Education in Front-Line and Essays by Hiroshi Hayashi (はやし浩司)

(Mr.) Hiroshi Hayashi, a professional writer who has written more than 30 his own books on Education, Chinese Medical science and Religion in Japan. My web-site is: http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ Please don't hesitate to visit my web-site, which is always welcome!!

Tuesday, June 30, 2009

*My Rebellion

●反乱

++++++++++++++++++++

近く、実兄と実母の一周忌がある。
私の属する宗派では、盆供養というのはしない。
そのかわり、一周忌では、その法要を派手にする。

寺での供養が済んだあと、親類縁者、一堂に
集まって、飲み食いの席をもうける慣わしに
なっている。

が、私はこう決めた。

(1) 実兄の一周忌はしない。
(2) 実母の一周忌は、寺で、私とワイフだけで
すます。

それが私たちの結論。
X市に住む従姉のYさんが、「そうしたら」という
アドバイスをくれた。
だから、そうする。

++++++++++++++++++++

●親

 親にもいろいろある。
みながみな、森進一が歌う、『♪おふくろさん』に出てくるような親とはかぎらない。
中には、子どもを罵倒しながら、好き勝手なことをしている親もいる。
好き勝手なことをしながら、他人の前では、仏様のようなフリをする。
Aさん(65歳・女性)の母親もそうだ。
あまりにわがままに、Aさんは、いつもこう言っている。
「母に、殺意すら覚える」と。

 晩年の母はともかくも、私の母も似たような親だった。
生涯にわたって、自分で職をもったことは、一度もない。
稼業は自転車屋だったが、ドライバーを握ったこともない。
家の上の掃除は母がしたが、その下の土間、仕事場の掃除、窓ガラス拭きなどは、
すべて私たち子どもの仕事だった。

●他界

 が、昨年、実兄が死に、実母が死んだ。
そして今年、一周忌がやってきた。
「どうするか?」。
悩んだ末の結論が、上に書いた、(1)と(2)ということになる。

 親類と言っても、叔父、叔母方が、2人。
伯父、伯母方が、2人。
それだけ。
あとは従兄弟たちだが、今は、疎遠になってしまい、行き来はない。
「今さらどうして親戚づきあい……?」というのが、私の本音。
それに私はもう自分の哲学を曲げてまで、法事はしたくない。
必要なことは、すべてした。
実兄、実母の百か日の法要までは、きちんとした。
しかし、そこまで!

●幻惑

 といっても、体の芯まで染み込んだ「幻惑(=苦悩)」を、心から抜き去るのは
容易なことではない。
本能に近い部分にまで染み込んでいる。

私たちは生まれるとすぐ、もろもろの「刷り込み」を経験する。
親子関係もそうだが、ほかに家族関係、親戚関係など。
こうした関係が、「家族自我群(=呪縛感)」となって、私たちの心をがんじがらめに
している。
だから苦しむ。
もがく。

 ずるい親になると、そうした「家族自我群」を使って、逆に、子どもを束縛する。
先に書いたAさんの母親も、そうだ。
自分は昼間は寝ているから、よい。
が、夜中になると、大声で、こう叫ぶという。

「ああ、腹減った!」
「何か食わせてくれないと、死んでしまう!」
「長生きして、損した!」と。

 Aさんは一晩中、自分の耳を押さえて眠るという。
が、それもこのところ限界にきた。
慢性的な不眠がつづき、精神状態もおかしくなってきた。
うつ病薬、精神安定剤の量も、ふえてきた。
だからAさんは、こう言う。
「死ぬまではめんどうをみるが、死んでも、葬式はしない」と。

●決別

 もし上に書いたような(1)と(2)を実行すれば、私のことを悪く言う親類は、
何人か出てくるだろう。
悪口を言うために、てぐすねをひいて、待っている。
(……というのは、私の思い過ごしかもしれない。
が、いいふうには、言わないだろう。)

 が、私は、こう思う。
「もう、いいかげんにしてほしい!」と。
あるいは「いつまで私を苦しめたら、気が済むのだ!」と。

 もちろんお金の問題ではない。
法事の費用のことを言っているのではない。
これは私の主義、主張の問題。 

 私はもうこれ以上、自分の主義、主張を捻じ曲げたくない。
安易な妥協で、もうこれ以上、自分の人生を汚したくない。
ゆいいつの方法は、私の主義、主張を、関係者に理解してもらうことだが、
それをするのも疲れた。
また、それを理解できるような人たちなら、まだよい。
しかしこのところ、ますますたがいの間の(距離)を感ずるようになった。
そうでなくても、みな、加齢とともに、脳みその活動が鈍くなってきている。
説明しようにも、説明のしようがない。

●私は私

 私は、「私は私」という生き方を貫いてきた。
が、そこに親類、縁者が加わると、とたんにそれができなくなる。
夏目漱石も、小説『こころ』の中で、似たようなことを書いている。
どんな高邁な哲学や思想をもっている人でも、一度、家族自我群の中に巻き込まれると、
私が私でなくなってしまう。

 だから「勇気」ということになる。
私はもう、人が何と言おうと気にしない。
言いたい人には言わせておけばよい。
私自身の人生も、それほど長くない。
だから「勇気」ということになる。
その勇気がないと、「家族自我群」による「幻惑」から、自分を解放させることは
できない。

 が、そう割り切ったとたん、気分がスーッと軽くなった。
楽になった。
もちろんだからといって、実兄や実母の死を軽くみているわけではない。
新調した仏壇は、私の家の中でも、いちばんよい場所に安置してある。
折につけ、手を合わせている。
が、それ以上に、どうして法事が必要なのか。
もしそれで「成仏」なるものができないとするなら、私は自分が死んだら、
あの世で真っ先に抗議活動を始める。
そんなバカげた仏教が、どこにある!

 ……ということで、私の気分を軽くしてくれた従姉には、さっそく礼の品々を、
昨日贈っておいた。

 Yさん、ありがとう!

*Burdons over House Wives

●育児疲れ

+++++++++++++++++

子育ては重労働。
一瞬たりとも、気が抜けない。
そんな重圧感に苦しんでいる。
KNさん(母親・磐田市在住)も、
その1人。

+++++++++++++++++

【はやし浩司より、KNさんへ】

多分に、育児ノイローゼかと思います。
この時期、家事、育児、生活と、多忙が原因で、多くの人が、KNさんのようになります。
マタニィティブルーのようなものです。
症状も典型的なもので、とくにKNさんだけ……というものではありません。

KNさんは、メールを読んだ私の印象では、いわゆる気負い型ママということになります。
「はやし浩司 気負い型ママ」で検索してくださると、多分、いくつか記事を
ヒットすると思います。
一度試してみてください。

原因は、KNさん自身にるのではなく、あなたの実の両親にあると考えられます。
あなた自身と実の母との関係です。
あなた自身が、あなたの実の母との間の人間関係をうまく作ることができなかった。
遠い昔の、あなたの乳幼児期に、です。
心理学で言えば、「基本的信頼関係」の構築が、うまくできなかった(?)。

どこか権威主義的で、心を閉ざした母親……、そんなKNさんの実の母親の姿が、
想像されます。
しかしそれはあなたの責任ではなく、あなたの実の母の責任です。
不幸にして、あなた自身が、あなたの実の母の温かい、豊かな愛情に
恵まれなかった。

だから気負ってしまうのです。
自然な形で子育てができない。
どこかぎこちなく、ぎくしゃくしてしまう。

しかしこの問題は、そういう不幸な過去があるということではなく、それに気づかず、
それに振り回されてしまうということです。
一度、自分の心の中を冷静に観察してみてください。
そしてこう思うのです。

「私の責任ではない。私の生まれ育った環境の責任なのだ」とです。
1~5年と時間はかかりますが、あとは時間が解決してくれます。
(こうした心に深く根ざす問題は、簡単には解決しません。
しかしそれに気がつけば、向うのほうから、去っていきます。)

で、それが世代を超えて、今度は、KNさんが、KNさんのお子さんに対して、
同じことを繰り返しています。
子どもの心がうまくつかめず、今度はKNさんが、悩んでいるのです。
これを世代連鎖と言います。

つまり、あなたは自分の不幸な過去を、今、お子さんに対して、再現しているというわけです。

では、どうするか?

(1)まず、自分が過去に作られた人間であることに気がつくこと。
(2)あなたに親像、家庭像が入っていず、ぞれが気負い型ママになっていることに気がつくこと。
(3)この時期、多くの人がなりがちな、育児ノイローゼになっていることに気がつくこと。

が、ここが重要ですが、(4)どれもしかしほとんどの人が、そうなるというくらい多い問題ですから、自分を責めないこと、です。

私も不幸な家庭で生まれ育ち、若いころは苦労しました。
親像も家庭像も、満足にインプットされていませんでした。
だから私の子育ても、ぎこちないものでした。
毎日、「これでいいのか」「こんなふうにしていいのか」と、子育てをしながら、悩みました。
が、そのうち、こうしてみなさんからの相談を受けるうち、「なんだ、私も、みなと同じだア」と思うようになりました。

そう、外から見ると、みなうまくいっているように見えますが、それはそうではありません。
みな、もっと深刻な問題をかかえて、苦労しています。
そういう意味で、KNさんの悩みなどというのは、たいしたこと、ありません!

で、あまりイライラするようでしたら、私のばあいは、カルシウム剤をのんんだり、
市販のハーブ系の精神安定剤を服用したりして、対処しています。
あとはワイフの女性用のセパゾンというやはり安定剤を、ときどきのんでいます。
(これは医師に申し出れば、処方してくれます。穏やかな薬ですから、副作用は
ありません。私は1錠のむところを、いつも半分に割って、口の中で溶かしてのんでいます。
女性用のものですが、どういうわけか、私にも効きます。
あとは漢方薬で、ハンゲコウボク湯をのんでいます。
これも女性の精神安定剤(胃腸薬)としてよく使われているものです。)

で、ポイントは、あなたとご主人との関係です。
まず育児は重労働ということを理解してもらいます。
そういう方法は、ないものでしょうか。

そのためには、心を開いて、もっと甘えたらよいと思います。
そう、もっと心を開くのです。
気負い型ママというのは、問題をすべて自分で背負いこんでしまいます。
だから努めて、心を開きます。
ありのままの自分を、もっとさらけ出すのです。
言いたいことを言い、したいことをする。
これを心理学の世界では、自己開示といいます。

今は、閉そく感の中で、苦しいかもしれませんが、そこにある「運命」をそのまま受け入れてしまいます。
運命というのは、逆らえば逆らうほど、キバをむいてKNさんに襲いかかってきます。
が、受け入れてしまえば、向うから退散していきます。
「まあ、私の人生は、こんなもの」と割り切ればよいのです。

なお、子どもには当たらないこと。
子どもというのは、これから先の長い友だちです。
友としてとらえてください。
「友」としてとらえれば、あとはうまくいきます。
(今のKNさんは、親意識が強すぎると思います。
昔風の悪玉親意識です。
そんなものは、くだらないから、今すぐ、捨てなさい!)

で、今は、KNさんにはわからないかもしれませんが、KNさんは、(ふつうの女性)から、
1ランク上の(母親)に脱皮しようとしているのです。
この時期は苦しいかもしれませんが、うまく乗り越えて、よりすばらしい女性になってください。
またなれます。
苦しみ、悩みが、人間を成長させるのです。

そうそう今は苦しいかもしれませんが、そろそろ自分のしたいことを見つけ、その準備もしておくといいですよ。
やがてすぐ子どもは親離れしていきますから……。
あなたはあなたでしたいことを発見し、それに向かって前向きに進んでいくのです。
子育てに埋没してしまうと、自分の姿が見えなくなってしまいます。
そうなると、その先で待っているのは、「うつ病」ということになります。
子どもにも、悪い影響を与えます。

たくさん原稿を書いていますので、また読んでみてください。
参考になると思います。

いただいたメールは、どこにも出しませんので、ご安心ください。
テーマとして、今朝、少し考えてみます。
それはお許しください。
また返事を書きます。

では、今朝も始まりました。

おはようございます!!!

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●精神医学

++++++++++++++++++++

発達心理学と精神医学。
似ているようで、似ていない。
まったく異質。
先ほど、統合失調症(精神分裂病)の
診断基準を読んでみた。
内容はともかくも、用語の使い方が、
私が知る世界のものとは、大きくちがう。
そこに興味をもった。

たとえば、「陰性障害」という言葉。
「眼球運動の非円滑性」という言葉もある。

「精神医学の世界では、こんな言葉を
使うのか」と、改めて、その世界の広さに
驚いた。

++++++++++++++++++++

●某、精神医学者のHPより抜粋(診断基準)

 「精神分裂病」で検索していたら、つぎのような診断基準が、目にとまった。
トップページをさがしたが、そこには何もなかった。
しかたないので、そのまま、一部を、参考までに、転載させてもらう。

+++++++++++以下、診断基準+++++++++

(認知行動障害)

【1】 基礎障害(分裂性鈍化) ・・・・ 認知障害、陰性症状

(1)中核障害
A、「 連合障害 」 (思考途絶、自生思考など) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  認知障害(思考力障害)
(関連障害:短期作業記憶障害、注意持続障害、眼球運動の非円滑性)

(2)周辺障害
B、「 交流能力・同調能力の著しい低下 」:自閉状態(発話と自発動作の減少)・・・  陰性症状
C、「 感情表出の減少 」(硬い表情)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  陰性症状
D、「 アンビバレンス 」(感情的な判断の困難、意思決定の困難)・・・・・・・・・・・・・・  認知障害

(精神病症状)
【2】副次的症状 ・・・・ 急性症状 陽性症状
(1)妄想状態
  1、「 妄想気分 」  (理由のない自生的な恐怖感の持続)
  2、「 被注察妄想 」 (不気味な不安感を伴う被注察感)
  3、「 妄想知覚 」  (全てが自分に関係しているように感じられる)
  4、「 確信的妄想 」 (訂正不能な思い込み)

(2)幻覚
  1、「 思考化声 」  (考えた事が声として頭の中で響く)
  2、「 体感幻覚 」  (体中を虫がはっている感触)
  3、「 会話性幻聴 」 (存在しない声が聞こえる)
  4、「 幻視 」     (存在しないものが見える)

 (3)自我障害 (させられ体験:自分の思考や動作が自分の意志から乖離する)
 (4)思考伝播 (自我障害の一種:自分の思考が他人に伝わってしまう)
 (5)緊張病性運動障害 (意味なく暴れたり、石のように固まってしまう)
 (6)著しく混乱した(disorganized)会話 (会話が脱線して意味が通じない)  

(その他の認知・行動障害)
   1、「 易疲労性 」 (思考力・動作能力)
   2、「 社交恐怖 」 (対人恐怖)
   3、「 トゥレット症候群 」 (表情筋チック(状況と無関係の"しかめ面")、言語性チック(攻撃的な独り言))

(生理的症状)
   1、不定愁訴 (頭痛、頭重、身体硬直(肩こり等)、全身倦怠、心拍亢進など)
   2、不眠、昼夜逆転 (生命時計の失調)
   3、社交恐怖 (金縛り)

+++++++++++以上、診断基準+++++++++++++

●独特の用語

 統合失調症について書くのが、目的ではない。
ここでは、その用語の使い方について考えてみたい。
私の知らない用語が、ズラリと並んでいる。
たとえば……。

思考途絶、自生思考、交流能力、同調能力、アンビバレンス、思考化声、感情表出の減少、自我障害、会話性幻聴、易疲労性、社交恐怖、言語性チックなどなど。

 その中でもとくに私の注意を引いた言葉が、「アンビバレンス」という英語。
アンビバレンスとは、どう綴るのだろう。

「unbibakence」?
「umbivalence」?

 手元にある電子辞書(EX-word)を縦横に調べてみたが、それらしい単語は見つからなかった。
逆に、「認知障害」を和英辞典で調べてみたが、それでも見つからなかった。
精神医学の世界では、常識的な言葉にちがいない。
それにしても、興味深い。
たとえば「感情表出の減少」とは!

 顔による感情の表現が乏しくなることをいったものだが、それにしても「うまい」いうか、「的確」というか……。
とくに私の世界では、使わない用語である。
こんな用語を使ったら、それこそ親たちは、チンプンカンプンになってしまう。

「お宅のお子さんは、感情表出に乏しく、交流能力に問題があります。ほかに自我障害、易疲労性なども見られます。言語性チックにも注意してください」と。

 ほかに気になったのは、「眼球運動の非円滑性」という用語。
たしかにこのタイプの人は、目つきが定まらず、ギョロ、ギョロとあたりを見回したりする。
それを「眼球運動の非円滑性」と言うらしい。
だったら、「目つきがギョロギョロする」でもよいのではないか?

 そう言えば法律の世界にも、法律用語というのがある。
たとえば「無限軌道車」と言えば、「キャタピラーのついた車」をいう。
タンクやブルドーザーがそれに当たる。
私はその言葉をはじめて知ったとき、ハタと考え込んでしまった。
「無限軌道車とは何か?」と。

 精神医学者たちは、こういう用語を縦横に操りながら、自分の専門性を維持しているのだろう。
たいへんよい勉強になった。

*Today is the First Day of July

.  mQQQm           
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ     
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 1日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================

7月1日  第1227号になりました!

