思うようなことを信ずる)
常識をはずれた行為をしながら、それが常識からはずれている
ことさえ気づかない。
かなり前のことだが、電柱に巻いてあるコイルは、人間を殺すための
新兵器であると説いた教団もあった。
(電柱に巻いてあるコイルは、電設会社の人たちが、予備として、
そうしているだけである。)
(5)利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。
カルトは、たいてい利益論(これを信ずれば、こういう利益があると教える)と、
バチ論(信仰を途中でやめると、恐ろしいことになる)を、ペアにしている。
(6)巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学者もいる。
一部のまちがいを理由に、その相手を完全に否定する。
極端な自己中心性が見られることもある。
●信仰のし方としては、
(1)催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)
(2)反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)
(3)隔離性(ほかの世界から隔離する)
(4)布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)
(5)献金の奨励(結局は金儲け?)
(6)妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)など。
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こうしたカルト性は、何も、カルト教団と呼ばれる、信仰団体だけに
見られるものではない。
「マルクス・レーニン主義」というのも、どこかカルト化している。
最近では、「血液型正確判定」「占星術」「スピリチュアルブーム」も、
どこかカルト化している。
ゲームについても、そうである。
さらに健康法についても、さまざまなカルト性が見られる。
批判めいたことをBLOGに書いたりすると、翌日、ドッと、攻撃的な
コメントが送られてくる。
こうしたカルト化と闘う、ゆいいつの方法は、(1)自分で考え、
(2)常識に従う、である。
できれば自分の考えを文章化してみるとよい。
文章化することによって、自分の考え方の欠陥や、矛盾を自分で知ること
ができる。
あとは、常識に従う。
もっとも、ここでいう常識というのは、世俗的な常識のことではない。
広い視野の常識というか、「おかしいものは、おかしい」と、すなおに
思う常識をいう。
そのために、常に、常識人であることに心がける。
日々に、いろいろな思想に触れ、日々に、いろいろな人の話を聞き、
日々に、音楽を聴き、本を読み、自分の住む世界を広めていく。
こうした努力を怠り、ふと油断したそのとき、私たちはそのままカルトの
世界に入ってしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カルト カルト性 カルト化 狂信 誇大視化 巨大視化)
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