Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, November 25, 2008

*Too much protection

親が子どもに手をかけすぎるとき

●「どうして泣かすのですか!」 
 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。
S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。
●親が先生に指導のポイント
 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがいになっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こういうときには、こう指導してください」と。
●泣き明かした母親
 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。
●「先生、こわい!」
 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だった。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今でも、そうだ。そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこの子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。
●自分勝手でわがまま
 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が遅れる。
 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイプの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけで育ったような感じになる。人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとりでは何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れないなど、溺愛児に似た特徴もある。
●「心配」が過保護の原因
 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そしてその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動面で過保護にするケースなどがある。
 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけで、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくなる。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。
 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にしているかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されることになる。
●じょうずに手を抜く
 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずにだが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。
『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分でさせるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。
『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるにしても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえて言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。
●子どもはカラを脱ぎながら成長する
 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくなる。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それはちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがたいへんになる。
 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにならない。これは子どもを育てるときの常識である。