★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page003.html

★★みなさんのご意見をお聞かせください。★★
(→をクリックして、アンケート用紙へ……)http://form1.fc2.com/form/?id=4749

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今日から、電子マガジン7月号

+++++++++++++++++++++++

この原稿から、電子マガジン7月号用となる。
そこでカレンダーを見ると、7月は、7月1日が、
発行日の水曜日ということがわかった。
電子マガジンは、毎週月、水、金の3回、発行している。
だれに頼まれたわけではない。
自分で、そうしている。

それにしても、日々の過ぎることの速いこと。
これであっという間に5月も終わった。
6月号も終わった。
「もう7月1日号かア~~」と。

実際には、今日は6月28日、木曜日。
電子マガジンは、いつも、約1か月前に、発行予約を
入れている。
これもとくに決まっているわけではない。
自分で、そうしている。

+++++++++++++++++++++++

●講演会

講演会での講演の内容が決まらない。
……というか、決めても、あまり意味がない。
その場の雰囲気というものがある。
私のばあい、ふつう、その場の雰囲気を見て、話の内容を変える。

しかし出だしは、どうするか。

「……時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
『時間よ、止まれ!』と、こぶしを握ってみても、時間はそのまま指の間から
もれていく……。

私は子どものころからいつも、何かうれしいことがあると、決まってこの歌を口ずさんだ。
♪夕空晴れて、秋風吹き……、と。
息子たちが小さいころも、よく歌った。
ドライブからの帰り道、みなで合唱したこともある。
♪夕空晴れて、秋風吹き、月影、落ちて鈴虫鳴く……」。

●自己紹介

いつも講演会では、最初に短い話を入れて、そのあと自己紹介をする。
自己紹介といっても、名前と住んでいる場所程度。
「はやし浩司と言います。
肩書きは、一応、教育評論家ということになっています。
何もないでは困りますので、そうしています。
住んでいるのは、浜松市です。
浜松市に住むようになって、もう40年近くになります。
今日は、このような席にお招きくださり、ありがとうございます」と。

つづいて、イントロ。
「今日は、3人の息子たちの父親として、子育てとは何か。
子育てはどうあるべきか。
それらについて、ありったけ話すつもりでやってきました。
今日、みなさんにお伝えすることが、家庭や学校で、子どもを見るための
新しい視点になればと願っています。
よろしくお願いします」と。

イントロも、その場の雰囲気で変える。

●本題

「その夜、突然、電話がありました。
受話器を取ると、息子の声でした。
『パパ、もうだめだ』と。
声の調子からして、私は異常なものを感じました。
『どうした?』と聞くこともなく、すかさず、私はこう言いました。
『すぐ、帰ってこい』と。

が、さらに驚いたことに、その翌々日のこと。
ふと私が勝手口を見ると、そこにS男がいるではありませんか。
両手には、バッグをさげていました。

帰ってこいとは言いましたが、まさかそんなに早く帰ってくるとは思っていません
でした。
が、それが、暗いトンネルの始まりでした……」と。

●代表

もちろん講演では、息子のことを話すのが目的ではない。
息子も、それを許さないだろう。
それに話したところで、ただの苦労話に終わってしまう。
私がわざわざ講演する、その意味がない。

ひととおりの症状を話したあと、私は、「代表説」を説明する。
「子どもは家族の代表である」という説である。
もっとも今では、この説は常識。
また教育の現場でも、治療の現場でも、広く採用され、応用されている。
つまり「子どもに何か問題が起きたとしても、それは子どもの問題ではない。
家族全体の問題である。
子どもは家族の代表に過ぎない」という説である。

それはその通りで、子どもに何か問題があったととき、子どもだけに焦点をあてて
解決しようとしても、うまくいくはずがない。
たとえば過干渉児、過保護児にしても、(これらは心理学の世界で、しっかりと
定義された言葉ではないが)、子どもに特有の症状が出ていたとしても、
それは子どもの問題ではない。

過干渉にしても、過保護にしても、それは親の育て方の問題ということになる。
だから親の過干渉が原因で、性格が内閉、萎縮してしまった子どもに向かって、
「もっとハキハキしなさい」と言っても、意味はない。
神経症や情緒障害にしても、そうである。
この世界では、親の無知ほど、恐ろしいものはない。
子どもが恐ろしいというのではない。
子どものために、恐ろしいものはないという意味で、恐ろしいものはない。

たとえばかん黙症の子どもに向かって、「どうしてあなたは手をあげないの!」と
叱っていた母親すらいた。
叱る方が、どうかしている。

●引きこもり

S男が示した症状は、まさに、ひきこもりのそれだった。
回避性障害、対人恐怖症、バーントアウト症候群、あしたのジョー症候群。
診断名は何でもよい。
うつ病だってかまわない。
あえて言うなら、この世の中、まともな人間ほど、そういった病気になる。
子どもがおかしいのではない。
社会のほうがおかしい。

が、私はがけの上から叩き落され、谷底で、さらにその上から叩き潰される
ような衝撃を受けた。
私は無数の子育て相談を受けながら、そういう人たちに、むしろアドバイスを
与えてきた立場の人間である。
その立場の人間の息子が、ひきこもりになってしまった。

が、その一方で、幸いなこともある。
すでにそのとき、私には、何十例という経験があった。
引きこもりで苦しむ親や子どもたちを、指導という形で、見てきた。
だから即座に、対処方法を打ち立てることができた。

●暖かい無視と、ほどよい親

「暖かい無視」というのは、どこかの野生動物保護協会が使っている言葉である。
つまり暖かい愛情を保ちながら、無視すべきところは無視する。

たとえばS男の生活態度は、日増しにだらしなくなっていった。
風呂に入らない、着替えをしない、食事の時間が乱れる。
もちろん睡眠時間も乱れた。
毎日、ちょうど1時間ずつ、睡眠時間と起床時間がずれていった。
一晩中起きているということもつづいた。

が、何も言わない。
何も指示しない。
何も不満を口にしない。
暖かい愛情だけはしっかりともって、見守る。
それが暖かい無視ということになる。

……というより、いつも一触即発。
よく誤解されるが、「情緒不安」というときは、何も情緒が不安定になることを
いうのではない。
精神の緊張状態が取れないことをいう。
その緊張状態のときに、不安や心配ごとが入ると、情緒は一気に不安定になる。
情緒不安というのは、あくまでもその結果でしかない。
S男の精神は、いつもその緊張状態にあった。

そういう衝突が1、2度つづいて、私たち夫婦は、暖かい無視を貫くことにした。

……こうして講演をつなげていく。

今度の日曜日に、このつづきを考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●しつけ(咳について、再考)

日本人は、咳について、あまりにも無頓着。
平気でゴホン、ゴホンと席をする。
ちょうど今、新型インフルエンザが問題になっている。
もう一度、「しつけ」について考えてみたい。
(以下の原稿は、08年12月に書いたものです。)

+++++++++++++++++

「しつけ」というときは、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がなければならない。

あいさつの仕方など、国によってみなちがう。
時代によってちがうこともある。
さらに軍人には、軍人のあいさつのしかたがある。

そういうのは、「しつけ」とは言わない。
「作法」という。

たとえば最近、こんなことがあった。

++++++++++++++++++

W君(小2男児)は、インフルエンザにかかり、1週間ほど、
学校を休んだ。
その直後、私の教室に来た。
まだ咳が残っていた。
1~2分おきぐらいに、ゴホゴホと咳をしていた。

こういうケースのばあい、対処の仕方が2つある。

W君にマスクを渡し、マスクをかけさせる。
あるいは全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

ふつうはW君だけにマスクを渡し、W君だけマスクを
かけさせれば、それですむ。
しかし中に、それをかたくなに拒否する子どももいる。
「罰」か何かのようにとらえる。

そういうときは、全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

が、である。
そういうふうにしても、W君は、ときどきマスクをはずし、
ゴホゴホと咳をする。
私のところへやってきて、面と向かって、ゴホゴホと咳をする。

だから私はかなりきつくW君を叱った。
「人の顔に向けて、咳をしてはだめだ」と。

するとW君は、「手で(自分の口を)押さえた」とか、
「先生の顔には向けてない」とか言って、反論した。

私「あのなあ、咳というのは、手で押さえたくらいでは
防ぐことができないんだよ」
W「いいから、いいから……」
私「いいから、いいからというような問題ではない。
マスクをちゃんと、しなさい」
W「ぼくはもう、治った」
私「治ってない!」と。

ついでに付記するなら、インフルエンザのウィルスに、
おとなも子どもも、ない。
おとな用のウィルス、子ども用のウィルスというのは、ない。
みな、同じ。
だから目の前でゴホンとやられたら、即、そのまま私に
感染する。
防ぎようがない。

ほとんどの人は、(おとなも子どもも)、咳をすることに
たいへん無頓着。
この日本では、とくに無頓着。
それを悪いことと考えている人は、少ない。
満員電車の中でさえ、平気でゴホゴホと咳をしている人さえ
いる。

しかし相手の顔に向けて咳をするのは、相手を手で殴るのと
同じ、暴力行為。
だから私はW君をさらに強く、叱った。

私「私の言うことが聞けないなら、この教室から出て行きなさい」
W「どうしてヨ~?」
私「どうしてって、みんなにインフルエンザが移ったら、どうする?」
W「だいじょうぶだよ。移らないよ」
私「……」と。

もうおわかりのここと思うが、こういうのを(しつけ)という。
「咳をするときは、口をハンカチで押さえる」
「マスクをかけるのは、常識」
「マスクをしていても、相手の顔に向けて、咳をしない」

こうした(しつけ)には、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がある。
わかりやすく言えば、世界の常識。

……では、なぜ、こんなことを書くか?
実は今、あちこちの幼稚園で、「しつけ教室」なるものが、
たいへん流行(はや)っている。
たいていあいさつの仕方から始まって、箸の持ち方、置き方
などを教えている。

私はそうした(しつけ)は無駄とは思わないが、どこか
ピントがズレているように思う。

もっと基本的な部分で、大切にしなければならないことがある。
たとえば、(順番を並んで待つ)(順番を無視して、割り込みしない)
(他人をキズつけるような言葉を口にしない)など。
しかしそういう(しつけ)は、「しつけ教室?」で学ぶような
しつけではない。
私たちおとなが、日々の生活を通して、「常識」として、子どもの
体の中に、しみこませるもの。
先に書いた咳にしても、そうだ。
自分の子どもが無頓着に他人の顔に向けて咳をしたら、すかさず、
子どもを叱る。
その前に、親自身が自分のエリを正さなくてはいけない。
(しつけ)というのは、そういうもの。

ついでに言うなら、(あいさつ)など、どうでもよい。
したければすればよい。
したくなければ、しなくてもよい。
そんなことをいちいち教えている国は、今、ほとんどない。

たとえば韓国でも、数年前から、授業の前とあとのあいさつを
廃止した。
「起立!」「礼!」という、あのあいさつである。
「日本の植民地時代の亡霊」という理由で、そうした。

が、現在、浜松周辺の学校では、ほとんどの学校で、この種のあいさつを
している。
(当番の子どもが、「これから授業を始めます」などと言い、頭をさげるなど。)
国際性がないという点で、これはしつけでもなんでもない。

(参考)

A小学校……当番が「はじめましょう」と小さい声でいう。
それに答えて、全員が「はじめましょう」と合唱して、頭をさげる。

B小学校……当番が「起立!」と言い、先生が「はじめましょう」と答える。
そのとき生徒全員が、頭をさげる。

C小学校……全員が起立したあと、「今から○時間目の授業をはじめます」と
言って、頭をさげる。

D小学校……当番が「起立!」と号令をかけ、「○時間の授業を始めましょう」と
言う。そのとき生徒と先生が、たがいに頭をさげる。

E小学校……学級委員が、「起立」「姿勢はいいですか」と言い、みなが、
「はい!」と答え、学級委員が「今から○時間目の授業をはじめましょう」と
言って、みなが、礼をする。

ついでながら、アメリカやオーストラリアでは、先生が教室へやってきて、
「ハイ!」とか言って、それおしまい。



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮眠効果(Sleeper Effect)

++++++++++++++++++++++++++++++++++

心理学の世界に、「仮眠効果」という言葉がある。
「スリーパー効果」ともいう。

仮眠効果というのは、脳の中に入った情報が、しばらく仮眠したあと、
効果をもち始めることをいう。
子どもの世界では、こうした現象が、よく観察される。

たとえば子どもをほめたとする。
そのときは、子どもは「フン」と言って、軽く受け流す。
私の言ったことを深く考えない。
が、しばらく時間がたつと、つまりしばらく子どもの脳の中で仮眠したあと、
そのほめた効果が現れたりする。

「あのとき、林先生(=私)が、ぼくにこう言ってくれた!」と。

よく昔の恩師の話をしながら、「あのときあの先生が言ってくれた言葉が、
おとなになってから、ぼくの励みになった」という人がいる。
それも仮眠効果の現れとみてよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●情報の熟成

情報というのは、脳の中に入った段階では、ただの(情報)。
それに加工を加えて、情報は情報としての意味をもつ。
(加工を加えることを、「思考」という。)
それまでは、たとえていうなら、座右に積み上げられた本のようなもの。
必要なときは取り出して読むが、そうでなければ、やがて脳みその中から消えていく。

が、ときとしてその情報そのものが、ひとり歩きすることがある。
ここでいう「仮眠効果」というのも、そのひとつ。
たとえば私が子どもをほめたとする。
そのときは、その子どもはそれを、軽く受け流す。
私が言った言葉に、重きを置かない。
たとえば、「君の空間思考力には、ものすごいものがある」と、私が言ったとする。
そのときは、子どもは、「そんなものかなあ……」と思ってすます。

が、しばらくしたあと、「空間思考力はすばらしい」という情報だけが、
脳みその中で熟成され、それが今度は、子どもの脳みその中で充満するようになる。
そしてこう思うようになる。

「ぼくは、空間思考能力にすぐれている!」と。

これは情報が、(仮眠)というプロセスを経て、効果をもたらしたことを意味する。
言いかえると、つまり教える側からすると、この仮眠効果をうまく使うと、子どもの
指導がうまくできる。

コツは、ポイントをとらえて、うまくほめる。
(叱ったり、欠点を指摘するときは、この方法は使ってはいけない。)
そしてその場では効果を求めない。
(求めても意味はない。)
それをブロックのように組み立てていく。

「君は、コツコツとやるところがすばらしい」
「式なんかも、だれが見ても、わかりやすい」
「考え方が緻密だね」と。

こうした情報は一度仮眠したあと、(私は「熟成」という言葉の方が好きだが……)、
子どもの脳みその中で、大きくふくらんでくる。
子どもの自信へとつながっていく。

もちろんそのとき、子どもは、私に誘導されたということは、覚えていない。
ほとんどのばあい、情報源は忘れてしまう。
だれに言われたかは、たいていのばあい、記憶に残らない。
しかし情報だけが、脳みその中に残り、その子どもを前向きにひっぱっていく。
これを「仮眠効果」という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
仮眠効果 スリーパー効果 情報の熟成 暗示 子どもの指導 林浩司)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●一周忌

+++++++++++++++++++++

兄につづいて、母。
昨年(08年)の8月と10月に、それぞれが他界した。
で、一周忌の法要が近づいてきた。

兄も母も、あの世へ行ったわけだが、別の仏教の教えに
よれば、つまり輪廻転生論によれば、死者は死後、即、
人間も含めて、何かの動物に生まれ変わるということに
なっている。
少なくとも、初七日から四九日までの、七法事がすめば、
成仏もすみ(?)、死者への供養は、必要ないという
ことになる。

実は、もともと釈迦は、回忌のことは何も書いていない。
もともと「回忌」というのは、中国の儒教に説かれている
風習によるもの。
それが日本に入り、最終的には、『先代旧事本紀大成経』
という偽経を生みだした。
名前からして、まったくのメイド・イン・ジャパンの偽経である。
著者は、潮音(1628~95)と言われている。

北川紘洋氏は、こう書いている。

『鎌倉時代から室町時代初期までは三十三回忌までの
十三仏事しかなかったなかったのが、室町時代を過ぎると、
これに十七回忌、二十五回忌が加わり、さらに江戸時代には
五十回忌、六十回忌とふえていった』(「葬式に坊主は不要
と釈迦は言った」・はまの出版)と。

が、それとて、一般庶民とは、無縁のもの。
仏教が大衆の世界に入り込んだのは、親鸞、日蓮らの時代から
である。
こうした法要にしても、武士、なかんずく上級武士たちの
風習であった。

(以上、参考、北川紘洋著「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」)

+++++++++++++++++++++

●亡くなった人たちの死を悼む

何も考えず、何も調べず、何も学ばず、過去を踏襲するのは楽なこと。
大きな川の流れに乗って、みなと同じことをしていれば、これまた楽なこと。
暇なときは、パチンコをしたり、プロ野球の実況中継を見ていればよい。
しかしそれではこの世の中、何も変わっていかない。
また本来なら、そうした流れを変えていくのは、私たち人生の先輩者である。
その先輩者である私たちが、伝統や風習の上にどっかりと腰を据え、
「昔からこうだから……」と、若い人たちを自分たちの世界に引き込んでいく。
おかしなことだが、このおかしさが改まらないかぎり、過去はそのまま意味もなく、
踏襲されていく。

死者を悼む……。
なぜ私たちが死者を悼むかと言えば、死者を悼むことによって、今、こうして
生きている私たちの「命」を大切にするためである。
もしあなたが子どもの前で、死んだペットの小鳥を、紙かなにかにくるんで
ゴミ箱へ捨てるようなことをすれば、子どもは、死というのはそういうものかと
考えるようになる。
ついで生とは、そういうものかと考えるようになる。
ペットが死んで悲しんでいる子どもの心を踏みにじることにもなる。
言いかえると、死者の死を悼むことによって、私たちは生きていることの尊さを学ぶ。
子どもたちにも、それを教えることができる。

が、このことと、法事は、まったく別のもの。
「心」と「儀式」は、まったく別のもの。
心のない儀式は、ただのあいさつ。
あいさつにもならない。
しかし心があれば、儀式は、必要ない。
あっても付随的なもの。
が、この日本では、常に儀式だけが先行し、心がそれについていく(?)。
さらに悪いことに、儀式だけを繰り返して、それでもって、心をごまかしてしまう。
それでよしとして、自分の心を見つめることもしない。
それこそ立派な葬儀だったから、よし。
そうでなかったら、そうでないというような判断をくだして、それで終わってしまう。

●みんな、いっしょに生まれて、いっしょに死ぬ

10年前に亡くなった人を思い浮かべてみよう。
20年前でも、30年前でもよい。
そのときからその人の時計は止まる。
「もう10年!」「もう20年!」「もう30年!」と、そのつど、私たちは驚く。
昨日亡くなった人を、今日、弔(とむら)うのも、10年前に亡くなった人を、
今日、弔うのも、同じ。
20年前に亡くなった人を、今日、弔うのも、同じ。
30年前に亡くなった人を、今日、弔うのも、同じ。

同じように、この先10年、20年、30年など、あっという間に過ぎる。
運がよければ、あなたは10年後も生きている、20年後も生きている、
30年後も生きている。
しかしひょっとしたら、あなたは、明日死ぬかもしれない。
明日、何かの大病を患うかもしれない。
どうであるにせよ、今、生きているとしても、10年後に死ぬのも、20年後に死ぬのも、
30年後に死ぬのも、明日、死ぬのと同じ。
わかりやすく言えば、30年前に亡くなった人も、30年後に死ぬあなたにしても、
その間に、時間的な(差)はない。
元気なうちは、それがわからないかもしれない。
しかし死に直面すれば、だれにでも、それがわかるはず。

そこに待っているのは、10年前、20年前、30年前に亡くなった人たちではない。
「10年」とか、「20年」とか、「30年」とかいう数字は消え、それが「昨日」になる。
つまり、そこで待っているのは、つい先日、つい昨日亡くなった人たちである。
あなたはそういう人たちといっしょに、死を迎える。

そう、私たちはみな、この世の中に、いっしょに生まれて、いっしょに死ぬ。
繰り返すが、その間に、時間的な(差)はない。

●日本仏教の危機

時間と空間を超越したはずの仏教が、回忌にこだわる、このおかしさ。
1年後になったら、どうなのか。
2年後(3回忌は、実質、2年後をいう)になったら、どうなのか。
亡くなった人に、そういう(数字)があること自体、バカげている。
(年齢)があること自体、バカげている。

たとえば愛する子どもを失った母親を考えてみよう。
そういう母親にすれば、毎日が悲しみ。
その悲しみは、1年たったところで、癒されるものではない。
恐らく33年たっても、癒されることはないだろう。
(数字)など、関係ない。
こんなことは、ほんの少し、頭の中で考えれば、だれにでもわかるはず。
それにもし、釈迦がそんなバカげたことを口にしたとしたら、私はまっ先に
仏教を否定する。
いや、その前に、今に至るまで、生き延びることはなかっただろう。

私は仏教徒でも、仏教哲学者でもない。
そんな私ですら、こんなことは、自分でわかる。
いわんや、戒名をや!
そんなもので成仏するのに(差)が出るとしたら、それこそ仏教は邪教。
カルト。
が、いまだにそうした風習が、伝統としてこの日本に残っている。

言うまでもなく、宗教というのは、(教え)に従ってするもの。
その(教え)を踏み外して、宗教は宗教たりえない。
もしそれが面倒というのなら、それこそイワシの頭でも拝んでいればよい。
キツネでもタヌキでもよい。
世界へ行くと、世界の人たちは、実にさまざまな動物を拝んでいる。
もしそれでも、「仏教はカルトではない」と言うのなら、その道のプロたちが、
率先して、私たちにその(道)を示してほしい。
でないと、……というより、このままだと、日本の仏教は宗教としての
意味を見失ってしまうだろう。

