Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, November 25, 2008

*Burnt-Out

子どもの心が燃え尽きるとき

●「助けてほしい」   
 ある夜遅く、突然、電話がかかってきた。受話器を取ると、相手の母親はこう言った。「先生、助けてほしい。うちの息子(高二)が、勉強しなくなってしまった。家庭教師でも何でもいいから、してほしい」と。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラス中、二~三人。二年生で、五~六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。一クラス四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみるか、少ないとみるか?
●燃え尽きる子ども
 原因の第一は、家庭教育の失敗。「勉強しろ、勉強しろ」と追いたてられた子どもが、やっとのことで目的を果たしたとたん、燃え尽きることが多い。気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減退、朝起きられない、自責の念が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、強い虚脱感と疲労感を訴えるようになる。概してまじめで、従順な子どもほど、そうなりやすい。で、一度そうなると、その症状は数年単位で推移する。脳の機能そのものが変調する。ほとんどの親は、ことの深刻さに気づかない。気づかないまま、次の無理をする。これが悪循環となって、症状はさらに悪化する。その母親は、「このままではうちの子は、大学へ進学できなくなってしまう」と泣き崩れていたが、その程度ですめば、まだよいほうだ。
●原因は家庭、そして親
 親の過関心と過干渉がその背景にあるが、さらにその原因はと言えば、親自身の不安神経症などがある。親が自分で不安になるのは、親の勝手だが、その不安をそのまま子どもにぶつけてしまう。「今、勉強しなければ、うちの子はダメになってしまう!」と。そして子どもに対して、しすぎるほどしてしまう。ある母親は、毎晩、子ども(中三男子)に、つきっきりで勉強を教えた。いや、教えるというよりは、ガミガミ、キリキリと、子どもを叱り続けた。子どもは子どもで、高校へ行けなくなるという恐怖から、それに従った。が、それにも限界がある。言われたことはしたが、効果はゼロ。だから母親は、ますますあせった。あとでその母親は、こう述懐する。「無理をしているという思いはありました。が、すべて子どものためだと信じ、目的の高校へ入れば、それで万事解決すると思っていました。子どもも私に感謝してくれると思っていました」と。
●休養を大切に
 教育は失敗してみて、はじめて失敗だったと気づく。その前の段階で、私のような立場の者が、あれこれとアドバイスをしてもムダ。中には、「他人の子どものことだから、何とでも言えますよ」と、怒ってしまった親もいる。私が、「進学はあきらめたほうがよい」と言ったときのことだ。そして無理に無理を重ねる。が、さらに親というのは、身勝手なものだ。子どもがそういう状態になっても、たいていの親は自分の非を認めない。「先生の指導が悪い」とか、「学校が合っていない」とか言いだす。「わかっていたら、どうしてもっとしっかりと、アドバイスしてくれなかったのだ」と、私に食ってかかってきた父親もいた。
 一度こうした症状を示したら、休息と休養に心がける。「高校ぐらい出ておかないと」式の脅しや、「がんばればできる」式の励ましは禁物。今よりも症状を悪化させないことだけを考えながら、一にがまん、二にがまん。あとは静かに「子どものやる気」が回復するのを待つ。


子どもを溺愛児にしない法(溺愛を誤解するな!)
親が愛に溺れるとき 
●溺愛は、愛ではない
 溺愛は愛ではない。代償的愛という。いわば自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手な愛のことだと思えばよい。この溺愛がふつうの愛と違う点は、①親子の間にカベがないこと。こんなことがあった。
参観授業でのこと。A君(年長児)がB君(年長児)に向かって、「バカ!」と言ったときのことである。その直後、うしろに並んでいた母親たちの間から、「バカとは、何よ!」という声が聞こえてきた。またこんな例も。ある母親が私のところにやってきて、こう言った。「先生、私、娘(年中児)が、風邪で幼稚園を休んでくれると、うれしいのです。一日中、娘の世話ができると思うと、うれしいのです。それにね、先生、私、主人なんかいてもいなくても、どちらでもいいような気がします。娘さえ、いてくれれば。それでね、先生、私、異常でしょうか?」と。私はしばらく考えてこう答えた。「異常です」と。
ほかに中学三年の息子が初恋をしたことについて、激しく嫉妬した母親もいた。ふつうの嫉妬ではない。その母親は、相手の女の子の写真を私の前に並べながら、人目もはばからず、大声で泣き叫んだ。「こんな女のどこがいいのですか!」と。
 次に②溺愛する親は、その溺愛を、えてして「親の深い愛」と誤解する。ある高校の山岳部の懇談会で、先生が親たちに向かって、「皆さんは、お子さんが汚した登山靴をどうしていますか」と聞いたときのこと。それに答えて一人の母親がまっ先に手をあげて、こう言った。「この靴が息子を無事、私のところに返してくれたのだと思うと、ただただいとおしくて、頬ずりしています!」と。
●精神的な弱さが原因
 親が溺愛に走る背景には、親自身の精神的な弱さと、情緒的な欠陥がある。それがたとえば生活への不安や、夫への満たされない愛、あるいは子どもの事故や病気が引き金となって、親は溺愛に走るようになる。が、溺愛に走るのは親の勝手だとしても、その影響は、子どもに表れる。子どもはいわゆる溺愛児と呼ばれる子どもになる。特徴としては、①幼児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、②退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心的になる)、③服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、④柔和でおとなしく、満足げでハキがなくなる。ちょうど膝に抱かれたペットのように見えることから、私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そういった感じになる。が、それで悲劇が終わるわけではない。
●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば子どもには、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行する。しかし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてある時、そのカラを一挙に脱ごうとする。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内騒動をともなう。子「こんなオレにしたのは、お前だろ!」、母「ごめんなさア~イ。お母さんが悪かったア~!」と。しかし子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げない子どもは、超マザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」(テレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主人公)という男性がいたが、そうなる。
●生きがいを別に
 この溺愛を防ぐためには、親自身が子どもから目を離さなければならない。しかし実際には難しい。このタイプの親ほど、「子離れをしよう」とあせればあせるほど、子育てのアリ地獄へと落ちていく……。では、どうするか。親自身が、子育てとは別に、別の場所で生きがいを求める。ボランティア活動でも、仕事でも。子育て以外に、没頭できるものを別に求める。ある母親は手芸の店を開いた。また別の母親は、医療事務の講師を始めた。そういう形で、その結果として、子どもから離れる。子どもを忘れ、ついで子育てを忘れる。