兄と母の一周忌を前にして、再び、宗教について考えてみたい。

+++++++++++++++++

7~10年前に書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++

●生きる意味

 幼児を教えていて、ふと不思議に思うことがある。子どもたちの顔を見ながら、「この子
たちは、ほんの五、六年前には、この世では姿も、形もなかったはずなのに」と。しかし
そういう子どもたちが今、私の目の前にいて、そして一人前の顔をして、デンと座ってい
る。「この子たちは、五、六年前には、どこにいたのだろう」「この子たちは、どこからき
たのだろう」と思うこともある。

 一方、この年齢になると、周囲にいた人たちが、ポツリポツリと亡くなっていく。その
ときも、ふと不思議に思うことがある。亡くなった人たちの顔を思い浮かべながら、「あの
人たちは、どこへ消えたのだろう」と。年上の人の死は、それなりに納得できるが、同年
齢の友人や知人であったりすると、ズシンと胸にひびく。ときどき「あの人たちは、本当
に死んだのだろうか」「ひょっとしたら、どこかで生きているのではないだろうか」と思う
こともある。いわんや、私より年下の人の死は、痛い。つぎの原稿は、小田一磨君という
一人の教え子が死んだとき、書いたものである。

+++++++++++++++++++++

「ぼくは楽しかった」・脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘
病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使
えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここ
から出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの
近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を
折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあ
った。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一
年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつ
ようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際
には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまっ
たかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何に
なりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカ
ーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができな
くなる』と言いました」と。

そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞い
て、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれ
ど、人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。
私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥
で念じた。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の
数のほうが多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの
人生があっと言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。
「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を
読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知
り、一磨君の両親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。
しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれ
ない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨
君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、
そして仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と
言いながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、
今ここで、私たちは生きていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養にな
る。」


 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典の
ひとつ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。わかりやく言えば、「ない」と。
「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人がいるかもしれないが、そうし
た常識は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上の年月を経てからつくられた常
識と考えてよい。もっとはっきり言えば、ヒンズー教の教えとブレンドされてしまった。
そうした例は、無数にある。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護
摩(ごま)をたいているのを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀
式であって、それ以外の何ものでもない。むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」
と教えている。(「バラモンよ、木片をたいて、清浄になれると思ってはならない。なぜ
ならこれは外面的なことであるから」(パーリ原典教会本「サニュッタ・ニカーヤ」))

 釈迦の死生観をどこかで考えながら、書いた原稿がつぎの原稿である。

「家族の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな
親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなけ
ればいい」とか願うようになる。
 
「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がい
た。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」
と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、や
がてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どう
して?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れ
ることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日
まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したこ
とがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめ
るのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにし
ている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、
何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐え
るしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どもの
ために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子
先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親
はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰
り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、こう書き残してい
る。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜び
を与えられる」と。こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いった
いどれほどいるだろうか。」

 ではなぜ、私たちは生きるか、また生きる目的は何かということになる。釈迦はつぎの
ように述べている。

 「つとめ励むのは、不死の境地である。怠りなまけるのは、死の足跡である。つとめ励
む人は死ぬことがない。怠りなまける人は、つねに死んでいる」(四・一)と述べた上、「素
行が悪く、心が乱れて一〇〇年生きるよりは、つねに清らかで徳行のある人が一日生きる
ほうがすぐれている。愚かに迷い、心の乱れている人が、一〇〇年生きるよりは、つねに
明らかな智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。怠りなまけて、気力も
なく一〇〇年生きるよりは、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれている」
(二四・三~五)(中村元訳)と。

 要するに真理を求めて、懸命に生きろということになる。言いかえると、懸命に生きる
ことは美しい。しかしそうでない人は、そうでない。こうした生き方の差は、一〇年、二
〇年ではわからないが、しかし人生も晩年になると、はっきりとしてくる。

 先日も、ある知人と、三〇年ぶりに会った。が、なつかしいはずなのに、そのなつかし
さが、どこにもない。会話をしてもかみ合わないばかりか、砂をかむような味気なさすら
覚えた。話を聞くと、その知人はこう言った。「土日は、たいていパチンコか釣り。読む新
聞はスポーツ新聞だけ」と。こういう人生からは何も生まれない。

 つぎの原稿は、そうした生きざまについて、私なりの結論を書いたものである。

++++++++++++++++++

●子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちが
なぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではな
いのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、
意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自
信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇
年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。
 
生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸
福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるために
は)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。
つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチ
ャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。
みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投
げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだま
する。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋
めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言
うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、
そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、
ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわから
ない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問
われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その
生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりな
がら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほう
も、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれ
と同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教
えてくれる。」

 私も、つぎの瞬間には、この世から消えてなくなる。書いたものとはいえ、ここに書い
たようなものは、やがて消えてなくなる。残るものといえば、この文を読んでくれた人
がいたという「事実」だが、そういう人たちとて、これまたやがて消えてなくなる。し
かしその片鱗(りん)は残る。かすかな余韻といってもよい。もっともそのときは、無
数の人たちの、ほかの余韻とまざりあって、どれがだれのものであるかはわからないだ
ろう。しかしそういう余韻が残る。この余韻が、つぎの世代の新しい人たちの心に残り、
そして心をつくる。
 
言いかえると、つまりこのことを反対の立場で考えると、私たちの心の中にも、過去に
生きた人たちの無数の余韻が、互いにまざりあって、残っている。有名な人のも、無名
な人のも。もっと言えば、たとえば私は今、「はやし浩司」という名前で、自分の思想を
書いているが、その実、こうした無数の余韻をまとめているだけということになる。そ
の中には、キリスト教的なものの考え方や、仏教的なものの考え方もある。ひょっとし
たらイスラム教的なものの考え方もあるかもしれない。もちろん日本の歴史に根ざすも
のの考え方もある。どれがどれとは区別できないが、そうした無数の余韻が、まざりあ
っていることは事実だ。

 この項の最後に、私にとって「生きる」とは何かについて。私にとって生きるというこ
とは考えること。具体的には、書くこと。仏教的に言えば、日々に精進することという
ことになる。それについて書いたのがつぎの文である。この文は、中日新聞でのコラム
「子どもの世界」の最終回用に書いたものである。

++++++++++++++++++++++

●「子どもの世界」最終回

●ご購読、ありがとうございました。

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新
聞を届けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、とき
どき、こんな意地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中か
ら引っ張ったらどうなるか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代
の子育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。しかし新聞にものを書
くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者の顔が見えない。
反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」
と怒っている人だっているに違いない。私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野
を歩いているような気分になった。果てのない荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、そ
れは私にとってはスリリングな世界でもあった。書くたびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくは
ないですが、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまっ
た!」と思うことが多い。女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にと
って「生きる」ということは、「考える」こと。「考える」ということは、「書く」ことなの
だ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そしてその先に何があるか、知りたい。ひ
ょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。しかしそれでも私は歩いてみたい。
そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事
があると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと
私は起きあがる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出てい
る朝は、そのまま読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころに
なると横の女房も目をさます。そしていつも決まってこう言う。「載ってる?」と。その会
話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださり、ありがとうご
ざいました。」 
(02-7-23)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●最悪の食糧危機(The Worst Food Shortage of North Korea)

+++++++++++++++++

K国は現在、1990年以来、最悪の
食糧危機に見舞われているという。

+++++++++++++++++

『国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は、5月28日、
世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。この中でK国について、
「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面する一方、当局は
人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した』(時事通信より
抜粋※)と。

同じくWFPも『世界食糧計画(WFP)が北朝鮮の食糧事情が極めて深刻な状態にあると
して、国際社会に対し約6千万ドル(約65億3000万円相当)の資金援助を要請。過
去3週間にわたって実施した現地調査で、約半数の世帯が1日2食の生活を強いられる1
990年代以降では最悪の状況にあるとしていると紹介している」と報告している(※)。

+++++++++++++++++

こうした中、時事通信はさらにこう伝える。

『こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、
昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐ
ため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている』と。

「食料不足の報が全国に広がるのを防ぐため、長距離電話回線が遮断された!」
そういうことを平気でするところが、恐ろしい!
「ここまでやるか!」というのが、私の印象。
人民、つまりK国の国民こそ、えらい迷惑。
迷惑というより、犠牲者。

が、相変わらずの大本営発表を繰り返しているのが、K国の国営通信。
つぎの記事を読んで、笑わない人はいないだろう。

『K国の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は7日の論評で、金xx総書記が経済再建や国民
生活向上のため「昨年末から約2カ月間、家に戻れず列車で生活しながら、人民経済のさ
まざまな部門で現地指導を続けている」とする発言を伝えた』(5月7日)と。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●いっしょに心中してはいけない!

K国が何を画策しているにせよ、またどんな挑発的行為をしてくるにせよ、
日本は、K国を相手にしてはいけない。
あんな国をまともに相手にしてはいけない。
それとも、日本は、あんな国と心中でもするつもりなのか。

ここは無視。
ひたすら無視。
放っていおいても、K国は、自ら墓穴を掘って自滅する。
今朝(5・29)の報道によれば、さらなる挑発的行為として、K国は、今度は
ICBM(大陸間弾道弾)の発射実験をするかもしれないという。

したければさせておけばよい。
自ら、先の「人工衛星発射」が、ウソだったことを暴露させるようなもの。
あのときも、「宇宙開発は、全民族の共通の権利である」というようなことを言っていた。
そして「それを迎撃したら、即、宣戦布告行為とみなす」と、まあ、威勢のよいことを
言っていた。

ICBMともなれば、当然、日本の上空を通ることになると思うが、ここは無視。
ひたすら無視。
負けるが勝ち。
今、日本にとってもっとも重要なことは、K国もさることながら、国際世論でもって、
中国を追い詰めること。
中国に行動させること。
中国が行動すれば、K国は、一気に崩壊に向かう。
決して日本だけが、単独で行動してはいけない。
200~300発のノドンが、すでに日本をターゲットにしていることを忘れては
いけない。

まず日本の国益を守る。
日本の平和と安全を守る。
今、もし、たとえ1発でも、ノドンが東京の中心に撃ち込まれたら、日本はどうなるか。
日本の経済はどうなるか。
日本は丸裸以上の丸裸。

ここは冷静に。
ただひたすら冷静に。
あんな国を相手にしてはいけない。
またその価値もない。
ないことは、アムネスティの年次報告書を読めばわかるはず。
決して勇ましい好戦論にまどわされてはいけない。

もちろん日本が攻撃されたら、そのときはただではすまさない。
そういう気構えはもつ必要がある。
しかし今は、じっとがまんのとき。

1990年末の食糧危機のときは、金xxは、中国へ亡命する一歩手前だった。
恐らく今回も、それ以上のことを考えているはず。
それがK国軍部のあせりとなって表れている。

人工衛星、核実験、ミサイル発射などなど。
それらを断末魔の叫び声と理解すれば、K国の内部事情もわかろうというもの。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

(注※1)【ロンドン28日時事】国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本
部ロンドン)は、28日、世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。こ
の中でK国について、「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面す
る一方、当局は人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した。

 報告書によれば、K国は「過去10年間で見られなかった規模」の飢餓に見舞われ、何百
万人もが苦境に陥っている。大半は雑穀などで胃を満たすことを余儀なくされ、野草で食
いつないでいる人も多いという。

 こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、
昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐ
ため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている。(時事通信・5月28日)


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

(注※2)世界食糧計画(WFP)がK国の食糧事情が極めて深刻な状態にあるとして、国
際社会に対し約6千万ドル(約65億3000万円相当)の資金援助を要請。過去3週間にわ
たって実施した現地調査で、約半数の世帯が1日2食の生活を強いられる1990年代以降で
は、最悪の状況にあるとしていると紹介している。食糧事情悪化の原因として、2007年の
大規模な洪水被害、不良な農作物収穫、輸入や援助減少をあげている。(引用:産経新聞、
中日新聞)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

Monday, June 29, 2009

*North Korea *Cursed Family

●『北朝鮮の不思議な人民生活』(宝島編集部・宝島社)

+++++++++++++++++++++++++

数日前、『北朝鮮の不思議な人民生活』(宝島社)という
本を買ってきた。
その本の感想を一言で表現すれば、題名どおり、「不思議」。
「今どき、こういう国もあるんだなあ」と、驚くばかり。

で、その話は別に、とくに私の関心をひいたのは、中国との関係。
現在、6か国協議は崩壊し、日本と韓国は、K国を除く、
5か国協議の開催に力を入れている。

が、中国は基本的には、制裁会議には、消極的。
アメリカは、K国と対話重視の姿勢を崩していない。
が、この本を読んで、中国がなぜ、K国に対する制裁に
消極的なのか、それがよくわかった。

K国と中国は、たがいに密接にからみあっている。
中国の企業家たちだけは、自由にピョンヤンに出入り
することができる。
工場を建てることもできる。
(年間、1万5000人もの中国人観光客がK国を
訪れているという。
これに対して、日本人観光客は、たったの400人弱。)

そしてこうもある。

「04年以後、中国の対北朝鮮投資熱は、(中国側の)
国策的な後押しを受けたものと思われる」と。
そして日本の制裁が強まれば強まるほど、(中国側に
とっては)、「その分だけ、ビジネスチャンスがふえる
だけ」と。

中国は、K国を、国策的に取り込もうとしている。
そのため中国はK国の制裁に加わりたくても、加われない。
そんな内部事情が、この本を読んで、よ~くわかった。

それにもう一言。

「ふつうの日本人は、K国には行かないほうがいい」。
「ふつうの……」というのは、向こうの人たちと
何もつながりのない、ごくふつうの日本人という意味である。

この本の筆者は、在日朝鮮人(?)と思われる。
そんな人でも、旅行記の最後を、こう結んでいる。

「……車が最終検問所を過ぎ、中朝友誼橋にさしかかった
時、『やっと自由世界に戻ってきた』と本気で喜んだ。
中国側の旅行社の担当者の姿を中国側の国境ゲートで目に
したとき、全身の力が抜けてしまった……」と。

 K国という国は、そういう国らしい。

+++++++++++++++++++++++++

●のろわれた(?)家系

++++++++++++++++++++

少し前、「のろわれた家系」という題で、エッセーを
書いた。
それに対して、「私の家系は、もっとすごい」という
メールをもらった。
転載は不許可ということなので、大筋だけ、かいつまんで
書かせてもらう。

その人は、6人兄弟の、上から三番目。
今年、50歳になるという。
仮にX氏としておく。
 
兄、姉、(X氏)、妹、弟、弟。

6人兄弟なのだが、うち、離婚した人、4人。
残りの2人のうち、かろうじて家族円満なのは、X氏だけ。
もう1人も、別居状態。
うち、家族(夫婦、子ども)の中で自殺者を出した兄弟、3人。
だから「私の家系も、のろわれています」と。

+++++++++++++++++++++

 単純に計算すれば、離婚率、80%以上。
自殺者を出した割合、50%となる。
しかしX氏は、こう言う。

「原因は、すべて私たちの両親にあります。
さらに言えば、父親の両親(=X氏の祖父母)にあります」と。

 もっともそれぞれの人には、それぞれの事情というものがある。
離婚するにせよ、自殺するにせよ、それぞれの思いをもって、そうする。
私のような部外者が、あれこれ詮索したところで、意味はない。
どう詮索したところで、その一部を知ることさえできない。
いわんや、「率」だけを見て、とやかく言うのは許されない。
たまたまそういう不幸な事件が重なった……とも考えられる。

 が、そのX氏は、こう言う。
「祖母が、精神的に欠陥のある人でした。
その影響を私の父が受け、家庭の中は、私が子どものころから、メチャメチャでした。
父は祖父の財産を乗っ取り、小さなスナックを開きましたが、斜陽になると、自ら
放火。
多額の保険金を手に入れました。

そんな家族ですから、はやし先生が説く、『親像』とか、『家庭像』などといった
ものは、私の生まれ育った家には、まったくありませんでした。
だから兄弟姉妹は、バラバラ。
その結果が今、です」と。

 X氏の兄弟たちはみな、幸せな家庭作りに失敗した。
3人の家族(妻、長男、二女)が自殺したことについても、もし幸せな家庭作りに成功
していれば、なかったかもしれない。
「のろわれた家系」ではなく、「なるべくしてなった家系」ということになる。
X氏からのメールを読んで、そんな印象をもった。

Xさん、メール、ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

*The Crisis of Japanese Democracy

●民主主義の危機(政治的アレルギー反応)

++++++++++++++++++++++++

今、私の脳みその中で、政治的アレルギー反応が
起きている。
不快感を通り越して、掻(か)いても掻いても掻き切れない、
そんな歯がゆさを覚えている。

宮崎県知事の、AZ氏が、衆議院議員?
比例東京ブロック1位、指名?
総裁候補?

これを民主主義の危機と言わずして、何という。

AZ氏は、「政党は政策で決める」と、一方で言いながら、
「総裁候補にしてくれるなら、自民党員になる」
と言っている。
M党のH代表ですら、「支離滅裂」と酷評している。

今、日本の民主主義が、危ない!

+++++++++++++++++++++++

●知名度?

 簡単な数学。

 ここに知名度40%の男性がいる。
男性X氏としよう。
日本の有権者を1億人として、4000万人がX氏を知っていることになる。
しかしX氏の評判は、悪い。
X氏を「いい人」と思う人は、20%しかいない。
残りの80%は、X氏に対して、嫌悪感すら覚えている。
が、それでもX氏は、800万人の支持者を得ることになる。

 一方、知名度10%の男性がいる。
男性Y氏としよう。
日本の有権者を1億人として、1000万人しかY氏を知らないことになる。
しかしY氏の評判は、よい。
Y氏を「いい人」と思う人は、80%もいる。
が、それでもY氏は、800万人の支持者しか得られないことになる。

 このX氏とY氏が、選挙戦でぶつかった。
こういうケースのばあい、最終的には、浮動票がX氏に向かい、X氏が当選する。
が、はたして、これを民主主義と言ってよいのか?
もしこんな方式で、私たちの(代表)が選ばれることになったら、選挙そのものが、
有名無実化する。
マスコミの人気投票だけで、政治家を決めればよい。

●知名度優先?

 もちろん政治家は中身を見て、判断する。
過去の実績を見て、判断する。
わかりやすい例で説明しよう。

 よくどこかのタレントが、ある日突然降ってわいたように、ボランティア活動を
始めたりすることがある。
アフリカの難民救済運動のようなものでよい。

 もちろん自分で始めるわけではない。
どこかの団体に依頼されて、それを始める。
その団体は、その人の知名度を利用しているだけ!

 が、それでもよい。
よいが、そのとき重要なのは、そのタレントには、どのような実績があるかということ。
たとえば若いときから、近所のホームレスの人に、食事の炊き出しをしてきたとか、
孤児の救援運動をしてきたとか、そういう実績の上に、難民救済運動があるのなら、
まだ話もわかる。

 が、そういう下積みもないまま、ある日突然、国際的な(?)救済運動に加担する。
リーダーとなり、運動を率先する。
あるいはそういう運動をしながら、他方で、私財を投げ打っているいるとか、孤児を
自宅で世話しているとかいうなら、まだ話もわかる。

 しかしそういうことをいっさいしないでおいて、知名度を生かし、ある日突然降って
わいたように、ボランティア活動を始めたりする。
まず、このおかしさに、私たち自身が疑問をもたねばならない。

 政治家もまた、同じ。

●J党内部からも疑問

 AZ氏への出馬要請に対して、J党内部からも疑問が呈されている。
産経新聞は、つぎのように伝える(6月26日)。

『J党の各派領袖らが25日、衆院選の出馬要請を受けたAZ宮崎県知事が、同党の総裁候補とするよう条件をつけたことを相次いで批判した。

 I元幹事長は「人気が出て少し思い違いをしている。党に新しい血を入れないとダメだが、輸血は血液型が合わないと頓死する」と語った。Y副総裁は「知事の任期いっぱいを務める姿勢がないと地方分権の主張者として正しくない。(くら替えは)宮崎県民への裏切り行為で、党の候補にするのは反対だ」と強調した。

 出馬要請をして批判されているK選対委員長は「迷惑、心配をかけたら許してほしい。何もしないより、何か起こした方がいい」と釈明した。M前官房長官は「支持をとりつけようと人に会うのは選対委員長の責務だ」とK氏を擁護した』と。

 こういうのをドタバタ劇という。

●知名度主義

 AZ氏に対する出馬要請の話を知ったとき、私はこう思った。
「日本人の心は、ここまでマスコミに汚染されているのか」と。
中央官僚たちが日本の政治を牛耳っている。
これを官僚主義という。

 これに対して、マスコミが日本の政治を牛耳っている。
これを何と表現したらよいのか。
マスコミ主義ではおかしい。
が、あえて言うなら、知名度主義ということになる。

 何でもかんでも、まず有名になればよい。
政治は、あとからついてくる?
(ついでにボランティア活動も、あとからついてくる?)
が、こんなことは、40年前には考えられなかった。
日本に民主主義がやってきた、60年前には、さらにそうであっただろう。

 が、これを民主主義の危機と言わずして、何という?
AZ氏にしても、自分の顔をイラスト化して、宮崎県興しをしたという話は
知っている。
しかし私の不勉強かもしれないが、私はAZ氏の書いた政治論文にせよ、評論など、
一文も読んだことがない。
政策論争すら耳にしたこともない。

 が、「総裁候補にしてくれるなら、出馬要請を受ける」とは?
J党というより、私たち国民を、どう考えているのか?
それがわかるから、私の脳みその中で、今、アレルギー反応が起きている。

●国民の意識

 つまるところこの問題は、国民の政治意識の問題ということになる。
悲しいかな、私たちは、いまだに民主主義というのが、どういうものであるかさえ
わかっていない。
それを勝ち取るための苦労もしていない。
そればかりか、江戸時代の封建制度にしても、敗戦までの軍国主義にしても、
日本人はただの一度も、清算していない。
反省すらしていない。
(反省している人もいるにはいるが、メジャーではない。)

 だからAZ氏のような人が……とは書けないが、しかし日本のAS総理大臣は、
あのK国にすら、バカにされている。
つい先日も、「オバマ大統領」と言うべきところを、「ブッシュ大統領」と言いまちがえた。
サッカーの対戦相手の名前も、言いまちがえた。
それをK国が指摘し、日本の総理大臣の資質を問うている。
(問われること自体、不愉快なことだが……。
しかし公にこそ言わないが、世界中の人たちも、そう考えている。)
AS首相の失言録をまとめたら、それこそ一冊の本になるかもしれない。

 が、結局は、それは、そういう政治家を選び(?)、総理大臣を生み出してしまった、
私たち有権者の責任ということになる。
なるが、マスコミを通して流れる知名度には、勝てない。
勝てないひとつの例として、冒頭に、「簡単な数字」を書いた。

 「J党も落ちるところまで、落ちた」(亀井氏談)というより、「日本の政治も、
落ちるところまで、落ちた」。

*Essays on House Education(2)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(251)

●上見てきりなし

 戦前の教科書に載っていた説話らしい。『上見てきりなし、下見てきりなし』といった。つまり人というのは、上ばかり見ていると、その欲望や不満は際限なくつづき、安穏たる日々はやってこない。一方、下には下に、自分より不幸な人はいくらでもいるから、最後の最後まで夢や希望は捨ててはいけない、と。

「なるほど……」と思いたいが、この格言はどこかおかしい。人にあきらめと慰めを同時に教えながら、その実、幸福感や価値観に「上下」の差別をつけている。「上とは何か」「下とは何か」ということをはっきりさせないまま、この格言をそのまま鵜呑みにするのは危険なことでもある。

あるいは「上を見て何が悪い」「下とは何だ。失敬ではないか」と言われたら、あなたはどう反論するのか。

 それはさておき、子どもに何か大きな問題が生じたときは、子どもは、「下から見る」。「下(欠点や弱点)を見ろ」というのではない。「下から見る」。子どもが生きているという原点から子どもを見る。するとほぼありとあらゆる問題が、その場で解決するから不思議である。いや、私とて、何度かこの言葉に救われたことか。

だいたいにおいて、親の悩みや苦しみなどというものは、「上」から見るから始まる。「何とかならないか」「もっと何とかしたい」「まだ何とかなる」「何とかしなければならない」と。しかしその視点を一転させ、「私は生きている」「子どもも生きている」「生きていること自体が奇跡だ」「生きることはすばらしいことだ」という視点で見ると、ものの考え方が180度変わる。そしてそれまでの自分が、小さな世界で右も左もわからず右往左往していたのに気づく。

とくに私の二男は、一度海でおぼれて死にかけたことがある。今、二男が生きていることだけでも奇跡のようなものだ。そういう視点でみると、「不登校が何だ」「進学が何だ」となる。それは決してあきらめろと言っているのではない。人というのは、自分たちがつくりあげたバーチャルな世界で、本来大切でないものを大切と思い込み、本来大切なものを、大切でないと粗末にすることが多い。「下」からその人間社会をみると、本来、何が大切で、何が大切でないかがよくわかる。それに気づく。そういう意味で、「子どもは下から見る」。

 あなたもあなたの子育てで、どこか行きづまったら、この格言を思い出してみてほしい。心が必ず楽になるはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(252)※

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というのは、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によって、その価値が決まる。たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識するのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別のものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはならない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(253)

●思考について

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。それほど楽なことではない。それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救われる。大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテルを張られてしまう。だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じような苦痛がついて回る。それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。
●退化性……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。
●先鋭化……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。もちろんこのほか、年齢的な問題もある。私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止する人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(254)

●詰め込み教育

 どこかの本山の小僧たち。机を「コ」の字型に並べて、読経の練習をしている。その本山では、どこでもそうだが、徹底した上意下達方式のもと、小僧たちはこれまた徹底的に教義を叩き込まれる。疑問をもつことはもちろんのこと、質問することすら許されない。反感をもったら最後、即、本山から叩き出される。

 日本の教育のルーツは、寺子屋。その寺子屋のルーツは、その本山教育にある。明治※年、学校教育法が施行されたが、この教育方法は、軍国主義の台頭とともに、さらに強化された。それがどういう教育であったかは、いまさらここに書くまでもない。

 で、戦後日本の教育は変わったかというと、それは疑わしい。いや、教育を変えようとする動きはあるにはあったが、日本人、つまり親たちの意識は変わらなかった。その親たちが、学歴社会を復活させ、受験競争を復活させた。「何だかんだといっても、やはり学歴ですから」という、いわばなし崩し的な教育観が、戦後の教育改革をことごとく失敗させた。いろいろ言われているが、学校教育はまさにそのウズの中で翻弄(ほんろう)されたに過ぎない。

 教育法とてその流れから出ることができなかった。独創的なアイデアをもった教師がいたとしても、「受験勉強にさしさわりがある」という理由で、かえって排斥されてしまった。そういう例は、数多くある。

たとえばM小学校(浜松市)の教師は、毎日のように隣の公園へ生徒たちをつれていき、そこで野外教室を開いた。しかしそれにストップをかけたのは、ほかならぬ親たちであった。だから今、戦後60年近くにもなろうというのに、いまだに詰め込み教育が、教育の「柱」としてなされている。

私の知人の東大の元教授は、高校の理科の授業を参観したあと、つぎのような印象をもらしている。「先生のしていることは『どうだ、解ったか? 覚えておけ』と、まさに一方通行です。それで入試に成功するのです。生徒たちは授業を受けるし方はそうやって先生の言うことを理解し覚えることと思っています。そのやり方が困ったことに大学に持ち込まれます。ですから講義中に学生からの質問はないのです。考えながら講義を聴く習慣がないのです。アメリカの大学生たちとはおお違いです」と。この授業の形態そのものが、本山教育そのものと言ってもよい。

 ほとんどの親たちも、そして子どもたちも、そういうのが教育だと思い込んでいるし、さらに悲劇的なことに、教師自身も、そういうのが教育だと受け入れてしまっている。もちろんこうした教育を変えようとする動きもあるが、社会全体の力はそれ以上に大きい。体制の流れというのはそういうもので、一朝一夕には変えられない。私立高校でも大学受験に背を向ければ、あっという間に閉鎖に追い込まれる。悲しいかな、それが日本の現実なのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(256)
 
●図書指導の充実を

 「考える子ども」を育てる人の方法として、図書指導がある。アメリカのほとんどの小学校では、週1回、1時間程度の図書指導をしている。彼らはそれを「ライブラリィ(の時間)」と呼んでいる。

それを指導ずるのが、専門のライブラリアン(司書)。そのライブラリアンが、生徒一人ひとりの方向性とレベルに合わせて、本を貸し与え、その読書指導をしている。私の息子の嫁の母親が、その仕事をしている。その母親に話を聞くと、こう教えてくれた。「毎週その子に合わせた本を貸し与え、つぎの週に、その本についてのレポートを書かせている」と。私が「ライブラリィの授業は、必須科目か」と聞くと、「そうだ」と。

 アメリカでは、移民国家というだけあって、多様性を認めない教育というのは、それ自体が反アメリカ的であると判断される。日本でいう画一教育など、考えられない。今では、人種、性別、皮膚の色などで相手を差別しようものなら、それだけで処罰される。あらゆる公文書にも、そのように明記してある。(明記しなければならないというのは、それだけまだ差別意識が残っているということにもなるが……。)

学校教育とて例外ではない。今、アメリカでは、学校の設立そのものが自由化されている。また学校にしても、親と教師が話しあって、自分たちでカリキュラムを組むこともできる。日本の教育も自由化されつつあるとはいえ、「今」というこの段階においても、比較にならない。

つまりアメリカでは、制度的にも、子どもたちのもつ「自由意識」が最大限、尊重されている。東大の元教授が「日本の大学生とアメリカの大学生はおお違いです」というときの「違い」は、こうした背景から生まれるものとみてよい。

 ただもう一点補足するなら、アメリカも含めてほとんどの欧米の国々では、大学生は、受講する講座について、1講座ずつ「買う」という意識がある。(まとめて買うということがふつうだが……。)しかもその「買う」ための費用には奨学金であてる。そのため彼らにしてみれば、「どこの大学へ入ったか」ということよりも、「どこでどの程度の奨学金を得るか」ということのほうが、重要な関心ごとになる。

こうしたシステムの上に大学教育が成り立っているから、学ぶ学生も必死なら、教える教官も必死である。講座を買ってくれる学生がいなければ、その講座は閉鎖される。つまり教官自身が職を失うということになる。日本の大学生のように、親のスネをかじって……、というのとはまさに「おお違い」というわけである。

 子どもの多様性を認めるとか認めないとかいう議論は、もう古い。子どもというのは生まれながらにして、多様であるという前提で、教育を組み立てる。一律の算数教育、一律の国語教育、そして一律の学年制。そのどれをとっても、もう時代錯誤としか言いようがない。そのひとつの例として、「ライブラリー」の授業をあげてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(257)

●ウソ(虚言)と虚言(空想的虚言)

ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにしてつくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言という。こんなことがあった。

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではありませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」と。ものすごい剣幕だった。が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそういうウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソがうまくなる。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(258)

●子どもの緩慢行動

 子どもには子どもらしい、自然な動きというものがある。どこかどうというわけではないが、その自然さが消えたら、何か心の変調を疑ってみる。その一つが、緩慢行動。

 抑圧された精神状態が、日常的につづくと、子どもは独特の症状を示すようになる。たとえば緩慢行動。緩慢動作ともいう。動作そのものが鈍くなり、機敏な行動ができなくなる。全体にノソノソ、あるいはノロノロとした動きになる。たとえばB君が忘れものをしたとする。そのとき先生が、A君に向かって、「これ、B君にもっていってあげて!」と言ったとする。ふつうなら(「ふつう」という言い方は適切ではないが……)、子どもはパッと腰をあげ、B君のあとを追いかけたりする。

しかしこのタイプの子どもは、それができない。明らかにワンテンポ遅れた様子で、ノソノソと立ちあがったりする。そこで先生のほうが、またA君に向かって、「急いで!」と号令をかけるのだが、その号令にも反応しない。よく観察すると、体の動きそのものが、子どもの意思とは無関係に動いているのがわかる。

 こうした症状が見られたら、家庭教育のあり方をかなり反省する。威圧的な過関心や過干渉など。ほかに(1)顔から生彩が消え、(2)子どもらしいハツラツさが消え、(3)ため息、無気力症状など、気うつ症的な症状をともなうことが多い。緩慢行動を、神経症の一つにあげる学者も多い。

 こうしたケースで、指導がむずかしいのは、子どもというより、親にその自覚がないこと。たいていの親は、「生まれつき」という言葉を使う。そして動作が緩慢なのは、子ども自身の問題であるとして、子どもを叱ったりする。しかし叱れば叱るほど逆効果。子どもの動作はますます緩慢になる。また原因は、家庭環境全体にあるので、その家庭環境全体を改めなければならない。しかし実際問題として、それは不可能に近い。子どもをなおすより、親をなおすほうが、ずっとむずかしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(259)

●子どものウソ

 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。空想的虚言については、ほかで書いたのでここでは省略する。

 で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症による症状は、つぎの三つに分けて考える。

(1) 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつく)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2) 身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。

(3) 行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ1枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処する。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思い、1年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化させないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(260)

●子育てじょうずな親

 子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てじょうずな親」「子育てべたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親をいう。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。

 結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がない。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。

 子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子どもと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じたりする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。

 そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形を変えて、そのつど現れる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそういうリズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも遅くないから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。リズムのあっていない親ほど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ばすためと思い、がまんする。数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合うようになってくる。

子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子どものリズムに合わせるしかない。そういうことができる親を、子育てじょうずな親という。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(261)

●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなることがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけんかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうことによって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子どもの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむずかしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせる。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(262)

●灯をともして、引き出す

 恩師が教えてくれた言葉である。子どもは、「灯をともして、引き出す」。そしてこれが欧米流れの教育の基本でもある。エデュケーションの語源は、「EDUCE(引き出す)」である。

 一方、日本語(中国語)では、「教え育てる」が基本になっている。どちらがよいとか悪いとか言っているのではない。「教育」に対する考え方が、基本的な部分で正反対だということ。日本では、子どもをある特定の形につくりあげるのが教育ということになっている。一方、欧米では、子ども自身の方向を認め、その選択を子ども自身に任せているということ。この違いは、いろいろな場面で表れる。

 たとえば日本では、先生は、「わかったか?」「よし、ではつぎ!」と言って授業を進める。しかしアメリカでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。そのため日本では、子どもに子ども自身の考えをあまりもたせない。

一方、アメリカでは、子どものときから、子どもの言葉で子どもに話させる。わかりやすく言えば、日本の教育は、まず学校があって教師がいる。そこへ生徒がやってくるという図式で成り立っている。一方、欧米では、まず子どもがいて、その周囲に教師がいて、学校があるという図式で成り立っている。わかりにくい話かもしれないが、要するに「学校中心」か、「子ども中心」かという話になる。だから……。

 たとえばアメリカでは、学校の先生が落第を親にすすめると、親は喜んでそれに従う。「喜んで」だ。これはウソでも誇張でもない。事実だ。むしろ子どもの成績が落ちたりすると、親のほうから落第を頼みにいくケースも多い。「うちの子はまだ、進級する準備ができていない(レディできていない)」と。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。

 同じ「教育」といっても、外から見た「形」はよく似ていても、その中身、つまり意識は日本と欧米とでは、まるで違う。そういうことも考えながら、「灯をともして、引き出す」の意味を、もう一度考えてみてほしい。あなたもきっと、「なるほど」と納得するはずだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(263)

●大学の独立法人化

 やっとというか、日本でも大学の独立法人化が動き出した。教官の身分が保証されないという理由で、反対意見も多いが、しかしこんなことは日本以外の国では常識。

アメリカではもう30年も前から、大学入学後の学部変更は自由。転籍も自由。それも即日に転籍できる。で、学生たちはより高度な授業を求めて、大学の間をさまよい歩いている。そのため学科のスクラップアンドビルドは、日常茶飯事。やる気のない教官はどんどんクビになっている。学生に人気がなければ、学部すら閉鎖される。その結果だが……。

 たまたまある日、2人の学生が遊びにきた。2001年にアメリカの州立大学を卒業したA君。もう1人は1999年に横浜の国立大学に入学したB君。そのB君を見て、A君が驚いた。「よくアルバイトをする時間があるな」と。

アメリカの大学生にしてみれば、アルバイトなどは考えられない。実によく勉強する。毎週金曜日に試験があるということもあるが、毎晩夜遅くまで勉強しても、それでも時間が足りないそうだ。アメリカでは、オーストラリアでもそうだが、一単位ずつお金を出して講座を買うシステムになっている。(実際にはまとめて買うが……。)そのお金は、たいてい奨学金でまかなう。だから私たちがモノを選んで買うように、彼らもまたよい講座を選んで買う。そういう意識があるから、いいかげんな講義を許さない。

私も一度、オーストラリアの大学で日本語を教えていたことがある。そのとき一人の学生が私にこう聞いた。「『は』と『が』の違いを説明してほしい」と。「私は行く」と、「私が行く」はどう違うかというのだ。そこで私が「わからない」と答えると、その学生はこう言った。「君は、この講義でお金を受け取っているのか」と。それで私が「受け取っていない。私はボランティアだ」と言うと、「じゃあ、いい」と。だから教えるほうも必死だ。

 きびしさがあってはじめて、質は高くなる。ぬるま湯につかりながら、「いい教育」はできない。できるはずもない。しかし今まで、日本の大学教育は、そのぬるま湯につかりすぎた。教授人事も、「そこに人がいるから人事が慣例化している」(東大元教授)で、改革ということになったが、それにしても遅過ぎた。今の改革が成果を生み出すのは、さらに20年後、30年後ということになる。そのころ世界はどこまで進んでいることやら。日本はどこまで遅れていることやら。考えれば考えるほど、暗澹(たん)たる気持ちになるのは私だけではあるまい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(264)

●不思議な世界

 不思議な世界だった。何とも現実離れした世界だった。ふと油断すると、そのまま夢の世界に引きずり込まれていくような世界だった。

 私はある会議のメンバーに選ばれた。私が選ばれたのは、明かに主催者の人選ミスによるものだった。で、私以外は、この日本でもそれぞれの分野で1、2を争うような著名人ばかりだった。東大の宇宙工学の松井教授、哲学者の山折氏、解剖学の養老氏などなど。アーティストの藤井フミヤ氏もいたし、キャスターの草野さんもいた。会議の途中でだれかが、「ここにいる方は、講演をしても、1時間数百万円。ワンステージ、数千万円の方たちです」と言ったが、私以外は、まさにそういう人物ばかりだった。

 そういう人たちの間にすわっていると、おかしな気分に襲われる。第一に、「同じ人間のはずだが」という思い。つぎに「どこが違うのだろう」という思い。さらに「限りなく自分が小さくなっていく」という思い。そういう思いが、それぞれの方向からやってきて、頭の中で複雑に交錯する。が、もうこうなると会議どころではない。「私は今まで何をしてきたのだろう」という悔恨の念すら襲ってくる。

 が、やがて私は気づいた。たとえば本の数にしても、あるいは私が歩んできた道にしても、私は何も劣るものではない、と。……と、書くと、「何をうぬぼれたことを!」と思う人がいるかもしれない。しかしこれだけははっきりと言える。

日本人にはコースがある。そのコースに、それも最初の段階で乗れば、あとは想像以上に楽な人生を送ることができる。公立大学のばあい、ほうっておいても、助手、講師、助教授、教授。さらには学部長……と、トコロテン方式で肩書きが待っている。そしてそのあとも、例外なく天下り先が待っている。あの旧文部省だけでも1800団体近い外郭団体がある。で、その上で、有名になるかどうかは、まさに紙一重の「運」である。その運に、二つ、三つと恵まれれば、あとはもう……。これ以上のことを書くと、会議に出た人たちに失礼なので書けないが、この日本という国は、そういうしくみの中で動いている。

 会議が、3回目、4回目とつづくうちに、私はそれに気づいた。私と彼らの間にあるのは、「運」だけだ、と。力ではない。「運」だ、と。とたん、私の心の中をスーッと風が通るのを感じた。私はあやうく、夢の世界に引きずりこまれるところだった。現実を忘れるところだった。「私は私」という、あの私の哲学を忘れることころだった。これは決して負け惜しみではない。敗北を認めたということでもない。

 ……が、考えてみれば、こういう世界があるから、結局は学歴社会はなくならない。そのための受験競争はなくならないし、教育のひずみもなおらない。だいたいにおいて、講演料が数百万円なんて、(少しオーバーだろうが)、……? そちらの世界のほうが狂っている! 本当に、本当に、不思議な世界だった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(265)

●バーチャルリアリティの世界

 先日、日曜日の昼のあるテレビ番組によく出てくる、K氏と会った。たまたま新幹線の駅まで同行し、プラットホームで別れた。そのときのこと。入ってくる列車、出て行く列車の中で、そのK氏を見ると、みながK氏に手をふるのだ。もちろん見知らぬ人ばかり。「有名になる」ということには恐ろしい力がある。

 で、その瞬間だが、私の中に二つの心が混在するのがわかった。ひとつは「私も有名になってみたいものだな」という思い。もうひとつは、「有名になるというのも、うるさいことだな」という思い。もっともこうしたタレントのばあいは、有名というより、「顔」そのものが看板のようなものだから、有名の意味が多少違うかもしれない。

それはともかくも、「有名人の世界」というのが、まさにバーチャルな世界をいう。しかしそれには恐ろしいほどの魅力がある。先日も子どもたち(小学四年生)に、「君たちもテレビに出てみたいか」と声をかけると、みないっせいに、こう言った。「出タ~イ」と。

 バーチャルな世界……それはちょうどゲームの世界のようなもの。ゲームの世界で、得点を多く取り、勝ったり負けたりしながら、喜んだり悲しんだりする気分に似ている。実体はない。つかみどころもない。もちろんテレビに出るというのは、それまでにそれなりの苦労と努力があったのだろうが、しかしそれ以上に苦労と努力している人は、いくらでもいる。どこがどう違うかといえば、それは「運」でしかない。その運に、二つ、三つと恵まれた人がこうした「有名人」になれる。決して、実力や努力ではない。「運」だ。

 そこで考えてみると、この世界は、まさにバーチャルなものが氾濫しているのがわかる。氾濫しすぎていて、何がバーチャルで、何がそうでないかがわからなくなってきている。その区別すらつかない人も多い。いや、この私だって、その「私」を忘れてしまうこともある。「私は私」であり、「私はここにいる」のが私なのだが、それを忘れてしまう。あまり偉そうなことは言えない。その証拠が、「私も有名になってみたいものだ」という思い。

少しは生活が楽になるかもしれない。本だって売れるし、その分、より多くの人に私の意見を聞いてもらうことができる。しかし、それが何だというのか。どこまでいっても、私は私であり、バーチャルな世界があっても、またなくても、私に変わりはないのだ!

 そのK氏と別れて、私は別の新幹線に乗ったが、ものの一〇分もすると、もうひとつの自分に戻ることができた。そしてそのもうひとつの自分が、「何てバカなことを考えたのだ」と、私を叱った。K氏はK氏、私は私なのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(266)

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(267)

●水槽の中の魚

 水槽で熱帯魚を飼うようになって、もう14年目になる。平成元年に飼い始めたから、14年という数字にはまちがいはない。その熱帯魚たち。ときどきその熱帯魚を見ながら、私はこう考える。「この魚たちにとっては、この水槽が全世界なのだろうな」「生まれから死ぬまで、一生、水槽の中に住んでいるから、外の世界を知る由(よし)もない」と。

 考えてみれば、人間の意思も似たようなものだ。たとえば「自由」にしても、自由な世界を知ってはじめて、不自由な世界がどういうものかがわかる。たとえば江戸時代という時代。あの時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった。

それは客観的にみれば事実なのだが、ではその時代に住んだ人がそう感じていたかどうかは疑わしい。あの時代の人は、徹底した鎖国制度のもと、外国へ出るということすら許されなかった。だから外の世界など、知る由もなかった。それはちょうど、今の北朝鮮の人たちのようなものではないか。日本という外の世界からみると、ずいぶんと窮屈な感じがするが、では当の北朝鮮の人たちがそう感じているかどうかは、疑わしい。彼らは彼らで、結構自分たちの国は自由な国だと思っているかも知れない。聞くところによると、首都のピョンヤンに住めるのは、ごく一部のエリートだけという話だ。それに旅行すら自由にできなという話も聞いている。

 が、だからといって、日本が自由の国だとか、また日本人がもっている意識は、グローバルな意味で、世界の標準だと思うのは危険なことである。ひょっとしたら私たち日本人とて、水槽の中の熱帯魚と同じかもしれない。そういう例は、実は教育の世界には多い。

たとえば私が、三井物産という会社をやめ、結果的に幼稚園の講師になったとき、みなは、「はやしは頭が狂った」と笑った。母まで、電話口でオイオイと泣き崩れてしまった。しかしそんな中でも、私を支えてくれたのが、オーストラリアの友人たちだった。「ヒロシ、すばらしい選択だ!」と。こうした意識の違いというのは、それがない人には理解できないものであり、それがある人には、外で呼吸をするくらい当たり前のことなのだ。

そういう意味でも、意識の違いというのは恐ろしい。たとえば今の「私」ですら、ひょっとしたら私という範囲の中だけで「私」なのかもしれない。ほんの少し意識が変われば、私は私でなくなってしまう可能性だってある。絶対的に正しいものなどというのは、ないということか?

 今日も水槽の中の熱帯魚を見ながら、私はそんなことを考えた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(268)

●人間は動物

 このところおかしな現象が身のまわりで起きている。たとえばレストランで食事をしたとする。そこで人々が食事をしている人を見ていると、そういう人たちが人間というより、動物に見えてくるのだ。みながみなではないが、しかし10人もいると、そのうち7~8人が、そう見えてくる。(だからといってそういう人たちをバカにしているというのではない。誤解がないように!)

「食べる」という、動物全体に共通する行為を見ていることもある。それはあるが、しかしそのときだ。私は人間は動物と同じと感ずると同時に、動物も人間と同じと感ずる。どちらでもよいが、人間と動物を区別するものが何なのか、それがその瞬間わからなくなる。(だからといって人間が愚かだと言っているのでもない。誤解がないように。)

 たとえばきのうも、ななめ向こうの席で、ひとりスポーツウェアの中学生が食事をしていた。弟らしき子どももその横にいたが、その弟はよく見えなかった。反対側に父親もいた。私がその中学生が気になったのは、ハンバーグののった皿に、直接口をつけ、フォークでその料理をガツガツと口の中にかき込んでいたからだ。(欧米の習慣では、皿に口をつけて食べるのは、最悪のマナーということになっている。実際にはそういう食べ方をする人はいない。)

で、その様子を観察すると、食事を楽しむというよりは、まさに胃袋にモノを詰め込んでいるといったふう。しかも目つきが死んだ魚のようで、その上表情がなく、正直言って、不気味だった。

 私が女房に、「人間が万物の霊長だというのは、ウソだね」と話すと、女房もそれに同意した。いや、人間が動物的であることが悪いのではない。人間も一度、自分たちは動物であるという視点で、見なおす必要があるということ。人間だけが特別の存在であると考えるほうがおかしい。

つまりその上で、教育がどうあるべきかを考えるということ。よく「日本の教育は子どもに考えることを教えない」という。しかし日本に住んでいると、それがよくわからない。「考える」という言葉の意味すら、よくわかっていないのでは? 人間が人間なのは、考えるからであって、言いかえると、考えなければ、人間は人間としての価値をなくす。日本の教育には、そういう基本的な視点が欠けている。

 ……話が脱線したが、こんな格言もある。「思考はヒゲのようなものである。成長するまでは生えない」(ヴォルテール「断片」)と。教育にも限界があるということか。あるいはひょっとしたら、何もしないことが教育になるのかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(269)

●学力の低下が心配?

 2002年3月末の読売新聞社の調査によれば、小中学校の教科内容が削減されることに対して、67%もの人がそれに反対していることがわかった。「新学習指導要領、削減反対67%、完全学校週5日制、反対60%(賛成36%)」など。

とくに教科内容の削減については、小学校高学年児をもつ親の71%が、また中学生をもつ親の73%が反対していることがわかった。

で、問題はその理由だが、トップは、「学力が低下する」。これが69%。小学校の高学年児をもつ親の76%、中学生をもつ親の74%が、そう答えている。読売新聞は「学力低下に対する危機感をもっているため」と分析しているが、本当にそうか。これらの親たちは、本当に「学力が低下する」ことを心配しているのか。

 実は、これらの親たちが、学力の低下を心配しているというのは、ウソ。まったくのウソ。これらの親たちが心配していることは、「学力の低下」ではなく、「自分の子どもが受験競争で不利になる」ことを心配しているのだ。簡単に「3割削減」というが、3割といえば、6年掛ける0.3で、約1.8年分ということになる。

わかりやすく言えば、小学校の6年間のうち、約2年分が削減されるということ。これからは今まで小学4年で勉強していたことを、6年ですることになる。私立小学校や中学校は「削減しない」と言っているから、この差は大きい。受験ということになったら、公立学校へ通っている子どもは、絶対に不利である。親たちが心配している点は、すべてこの一点に集中する。

 今、日本の教育はにっちもさっちも、たちゆかなくなってきている。中学1年生で、私の推計でも、掛け算の九九がまだじゅうぶんでない子どもが、20%弱もいる(推計……というのも、掛け算の九九は言えても、瞬間に「サンパ?」と聞かれても答えられない子どもも多い。ほとんど九九を言えない子どももいれば、ところどころあやしい子どももいる。調査をするにも、基準の設定がむずかしい。)

週刊ポスト誌(02年4月12日号によれば、小学校の6年生で、「九九のできない子ども」は、「2~3割はいる」)ということだそうだ。全体として、約20%の中学生は、掛け算の九九すら満足にできないとみてよい。そういう子どもが、一方で、1次方程式だの2次方程式だのを学んでいるおかしさを、あなたは想像できるだろうか。ともかくも、「3割削減」は、こうした現状の中から生まれた。

 しかし本当の問題は、このことではない。本当の問題は、「なぜ親たちが心配するか」ということ。もっと言えば、受験勉強の深層部分にメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。

なぜ親たちは、自分の子どもが受験競争で不利になることを心配するか、である。それは当然のことながら、「受験」という制度が、この日本では人間選別の手段として使われているからにほかならない。さらに言えば、この日本には、受験で得をする人、損をする人、それがはっきりとしている。そういう不公平社会があることこそが問題なのだ。そこにメスを入れないかぎり、この問題は解決しない。絶対に解決しない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(270)

●ぬり絵

 以前、一時期、ぬり絵が子どもたちの世界から消えたことがある。中に「子どもたちをぬり絵というワクの中に閉じ込めてはいけない」などと、とんでもないことを言う教育家も現れたりした。しかしぬり絵には、すばらしい効果が、いくつかある。

(1) 運筆能力を養う……手でペンや鉛筆をもって絵や文字をかくという能力は、いわば特殊な能力である。ある程度の指導と訓練があってはじめて、それができるようになる。しかもその時期は、かなりはやい時期で、年中児(五歳児)になるころには、すでにその能力は定着する。だから子どもにペンをもたせるようになったら、ぬり絵をすることをすすめる。子どもはこまかいところを、縦線、横線、あるいは円い線を使いながら塗りつぶすことを覚える。文字の学習に入る前に、ぬり絵をするとよい。

(2) 色彩感覚……たとえば白黒の線だけでかいた、森や家や川のある絵をわたし、子どもに色をぬらせてみてほしい。色彩感覚が豊かな子どもは、色づかいが自然で、おとなが見てもほっとするような色づかいで色をぬる。そうでない子どもは、たとえば紫色の空、茶色の川、黒い家など、どこかぞっとするような色をぬる。(緑の木を茶色にぬったりすれば、色覚障害が疑われるが……。)その色彩感覚も、ぬり絵で養うことができる。

いくつかの注意点もある。そのひとつは、常識の押しつけをしないということ。「髪の毛は黒でしょ!」「川は青でしょ!」式の押しつけは禁物。またこの時期、子どもは周期的に自分の好きな色をつかうことが多い。ある時期は青ばかりで。それが終わると今度は紫ばかりで、というように。よくある現象なので、あまり神経質になる必要はない。

幼児心理学の世界では、色づかいによって幼児の心理を判断するという方法もある。私は30年間、この問題を考えてきたが、結論は、「?」。中にもっともらしい解説をつける人もいるが、私はいつも「?」マークをつけている。それはちょうど、「赤い服の人は情熱的で、青い服の人は心が冷たい」と判断するようなものだ。

服の色などというのは、そのときの気分で決まる。幼児の心理は、もっと別の方法でさぐるべきではないのか。またそのほうが、正確に判断することができる。ただこういうことは言える。子どもというのは、心理的に大きく変化するとき、ついで色好みが変化することもある。しかしこのばあいも、子どもが思春期になってからのことで、幼児にあてはめることはできない。
(注)色覚障害者……男児に多く見られる劣性遺伝で、黄色人種は男性の5%、女性は0.2%。(白人は8%、黒人は1%)と言われている。つまり、日本人男性の5%、男性の人口が5123万人(95年調べ)なので、その5%=約256万人が、色覚障害者ということになる(厚生労働省「手引き」より)。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(271)

●早期教育と先取り教育

 よく誤解されるが、早期教育が悪いのではない。悪いのは「やり方」である。たとえば極端な例として、胎教がある。まだおなかの中にいる赤ちゃんに、何らかの教育をほどこすというのが胎教だが、胎教そのものよりも、悪いのは、そうした母親の姿勢そのもの。まだ子どもが望みもしないうちから(望むわけがないが……)、親が勝手に教育を始める。子どもの意思など、まったく無視。

こういうリズムは一度できると、それがずっと子育てのリズムになってしまう。それが悪い。まだ子どもが興味をもたないうちから、ほら数だ、ほら文字だとやりだす。最近はやっている英語教育もそうだ。こうしたやり方は、子どもに害になることはあっても、プラスになることは何もない。

 またたいていの親は、小学校でするような勉強を、先取りして教えるのを早期教育と誤解している。年中児に漢字を教えたり、掛け算の九九を覚えさせたりするなど。もっとも漢字をテーマにすることは悪いことではない。漢字を複雑な図形ととらえると、漢字はおもしろいテーマとなる。それをつかった応用はいくらでもできる。私もよく子どもたちの前で、漢字を見せるが、漢字を教えるのではなく、漢字のおもしろさを教える。

ここに先取り教育と、早期教育の違いがある。ただこの日本では、「知識や知恵をつけさせるのが教育」ということになっている。そして早期教育とは、知識や知恵をつけさせることだと多くの親は思っている。これは誤解というよりも、世界の常識からは大きくかけ離れている。

 幼児教育が大学教育より重要であり、奥が深いことは、私にはわかる。それを認めるかどうかは、幼児教育への理解の深さにもよる。たいていの人は、幼児イコール幼稚、さらに幼稚な教育をするのが、幼児教育と思い込んでいる。しかしこれは誤解である。……というようなことを書いてもしかたないが、その幼児教育をすることは、これは早期教育でも、先取り教育でもない。

この時期、人間の方向性が決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育ということになる。その幼児教育が必要か必要でないかということになれば、そういった議論をすること自体、バカげている。

 こみいった話になったが、幼児の教育を考えるときは、早期教育、先取り教育、それに幼児教育の3つは、分けて考えるとよい。混同すればするほど、子どもの教育が見えなくなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(272)

●知恵の発達のバロメーター

 幼児というのは、そのときどきにおいて、ちょうど昆虫が脱皮するように成長する。精神の発達だけではない。知恵の発達もそうだ。たとえば4歳以前の子どもは、文字にほとんど興味を示さない。ところが満4・5歳(=4歳6か月)を過ぎることから、急速に文字に興味を示し始める。(だからといって四歳以前の子どもに、文字学習が無駄であると言っているのではない。四歳以前は、たとえば親が本を読んであげるなどの、読み聞かせが大切。そういう下地があってはじめて、子どもはやがて文字に興味をもつようになる。)

この時期、子どもは文字をまねて書くようになるが、もちろん文字の「形」にはなっていない。クルクルと丸を描いたり、それを重ねたような図形を描いたりする。この時期をうまくとらえると、子どもは文字に興味をもつようになり、ついで自分でも文字を書きはじめる。コツは、あれこれルール(形や書き順など)はうるさく言わないこと。文字を書く楽しみを何よりも大切にする。

 ……というように、幼児は段階的な発達をするが、そこでひとつの基準として、つぎのように考えるとよい。

 形……三角と四角を組み合わせたような図形を子どもに見せ、それを別の紙に書き写させてみる。形の弁別ができない子どもが、三角とも四角ともわからないグニャグニャの形を描く。しかし四歳前後から、形の弁別ができるようになり、何となく三角、何となく四角というような図形を描けるようになる。

 数字……ほとんどの子どもは、数字から文字の世界に入る。最初は、「1」「2」など。自分の名前を書こうとする子どももいる。そのとき同時に、子どもは1から10までを数えるようになり、少しの指導で30までなら数えることができるようになる。年中児の終わりで30まで、年長児の終わりで100までを目標にするとよい。「多い、少ない」「ふえた、減った」の感覚から、「得をした、損をした」も理解できるようになる。

 ただ文字といっても「8」「9」は、幼児にはたいへんむずかしい。年長児でも正しく書ける子どもは、全体の60~70%とみる。

 ひらがな、カタカナ……年長児(満六歳児)の約80%弱(夏休みの段階)が、ほぼ自由にひらがなを読み書きできる。しかし一方で、文字に対して恐怖心をもつ子どもも、この時期急増する。家庭での無理な学習が原因と考えてよい。それはともかくも、この時期までに子どもは、とくに教えなくても、いつの間にかひらがなを読めるようになった、というふうにして文字を読み書きできるようになる。

 これはあくまでもひとつの目安であり、個人差もある。大切なことは子どものリズムをうまくつかみ、無理をしないこと。そのリズムにうまくのれば、子どもは伸びやかに成長するし、そうでなければそうでない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(273)

●遠慮

 以前『遠慮は黄信号』という格言を考えた。子どもの中にその遠慮を感じたら、親子関係はかなり危険な状態にあると判断してよい。

 ふつう、満ち足りた家庭環境の中で、親の濃厚な愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、見るからにどっしりとしている。態度も大きく、ときにふてぶてしくさえ見える。反対にそうでない子どもはどこか、コセコセしている。よく誤解されるが、だれにでも愛嬌がよいとか、愛想がよいとかいうのは、子どもの世界ではあまり好ましいことではない。

このタイプの子どもは、そういう形で相手の心に取り入ろうとする。しかし本当のところは心を許していない。気を抜かない。だから子ども自身も疲れるが、つきあうほうも疲れる。

 遠慮するというのは、その心を許さない状態と考えてよい。もっとも他人との関係なら、ある程度の遠慮はつきものだし、むしろ遠慮なくわがもの顔でふるまうほうが問題となることもある。たとえば多動児(AD・HD児)の特徴のひとつとして、無遠慮、無警戒がある。しかし本来心を許すべき相手に心を許さないとか、許せないとかいうのは、それ自体がたいへんなストレスとなってかえってくる。

親子とて例外ではない。「実家の親に会うだけで、神経がすり減る」「正月に実家に向かうだけで言いようのない緊張感に襲われる」などと言った母親がいた。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうか冷静に判断してみてほしい。あなたの子どもはあなたの前で態度も大きく、図々しいだろうか。あなたのいる前で、平気で好き勝手なことをしているだろうか。ときに体を休め、ときにあなたに甘えてくるだろうか。もしそうならそれでよし。しかしどこかあなたの目を気にしたり、あなたの機嫌をうかがうようなところがあれば、あなたは今の子育てをかなり反省したほうがよい。今は、一見、何ごともなくうまくいっているように見えるかもしれないが、やがてあなたとあなたの子どもの間に、大きなキレツが入る。そしてそれが断絶につながるかもしれない。

 ただしこの問題は、あなたはそれに気づいたとしても、解決するのに、半年とか一年とか、長い時間がかかる。子どもの年齢が大きければ、もっとかかる。そういう前提で、あなたの子育てのあり方を反省する。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(274)

●追えば追うほど、心を削る

 私に月謝袋を渡すとき、爪先でポンとはじいて、「おい、あんた、あんたのほしいのはこれだろ」と言った高校生がいた。市内でも1番という進学高校に通う子どもだった。私が黙っていると、「とっておきな」と。私は生涯において、3度、生徒を殴ったことがある。そのときがそのうちの一度になった。

 父親はそのときある教育団体の職員をしていた。母親は結婚するまで、中学校の教師をしていた。教育熱心な家庭だったが、どこかでその歯車がズレたらしい。その原因がすべて受験競争にあるとは言えないが、受験競争に関係ないとはもっと言えない。その子どもも、小さいときから「勉強づけの生活」をしてきた。

 受験教育の弊害をあげたらきりがないが、そのうちのひとつが、子どもから温かい人間的な心を奪うこと。『追えば追うほど、心を削る』という格言を私は考えたが、子どもを受験で追えば追うほど、子どもから温かいぬくもりが消える。ものの考え方が功利的、打算的になる。勝った、負けたという計算だけが頭の中を支配する。

そういう状態になると、「教育」という言葉は、もう通用しない。指導だ。教育ではなく、指導ということになる。「どうすればよい点を取れるか」「どうすればよい(?)大学へ入れるか」と。

 この日本では、受験競争は避けて通れない道かもしれないが、子どもに受験勉強をさせるときのは、一方で子どもの心をケアすることを忘れてはならない。でないと、結局はそのツケは私たち自身が払うことになる。少し前だが、私にこう言った市の職員がいた。

彼はその市の市役所でも部長職にあったが、いわく、「はやしさん、このH市は工員の町だよ。工員というのはね、お金をもつと働かなくなるよ。工員には金をもたせてはいけないよ。だからたくさん遊ぶところをつくって、もっているお金を吐き出させるのだよ」と。もし日本中がそんなエリートばかりになったら、この国はいったいどうなるのだろうか。

 で、先の高校生だが、その直後、父親と母親につれられて謝罪にきた。結果的にみれば、それがよかった。その子どもはその事件を契機に、みちがえるほど人が変わった。礼儀正しくなり、ものごしもやわらかくなった。私の教室(教室といっても、3~4人の小さな教室だが……)へは、高校3年の終わりまできてくれたが、その分、私との人間関係も太くなった。今でもときどき消息を聞くが、現在は埼玉県で高校の教師をしているという。きっとすばらしい教師をしていることと思う。

*Proverbs on House Education

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(276)

●子どもの理性

 「理性」とは、善と悪を両方に置き、その善悪の判断に従って冷静に考えたり行動したりする感覚のことを、理性という。簡単に言えば、「バランス感覚」ということになる。このバランス感覚に欠けると、子どもは極端なものの考え方をするようになる。

 「地球の人口は多すぎるから、核兵器か何かで、人口の半分を殺せばいい」と言った男子高校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になって、黒い喪服を着てみたい」と言った女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をして、みじんも恥じなくなる。

 子どもの理性は、かなり早い時期にできる。年長児の段階では、かなり決まっている。たとえば「ブランコを横取りされました。あなたはどうしますか」という問題を出したとき、バランス感覚のすぐれている子どもは、「順番を待ってもらう」とか、「先生に言いつける」とか言う。しかし中には、「そういうヤツはぶん殴ってやる」とか言う子どもがいる。そこで私が「どうして?」と聞くと、「どうせ、そういうヤツは口で言っても、わからネエ」と。

 このバランス感覚は、静かで穏やかな家庭環境ではぐくまれる。もちろん愛情も大切だが、それ以上に大切なのは、子ども自身が静かに考えて行動する環境があるかどうか、だ。神経質な過関心、威圧的な過干渉、さらには家庭騒動や家庭崩壊などがあると、子どもは心の落ち着きをなくし、ついでそのバランス感覚をなくす。さらにたとえば極端に甘い父親、極端にきびしい父親が同居するようなばあいにも、子どもはこのバランス感覚をなくすこともある。J君(中一)がそうだった。

ある日私にこう言った。「先生、おれの親父ね、毎晩ひとりでこっそりと、エロビデオ、見てるんだよ。先生も見てるのか?」と。言ってよいことと悪いことの区別すらつかない。昔からの裕福な家庭で、外見からは問題があるようには見えなかった。しかしいろいろ話を聞くと、家庭をかえりみない父親、教育熱心な母親、それにデレデレに甘い祖父母と同居していることがわかった。つまりJ君の家庭では、J君に対してそれぞれがてんでバラバラな接し方をしていた。それが原因だった。

 理性のこわいところは、それは一度破壊されると、以後、修復がたいへんむずかしくなるということ。その後の経験で、理性的な判断力が育つことはあるかもしれないが、それは古いキズの上にかさぶたができるようなものではないか。さらに幼児期に一度心がすさむと、それをなおすのは、不可能とさえ言える。要はそういう状態にまで子どもを追いつめないということ。幼児期に一度キズついた心は、顔についたキズのようで、消えることはない。

 ついでに一言。理性はつくるのに、数年かかるが、こわすのは、半日でよい。それくらいデリケートなものであることを忘れてはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(277)

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさす。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解されるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。どれくらいの割合かと言われれば、1対100、あるいは1対1000、さらにはもっと多いかしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士になるという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(10人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それを少しだけここで考えてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(278)

●親のうしろ姿

 生活のために苦労している親の姿。子育てのために苦労している親の姿。そういうのを日本では、「親のうしろ姿」という。そしてそのうしろ姿を、子どもに見せることを、この日本では美徳のように考えている人がいる。しかしこれはまちがい。

親が見せたくなくても見せてしまうのが、親のうしろ姿。子どもが見たくなくても見てしまうのが、親のうしろ姿。親のうしろ姿というのはそういうものだが、しかし中には、うしろ姿を見せながら、親の恩(?)を押し売りする人がいる。「産んでやった」「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられてしまう。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そして親は、一度は子どもに対して、「あなたの人生はあなたのものだから、思う存分、あなたの人生を生きなさい」と肩を叩いてあげてこそ、親の義務を果たしたことになる。安易な孝行論や、「家」制度で、子どもをしばってはいけない。いわんやそれを子どもに求めたり、強制してはいけない。

子どもの人生は、あくまでも子どもの人生。もちろん子どもがおとなになって、そのあと親のめんどうをみるとか、家の心配をするというのであれば、それはあくまでも子どもの勝手。子どもの問題。

 日本の親たちは子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着。たとえば日本では親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコールよい子とする。そして独立心が旺盛で、親になつかない(?)子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

そのため日本の親は子どもを育てるとき、ちょうど、飼い犬を手なずけるかのようにして、子どもを育てる。エサを見せてはひっこめ、また見せてはひっこめる。それでもそのエサをねだったら、ころあいを見はかりながら、おもむろに、つまり恩着せがましくエサを与えるというように、である。結果、子どもは親なしでは生きていかれないということを、徹底的に教え込まれる。そしてそれがやがて、ここでいう依存心へなっていく。

 よく日本は依存型社会だと言われる。「生きるのは私」と考えるよりも先に、「人に何とかしてもらおう」とか、「人が何とかしてくれるだろう」と考える。どこかでいつも他人に甘えるような生き方をする。あるいは集団にならないと、力が発揮できない。日本はこのままでよいという人には、私は何も言わないが、子育ての目標は、子どもを自立させること。そういう視点に立つなら、親のうしろ姿は見せない。親は親で、どこまでも気高く生きる。それが結局は、長い目で見て、親と子どものきずなを深めることになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(279)

●おどしは理性の敵

 子どもをわざと不安にさせる。わざと孤立させる。あるいはおどす。日本人には日本人独特の子育て法というのがある。

15年ほど前だが、私はT教授が書いた本を読んで、体中が怒りで震えたことがある。当時(今も?)、日本を代表する教育評論家だった。いわく、「親子のきずなを深めるためには、遊園地などで子どもをわざと迷子にしてみればよい」と。

とんでもない教育法である。当時の日本人は、この程度の教育論(失礼!)を読んで納得したかもしれないが、それにしてもお粗末。もしあとで「わざと」であったことを子どもが知ったら、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。いや、そういう卑怯なやり方ができるということ自体、その人の人間性そのものを疑ってよい。親は子どもには、どこまでも誠実でなければならない。たとえ子どもが親を裏切ったとしても、親は子どもに誠実でなければならない。それがまた親の親としての愛の深さを決める。

話を戻すが、こうした方法は、子育てでは邪道。手っ取りばやく子どもをしつけるには、それなりの効果があるが、長い目で見れば、逆効果。よくある例が、デパートなどで泣き叫ぶ子どもに向かって、「あなたを置いてきますからね」とか、「あんたを捨てますからね」と言う親がいる。親としては軽いおどしのつもりで言うかもしれないが、子どもはそれを本気にしてますます大声で泣き叫ぶ……。

そういうとき子どもは、わかっていて泣き叫ぶのではない。恐怖心にかられて泣き叫ぶ。だからしつけとしての効果はまったくないばかりか、ばあいによっては、子どもの理性そのものを破壊する。

 そこで「おどしは、理性の敵」を覚えておく。おどしが日常化すればするほど、子どもから、静かに善悪を判断するというバランス感覚が消える。ものの考え方が極端になったり、先鋭化したりする。いや、その前に、おどさなければ子どもがあなたの言うことを聞かないというのであれば、もうすでにあなたと子どもの関係は、かなり危険な常態にあるとみてよい。やがてあなたの子どもは、あなたの手に負えなくなる。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(280)

●未来を楽しみにさせる

 子どもを伸ばす秘訣の一つは、いつも「未来を楽しみにさせる」こと。明日は今日よりよくなるという希望が、子どもを伸ばす。そのために子どもには、いつも前向き(プラス)の暗示をかける。「あなたは去年よりすばらしい子になった」「来年はもっとすばらしい子になる」と。

 前向きに伸びている子どもは表情も生き生きとしていて、明るい。何か新しいことができるようになるたびに、親に向かって、「見て!」「見て!」と言い寄ってくる。そうでない子どもは暗い。そこでテスト。あなたの子どもはつぎのうちのどちらだろうか。

何か新しいことをやってみないと提案したとき、(1)「やる」とか「やりたい」と言って、すぐくいついてくる。(2)「いやだ」とか「やりたくない」とか言って、すぐ逃げ腰になる。その中間もあるだろうが、もしあなたの子どもが(1)のようなら、よし。(2)のようなら、あなたの子育てをかなり反省したほうがよい。その一つの方法に、あなたの心を作り変えるというのがある。

 「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。ウソではいけない。親子というのはそういうもので、長い時間をかけて、あなたの心はそっくりそのままあなたの子どもに伝わる。そこでもしあなたが「うちの子は何をしても心配だ」と思っているなら、こうする。「あなたはいい子だ」を口グセにする。子どもの顔を見たら、そう言う。最初はどこかぎこちなく、とまどいを覚えるかもしれないが、あなたがその言葉を自然に言えるようになったとき、あなたの子どももまたその「いい子」になっている。

 話が少しそれるが、以前、「小学校へ行きたくない」という園児が続出したことがある。理由を聞くと、「花子さんがいるから」と。『学校の怪談』に出てくる花子さんのことだった。おとなは興味本位にこういうテレビ番組をつくるかもしれないが、子どもに与える影響を、少しは考えてほしい。幼児期には、こういうことはあってはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(281)

●本当の問題

 この日本では、一度コースにのってしまえば、役職は向こうからやってくる。そうでない人から見れば、夢のまた夢のような役職ですら、町内の役職が回ってくるように回ってくる。そしてその役職をそれなりにうまくやりこなしていると、いわゆる「出世」できる。こういうのを日本では、学歴社会という。「学歴」という言い方に問題があるなら、コース社会と言ってもよい。不公平社会と言ってもよい。

 こうして出世(?)した人の中には、もちろん力のある人もいるが、しかし大半は、コースという「波」に乗っただけとみてよい。つまり「運」。が、問題は、こうしたコースがあることもさることながら、こうしたコースは、代々、それぞれの人に受け継がれ、それをまたつぎの代に残しているということ。

コースにのるということは、生活が安定するばかりではなく、それ自体、たいへん居心地のよい世界でもある。地位や名声が高ければ高いほど、あがめたてまつられる。その人が発する一言一句、一挙一動が注目される。

 信じられないような話かもしれないが、こうして出世した人は、講演にしても、1時間で100万円をくだらない。テレビや雑誌に出るような人だと、もっと高額になる。事実を一つ、書く。もう20年ほど前だが、私はいろいろな人のゴーストライターをしていた。書いた本は、10~20冊はある。(冊数が不明なのは、半分だけ書いたというのもあるから)。

ほとんどは初版だけで絶版になったが、何冊かは結構売れた。その中でもあるドクターの名前で書いた1冊だけは、専門書だったが、年間、数10万部も売れた。そのドクターにとっては、最初で、今にいたるまで最後の本だったが、しかしそのドクターは、私が書いた本をぶらさげて講演するようになった。そのときの講演料が1日、20万円。大卒の初任給が10万円前後の時代だった。日本にはこういう社会が、歴然として存在する。

 ……というような話なら、あなたもどこかで聞いたことがあると思う。しかし本当の問題は、こうした不公平社会があるということではない。本当の問題は、そういう社会を容認している「私たち」自身にある。ひょっとしたら、あなたも、「あわよくばそうなりたいものだ」と思っているかもしれない。

そういう「思い」が、結局はこうした社会を容認し、支えてしまう。が、ここで大きな問題にぶつかる。では、そういう社会がまったくなくなってしてまったら、それはそれでよいのかという問題である。不公平であることそのものが、目標になることがある。社会を動かす原動力になることもある。

そこで言えることは、不公平なら不公平でもよいが、それが合理的なものであればよいということ。その人の努力や能力が、正当に評価されるなら問題はない。が、いびつな不公平がはびこればはびこるほど、他方で、もともと正当に評価されるべき人が正当に評価されなくなってしまう。それこそが本当の問題ということになる。そしてそういう社会がはびこれば、人はまじめに働くことをやめ、社会そのものが崩壊する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(282)

●見方を変える

 中高年の自殺がふえているという。私もその予備軍のようなものだ。ときどき生きていることそのものが無意味に思えることがある。「死んだら、どんなに楽になるだろう」と。しかしそのたびに、つまりそのあとになって、私がまちがっていたことを知る。

 名前は忘れたが、少し前ビデオで見た映画(※)の中に、こんなジョークがあった。
 ある男が病院へ来てこう言った。「ドクター、私は頭を押さえても頭が痛い。腹を押させても腹が痛い。足を押さえても足が痛い。体中、どこを押させても痛い。私は何の病気でしょうか」と。するとそのドクターは、こう言った。「あなたはどこも悪くない。ただあなたの指が折れているだけだよ」と。

 ほんの少しだけ見方を変えると、ものの考え方も180度変わるということだが、「何もかもダメだ」と思うときも、見方を変えると一変する。ダメなのは、私自身ではなく、ものの考え方なのだ。子どもにしてもしかり。勉強はしない。夜な夜なコンビニの前に座り、酒を飲む。タバコを吸う。叱るどころか、こわくて話をすることもできない。「生きていてくれるだけでもいい」と思うのは、まだよいほうだ。親も追いつめられるところまで追いつめられると、「よそ様に迷惑さえかけなければ……」と願うようになる。親子でも、どこかで歯車が狂うと、そうなる。

そしてそういうとき親は、深い絶望感にさいなまれる。その子どもを産んだことを後悔する親さえいる。が、そういうときでも、ダメなのは子ども自身ではなく、子どもを見る、あなたの見方なのだ。

 今、あなたは生きている。子どもは子どもで生きている。この数10億年という歴史の、その瞬間に、同じく数10億人という人間の、その中で、親として、そして子どもとして、互いに同じ時代で、同じ場所で、しかももっとも近い人間として生きている! そのすばらしさの前では、どんな問題もささいな問題でしかない。繰り返すが、ダメなのは、あなたの子どもではなく、あなた自身の見方なのだ。子どもがダメだと思ったら、あなたの見方を変えればよい。それですべての問題は解決する。

 ……もっともこういう極端な例は別としても、最後の砦(とりで)の一つとして、こうしたものの考え方を心の中に用意しておくことは、大切なことだ。私もふと死にたくなるときがある。女房は「初老成のうつ病よ」と笑うが、そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。しかし私は一方で、こう思う。どうせ一度しかない人生だから、とことん最後まで見てやろうと。そして最後の最後になったら、この宇宙もろとも、消えればよい、と。

何とも深刻な話になってしまったが、あなたの見方を変える一つのヒントになればうれしい。

※……イラン映画「桜桃の味」





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(283)
 
●子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。

「尿」についても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸びやかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほとんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、またストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。

 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。

たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょについても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(284)

●男らしさ、女らしさ

 男らしさ、女らしさを決めるのが、「アンドロゲン」というホルモンであることは、よく知られている。男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある程度の性差があることも知られている。

そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女性的な遊びを求めるということらしい。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)

男と女というのは、外観ばかりでなく、脳の構造においても、ある程度の違いはあるようだ。たとえば以前、オーストラリアの友人がこう教えてくれた。その友人には二人の娘がいたのだが、その娘たち(幼児)が、「いつもピンク色のものばかりほしがる」と。そこでその友人は、「男と女というのは、生まれながらにして違う部分もあるのではないか」と。

 が、それはそれとして、「男らしく」「女らしく」という考え方はまちがっている。またそういう差別をしてはならない。とくに子どもに対して、「男らしさ」「女らしさ」を強要してはいけない。しかしこんなことはある。ごく最近、あった事件だ。

 私はこの世界へ入ってから、一つだけかたく守っている大鉄則がある。それは男児はからかっても、女児はからかわない。男児とはふざけて抱いたり、つかまえたりしても、女児には頭や肩以外は触れないなど。(頭というのはほめるときに、頭をなでるこという。肩というのは、背中のことだが、姿勢が悪いときなど、肩をぐいともちあげて姿勢をなおすことをいう。)

が、女児の中には、相手から私にスキンシップを求めてくるときがある。体を私にすりよせてくるのだ。しかしそういうときでも、私はていねいにそれをつき放すようにしている。こういう行為は誤解を生む。その女の子(小3)もそうだった。何かにつけて私にスキンシップを求めてきた。私がイスに座って休んでいると、平気でそのひざの中に入ってこようとした。しかし私はそれをいつもかわした。

が、ところが、である。その女の子が学校で、彼女の友だちに、「あのはやしは、私にヘンなことをする」と言いふらしているというのだ。私が彼女を相手にしないのを、どうも彼女は、ゆがんでとらえたようである。しかしこういう噂(うわさ)は決定的にまずい。親に言うべきかどうか、かなり迷った。で、女房に相談すると、「無視しなさい」と。

 この問題も、アンドロゲンのなせるわざなのか? 男と女は平等とは言いながら、その間には微妙なニュアンスの違いがある。それを越えてまで平等とは、私にも言いがたいが、しかしその微妙な違いを、決して「すべての違い」にしてはいけない。昔の日本人はそう考えたが、あくまでもマイナーな違いでしかない。やがてこの日本でも、「男らしく」「女らしく」と言うだけで、差別あるいは偏見ととらえるようになるだろう。そういう時代はすぐそこまできている。そういう前提で、この問題は考えたらよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(285)

●親子とは

 東洋では、「縁」という言葉を使う。「親子の縁」というときの縁である。今でもこの日本では、その縁という言葉を使って、子どもをしばることがある。

ある男性(45歳)は、母親(76歳)に貯金通帳を預けておいたのだが、その母親は勝手にその通帳からお金を引き出し、全額、自分の借金の返済にあててしまった。その男性(45歳)が、たまたま半年あまり、アメリカへ行っている間のできごとだった。

帰国後それを知ったその男性は、母親に、「親子の縁を切る」と迫ったが、母親はこう言ったという。「親が先祖を守るために、息子の金を使って何が悪い! 親子の縁など切れるものではない!」と。しかしその事件があって、その息子は親との縁を切った。10か月近くも苦しんだあとの結果だった。今年50歳になるその男性はこう言う。「母はその10か月の間、ほとぼりを冷まそうとしたのですが、私のほうはその10か月で心の整理をしました」と。

 その男性は、親子であるがゆえに悩んだ。苦しんだ。この事件だけで親子とは何かを定義づけることはできないが、しかしこれだけは言える。いろいろな家族がいる。そしてその中身も人それぞれによって違う。しかし最後の最後に残るのは、純粋な人間関係のみである、と。

あなたが親なら、いつかあなたは自分の子どもを1人の人間としてみるときがくる。一方、あなたの子どももあなたをいつか、1人の人間としてみるときがくる。そのとき互いにそういう「目」に耐えられるなら、それでよし。そうでなければ、親子といえども、その関係はこわれる。決して永遠のものでも、不滅のものでもない。またそういう幻想に甘えてはいけない。そういう意味で、親が親であるのは、たいへんきびしいことでもある。

 とくにこの日本では、親子の関係がどうしてもドロドロしがちである。「ドロドロ」というのは、互いの「私」が、そのつど入り混じり、どこからどこまでが「私」で、どこからどこまでが「私でない」のかわからないことをいう。

ここに例としてあげた母親のケースでも、いまだにその母親は息子のその男性に、お金を無心にきたり、関係を修復しようと、あれこれ食べ物などを送ってくるという。その男性はこうつづける。「母は死ぬまで、とぼけるつもりでいるようです。母としてはその方法しかないのでしょうが、私はもう母から解放されたいのです」と。

 親子とは何か。親は子どもをもったときからこの問題を考え始め、そして自分が死ぬまでこの問題を考えつづける。たいていの人は、その結論が出る前に、この世を去る。そうそうあの芥川龍之介は、こう書いている。

 「人生の悲劇の第一幕は、親子となったときにはじまってゐる」(「侏儒の言葉」)と。ひとつの参考にはなる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(286)

●ユニバーサルスタジオ

 大阪にユニバーサルスタジオという、巨大な遊園地がある。映画ごとにパビリオンに分かれていて、それぞれが趣向をこらして観客をひきつけている。「ジョーズ」あり、「E.T.」あり、「ターミネーター」あり。正直に告白するが、おもしろかった。が、心のどこかで何かしらの疑問を感じなかったわけではない。

 その1つ。私はたまたま愛知万博の名古屋市パビリオンの懇談会のメンバーをしている。パビリオンの理念を話しあう会である。そういう立場上、何としても愛知万博を成功させたい……という思いはもっている。

しかしあのユニバーサルスタジオを見たとき、その考えは吹っ飛んでしまった。つまり「いまどき、万博なんて……?」という思いにかられてしまった。仮に成功させるとしたら、少なくともユニバーサルスタジオ級でないと、観客は満足しないだろう。となると、そのためにどういう方向性を出したらいいのか。園内を回りながら、何度もそれを考えたが、回れば回るほど、絶望的にならざるをえなかった。

 つぎに、日本の大都市のど真ん中に、こうまでアメリカナイズされた娯楽施設があってよいものかという疑問。私は国粋主義者ではない。ないが、しかしここまで「外国」が堂々と日本の中に入っているのを見ると、「これでいいのかなあ」と思ってしまう。

当然のことながら、ユニバーサルスタジオで見るかぎり、日本人は身も心も、そして魂までもが、完全に抜かれてしまっている。アメリカ映画を見て、アメリカ風の食べ物を食べ、これまたアメリカ風のみやげを買う。けばけばしい色の看板、そしてビル。園内を流れる音楽も、これまたロックンロールであったり、ジャズであったりする。こういうのを見て、当のアメリカ人はどう感ずるだろうか。いや、ほかの国のアジア人でもよい。見ると、韓国や中国、台湾からの観光客が、何割かがそうであるというぐらい目についた。彼らは日本という国を訪れながら、その日本でアメリカを見ているのだ!

 ……こういうとき、あの戦争の話をするのもヤボなことだが、こういう現状を目の当たりにすると、「いったいあの戦争は何だったのか」と、そこまで考えてしまう。300万人の日本人がそのために死に、同じく300万人の外国人が死んでいる。「これらの人たちは、いったい何のために死んだのか」と。

 女房は「こういうところは楽しめばいいのよ」と言う。私もそう思う。しかし人生も50歳を過ぎると、そうは小回りがきかなくなる。脳みそをカラッポにして楽しむというわけにはいかない。ときどきため息をつきながら、私は夕方、ユニバーサルスタジオをあとにした。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(287)

●大声で笑わせる

 「笑う」ことにより、心は解放される。しかも大声で笑えば笑うほどよい。「笑う」という行為には、不思議な力がある。言いかえると、大声で笑える子どもに心のゆがんだ子どもはまずいない。

反対に、どこか心がつかめない子どもや、どこか心がゆがんだ子どものばあい、大声で笑わせることによって、それがなおることがある。そのため私は教室では、子どもを笑わせることだけを考えて授業を進める。50分1単位の授業だが、50分間、笑わせつづけることも珍しくない。もしそれがウソだと思うなら、一度、私の教室へ見学に来てみたらよい。(それにもしここに書いていることがウソなら、今、私の教室にきている父母の信用を失うことになる。)

 笑わせるには、もちろんコツがある。たとえばバカなフリをするときでも、決して演技っぽくしてはいけない。本気で演ずる。本気でドジをする。子どもはこのドジには敏感に反応する。たとえば粘土のボール4個と、4本のひごで4角形を作ってみせる。そのとき、空中でそれを作ってみせると、そのたびに粘土のボールがポトリと下へ落ちてしまい、うまくできない。そこであれこれ口をつかったりして、苦労してみせる。そのとき私は真剣に四角形を作ろうとするが、うまくできない。(できないことはわかっている。)子どもたちは私が失敗するために、腹をかかえてゲラゲラと笑う。

 「笑われる」ということは、「バカにされた」ということではない。中に、教師というのは、子どもの前では毅(き)然としていなければならないと説く人もいる。実は私の恩師のM先生(幼稚園元園長)がそうだった。女性の先生だったが、いつも私にこう教えてくれた。

「子どもの前に立つときは、それなりの覚悟をして立ちなさい」と。そのためM先生のばあいは、服装の乱れを絶対に許さなかった。先生が子どもたちの前で失敗するなどということも、M先生についてはありえなかった。M先生は、教師の威厳を何よりも大切にした。

 それから30年。私の教え方は、その恩師の教え方からすれば、まったく異端なものになってしまった。が、それがよいとか悪いとかいう前に、私は今の私の教え方が自分には合っている。

実のところ、私自身はそのほうが楽しいのだ。つまり教えることで、私も楽しむ。言いかえると、先生が楽しまないで、どうして子どもが楽しむことができるのか。それに私はもともとそれほど威厳のある人間ではない。不完全でボロボロで、そのうえ情緒も不安定。そんな私が偉ぶっても、しかたない。

 私は、子どもたちの笑顔と笑い声が、何よりも好きなのだ!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(288)

●子どもへの禁止命令 
 
 「~~をしてはダメ」「~~はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多ければ多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、「無能な教師ほど、規則を好む」というのがある。家庭でいうなら、「無能な親ほど、命令が多い」(失礼!)ということになる。

 私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。たとえば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」。「騒ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。また指しゃぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれないか?」と声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲトゲしくなった分だけ、子どもは心を閉ざす。

 一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それだけではない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。

イギリスにも、「楽しく学ぶ子どもは、もっとも学ぶ」(Happy Learners Learn Best)というのがある。心が緊張すると、それだけ大脳の活動が制限されるということか。私は勝手にそう解釈しているが、そういう意味でも、「緊張」は避けたほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感を生み出す。

 一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。

 「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子どもたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだが、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。で、子どもたちを見ると、しかし1人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それからもう4年になるが、(というのも、この話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合のときに考えたジョーク)、その子どもは、今、飛び級で2年上の子どもと一緒に勉強している。反対に、頭のかたい子どもは、どうしても伸び悩む。

 もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(289)

●依存心と自立心

 アメリカのテキサス州の田舎町で、迷子になったときのこと。アメリカ人の友人は車をあちこち走らせながら、さかんに道路標識と地図を見比べていた。そういうとき日本人ならすぐ、通りの人に声をかけて、今いる場所を聞く。

そこで私が「どうして通りにいる人に道を聞かないか?」と声をかけたのだが、その友人はけげんそうな顔をするだけで、何も言わなかった。で、それが気になっていたので、別のある日、アメリカの中南部に住む日系人の別の友人にそれを聞くと、こう教えてくれた。「アメリカ人は、人に頭をさげない。通りを歩いている人に道を聞くのは、危険なことだし、相手もこわがるだろう」と。つまり「そういう習慣はない」と。

 よく英語の教科書に、英語で道を聞くというのがある。「駅へ行く道を教えてください」「駅へは、この道をまっすぐ行って、2本目の角を右へ回りなさい」とか。しかしこういう会話というのは、ごく親しい人との間の会話であって、ふつうでは考えられない。

それとも皆さんの中で、いまだかって、アメリカ人に(オーストラリア人でも、イギリス人でもよいが)、道路で道を聞かれたことがあるだろうか。少なくともアメリカ人は、通りの見知らぬ人に道など聞かない。彼らはまず地図を手に入れる。そしてその地図を頼りに自分の居場所を知る。つまりそれだけ自立心が旺盛ということ。そして一方、こういう話を驚いて聞くという私は(日本人なら皆、そうだが)、それだけ依存心が強いということ。

 もっとも私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。日本は日本だし、アメリカはアメリカだ。しかし日本から一歩外へ出ると、日本の常識はもう通用しないということ。日本がこのまま鎖国的に、今のままでよいと言うのならそれはそれで構わないが、そうであってはいけないというのなら、日本人も外国の常識に合わせるしかない。あるいは少なくとも、日本の常識とは違うということを理解しなければならない。こんな話もある。

 私の二男フロリダへドライブしたときのこと。きれいな砂浜があったので、つい油断して車をその中へ入れてしまった。とたん、車は立ち往生。するとどこにいたのか、アメリカ人の学生たちが数人寄ってきて、「車を出してほしかったら、20ドルよこせ」と。つまりそれが彼らのアルバイトになっていた。二男は「同じ学生だから」ということで、10ドルにしてもらったというが、こういうドライさというのは、日本人は理解できないものかもしれない。しかしそれが世界の常識でもある。

 日本人がもつ「依存心」を考えるヒントになればと思い、ここに二つのエピソードをあげた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(290)

●あるがままを受け入れる

 親子にかぎらず、人間関係というのは、相互的なもの。よく「子どもは、あるがままを受け入れろ」という。それはそうだが、それは口で言うほど、簡単なことではない。簡単なことでないことは、親ならだれしも知っている。

 で、こう考えたらどうだろうか。「あるがままを受け入れる」ということは、まず自分も、「あるがままをさらけ出す」ということ。子どもについていうなら、子どもにはまず、あるがままの自分をさらけ出す。心を許すということは、そういうことをいう。しかしそうでない親もいる。

 Tさん(55歳)は、息子(40歳)に、「子ども(Tさんの孫)の運動会を見にきてほしい」と頼まれたとき、「足が痛いから行けない」と言った。しかしそれはウソだった。Tさんは、何か別の理由があったので、運動会へは行きたくなかった……らしい。それで「足が痛い」と。

 この話の中で大切なポイントは、本当のこと(本音)を言えないTさんの心の状態にある。親でありながら、子どもに心を許していない。行きたくなかったら、「行きたくない」と言えばよい。しかしTさんは、自分という親をよく見せるために、ウソをついた。つまりその時点で、親子でありながら心を開いていないことになる。

しかしこういう関係では、子どものほうも心を開くことができない。子どもの側からして、親のあるがままを受け入れることができなくなってしまう。そういう状態を一方でつくっておきながら、「うちの子どもは心を開かない」はないし、そうなればなったで、今度は「どうしても子どものあるがままを受け入れることができない」は、ない。

 少しこみいった話になってしまったが、親子も、互いに自分をさらけだすことが、互いのきずなを深めるコツということ。そのために親は親で、子どもは子どもで、自分をさらけだす。美しいものも、きたないものも、みんな見せあう。また少なくとも、親子はそういう関係でなければならない。が、もしそれができないというのであれば、もうすでにその段階で、親子の断絶は始まっているということになる。

 ただここで注意しなければならないのは、あなたが子どもに自分をさらけ出したからといって、子どももそれに応ずるとはかぎらないということ。ばあいによっては、子どもはあなたに幻滅し、さらには軽蔑するようになるかもしれない。

しかしそうなったとしても、それはしかたないこと。親子関係もつきつめれば、人間関係。つまりさらに言いかえると、親になるということは、それだけきびしいことだということ。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」という人がいる。それはそうだが、しかしそれをしなければ、結局は子どもにあきられる。よい親子関係をつくりたかったら、さらけ出しても恥ずかしくないほどに、親自身も一方で自分をみがかねばならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(291)

●依存性の二つの側面

 依存性には、二つの側面がある。(1)相互依存性と、(2)依存性の伝播(連鎖)である。相互依存性というのは、子どもに依存心をもたせることに無頓着な親というのは、自分自身もまただれかに依存したいという、潜在的な願望をもっているということ。その潜在的な願望があるために、子どもが依存心をもつことにどうしても甘くなる。

 つぎに依存性の伝播(連鎖)というのは、こうした依存性は、親から子どもへと伝播しやすいということ。たとえば親に服従的であった子どもは、自分が親になったとき、こんどはそのまた子どもに服従を求めるようになりやすいということ。こうして依存性は、親から子へと代々と受け継がれていく。これを依存性の伝播(連鎖)という。

 何ともわかりにくい話になったので、わかりやすい例をあげて考えてみる。

 たとえば依存心の強い子どもは、おなかがすいて何かを食べたいときでも、「○○を食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア~(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。こうした言い方というのは、子どもだけの問題ではない。その子どもの親自身も、同じような言い方をする。ある女性(60歳)は、いつも自分の息子(35歳)にこう言っている。「私も歳をとったからねエ~」と。つまり「歳をとったから、何とかせよ」と。

 ……こう書くと、「それは日本語の特徴だ」と説明する人もいる。日本人はそもそもはっきりと言うのを避ける民族だと。しかしこのことを別の角度からみると、日本人には、それほどまでに依存性が、骨のズイまでしみこんでいるということにもなる。つまり自分たちの依存性が、それが依存性であることがわからないまで、なれてしまっている、と。

 で、ここにも書いたように、こうした依存性は、代々と、親から子どもへと伝えられやすい。1人の人が、親には服従しながら、自分の子どもには服従を求めていくという二面性は、日常生活の中でもよく観察される。このタイプの親は、自分の価値観で子どもを判断するため、自分に対して服従的な子どもを、「できのいい子」と判断する。たとえば親にベタベタと甘え、親の言いなりになる子どもイコール、かわいい子イコール、「いい子」と、である。

 こうして考えてみると、日本では親のことを「保護者」と呼ぶが、この保護者という言葉は、子育てにおいてはあまりふさわしくない言葉ということにもなる。言うまでもなく、保護と依存はちょうどペアの関係にある。親の保護意識が強ければ強いほど、それは同時に子どもに依存性に無頓着になる。

 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に行き着くが、子どもの自立ということを目標にするなら、依存心は、親にとっても、子どもにとっても好ましくないものであることは、言うまでもない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(292)

●赤ちゃん言葉

 日本語には幼稚語という言葉がある。たとえば「自動車」を「ブーブー」、「電車」を「ゴーゴー」と言うなど。「食べ物」を「ウマウマ」、「歩く」を「アンヨ」というのもそれだ。英語にもあるが、その数は日本語より、はるかに少ない。

 こうした幼稚語は、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、そこにはもうひとつ深刻な問題が隠されている。

 先日、遊園地へ行ったら、60歳くらいの女性が孫(5歳くらい)をつれて、ロープウェイに乗り込んできた。私と背中あわせに座ったのだが、その会話を耳にして私は驚いた。その女性の話し方が、言葉のみならず、発音、言い方まで、幼児のそれだったのだ。「おばーチャンと、ホレ、ワー、楽チィーネー」と。

 この女性は孫を楽しませようとしていたのだろうが、一方で、孫を完全に、「子ども扱い」をしているのがわかった。一見ほほえましい光景に見えるかもしれないが、それは同時に、子どもの人格の否定そのものと言ってもよい。もっと言えば、その女性は孫を、不完全な人間と扱うことによって、子どもに対するおとなの優位性を、徹底的に植えつけている!

それだけその女性の保護意識が強いということになるが、それは同時に、無意識のうちにも孫に対して、依存心をもたせていることになる。ある女性(63歳)は、最近遊びにこなくなった孫(小4男児)に対して、電話でこう言った。「おばあちゃんのところへ遊びにおいで。お小づかいをあげるよ。それにほしいものを買ってあげるからね」と。これもその一例ということになる。結局はその子どもを、一人の人間として認めていない。

 欧米では、とくにアングロサクソン系の家庭では、親は子どもが生まれたときから、子どもを一人の人間として扱う。確かに幼稚語(たとえば「さようなら」を「ターター」と言うなど)はあるが、きわめてかぎられた範囲の言葉でしかない。こうした姿勢は、子どもの発育にも大きな影響を与える。たとえば同じ高校生をみたとき、イギリスの高校生と、日本の高校生は、これが同じ高校生かと思うほど、人格の完成度が違う。

日本の高校生は、イギリスの高校生とくらべると、どこか幼い。幼稚っぽい。大学生にいたっては、その差はもっと開く。これは民族性の違いというよりは、育て方の違いそのもの。カナダで生まれ育った日系人の高校生にしても、日本の高校生より、はるかにおとなっぽい。こうした違いは、少し外国に住んだ経験のある人なら、だれでも知っていること。その違いを生み出す背景にあるのが、子どもを子どものときから、子ども扱いして育てる日本型の子育て法にあることは、言うまでもない。

 何気なく使う幼稚語だが、その背後には、深刻な問題が隠されている。それがこの文をとおして、わかってもらえれば幸いである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(293)

●依存心と人格

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの自立は遅れる。そしてその分、人格の「核」形成が遅れる。よく過保護児は子どもっぽいと言われるが、それはそういう理由による。

 人格というのは、ガケっぷちに立たされるような緊張感があって、はじめて完成する。いわゆる温室のようなぬるま湯につかっていては、育たない。そういう意味では、依存心を助長するような甘い環境は、人格形成の大敵と考えてよい。

 で、その人格。わかりやすく言えば、「つかみどころ」をいう。「この子どもはこういう子どもだ」という、「輪郭」と言ってもよい。よきにつけ、悪しきにつけ、人格の完成している子どもは、それがはっきりしている。そうでない子どもは、どこかネチネチとし、つかみどころがない。「この子どもは何を考えているのかわからない」といった感じの子どもになる。

そのため教える側からすると、一見おとなしく従順で教えやすくみえるが、実際には教えにくい。たとえば学習用のプリントを渡したとする。そのとき輪郭のはっきりしている子どもは、「もうやりたくない。今日は疲れた」などと言う。そう言いながら、自分の意思を相手に明確に伝えようとする。しかし輪郭のはっきりしない子どもは、黙ってそれに従ったりする。従いながら、どこかで心をゆがめる。それが教育をむずかしくする。

 が、問題は、子どもというより、親にある。設計図の違いといえばそれまでだが、依存心が強く、従順で服従的な子どもを「いい子」と考える親は多い。つい先日も、私の教室をのぞき、「こんなヒドイ教室とは思いませんでした」と言った母親がいた。見るとその母親がつれてきた子ども(小2男児)は、まるでハキがなく、見るからに精神そのものが萎縮しているといったふうだった。表情も乏しく、皆がどっと笑うようなときでも、笑うことすらできなかった。

そういう子どもがよい子と信じている母親からみると、ワーワーと自己主張し、言いたいことを言っている子どもは、「ヒドイ」ということになる。私は思わず、「あなたの子育て観はまちがっている」と言いかけたが、やめた。親は、結局は自分で失敗してみるまで、それを失敗とは気づかない。それまでは私のような立場の人間がいくら指導しても、ムダ。しかも私の生徒ならまだしも、見学に来ただけだ。私にはそれ以上の責任はない。

 総じて言えば、日本人は自分の子どもに手をかけすぎ。そうした日本人独特の子育て法が、日本人の国民性にまで影響を与えている。が、それだけではない。日本人の考え方そのものにも影響を与えている。その一つが、日本人の「依存心」ということになる。


 


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(294)

●心の風邪……いかにして「無」になるか

 夢や期待がある間は、親も苦しむが、子どもも苦しむ。とくに子どもが「心の風邪」をひいたときはそうで、もしそういう状態になったら、親は自分の心を「カラ」にする。またその「カラ」になったときから、子どもは立ちなおり始める。親が「こんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、子どもは心を開かない。開かない分だけ、立ちなおりが遅れる。

 ある高校生(高2女子)はこう言った。「何がつらいかといって、親のつらそうな顔を見るくらい、つらいものはない」と。彼女は摂食障害と対人恐怖症がこじれて、高校に入学したときから、高校には通っていなかった。

こういうケースでも大切なことは、子どもの側からみて、親の存在を感じさせないほどまで、親が子どもの前で消えることである。「あなたはあなたの人生だから、勝手にしなさい。そのかわり私は私の人生を勝手に生きるから、じゃましないでね」という親の姿勢が伝わったとき、子どもの心はゆるむ。こうした心の風邪は、「以前のほうが症状が軽かった」という状態を繰りかえしながら、症状は悪化する。そして一度こういう状態になると、あとは何をしても裏目、裏目に出てくる。それを断ち切るためにも、親のほうが心を「カラ」にする。ポイントはいくつかある。

(1) 子どもがあなたの前で、心と体を休めるか……今、あなたの子どもは学校から帰ってきたようなとき、あなたの目の前で、心と体を休めているだろうか。あるいは休めることができるだろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。子どもが心の風邪をひいたときもそうで、もしあなたの子どもがあなたの目の前で平気で、心と体を休めることができるようなら、もうすでに回復期に入ったとみてよい。

(2) 症状は一年単位でみる……心の風邪は外からみえないため、親はどうしても軽く考える傾向がある。「わがまま」とか、「気のせい」とか考える人もいる。しかし症状は一年単位でみる。月単位ではない。もちろん週単位でもない。親にしてみれば、一週間でも長く感ずるかもしれないが、いつも「去年とくらべてどうだ」というような見方をする。月単位で改善するなどということは、ありえない。いわんや週単位で改善するなどということは、絶対にありえない。つまり月単位で症状が改善しても、また悪化しても、そんなことで一喜一憂しないこと

(3) 必ずトンネルから出る……子ども自身の回復力を信じること。心の風邪は、脳の機能の問題だから、時間をかければ必ずなおる。そしてここが重要だが、必ずいつか、「笑い話」になる。要はその途中でこじらせないこと。軽い風邪でもこじらせれば、肺炎になる。そんなわけで、「なおそう」と思うのではなく、「こじらせない」ことこそが、心の風邪に対するもっとも効果的な対処法ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(295)

●自分を知る

 教育のすばらしい点は、教育をしながら、つまり子どもを通して、自分を知るところにある。たとえば私はときどき、自分の幼児期をそのまま思い出させるような子どもに出会うときがある。「ああ、私が子どものころは、ああだったのだろうな」と。そういう子どもを手がかりに、自分の過去を知ることがある。

 私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた(=帰宅拒否?)。私はよく大泣きして、そのあとよくしゃっくりをしていた(=かんしゃく発作?)。私は今でも靴が汚れていたりすると、ふと女房に命令して、それを拭かせようとする(=過保護?)。ひとりで山荘に泊まったりすると、ときどきこわくて眠れないときがある(=分離不安?)、と。

私のいやな面としては、だれかに裏切られそうになると、先にこちらからその人から遠ざけてしまうことがある。小学五年生のときだが、自分の好意の寄せていた女の子のノートに落書きをして、その女の子を泣かせてしまったことがある。その女の子にフラれる前に、私のほうが先手を打ったことになる。あるいは学生時代、旅行というと、家から離れて、とにかく遠くへ行きたかったのを覚えている。……などなど。理由はともかくも、私は結構心のゆがんだ子どもだったようだ。そんなことが子どもを教えながらわかる。

が、ここで話したいことは、このことではない。自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児放棄であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。

まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。そのためにも、一度、自分の中を、冷静に旅してみるとよい。あなたも本当の「自分自身」に出会うことができるかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(296)

●親は子で目立つ

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は子で目立つ。つまり目立つ子どもの親は、目立つ。たとえば園や学校で、よい意味で目立つ子どもの親は、あれこれ世話役や委員の仕事を任せられる。そんなわけでもしあなたが、よく何かの世話役や委員の仕事を園や学校から頼まれるとしたら、それはあなたの子どもがよい意味で目立つからと考えてよい。

子どもというのは、家へ帰ってから、園や学校での友だちの話をする。ほかの親たちはそういう話をもとにして、あなたのことを知る。もちろん悪い意味で目立つ子どももいる。しかしそういうばあいは、世話役や委員などの仕事は回ってこない。

一つの基準として、あなたの子どもが、友だち(とくに異性)の誕生会などのパーティによく招かれるようであれば、あなたの子どもは園や学校で人気者と考えてよい。実際に子どもを招くのは親。その親は日ごろの評判をもとにして、どの子どもを招待するかを決める。同性のときは、ギリやつきあいで呼ぶことも多いが、異性となると、かなり人気者でないと呼ばない。

一方、嫌われる子どもというのはいる。もう一五年ほど前(一九八五年ころ)の古い調査で恐縮だが、私が調べたところ、嫌われる子どもというのは、つぎのようなタイプの子どもということがわかった(小学生三~五年生、二〇人に聞き取り調査)。

(1)いじめっ子、(2)乱暴な子、(3)不潔な子、(4)無口な子。私が「静かな子(無口な子)は、だれにも迷惑をかけるわけでないから、いいではないのか?」と聞くと、「不気味だからいやだ」という答がはねかえってきた。親たちの間で嫌われる子どもは、何か問題のある子どもということになる。また人気のある子どもは、明るく活発で、運動や学習面で目立つ子どもをいう。やさしい子どもや、おもしろい子どもも、それに含まれる。

 先日もある母親がこう相談してきた。「いつも世話役を命じられて困っています」と。で、私はこう言った。「それはあなたの子どもがいい子だからですよ」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(297)

●臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

 「臥薪嘗胆」というよく知られた言葉がある。この言葉は「父のカタキを忘れないために、呉王の子の夫差(ふさ)が薪(まき)の上に寝、一方、それで敗れた越王の勾践(こうせん)が、やはりその悔しさを忘れないために熊のキモをなめた」という故事から生まれた。「目的を遂げるために長期にわたって苦労を重ねること」という意味に、広く使われている。しかし私はこの言葉を別の意味に使っている。

 私は若いころからずっと、下積みの生活をしてきた。自分では下積みとは思っていなくても、世間は私をそういう目で見ていた。私の教育論は、そういう下積みの中から生まれた。言い換えると、そのときの生活を忘れて、私の教育論はありえない。で、いつも私はそのころの自分を基準にして、自分の教育論を組み立てている。つまりいつもそのころを思い出しながら、自分の教育論を書くようにしている。それを思いださせてくれるのが、自転車通勤。

 この自転車という乗り物は、道路では、最下層の乗り物である。たとえ私はそう思っていなくても、自動車に乗っている人から見ればジャマモノであり、一方、車と接触すれば、それで万事休す。「命がけ」というのは大げさだが、しかしそれだけに道路では小さくなっていなければならない。その上、私が通勤しているY街道は、歩道と言っても、道路のスミにかかれた白線の外側。側溝のフタの上。電柱や標識と民家の塀の間を、スルリスルリと抜けながら走らなければならない。

 しかしこれが私の原点である。たとえばどこか大きな会場で講演に行ったりすると、たいていはグリーン車を用意してくれ、駅には車が待っていてくれたりする。VIPに扱ってもらうのは、それなりに楽しいものだが、しかしそんな生活をときどきでもしていると、いつか自分が自分でなくなってしまう。が、モノを書く人間にとっては、これほど恐ろしいものはない。

私が知っている人の中でも、有名になり、金持ちになり、それに合わせて傲慢になり、自分を見失ってしまった人はいくらでもいる。そういう人たちの見苦しさを私は知っているから、そういう人間だけにはなりたくないといつも思っている。仮に私がそういう人間になれば、それは私の否定ということになる。

もっと言えば、人生の敗北を認めるようなもの。だからそれだけは何としても避けなければならない。そういう自分に戻してくれるのが、自転車通勤ということになる。私は道路のスミを小さくなりながら走ることで、あの下積みの時代の自分を思い出すことができる。つまりそれが私にとっての、「臥薪嘗胆」ということになる。私はときどきタクシーの運転手たちに、「バカヤロー」と怒鳴られることがある。しかしそのたびに、「ああ、これが私の原点だ」と思いなおすようにしている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(298)

●親は外に大きく

 生きザマにも2種類ある。プラス思考とマイナス思考である。「思考」を「志向」という漢字に変えてもよい。前向きに生きていくのが、プラス思考。内向きに生きていくのが、マイナス思考ということになる。

たとえば人は、一度マイナス思考になると、ものの考え方が保守的になり、過去の栄光にしがみつくようになる。たとえば退職した人が、現役時代の役職や肩書きにこだわるのがそれ。退職してからも、「自分は偉かったのだ」という亡霊をひきずって歩く。だれもそんなことを気にしていないのだが、本人は注目されていると思いこんでいる。思いこみながら、「自分は大切にされるべきだ」「自分は皆に尊敬されているのだ」という意識をもつ。学歴や自分の家柄にこだわる人も同じように考えてよい。

 実のところ、子育ても同じように考えてよい。その時点でいつも前向きに子育てをしている人もいれば、そうでない人もいる。前向きに子育てするのは問題ではないが、問題は内向きになったときだ。子どもの成績が気になる。態度も気になる。親どうしのトラブルも絶えない、など。一度こういう状態に入ると、かなりタフな親でもかなり神経をすり減らす。そしてそれが長く続くと、子育てそのものが袋小路に入ってしまう。そこから抜け出ようともがけばもがくほど、ますますにっちもさっちもいかなくなってしまう。

 こういうときの解決法が、これ。『親は外に大きく』である。子育てを忘れて、外に向かって大きく羽ばたく。そしてその結果として、子育てから遠ざかる。大きくなる方法はいくらでもある。仕事でもボランティア活動でも、好きなことをすればよい。要するに身の回りに大きな敵をつくって、身近なささいな敵は相手にしないようにする。

私も過去、たとえばあるカルト教団を相手に本を何冊か書いて戦ったことがある。最初はこわかったが、しかしそれも終わってみると、いつの間にか、私はこわいもの知らずなっていた。あるいは私は30歳くらいのときから、あちこちで講演活動をしている。最初のころは、より大きな講演会場になればなるほど、神経をすり減らしたものだ。数日前から不眠症になってしまったこともある。しかしそれを繰り返すうちに、やはりこわいものがなくなってしまった。人は自らを、そういう方法で大きくすることができる。

 自分がマイナス思考になるのを感じたら、外に向かって大きく羽ばたくとき。それは子どものためでもあるが、結局は自分のためでもある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(299)

●互いに別世界

 世間体や見栄、体裁がいかにくだらないものかは、その世界から離れてみるとよくわかる。しかしその世界の中にいる人には、それがわからない。それはいわば信仰の世界のようなもの。

その信仰の世界にいる人には、その信仰の世界がすべて。その信仰の世界の外の世界そのものが信じられない。あるいはその信仰の外の世界が、まったく無意味に見える。が、その信仰も一度離れてみると、「どうしてあんなものを信じていたのだろう」と思うもの。どんな信仰にも、そういう面がある。「私の信じている信仰だけは違う」と思いたい気持ちはわかるが、現に今、この日本だけでも約20万団体もの宗教団体があり、それぞれが、「自分たちのこそが絶対正しい」と言って、しのぎを削っている。20万という数は全国の美容院の数とほぼ同じ。

 子育ての世界でも、同じような現象を見ることができる。たとえば自分の子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親はその世間体の悪さ(何も悪くはないのだが……)、その事実を必死になって隠そうとする。自分の子育てそのものを否定されたかのように感ずる親も多い。

しかしそういう世界から抜け出て、いつか不登校の子どもと一緒に街の中を歩くことができるようになると、それまでの自分が、限りなく小さく見えてくる。「どうしてあんなことを気にしていたのだろう」と。つまりまったく別の世界に入るわけだが、それがここでいうひとつの信仰から、その外の世界に出た人の心境に似ている。離れてみると、何でもなかったことに気づく。

 ここで大切なことは、二つある。一つは、自分の中の信仰に気づくこと。つぎに大切なことは、勇気を出してその信仰の世界から遠ざかること。「勇気を出して」というのは、実際、一つの信仰から離れるということは、勇気がいる。まず心に大きな穴があく。この穴がこわい。それはものすごい空虚感といってもよい。人によっては、混乱を通り越して、狂乱状態になる。たとえばたいていの宗教では、とくにカルトと呼ばれている宗教ほどそうだが、バチ論をその背後で展開している。「この信仰をやめたらバチがあたる」と教えている宗教団体は少なくない。だからよけいに、勇気がいる。

 同じように、世間体や見栄、体裁の中で生きてきた人も、それらから決別するとき、大きく混乱する。そういうもので、自分の価値観をつくりあげているからだ。人生の柱にしている人も少なくない。だから勇気がいる。しかし……。

 仮に信仰するとしても、自分の理性まで眠らせてしまってはいけない。何が正しくて、何が正しくないかを、いつも冷静に判断しなければならない。おかしいものはおかしいと思う、理性まで眠らせてはいけない。子育てもまさにそうで、私たちは親として子どもを育てるが、そういう冷静な目は、いつももっていなければならない。でないと、よく信仰者が自分を見失うように、親も子どもを見失うことになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(300)

●バカなフリをして、子どもを自立させる

 私はときどき生徒の前で、バカな教師のフリをして、子どもに自信をもたせ、バカな教師のフリをして、子どもの自立をうながすことがある。「こんな先生に習うくらいなら、自分で勉強したほうがマシ」と子どもが思うようになれば、しめたもの。親もある時期がきたら、そのバカな親になればよい。

 バカなフリをしたからといって、バカにされたということにはならない。日本ではバカの意味が、どうもまちがって使われている。もっともそれを論じたら、つまり「バカ論」だけで、それこそ一冊の本になってしまうが、少なくとも、バカというのは、頭ではない。映画『フォレストガンプ』の中でも、フォレストの母親はこう言っている。「バカなことをする人をバカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。いわんやフリをするというのは、あくまでもフリであって、そのバカなことをしたことにはならない。

 子どもというのは、本気で相手にしなければならないときと、本気で相手にしてはいけないときがある。本気で相手にしなければならないときは、こちら(親)が、子どもの人格の「核」にふれるようなときだ。しかし子どもがこちら(親)の人格の「核」にふれるようなときは、本気に相手にしてはいけない。そういう意味では、親子は対等ではない。

が、バカな親というのは、それがちょうど反対になる。「あなたはダメな子ね」式に、子どもの人格を平気でキズつけながら(つまり「核」をキズつけながら)、それを茶化してしまう。そして子どもに「バカ!」と言われたりすると、「親に向かって何よ!」と本気で相手にしてしまう。

 言いかえると、賢い親(教師もそうだが)は、子どもの人格にはキズをつけない。そして子どもが言ったり、したりすることぐらいではキズつかない。「バカ」という言葉を考えるときは、そういうこともふまえた上で考える。

私もよく生徒たちに、「クソジジイ」とか、「バカ」とか呼ばれる。しかしそういうときは、こう言って反論する。「私はクソジジイでもバカでもない。私は大クソジジイだ。私は大バカだ。まちがえるな!」と。子どもと接するときは、そういうおおらかさがいつも大切である。